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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月20日
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台湾の重なる史蹟

 

昭和初期 『日本史蹟名勝天然記念物』

拓務省嘱託 佐藤 隆三氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

台湾は土地そのものが内地又は朝鮮と事情を異にし、匪史的関係のものに乏しいが、名勝地、天然記念物と称すべきものが相当ある。総督府に於ては、大正十三年以来地方廳に命じ之等の調査を為さしめ、且つ保存上完全を期するが爲に、昭和五年二月内地の史蹟名勝天然紀念物保存法(大正八年法律第四十四号)、国立公園法(昭和六年法律第二十六号)を毫湾に施行するに至り、史蹟名勝及天然紀念物の保存の外に、日本第一の高峰と称する新高山を国立公園ととする計書が進められつゝあり。

 昭和八年十一月以降指定したるものは史蹟二十二ケ所、天然紀念物六ケ所からも、恂指定保存を要するもの少なからざるを以て、目下引続き調査中である。

 

一、圓 山 貝 塚 

   所在地  台北市圓山町

   指 定  昭和十年十二月総督府指定

 

圓山貝塚は台北市の北東約一里、鐡這線路に添ひ開山公園を挾みニケ所に別れにゐる。公園一帯の地が貝類の積堆より成れるもので、その内最も貝類及び包含這物の多い地謡ニケ所を、考古墨上價値あるものとして指定されたものである。此の地図は明治二十九年頃発見せられ、その後鳥居龍蔵、原田正彦、森丑之助、宮原敦、板澤武雄氏等の専門家の調査に依って、貝類の外に石器、土器、獣魚菅等の出土する所より原始民族の遺蹟たることが明かとなり、貝塚は主として大形蜆(しじみ)より形成し、蛤・牡蠣(かき)・バイ及び塩吹貝等を混ずるも、これは至って少なく、獄魚骨は不明のもの多きも、鹿角及びその加工物が多く出で、石谷は石斧・石等割合に多く、土器は一般に薄手のもので、赤土色めもの、括れに黒土色のものが殺見せらるゝのである。遺蹟としては、公園より更に東方の西新庄子に至り、基隆川を越えて、台湾神社苑より、その東北山脚地に及ぶ廣大の地域を包括してゐる。

 

二、大砥石

           所在地  台北市開山町

           指 定  昭和十年十二月総督府指定

 

圓山貝塚に接し臨海寺境内にあり、大正七年に宮原敦氏の殺見に係るもので、砥石は数個に過ぎたいが、大たるものばかりで表面一壺半位あり、厚さも之に相応してゐる。内地にも曲玉砥石と稀するものが出雲地方こり発掘された例はあるが、これ以上の大砥石は恐くは世界になからうと謂ふ。砥石の質は一種の粘岩で普通坊間に売ってゐる荒砥と變る所はない。この地は石器時代の村落で土器が石器を研ぐ共同研場であったものと認められてゐる。圓山貝塚より発掘さるる石器はこの砥石で研いだものと想像される。

 

三、台北城門

一、置絹門(東 門)  台北市文武町三丁目

二、麗正門(南 門)  同  同  四丁目

三、承思門(北 門)  同  京 町四丁目

四、重照門(小南門)  同  書院町三丁目

      昭和十年十二月総督府指定

 

 台北城は現在台北市の中央に位し、台湾総督府、台湾軍司令部を始め諸官有、學校、銀行等の所在地として亦商業地として台湾に於ける最も枢要なる市街である。日本軍が明治七年牡丹社討伐の翌年即明治八年に、清国政府は欣差大臣沈藻楨の奏議に依り、台北府を此の地に置くことゝなり、同時に築城計画が立てられた、これは國防上の見地に於て、日本牽制の手段に出でたものと思はれる。知府陳星聚は地方の紳商と計り工費二十餘満圓を募捐し、光緒五年(明治十二年)一月工を起し同八単三月その竣工を見、材料は総て石村を以てし、城壁は方形にして東西谷四百十二丈、宿便三百

四十二丈、北壁三百四十丈、厚さ一丈二尺、高さ二丈、東西京北の四門及び宿門の西方に小宗門の五楼門を建て、城外に掻溝

を続らし水を通ぜり。我が領有後児玉総督の際、市匪改正の焉城壁及び西門並城内にありし諸建築物を撤去し、今日に於ては

景輔門(東門)ゴ脈正門(唐門)、承思門(北門)、重煕門(小南門)の四門を授してゐる。

 

四、ノールト・ホルラント城址

 

    所在地  基隆市此寮町

    指 定  昭和八年十一月總督府指定

 

西暦千六百年頃西班牙は和蘭と共に海外資展を競ひ、和蘭が八哇占領後間もなく比律賓(フェイリピン)群島を占領し、次で台湾を占領せんものと艦隊を派遣したが、已に台湾の南部は和蘭の占領する所であったので、寛永三年(西暦一六二六年)四月西班牙艦隊は遠征軍を乗せて、基隆湾に入港、入口に横はる社寮島を占領し、後数年の間に稜堡三箇を備へたる犬城塞を築造せり。同十九牛八月和蘭軍来航、此の城を攻落して稜堡三箇を破壊したるも、西南の一稜堡をノールト・ホルラントと称し、此處に守備兵を置くに至った。寛文元年(西暦一六六一年)五月鄭成功兵を起して台湾を攻め、ゼーランジヤ城陥るの報

傳はるや、蘭人及び守備兵は、その来り襲はんことを恐れ、偶々寄港せる蘭船に便乗して長崎に逃れしが、同四年七月和蘭軍は再び社寮島に来り、舊城を修築し兵舎、倉庫等の建築をなせしも、同八年九月同島を去るに臨み火薬を用ひて城廓の大部を破壊し、今日存する残塁は西班牙時代の遺阯の一部に過ぎざるも、なお昔日の悌を存す。

 

五、ゼーランヂヤ城址

  

  附記 (演田彌兵衛略記)

 

所在地 臺南市安平

指 定 昭和八年十一月総督府指定

 

西暦一六〇一一年(慶長七年)閑人は爪吐のバタビヤに東印度會壮を創設して東洋貿易に従事したが、後十九年東進して膨湖島を占領するに至った。膨湖島は支那の安危に懸る要害の地であるから、明政府は是が恢復を圖ったが、常時世界の海上権を掌握してゐる蘭人の勢には抗ずべからざるを知り、寛永元年(西暦一六一四年)更に臺灣本土の占領を許し、その代償として膨湖島を還附せしめたのである。同年八月蘭人は直に南都臺灣に航

して安平に上陸し、砲台を築き、次で寛永九年(西暦一六三二年)更に城塞を築き外海の防備となし、ゼーヤ城と称した。叉同年安平に砲台を築造し、慶安三年(西暦一六五〇年)更にプロビンシヤ城(赤城)を臺南に築き政庁とした。

 ゼーランヂヤ城は四ケ所の稜堡と城壁より成り、更に外廓障壁を廻らしその廓内に、教会・兵曹・倉庫等を建て連ね、叉海岸には防備用の胸壁を築く等堅牢壮大たるものであった。

寛文元年(西暦一六六一年)十二月鄭成功この城を攻取り安平鎮と改め、この所に陣営を定めたのであるが、間もなく鄭氏滅亡し、台湾が清朝の版圖に帰してより、何等顧みる所なく、その後城壁の煉瓦は億載金城(安平港砲臺の名称)の築造に使用せられ、附近民屋の建築に盗用せられ、城廓の現存するもの基礎の一部に過ぎない。

 

 附 記

 

 濱田彌兵衛が臺灣に航し、和蘭人の凶暴を懲らしめた話は有名であるが、この話には間違があるやうだ、その大略を記して見ると、和蘭人が臺灣に蟠踞し、威を東方に振ってゐた寛永頃は、徳川幕府は鎖国政策を取ってゐた時で、さしもの八幡船の横行、倭寇も蔭を潜め、長崎と堺に於ける御朱印船以外には海外に渡航を禁じられてゐた時代である。

寛永六年(西一六二九年)長崎の商人末次平蔵(長崎代官とする書もあり)の御朱印船が貿易の焉め福州に至らんとし、台湾安平港に寄港したところが、船中に多数の兵器を積んでゐたと云廉(かど)で、蘭人の嫌疑を受け、兵器その他多くの貨物を押収された事件があった。

 日頃平蔵と懇意であった熊本の藩士、柏原太郎右衛門と云ふ者が、この事件を聞付け大に憤慨し、南海貿易を兼ね安平に寄港し、蘭人に復讎(ふくしょう)せんものと、太郎右衛門は濱田浦兵衛、同小左衛門、同新藏、對島四郎右衛門、あめかた町喜左衛門、尾の道九郎右衛門等六人を語らひ、寛永八年三月三日平蕪の船二更に多くの船員と貨物を哉せ、長崎港を出帆、同二十二日安平に着し、貿易を請ふ振りをして、彼等七人はゼーランヂヤ城に到り、領事ビートル・ヌイツに面会、隙に乗じてヌイツを引捉へ、匕首(あいくち)をその喉に擬して、前年掠奪された平蔵の貨物を賠償せしめ、且つスイツの子供ビートル・モイセル(十二歳)と士官四名を人質にして長崎に帰り、五人の人質は大村に置いたが可愛想にモイセルは病死し、他の四名はバタビヤに返した。

 この事件は浦兵衛が首謀者の如く知られ、太郎右衛門の名の出ぬのは、藩主熊本侯(加藤忠廣)が幕府を憚り口止めした爲である。彼は石田三成の家老相原意右衛の甥に當り頗る覇気に富み武芸に通じて居った。太郎右衛門の嗣子金右衛門が父の遺言に依って害いた「異國高砂一巻」が現はれ、始めてその真相が判明したものであって、その記録は八代町柏原家に傳へられ、末尾に菊地如庵、博多屋三郎等の説明を附してあると云ふ。

 

 

六、ブロビンシヤ城址

 

  所 在 臺南市臺町一丁目

指 定 昭和十年十二月総督府指定

 

 寛永元年(西暦一六二四年)蘭人安平に来りてより、東洋貿易の根拠地を安平に置くを利便となし、商店、會社、住宅、倉庫等を建築し、此の地にプロビンシヤ街たる小邑を造り、叉支那人の特性を奨励し、人口三予餘を数ふるに至り、東洋貿易の重要港となした。 

然るに承応二年(西暦一六五二年)郭懐の亂あり、それ以来居住民不安を感ずるに至り、此の城を築くに至ったもので、同年工を起し、寛文元年(西暦一六六一年)竣工せしもので、稜堡四箇を備へ城壁は総て煉瓦を以てし、頗る堅牢なものであったが、同年五月角成功の兵亂の爲に攻落され、清朝時代に城壁を破壊されたが、城壁の一部が今に残ってゐる。

明治十年頃居住者其の城壁上に海神廟を建設してあるが、残存城壁に對して保存されたことは、最も妥富の詣置である。

 

七、灣南城門

 

 東安門(大東門)  崔雷市東門町三丁目 

  寧雷門(大南門)  同  南門町一丁目

  靖波門(小西門)  同  泉町

  指 定       昭和十年十二月詰督府指定

 

斎宮城は清朝領有時代に築造されたもので、常時此地に臺南府が置かれ、後に臺南府を置かれた所である。康煕六十一年末一貴の兵亂の爲に、居住民が莫大の損害を蒙り、亂後藍鼎元たるもの築城の急務なるを説き、築城の件を巡臺御史呈達禮に計つたが當時清朝は財力疲弊してゐた時であるから、急速に運ばないので更に價廉工省の計を建て、雍正元年(享保八年)知縣周鐘に計り、仮り設備として、周圖二千六百六十二丈の木柵と六門とを設け、また刺竹二萬七千九百餘株を植ゑる等臨機的防備をなしたのであるが、乾隆元年始あて国帑を支出し、石造の七門を築き、楼閣を其の上に建て、毎門周回二十五丈、高旦一丈八尺、叉別に名節十五座を建て、其の後更に小西門を建てゝ八門となせるも、更に城壁を土塁に改め、塁壁周囲二千五百二十丈に改め、四ケ年を要して完成せるものである。同治元年五月大地震の爲め、楼閣、城壁、窩舗等の破壊せるもの半ば以上に及び、その後国幣を支出して修築したものである。

現在残れるものは大東門、大南門、小西門の三門で、大京門は近年修補したものである。

 

八、 城址                   

 

所在地  高雄州高雄市及岡山郡左榮庄

  指 定  昭和八年十一月總督府指定

 

康煕六十一年朱一貴の厄後、崔湾府屠理知鵬消光個の時、工を起し周回八百十七丈、高さ一丈三尺の土座を築き東西南北の四門を改け、環らすに深さ一丈、廣さ八尺の外濠を以てした。

道光三年総督趙軫の時、署理知府傳をして地形を相せしめ、翌四年福巡撫爾準臺灣を巡し、更に大改築の必要を認め、上奏して、官費を出捐し、民間の寄附会を併せ十四萬圓の経費を投じ、規模を大にして築造せしものであって、壁及門は石造と為し、壁は高さ一丈二尺、上幅一丈五寸、周囲千二百二十四丈、門は四ケ所に改け、各門上に楼閣を置き、その高さ四丈二尺、東を風儀門、西を海門、南を啓文門、北を拱辰門と称し叉四

隅に砲台四座を築き経費九萬二千百両を要せり。築造後既を百年を経、修復を為さざる爲、破壊せし部分多く、西方は壁、門取毀ちたるも、東門(風儀門)は原形を存し、叉南北の二門は略原形を止むるを以て、往時の壮観を追想するに足れり。

 

九、恒春城

 

所 在  高尾州恒春軍恒春庄

  指 定  昭和十年十一月総督府指定

 

本城は同治十三年(明治七年)欽差大臣沈葆槙の奏議に依り、牡丹蕃社討伐の結果に鑑み、蕃人の襲来に備えふる爲、光締元年(明治八年)築造工事を起し、翌二半に至り完成したるもので、周圖九百七十二丈、壁の高さ二丈、厚さ八尺、煉瓦、土角及び石を用ひて積塁し、東西南北に四箇の城門を設け、各門上に楼閣を構へ、構築頗る宏壮なりしも、改隷後廃し、且つ頗年暴風雨に崩壊甚だしく、所々に残塁を留め、里門北門のニ門を存するに過ぎない。

 本城は領臺の始め、明治二十八年十一月一日、我が第二師團第四聯隊第三大隊が戦闘の後、匪賊を駆逐して占領したるものである。

叉その翌年土匪蜂起の際、官民城内に龍り、之を死守して危難を冤れたもので常時に在りては今日程荒廃してゐなかつたのである。現在の状態は城門、城壁所々崩壊し居るも、清朝時代築造の悌を存し、尚遠望の見るべきものある。

 

一〇、墾丁寮石器時代遺蹟

 

所在地  高維州恒春郡恒春庄

指 定  昭和十年十二月総督府指定

 

 此の遺蹟地は、地域的一町歩に瓦り、各種の磨製石器、縄文土器、無文土器の破片、菅谷、貝器等約四十種の遺物を包含し、地下数尺の折から砂岩、石灰岩の石棺多数發掘され叉砂地である爲に、石棺中の人骨も完全に保存されてゐる。石棺は扁平の二枚或は三枚宛を立てゝ函状となし、両端に各々一枚を立合せて四周を造り、これに数枚の置石を置いて函状とし、底部には地を置かないい、石枕を使用せ芯もの。石棺のないものもあり、頭位は西南向で、出土品には琅、貝製の頸部、胸部、腕環(貝及土製)、石斧、土器等がある。叉副葬品として石斧石組と認めらるものがある。

この附近には多数の古墳があり、臺灣原住民族の研究上好資料に富むものと見られて居る。

 

一一、難山本営址

 

  所在地  高雄州包容郡軍撹庄射寮

  指 定  昭和十年十二月総督府指定

 

 明治四年十月琉球宮島及八重山の者が船弐艘に積んだ年貢米を那覇に送り届け、帰路宮古島沖で台風に遭ひ、船員乗客六十九名が遭難、十一月六日、臺灣高尾州八河に漂荒し上陸の際三名は波浪に呑まれて溺死し、他の六十六名は上陸したが、内五十四名は牡丹壮蕃人の兇刄に斃れ、他の十一一名は九死に一生を得て帰国した事件があった。

 我が政府は此の事件に付、清国政府に對し敲重交渉したが、清国政府は生蕃は化外の民で。政治の及ぶ所にあらずとなし、日本の要求を回避した。そこで我が國では清岡の主権は豪商に及ぱないものと認め、明治七年四月、海軍中将西郷従道を都督として臺灣を討伐するに決し,西郷都督は谷、赤松両参軍を先発部隊として出發せしめたる後、後続部隊を率ひて汽船高砂丸に乗じ、五月二十二目璃(王喬)湾に入り、射寮に上陸、本営を龜山に置き征臺の総軍三手数百人士気揚々として、近郊部落及蕃地を征服し、西郷都督は幕僚と共に同十二月三日出發凱旋に至る迄、硝煙弾雨の間に七ケ月滞在せられた所である。

この事件は西聯都督の出征に依り、清国は臺灣が日本に占領されんことを怖れ、俄かに説を變へ、臺灣は頴娃省に属することを主張し、その責を負ひ五十萬圓を賠償して落着を見るに至つた

 






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最終更新日  2021年11月20日 04時52分18秒
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