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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月27日
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カテゴリ:泉昌彦氏の部屋

甲斐の金山 金山衆動員の檄文

 

戦国時代、武田氏の黒川田辺党が青梅市柚木方面にも居たという説が多い。

青梅市二俣尾の多厚川べりに「柳ケ顔」という淵がある。

永禄六(一五六三)年三月、二俣尾の山城に龍城した三田弾正を、ハ王子の滝山城主北条氏照が攻めたとき、田辺党と三日勢がたがいに射合った矢がとどかずに矢が流れたので「矢流れ」がなまって「柳ケ瀬」になった。田辺党は、この時の軍功で青梅市日向和田を知行地に居坐ったという。

田辺党が武田氏滅亡間もない七月十八日、甲州へ侵入を計っていた北条氏直の臣、黒沢繁信からつぎの檄文を受けたものが、黒川田辺党ほかの金山衆の子孫に伝えられている。

なじ黒沢氏を名のる地侍が青梅の柚木方面にもいたが、この黒沢氏と田辺とは氏照傘下にあった間柄だ。

 

「きのうは各代官を両三人さしこさせられたことは

御忠節のいたりですので

さっそく御陣下へ申上げましたので

かならず安房守(北条氏邦)殿の御直言をもって

仰せこしますので御心やすくしていて下さい。

誠に自分としても満足にかたじけなく存じ奉ります。

よって知行のことも御朱印を相ととのへて差上げます。

このうえにおいては

一図に御忠信なされるのが当然でしょう。

なおいっそうあなたの御進退については

おとりなしいたします。

 

さて大手の味方は十二目に

海野(信州小県郡)へ御陣を進めます。

信州では真田、高坂、潮田そのほか信州の十三人の頭が

十三日に出陣つかまつりますあいだいっぺんに

御便もあかるくなりましたので

十五日ぐらいのうちには甲州へ御着馬になります。

それ以後の御陣庭はうけとどけ次第に

お申しいれいたしますからご仕度あって我々が萩原

(塩山市の旧村で大菩薩峠の麗、

あるいは北条氏の侵入径路から山梨県三富村の萩原か)

へまかりでたときには早々に御出なさるのが当然です。

安房守殿へ申し上げの儀については

我々右存分にまた御使衆に直談申しましたが、

なおもって抜き書き申しました。

なお以後の知行のかこいの御印判は

きのう大どころへ申上げましたので、

参り次第に差上げます。

御旗前にては大くつの事もこれあります。

かこいも小屋も何もいたしませぬので

おおっぴらに申上げます。

           黒沢繁信在判

 金山衆中

 

 この檄文は、甲州平定まもない天正十(一五八二)年六月のもので、本能寺の変で信長が死んだ際、武田氏の名跡を保証されていた穴山梅雪も、また宇治田原町において討たれた。

 梅雪は家康とともに、武田氏攻略の慰労ということで信長の招待をうけて大阪方面で遊覧に興じていたが、信長死すの報に驚いて急拠甲斐へもどる道すがら、不穏な道中を家康と袖をわかってまもなく土一揆に討たれ、この知らせは梅雪斎の臣、内藤右近によって甲斐へもたらされた。すでに主なき空家同然の甲斐は、まさにハチの巣を突いたような騒乱に陥ち入っていた。

 

甲斐では、東部の地侍大村一族が氏邦の檄文に応じて大野の砦(山梨市大野)に拠って反乱を起し、これを殲滅したのが梅雪斎の重臣有泉大学、穂坂常陸助などだが、このへんは省略し、信州では諏訪氏の大祝頓忠が信長の城代弓削重蔵を放逐して高島城を回して、北条氏直に帰順した。

命からがら泉州堺より浜松に逃げ帰っか家康は、四万五千という大軍を率いて信州に迫った氏直軍に対し、大須賀康高など徳川七将三千騎を当たらせた。

甲州へは北条氏堯(うじたか)、氏規(うじのり)が、御坂山頂に石塁を築いて国中を窺うという混乱期に、黒川金山衆はよく時局を見定めて、結局北条方へはつかずに家康に帰順したため、全員安奏であった。したがって天正十丁年には、家康のほか、豊臣大名の知行安堵状申請役免許などが、甲州金関係の金山衆や秤子にかなりの数が出ているが、これは後に譲って、黒川金山衆田辺家の興味ある秘話をここへはさんでおく。

 
 謎の地下壕

 

中央線塩山駅から南へ徒歩十分も下ると、黒川田辺党の本家である田辺家がある。うっ蒼とした縁に包まれている広い屋敷は、いかにも黄金で栄えた武田氏の山先師といった風格をただよわせ、足元に碁石金でも落ちているような気がする。と、まあこれは甲州金に興味のある訪問者のこと……。

 「私の祖父の代頃まで、

この屋敷内に約二十尋(三六メートル)ぐらいの

秘密の穴倉があったということですが……‥」

という当主の話しによると、この穴倉は大人がちょっと背をかがめるぐらいの高さで、幅は約一・二メートル、怖くてとても奥まで入れなかったとは、記憶していた古老の語りぐさだそうだ。

 

当主がその古老から聞いたところでは、樹齢三、四百年を経た柿の木の下にあったが、今ではまったく地下へ潜んだままだが、天文学的な試金を掘り出した黒川金山の山先師格だった田辺氏の祖先が、めまぐるしい戦乱の時代において試金を扱っていた以上は、群盗や野武士に備えて当然こうした地下の穴倉が黄金の隠し場所と考えられてくる。時に埋蔵金がお宮の天井裏から発見されるのは泥棒の隠したもので、埋蔵金は地下と相場は決まっているようなものである。

 

後述する下部金山にも謎につつまれたままの大地下壕があり、梅雪に至っては、もっとも埋蔵金があって然るべき条件つきである。

赤目のローム層は粘りが強くて、岩穴よりはるかに崩れにくい。当主も、この穴倉を探して調べたら、あるいは埋蔵金があると思うと語っているが、あれば今頃まで無事ではおかれまい。

振出しの青梅に居た田辺党は、金掘りとして三田領へ入りこんでいたものであることは、戦いが本業ではなかったからだが、筆者の田辺党の研究も、資料皆無でお手上げである。

 

なぜ三田頒に黒川田辺党が居たかだが、古来から三田氏が甲州領を長蚕食していたことは、およそ次の文献からも判じられるので、これも分かり易くすると……。

 

  






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最終更新日  2022年01月27日 15時37分48秒
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