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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月26日
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カテゴリ:泉昌彦氏の部屋







 

写真参照のとおり、東京都水源林丹波山事務所に永年勤めた親川部落の故人河村銀さんが、四十五年に定年退職する前に案内してもらったとき撮影した「信玄の砂金溜め」と言い伝えのあるものをみた。

金山の遺跡にくわしいご当人は、その後間もなく他界してしまったので、ここでも唯一の生き証人を失なうところであった。

現在では、部落の人すら確実な位置を知る人はないので、筆者もまた丹波山の青年を案内して申し送っておいたのが四十八年のことで、こんな道案内でも、丸二日はつぶしてしまった。

「この金坪は、武田時代に遺られたもので、

一枚岩の川底を流れてくる砂金は重いので、

金坪に落込んで溜まる仕掛けになっています。

ほかにもあると思いますが、丹波川にある砂金溜める。

おなじものは身延の大城金山にもある。

 山腹の砂礫とともに、丹波川へ流出した自然金は、付着した不純の母岩を引きはなし、岩床を流れてくる主流が大きな岩盤の岩鼻に突き当たると、そこに、このタコツボが特ちかまえているのだが、ここに砂金溜めが造られた理由は、もう一つある。

「この穴だらげの石は、秩父古生別特有のもので、

 ごく僅かな人しか知りまぜん。武田時代には、

ここでも砂金を洗敢したということです」

 

河村さんの案内で、さらに合評のある上流の山腹に、自然の押堀場と推定できるものを見たが、以来、数回にわたって綿密に調査した結果、江を築いて水を流し、自然金を洗敢したと考えられる人工的なミゾ、石垣積みから、砂金場の間歩ではないかと見立てたのである。

岩石に穴が多いのは、酸化した二次的鉱物、つまり硫化鉄が酸化して抜けた穴である。凝灰石、石灰石などが複雑に入り組んだ接触交替鉱床で、範囲はごく限られた五百平方メートルほどしかない。

保之瀬も、親川小袖部落も、苗字や習價を辿っていくと、金掘りの末であることは、これまでにきわめてハッキリしている。

この保之瀬では砂金洗取の経験を特っていた岡部新吾さんが、役場で案内人に立ててくれた人だが、この岡部さんも間もなく病死してしまった一人である。岡部さんは、保之瀬付近にある金山のあとならすべて知っている生証人として数年前に筆者ともども間歩を辿っている。

保之瀬に多い間歩を辿るには、バス停から下に見える同部落へ下り、丹波川の橋を渡り、ここから部落の反対側の山裾にある道を山服にとると、次々に間歩に突き当たる。

と、かるく言っても、まったく人の歩かなくなった山の崖っぷちは足元も危く、ここでもひどいヤブを伐り払って、ヤブの中から間歩の口を探したのである。

橋から十分足らずで、奥行約八十メートルくらいの間歩がある。この種の間歩で、崩れて残っているものは、湧水や地下水の侵透のない山の岩盤を掘り進めたものである。

第一の間歩から、二、三とみて、その先にも二つ三つある間歩は、途中崖が崩れているため、どちらからも、ザイルを使用しないかぎり見ることは不可能だ。

二つ目の間歩から、丹波川の対岸を見ると、青梅街道の下にも二つ、間歩の口が開いていた。

 

通称「信玄の金洞」

 

丹波山村は、武田氏の黄金山によって現在の子孫を伝え、村内の古刹も、すべて武田氏の黄金山に深いつながりをもっているだけでなく、遺跡そのものが伝承とともに同村に集約されている。

標識や説明板などを建てて永久に伝えるよう本誌上で辿った遺跡の保存を奮起して望みたい。

 

丹波山本村の言い伝えにある「信玄の金洞」は、宝蔵寺の墓地の崖下に一つ、アイヌの住居跡といわれる遺跡の埋まっている押垣外(おしがいと)のキャンプ場の両岸にも二つ、坑道がそっくり残っている。

丹波川の広い河原に面しているこの間歩が、武田氏の時代に稼業されたということは、はなはだ疑問である。

明治初年以降の丹波山村民の試掘願いも、名目は水晶でも、金山が目当てであったことは明らかである。これらの間歩も散在するので正否はさしひかえておきたい。

 

  金掘りの武士団

 

これまで紹介した現地は、武田氏の黄金山といわれる諸山渓谷を隈なくアタックしたうちのホンの一部である。

黒川谷鶏冠山金山にとどまり、まだ金掘りの武に団よって金山衆の遺していった城攻めの話題、埋蔵金の秘話などあるが、これは文献を待つ読者のため、退屈しのぎのエピソードとしたい。

 

当初おことわりしたように、武田氏の請金山については、産金額とか、金山経営に関する文書は皆無で、黒川金山といえば出しものはただ一つ、塩山市下於曽の田辺佐苗家に伝えられている「田辺文書」と相場は決まっているようなものであるから、前稿に記した古文書の出現は、本誌上がはじめてだ。

文書といっても、これがまた決まり文句の簡単な印書ていどで、「武田黄金史」などという大風呂敷は、拡げたくてもネタに欠けすぎて、十枚も原稿川紙があればこと足りてしまう。

したがって、現地を歩いて謎を解くことで、手間取ってしまったわけだ。古文書が無ければ、伝説、古名、遺跡、社寺仏塔、円証、氏姓、古碑、古名、遺物などの面から謎を解く方法しかない。

丹波山村は、本来、都留郡の小山田氏の支配する郡内領であった。したがって小山田氏の代官小菅氏が、代々にわたって小菅村における館で、武州へも備えていた。

武田信玄によって、甲斐一国が完全に統一され、黄金山の開発が進められる頃は、小菅氏とは別に、武田丹波守という武田氏の分流にも見当らない不詳の武士が居たという伝承がある。

この丹波守は同郡上野原町へ通ずる小菅道にある「西原部落」に館があった。

しかし、同部落一ノ宮明神の神社に、康永元(一三四二)年十一月の銘に、地頭武田一宮殿とある。

その地のはじめての支配者によって建立される一の宮の例から、天正二(一五五三)年の神社の銘をもって断絶した武田丹波守有氏まで、数代にわたって武田氏の分流が知行していたもので、丹波と小菅は、金山衆によって支配されていたとみるべきである。

小菅の城あとは、小菅村川久保部落のちっぽけな小山にあるが、根切りの空濠や掘のあった遺跡の模様から、ミニはミニでも、れっきとした中世の山城である。

館あとも、城址の南にあるが、長くなるので、小菅氏については、またにゆずりたい。

ただ一つ、小菅氏の山城の近くに、小菅氏の菩提寺がある。この寺の「湧金山宝生寺」を、そのまま読むと、金の湧く山、宝の生まれる寺となる。同村には六か寺あったが、金竜山性寺など、いずれも黄金山にかかわりがあることは、山号からもわかる。

宝生寺はもと大菩藤峠の麗にあって、のち現在の地に還り、旧地を「古寺」といったと甲斐国志も伝えている。

してみると、小菅村にもヒノキの正月飾りをする橋立部落の数戸などから、この方面にも黄金山に関係のあった様子が判明できたが、今回は未調査のままで筆をおかざるを得ない。

とまれ、小菅遠江守信憲という城主が、文明十年に、川久保の八幡宮、熊野三社権現の建立者であるという棟札の銘と、同年の棟札は、小菅村総社の矢弓神社にもある(甲斐国志)。文明十年は一四七七年で、武田信虎の出生した明応三(一四九四)年より、十七年もさかのぼっており、黒川金山とのかかわりは、一応ないものと考えられる。

宝生寺の開山は、建長末として建長寺十八世の頃、信憲の祖、藤原重清の関創という縁起に照らすと、金の湧く山、宝の生まれる山といった山号は、黄金山より発祥したと考えられるので、大菩薩峠の裏面には、もっと古い黄金の歴史を秘められているようだ。

 

 金山衆のゆくえ

 

黒川金山衆で、もっとも明瞭な家譜を伝えているのが田辺氏である。田辺氏のほかにも、中打禅右衛門、依田平左衛門、大野将監、風間庄左衛門、田辺清九郎、古屋次郎右衛門、依田宮内左衛門などが、山先師にひとしい金山衆で、このほか伝説では、前稿の将監峠には芦沢将監という金山の目付もいたなど、金山衆にはかなりの数がいたようである。

これらのうち、武田氏の猿楽太夫の子であった、のちの大久保長安の下役として伊豆の縄地金山にいたのが、佐左衛門である。

同金山には、まだいまの山梨県櫛形町に当たる宮地郷の戸田藤左衛門が、長安の家老として仕えていた。

さらに、佐左衛門と同勤し九下役には同県石和町鎮目の郷士、渡辺嘉兵衛久那がいた。

慶長十八(一六一三)年、長安は駿府において脳出血で倒れて死んだ。長安については、伝説と怪談の第四集にくわしいので省くとして、この長安の死後、いろいろの奇怪な事件と不正が明るみに出された。

藤左衛門は入牢、千代は斬に処されたが、武田氏の余類として生きのこっていた信玄の正室三条夫人の第二子竜宝(雲野氏を一時名乗った)の子、武田顕了(信道)と、その不信正は、七人の同族とともに、伊立大島の野増に配流され、「七人さま」と尊崇された。

真道は、寛永二十(一六四二)年野増で没し、寛文三(一六六三)年八月、信正は許されて江戸へ還った。これがよくいわれる武田正統を名乗る、信玄より十四代目の武田家である。

田辺佐左衛門と渡辺嘉兵衛が浪人したりは、この時である。

この嘉兵衛については、新府城を焼いて、岩殿城によらんとして落ちていく勝頼から、乳呑子の男子を預ったというのが甲斐尚志にある。

勝頼が托したこの幼児は、一子信勝の子という説もあるが、間もなく、泣き続けて夭折したことになっている。

しかし、筆者の調べでは、この伝説に近い幼児は、石和の鎮目の田の中に眠っていたのである。まさに四百年の風雪に耐えて来た小さな五輪塔は、同町の石和記小学校の西側の田(山下幸𠮷宅)にあって、世に「シャクヤク姫の塚」といわれ、シャクヤクが群生していた。

同じシャクヤク姫の塚は、すこし離れた鎮目の渡辺凰敷のあとに居住している中村起雄宅にもあった。文化四(一八〇七)年八月の建立供養の石碑には、渡辺一族の名をつらね、正面には「武性院殿斎理哲大童子」の戒名が刻まれていた。

いささか幼稚といわれるが、…世間の口を偽るため、姫を男子としたという、シャクヤク姫の塚の由来がある。

久郡が繩地金山の下役として健在であったとしたら、主君から預った男子とともに、きびしい余類追及の手を逃れられてはいない、これこそ推定を失笑されても、身の安全を計るためには、主君の子とて消されたのではないかという想定も成立たないことはあるまい。

 

このほか、真田七本槍の一人で、久郡とおなじ鎮口を氏とした鎮目市左衛門惟明は、佐渡の金奉行に栄進して彼の地で終わり、子孫は石和町に現存する。これは、直接、黒川金山来とかかわりはないものとしてはずすが、とまれ、大久保長安をはじめ、武田氏の旧臣であった金山衆たちは、甲州商人的な生き方で、天才鬼才ぶりを発揮した者もいたようだ。

ことに長安については、偉大なる才能をもって、おどろくべき活動をした足跡がのこっている。

田辺氏に対する一致した家譜はないが、田辺四郎兵衛については、紀州の出ということだけは信がおけそうである。

 

下粟生野村(現塩山市)の明細帳によると

 「……この金山のことは、

黒川という所で拾ケ村入会山のうちの金山で、

始めは百一十年以前、

紀州田辺(和歌山県紀伊田辺市)

と申す所の者が掘り始めたと申し伝えます。

八十年前まで金山さがり、

それ以後稼ぎまかりならず離散仕りました……」

 

とあり、田辺氏の始祖、四郎兵衛尉が、紀州熊野から浪人して、永禄中に信玄へ仕えたという説もある(甲州文庫、甲斐国志)。

元亀二年正月、信玄は現御殿場市の深沢城に拠る北条氏繁を攻めた。このときの恩賞として出された武田印書に、はじめて四郎兵衛尉の名が出てくる(分かり易くした)。

      定

一 微分国の諸商 

ひと月に馬一匹分役など微免許のこと

一 本棟別 一軒の分はご赦免のこと

一 向後はかかえている田地については

軍役の衆とおなじく検使をやめられるべきこと

一  郷次ぎの人足および普請は禁ずべきこと

     以上

こんど深沢の城において別に奉公をしたので、

ご褒美を加えるものなり

   元亀二年二月十三日

            山県三郎兵衛 これを奉る

 田辺四郎左衛門尉

 

これと同じ内容の印書が、別の黒川金山衆のすべてに出されているのは、田辺氏も他の中村、依田、望月などと同格の黒川金山の山先師というべきもので、比較的に年代をおった古文書が残されているところから、またというほど田辺家の文書があげられているにすぎない。

      定

一 さきの御印判をもって宛てがった各条は、

これより以後はいささかも相違のない旨を

仰せいでられるも仰なり

   天正二年十二月二十三日

               釣閑斎

             市川備後守 これを奉る

 田辺四郎左衛門尉

 

釣閑斎とは、長坂長閑のことだ。天正十年四月、古府中の旧一条館にかくれていた長閑は、武田余類の追討をうけて殺された。

勝頼の奸臣として悪名高かった長閃は、愛宕山の山裾へ葬られたが、墓石はさながら馬の男根のように造られた。長閑の一物が馬陰のごとくにバカデカイ点を、甲斐同志は、

「……釣閑斎が馬陰ナルコトヲ悪言セリ。

石形ノ馬陰ニ似タルノミニ非ズ、其奴ヲ悪ミ……」

と記している。よほど巨大な器でないと、受入れ不能の逸物であったようだ。

 

このあとの印書は、直接には武田氏との間には関係はないが、一応読者の希望に従い、年代別にならべておくが、それ以前に、天正五年に、黒川金山衆の一族たる信州金山衆の風間氏に対して印書を出しているが(稿を追って記す、長尾金山)、これと同年、同文の印書が計らずも越中資料にあって、読者と県立図書館からコピーをご送付頂いた。

この武田印書が、果して黒川金山衆に出されたものか、越中金山衆そのものに宛てたものか、もうすこし北信、富山県の黄金山を歩いて来ない限り不明であるが、図書だけあげておく。

   

西砺波郡戸部町(富山県)

      定

 金山において賃金の出ない間 

一月に馬一匹分の諸役をご免許のよし

仰せいでられ候なり

               桜井右近肋

  大正五年二月十一目     

以清斎これを奉る

    黒河也金山来

 

このことわりに、文学博士、三上参次巡回報告とある下に、

「当国黒川鉱山ニ対スル武田氏ノ朱印アリ、

以テー時、其所領クリシヲ証スヘシ……」とある。

 

桜井右近肋は、同年二月十一日、

「於金山黄金無出米……以下同文」

の印書を、信州南佐久郡川上村梓山金山衆、風間一角宛てにも出している。全く同年月の同じ日であるのは、同時に書いたものである。

この二つの資料は、次の信玄にさかのぼって出された越中金山への調略の書簡によって、天下統一以前の問題として、佐渡、越中の黄金山略奪の野望と陰謀がはしなくもよく滲みでている。

これは第一回の所感についての文証としてみた。

 

 勝典寺文書(現代手紙文とする)

 

「それ以来、遠く慮外を申します。

そもそも椎名右衛門大夫康胤は越後へそむき、

本願寺の門主の高意を得ました。

これによって当方へも二心なく相通じました。

このような節でありますから、

その国を静かにしておく調略が肝要であろうと思います。

これらについて申しはなすべく

玄東斎を大阪へさしのぼらせました。

金山へは五日のうちに長延寺が

参ることになっておりますので、

よくご相談をまとめるのが大切と思います。

定めて聞いたとおりでしよう。

本庄弥太郎は輝虎に敵対しました。

常のとおりあと詰の他見を催しましためで、

出陣いたし近日には河を越えるでしょう。

このことはきっとまちがいないことです。

       恐々謹言

 永禄十一年七月十六目 信玄花押

 勝典寺机下

 

以上の書簡をみると、信玄は、本願寺十一世門主、願知見佐(天文十二年=一三四三年~文禄元年=一九五二年)と、いまだ気脈を通じ、一向一揆という根強い宗徒の力を利用していたようだ。

 

信玄の夫人三条氏は、左大臣公頼の第二女で、顕如はその妹三女の婿だから、いわば義理の兄弟に当っていることは周知のこと、すでに強大な勢力を誇っていた本願寺門徒の一向一揆は、加賀一国を支配し、家康は三河の一揆、信長は長島の一向宗徒によって、危い橋を渡りつづげていた。

信玄が本願寺門主と強い結びつきがあったことは、こ こでくどく記すまでもない。

越中には新川郡に、いくつかの金銀山があった。このうち、もっとも黄金山として古くから盛山だった金山が魚津に注ぐ角川の上流にあった。

南北朝時代には、すでにここの金山は椎名氏によって支配されていた。信玄の書簡にある椎名肥前守康胤は魚津城主で、金山の押さえには松倉城がおかれた。

康胤が、この頃信玄の調略にのり、本願寺門主の高意を得たとあるのは、上杉謙信に反した結果である。

書簡では本庄弥太郎が上杉にそむき、後詰(援軍)として出陣するが、この調略のために、玄東斎を大阪へ、長延寺は五日のうちに金山へさし越す旨の大意である。

 

ひと口にいって、椎名氏を本願寺門主の権威で丸めこんで味方にくわえ、謙信にそむかせた経過である。

椎名氏は、のち元亀三(一五七二)年には、謙信に直接攻略され、謙信の臣、河田豊前守長親が支配するが、この長親は、天正十年にはまた柴田勝家に魚津城を攻めおとされている。

そのあいだの天正五年に、前記の印書が越中の松倉金山へ出されたものかは、註にある

「……以ー時、其所領タリシヲ証スヘシ」

の点、機密に属する文言を代筆する国守の奥祐筆が、同じ日に、同じ手で書いた印書の宛先を書き違えるわけもない。黒川と黒河也とは祐筆自行が熟知していたように思われる。

さらに

「信州と越中の、山深い山中にも、武田の金山があった」

という、これまでの北信の伝承もあるが、これに対する疑問については、信州金山の稿において追及する。

 

田辺氏を、黒川金山の総代表とすることはできない。

前稿まで記したいくつかの掘り揚の開示には、それぞれに奉行としての金山京の頭領が幾人もいたものであることは、駿阿金山や下部の中山金山衆などの、勢力分野を示す印書でも明らかである。

 

徳川家康は、信長の甲州平定後、かなりの印書を発しているが、このなかに武田氏の黄金を計った「秤子」の古河彦太郎(のちの守隋信義)、「金包み」といわれた甲金座の松本氏、野中新兵衛などに至るまで、甲州金に開しては細大もらさず「安堵状」を与える印書を多く出している。

このほか、金山衆に関しては、それぞれその身分を保証するなど、旧武田氏の黄金山に対しては、予想以上の期待を抱いていた。

これらの動きについて、黒川金山に関する印書や、金掘りたちのゆくえを追いながら、まだ記していきたい。

 






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最終更新日  2022年01月26日 04時23分02秒
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