山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/12/20(月)13:57

山梨の和算家 丹沢庄三郎 弦間耕一氏著 『文学と歴史』第七号 甲州の和算家

山梨の歴史資料室(467)

● 山梨の和算家 丹沢庄三郎 弦間耕一氏著『文学と歴史』第七号 甲州の和算家   一部加筆 山梨県歴史文学館  庄三郎は明治二年(1869)三月十八日に、八代郡増利付に生を享けた。庄三郎の官は、塩屋という屋号でよばれていた。 彦右衛門の長男で、初名を米𠮷と称したが、三歳の時に庄三郎と改名した。六歳頃から学問をはじめ、習字を 『峡中家歴鑑』を編纂した米山先生に、読書と和算を勝林寺の住職矢田先生に学んだ。 十六歳の折に、勝林寺内に設置された青年夜学研究会の幹事になり、研究会の推進力になる。 二十一歳になった明治二十三年(1890)には、増田の若者組の副頭取になる。この年、庄三郎は甲府市鍛治町の報徳館で山田登から、「町村地図分検測量」の教授を受け、卒業免状を受ける。(後で免状を紹介したい) 免許を手にした庄三郎は、砂原(現石和町)の小田切定次郎と入会他の測量を実施する。それ以後は、南八代村と増田村の分検地図を中心になり、作製している。 参考のために「町村地図調製式」の一、二を掲げておく。 一項 地図ヲ調整スルニハ従来ノ分間法又ハ板分間法等ニ拠ル六項 地図の用紙ハ美濃紙ヲ用ヒ裏打ヲナスペシ七項 町村図ハ一部字図ハ正副各一部ヲ戸長役場ニ備置クベシ十項 地図ハ年々異動地ヲ修正セシ副図ニ就キ正図及副図共十ケ年毎ニ更ニ調製シ年月フ記載シ図者之ニ記名捺印スベシ 次に「町村製図賂法」を示して参考に供したい。 一項 図ヲ製スルニハ第一図ニ示ス見透器ヲ用ヒテ量地スルヲ可トス。此見透器ハ使用簡易ニシテ地形ヲ直ニ製図板上ニ縮写スルヲ得ルモノナリ二項 見透器ハ左ノ附属品ヲ具備スルヲ要ス   羅針盤 製図板 三脚台 示石器 垂球三項 字図八六百分ノ一、即チー間ハ曲尺ノ二分壱尺ハ曲尺ノ一厘六毛六糸余ニ相当スルヲ以テ実地ノ模様ニヨリテハ前項ニ示ス示心器ヲ用ヒザルモ大差ヲ生ズルノ憂ヒナシ故ニ従前ノ板分間法ヲ用ユルモ又妨ナシ四項 製図ニ着手セント欲スル時ハ、先ツ先ノ諸品ヲ用ヒテ量地スベシ   見遁器附属品共 両脚器 三角規 鉛筆 間縄 株梠の類ニテ成ルベク伸縮セザル品ヲ   巻尺ヲ用ユルハ最モ良シトス   竹竿ノ真直ナルモノヲ用ヒ標旗ヲ付ス   紅白又ハ黒白ノ塗分ノ竿ヲ用意スルヲ善シトス   製図紙美濃紙ヲ用言ベシ但板上薄糊付又ハ鋲留或ハ輪ゴム等ヲ以テ風散セザル様注意スベシ五項 宅地田畑等地面平担ニシテ樹木家屋等ノ見遁シテ妨ルモノナキー筆ノ土地ヲ板上ニ縮写スルニハ第一図ノ如ク其土地ノ中央ト視認タル位置ニ製図板ヲ据へ見透器ニ附着セル水準器ニ依リテ   能ク水平ナラシメ製図板ヲ回転シテ羅針ノ方位ヲ正シ羅針盤ヲ定規トシ製図紙端ニ南北線ヲ畫シ製図板ニ示心器ヲ合セ測点ノ中心ヲ定ム即チ基点ナリ後此点二見透器ノ零点ヲ宛テ置キ以テ(イ)の側標ヲ見遁シテ其距離ヲ丈量シ得タル処間数ヲ虚線ニテ畫シ其縁端ニ(ハ)ノ符号ヲ印シ且ツ其傍ニ間数フ記載スベシ次二又見透器ヲ転ジ(ロ)ノ訓標へ向ケ基点(中)ヨリ(ロ)ノ訓標ヲ見透シ其距離ヲ量り虚線ヲ畫キシ其縁端ニ (ろ)ノ符号ヲ印シ間数ヲ傍記シ且(イロ)則チ紙上ノ(いろ)間ニ実線ヲ(後略) 上に掲げた内容は『町村地図分検』の実施要領で、地租改正以後の土地測量のための教科書に当たるものであるといえよう。 和算家の中でも洋算に、転向していった福田半などは、『潮足新式』を刊行して旧来の和算の測量術を批判している。 見地ノ法ハ地面ヲ潮足シ絵図ヲ製シ形勢ヲ紙上ニ顕ハシ巨細ノ体裁ヲ弁知スル術ニシテ実ニ経済ノ緊務ナレハ学者能茲ニ注意シ強勉尽力セスンハ有ヘカラス而ルニ兵法ニ難アリーハ測器ノ癖一ハ拙術ノ弊ナリ面メ器ハ常ニ之ヲ試験シ、其差ヲ知覚シ、用ニ臨ミ之ヲ補足スルヲ得ベシ術ノ拙ナルニ在テハ其誤り千里ヲ以テシ之ヲ救フノ方ナシ故ニ此業ヲ修スル者ハ能ク実地ニ熟練スルヲ専一トシ尚ヲ其原理ニ精通セサレハ、必ス実用ニ主宰タルナカレ 福田は『測量新式』の修学要旨で、和算の測量を、「其ハ法ニ難アリ、一ハ測器ノ癖、一ハ拙衛ノ弊ナリ」としている。簡単にいえば、道具と技術が駄目だから『測量新式』を刊行したと述べている。 測量器も 巻尺(テーブル) 旗(フラフ) 羅針盤(ソルベイコンパス) 分度器(プロトレクトル)  両脚規(コンパス)などの英語である。図の説明もアルファベットを使用し、A地点、B地点と表記している。 明治五年(1872)に『測量新式』が発行されているので、庄三郎たちも、山田登の報徳館では、純粋の和算測量術というより、和洋折衷的な測量衛を学んでいたと推測できるのである。 測量免状証東八代郡増田村 丹沢庄三 地図早取分検法 卒業候事明治廿四年二月二目     報徳館山梨県甲府市 山田登 □   先に触れた、甲府市鍛治町で報徳館という、和算専門の私塾を経営していた山田登が、地図星取分検法(分検図作製の方法)を修得した丹沢庄三郎に与えた卒業免状である。 鍛治町には、明治二十年に歿した加賀美山登の和算塾一二堂もあった。加賀美については、この『文学と歴中』の三号に記したが、加賀美は、嘉永四年(1851)江戸で黒巣鏡明について陰陽道を学ぶ。安政五年(1858)に安倍勘詞に就き、関流の和算を学んでいる。この加賀美は分検図の権威者で、明治元年(1868)には、甲府城内の分検図などを調整している。 この加賀美は、加賀美山登ともいう、偶然であろうが、加賀美の山登と、山田登の名前がよく似ているうえにともに鍛治町で和算の専門塾を開いていたことについては、前々から興味を持っていた。加賀美は和算家として、平凡社の『大人名辞典』に、『峡算須知』の著者である井上昌倫とともに、特別に収録されている。 地租改正に伴う『町村分検地図』の作成は、中世末から近世初頭にかけての検地と同様に、大事業であった。全国すべての町村で、分検地図作成者が任命され、長い年月をかけ完成するのである。大事業だけに、多くの者に「ニ地図早取分検法」を修得させる必要があり、その養成は一二堂や報徳館などの和算塾が当った。 地租改正直後は、一二堂の加賀美が中心になり、明治二十年代以降、報徳館の山田登が養成の主たる役割を果たした。 町村分検地図の作製に従事したのは、和算などの数理に明るく、なお各町村とも名主などを勤めた家柄から選任された。庄三郎の所は、屋号を塩屋というが、それは庄屋が塩屋に訛ったものである。 甲州で発行された『官歴伝記』などによると、慶長検地の折の案内人と同じように、明治の地租改正後の「町村分検地」に関与したことは、家門の誇りとして、記載している。分検地図請負人地悍総代分検地図製図者分検地図調整委員分検地図整理委員などの名称が使われている。 県から分検地図調整の督促があっても、地元に測量の技術を持った者示いない場合などがあって、着手が遅れた町村もあった。山梨県下にも次のような例示ある。 明治廿八年七月十三目     臨時村会議事筆記 一、分検地図調整の件議長 原案ニ付詳細ナル説明ヲ為シ各議員ノ質問等アリ協議ノ上結局技手ニ受負ハシムル事ニ決定総代人足 日当八八月ヨリ十月三十日迄金弐拾銭十一月一目より四月三十日迄金拾五銭ト定メ受渡シハ技師出向ノ節村会議員一同集合ノ上協議確定スルコト予算金額ハ原案可決    分検地図調整上取扱方法原案通り決定   徴収方法原案可決     本村地図調整費予算技(案)一 金参百円也  村地図調整費 この村は、村議会で分検地図調整が論議され、最終的には技手に受負(請負)せることで、遅滞に決着をつけている。 将来を嘱望されていた庄三郎を『山梨人士評伝』は、次のように書いている。  資性率直、人トナリ、華奢ヲ喜ハス 名利ニ淡ナリ 粗衣 粗食 夷然之ニ安ンズ 夙ニ村内ノ遺流セル弊習ヲ蝉脱セシメ、自治ノ新機関ヲ漸進セント孜孜々タルモノノ如シ 齢尚壮 氏カ不鳴ノ鶏ヲ烹ルアラントスルノ壮挙アルヤ期シテ待ツヘキナリ 素直で、名利を欲しなかったから、村民の信頼が厚かった。それに、村内の旧弊を打破し、新しい自治の漸進を理想に描いていた。それに有能であったから、壮挙を期待されていた。 庄三郎の病気は、何であったか明らかでないが、庄三郎の手になる「丹沢庄三郎歴訪」の末尾に、家族によって「明治三十年九月二十四日、前途尚多忙ノ身ヲ持チ衆ヨリ借マレ病医師の誤診が基ト終ヒニ死亡ス」 と記されているから、医師の誤診があって若くして死去したと思われる。明治二年生まれであるから二十八歳で生涯を終った。 庄三郎が測量に使ったといわれる測器を拝見させてもらったが、どうも精巧すぎる感じがする。山本一正の処で述べたが、測器を製作する技術も、測量技術に含まれ、手造りの場合が多い。従って、庄三郎の測器については、製作年代の検討が望まれる。 庄三郎の子孫の住所 東八代郡八代町増利 丹沢家路系図  金兵衛(享保元年賀)- 勘左衛門(安政五年賀)― 彦右衛門(庄三郎の父で明治四十二年歿) 誠寿院受性日善居士、母は明治三十二年歿、親理院妙東日乗大姉)― 庄三郎(明治三十年歿、親理院能詮日是居士- 序次(庄三郎の長男 昭和五十八年歿)- 良次(推次の長男 昭和十二年生 現当主で山梨中銀に勤務)    寺は、日蓮宗 法泉山蓮朝寺(東八代郡石和町小石和)    墓は、東八代郡八代町増利共同墓地

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