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2021年12月27日
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杉本茂十郎と三橋会所… 附 甲斐の豪商
  隅田三橋
 永代橋の落橋事件については既に述べたが、両国橋のようにすべて幕府の費用で、かけ替から修理まで一切やる御入用橋(御公儀橋)は別として、新大橋、永代橋、大川橋の二橋については、はじめは幕府も費用を出したがとうてい費用を後々まで継続して出しつづけることは不可能になって、町方持ちとしたが、大川橋のようにはしめから町方持ちで出発し、しかし修理費が大変で幕府に出費を歎願するといった例もあり、幕府もこれが悩みの種であった。 
 御入用橋(公金で修理かけ替する橋)は隅田川に架する橋とは限らず、日本橋・京橋・江戸橋といった昔からの重要な橋が市中の中心部に120余橋あった。これ等が総て御入用橋で、その費用は一切幕府が負担したから莫大な金額であった。その外に常盤橋、神田橋、浅草橋など城濠に架けた城門の橋も幕府の作事奉行の担当で修理するから御入用橋である。江戸に於いてはこのように幕府の費用負担をする橋が多数あり、これらの橋のかけ替や修理費が、どんなに幕府の財政を苦しめたかがわかろう。
 享保になって、とても隅田川に架する橋の維持は金がかかって大変だというので、まず少しでも財政負担を軽くするためにというので、享保4年(1719)には永代橋を、延享元年(1744)には新大橋を廃止しようとした。これを聞いた両岸近くの町々の人々の驚きは大変なもので、何とか永続してほしいと歎願が相ついだ。
 幕府当事者も、そこで橋は残し、町方に維持管理を任せ、橋銭を徴収することを許可して、それで橋を維持することにした。しかし、時代がたつにつれて、町方でもその維持管理に苦しみ、幕府に頼って立て替工事をして貰うより手段がなくなって来た。橋銭などで到底維持出来るものでなく、いたんだまま修理も思うに任せず、放置されたままという状態が多くなっていった。前述した文化4年(1807)富岡八幡の祭礼で、群集の殺到した重量に耐えかねて永代橋の一部がおちて、多数の死者を出したのも、結果からみれば、費用の捻出に苦しんで一時のばしに修理をのばしていたためである。 大川橋は明和9年(1772)の大火で、浅草辺の住民が逃げるのに苦労したことから、浅草から本所側へ橋を架けることを願い出た者があったため、安永2年(1744)これを許し、10月架橋が竣工、橋銭をとって維持することになった(一説に架橋の出願は、明和9年の大火より3年も前の明和6年ともいう)。この橋も町方だけではとうてい維持することは困難で、後には何とか幕府に出費して貰って、辛うじて維持してゆく状態であった。これが後の吾妻橋である。  
 大川橋は20年から30年位はもったらしいが、その年限がくると何としてもかけ替をしなければならなかったらしい。いたみもはげしくなるまで放置できない。修理が必要である。隅田川に架する橋の内両国橋を除いた他の三橋の維持費は、幕府としては全く頭痛の種だった。町方持ちとはしてみたものの、橋銭など修理費としても雀の涙で、結局幕府が面倒をみてやらねばならない。永代橋事件が示すようにこわれたままで放っておくことは出来ない。その費用の捻出には悩みつづけねばならなかった。
 こうした時、永代橋落橋事件に注目、この三橋維持を費用の面から何とかして、幕府当局の「覚え目出たく」なろうと暗躍したのが、日本橋万町の定飛脚問屋大坂屋茂兵衛の養子となって、その業をついだ杉本茂十郎であった。杉本茂十郎が十組問屋を舞台にして、どんなプランをたてて、どのような手段で、その実現成功へと活躍したかを見ていこう。
  杉本茂十郎の活躍
 定飛脚問屋というのは、江戸の郵便屋である。初めは官的なものに限られ、江戸時代町方では、大坂城定番の人々が江戸の家族に通信するため、元和元年(1615)各宿場の役人と相談の上、人馬を供給して毎月三度江戸に往復したのを三度飛脚と呼んだ。
 それが明暦2年の大火後、寛文2年(1663〉になって、江戸と京大坂三都間の飛脚業を開業、江戸は七軒、京都二軒、大坂四軒の定飛脚問屋が活躍をはじめ、東海道が大体六日かかったため、
「定六」と一般に呼ばれたという。寛文11年(1671)には金銀貨の逓送も行われ、寛保元年(1744)には仲間組織も作り、当時の通信機関としては重要なものになった。
 杉本茂十郎は甲州の人、農家の出で、定飛脚間屋大坂屋茂兵衛の養子になるまでのことはよく判明しない。一説には江戸に出て、町年寄の樽与左衛門に伝をうまく求めて取り入り、よく働き、その才覚を見込まれて、大坂屋茂兵衛の養子になったという。
 定飛脚問屋の家業をついでからは、江戸の商業界で大いに活躍するチャンスに恵まれてのびていった。
 それは江戸で十組問屋と砂糖問屋の紛争がおきた時、杉本茂十郎は町年寄樽の勢力をバックに調停役としてのり出、「三方和解」という解決法をとって、大いに江戸の商業界に名声を博した。
 この事件は、廻船問屋と船の問屋がからんでいた。
 当時大坂江戸間の物資輸送には、菱垣廻船と樽廻船の二つの廻船系統があった。菱垣廻船が開始されたという元和初年からしばらくは、菱垣廻船の方は実に順調にのびていって、圧倒的に強かった。菱垣廻船という名は、舷の垣に菱形に結った竹を思いた所から名付けられたという。後積荷の問題から、酒の輸送をするのを主たる目的とした樽廻船が別に起り、両廻船とも多数の船を備えて、この航路の輸送に従事した。元禄7年(1693)大坂屋伊兵衛が菱垣廻船を支配下におく十組間屋仲間を組織し、大坂にも江戸買次問屋(後の二十四組問屋)仲間が結成され、十組問屋の貨物はすべて菱垣廻船によって輸送が行われた。酒類の輸送に専ら当っていた樽廻船の方も、十組以外の問屋の荷物を酒荷の下積として輸送していた。この両者が次第に競争の形をとるようになると、樽廻船の方は新造船が多く、速力が早く、船賃も安いため、十組問屋のうちにも、内緒でこれを利用する者が出て、享保15年(1730)には分れて新組を組織し、樽廻船を利用、従前からの菱垣廻船利用組と対立するようになった。しかし「新装快速」といわれた樽廻船には到底かなわず、菱垣廻船の持ち船は享保8年(1723)には百六十艘もあったのに、十組間屋組合の方が船の修理や新造のための金を出さないこともあって、文化5年(1807)には僅かに38艘になってしまい、それも老朽船が就航しているに過ぎない有様だった(東京都「江戸の発達」)。
杉本茂十郎が丁度こうした時十組問屋と砂糖問屋の調停にのり出したのである。
 砂糖問屋は田沼時代以降特に樽廻船を利用する者が増加し、17軒ほどといわれるが、砂糖問屋旧来からの薬種問屋から離れて、菱垣廻船によらず、この樽廻船を利用して江戸に荷を送り、十組問屋の統制を乱すに至った。
 一方十組問屋のうちの薬種問屋としては、細々ながらも、十組の規則を守り菱垣廻船積みで江戸に砂糖を送っていたため、菱垣廻船側に資金を出して、菱垣廻船側の船数を増加し、その廻船の輸送力を旧の如く盛んにしようと計画、そのため砂糖問屋と十組問屋の間に紛争がおきた。
 これをよきチャンスと調停に立ったのが杉本茂十郎だった。
 彼はそこで本町・大伝馬町の両薬種問屋50軒に対し、そのうち砂糖を専ら取扱う16軒の問屋と、別に砂糖のみ専業のもの一軒の合計17軒と、薬種間屋のうちの8軒、合計25軒を砂糖問屋仲間と定め、残りの薬種問屋に属する27軒に対して、砂糖問屋の営業の方は自発的に休業して貰い、五十二軒のうち二十五軒だけの砂糖問屋は文化五年(1808)千両の冥加金を出すことを条件に、問屋株を認めて其うことになり、うまく双方をとりまとめ、万事解決するに至った。
 杉本茂十郎が、この十組と砂糖問屋の調停を機会に、業界の信任を得、十組問屋仲間の事を任され、ついにその頭取になった。
 そこで文化5年(1808)菱垣廻船の振興にのり出し、新しく船をつくり、38艘の老朽船ではどうにもならん、百艘の船を菱垣廻船として持ちたいとして、その手段として、まず町年寄の樽屋を動かし、三井家をくどいて後援して貰う約束をとりつけ、遂に80艘の新造船建設を翌文化6年(1809)に達成したといわれている。これは彼が十組の弱体化に目をつけ、菱垣廻船のおとろえたのは、十組問屋が修理や新造船建造に金を出さないために、十組が金さえ出せば菱垣廻船の回復は可能だと見て、菱垣廻船が数も増え、新しい船になれば、江戸にくる物資は豊富になり、物価もさがること必定と、町年寄の樽をたのみ、十組問屋を説いてついに目的達成するに至ったので、パックに三井があったことも大きかったという。
 更に彼に運が向いたことは、この時菱垣廻船の船頭や水主たちも、航海ごとに彼等が得る金の中から、廻船新造のための出金を申し出た。これを喜んだ杉本は、この金を利用して幕府当局を喜ばせる事業をしようと考えた。当面幕府が困惑しているのは御公儀橋以外の隅田川に架かる、新大橋・永代僑・大川橋の三行の改架、修理維持のための費用の捻出である。幕府が当惑しているのなら、この金を積立てて、それに使用しようと考え、自分の方の十組問屋組合がその費用を負担することを申し出た。これは茂十郎が、幕府にとり入って雄飛しようと考えた手はじめである。





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最終更新日  2021年12月27日 14時12分20秒
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