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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月07日
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旭将軍義仲

 

下出精與氏著

 

孤児・駒王丸 義仲、木曽谷の旗揚げ

 

一一八〇年(治水四)九月七日、源義仲が木曽谷に平家討伐の旗を揚げたのは、従兄の源頼朝が伊豆に挙兵した約一か月後、義伸二十七歳の秋であった。それまで、平家はもちろん諸国の源氏においても、義仲の名を知るものはほとんどなかった。

まさに彗星のごとき出現であった。

 

義仲については、その誕生からここに至るまでの二十余年については、一、二の伝説があるだけで全くの空白期間である。

これからの三年余りは、平沼の乱に勝利を収めてから栄華を極めた平家一門を都落ちさせる主役を演じ、旭将軍として満都の人士(じんし)と公家を畏怖させるのであるが、それに比べるとあまりにも甚しい差がある。

全盛期の義仲についても一幅の肖像画どころか、多くの絵巻物などからさえ、義仲らしいものを見つけ出すことはできない。輝かしい武将としての足跡を各種の軍記物語にとどめている義仲であったことを思うと、このことも注意をひかれる点である。

ここれらについて従来は、案外簡単に見通されてきたが、義仲の人間像や歴史的評価を解く鍵はこういった点にひそんでいると思う。視点を、こうしたところに当てて考えていきたい。

 

 駒王丸

 

義仲の父帯刀先生義賢が武蔵国比企郡の大倉で討たれたのは、一一五五年(久寿二)八月である。討ったのは、十五歳の弱冠ながら悪源太の異名をとる甥の源義平であった。

義平の父義朝は、源氏の棟梁であり、その地位は父の為義から譲られたものであったが、棟梁の地位を早く長子に譲りすぎたと後悔しているとの噂が立つくらいこの父子の間はや極であった。それに反して、義朝の弟の義賢や頼賢は父と親密であった。

当時、棟梁として義朝は為義・頼賢などと共に京都にあり、鎌倉にあってその留守をまもっていたのが義平である。

義賢は、本換地の上野国多胡郡に在国していた。源氏嫡流の次男として仰がれていただけでなく、武蔵の秩父重隆に迎えられ、多くの中小武士団の信望を集めて、その勢力圏は上野から武蔵に及んでいた。これは当然、社訃を中心に武蔵にむかって勢力の拡大を図っていた義平……つまり義知側ぼ企図……と衝突するわけである。

大倉館の襲撃は、決して義賢と義平の個人的な私闘ではなかった。

:悪源大の悪は、いわゆる悪ではなく、武勇にすぐれた父の討たれたとき、義仲はまだ駒王丸という名の幼児でわずか二歳であった。義平は、源氏の家人である東国の武士に対して、駒王丸を見つけ次第に殺すべしと命じた。義賢生前の勢力を思うとき、この命令を黙殺して駒王丸をかくまう古郷があっても不思議ではない。

また、保元の乱の前年であるから、祖父の為義や、義賢と兄弟でありながら父子の約をするほど親密であった叔父の頼賢が、まだ都にあって健在のときであるから、なおさら亡父に代わって駒王丸を養育する豪族の、二が東国で現われてもよさそうである。

しかし事実は、そうした武士は一人もなかった。それもみな、この争いが単なる私闘でなく、その背後に、源氏の棟梁の地位を維持する意味があったればこそである。源氏の家人である限り、東国の武士たちは、棟梁の命を守る義務があった。

駒王丸の母は、遊女であったといわれている。母やその一族に二歳の幼児を守りとおす力は全く期待できない。義仲の生命は、まさに風前の燈であった。

畠山庄司重能は、義平の命で駒王丸を捕えはしたものの、どうにもわが手で殺すに忍びず、折よく都から勤務を終えて帰ってきた斎藤別当実盛に、これを託したという。

実盛も困り、東国を離れて信濃へ入りヽ木曽谷の生業中原兼遠に保護を頼んだ。兼遠は、義仲の乳母の夫であった。

ここに駒王丸は、成人するまでの二十数年間を木曽の山中にかくれ住むことになるのである。

 東国の豪族さえできなかったことを、信州の小豪族にすぎない中原兼遠がなぜ引き受けたのであろうか。もちろん兼遠には、妻の乳で育った幼児の悲運を憐む心や、東国武士に対する信州武士の意地、あるいは、実盛の期待に応えようとの侍心もあったであろう。

だが、それにもまして兼遠にとって駒王丸は、父を討たれた単なる哀れな二歳の孤児ではなかった。

 信州にも武士は沢山おり、その中には源氏に心を寄せるものもいたが、まだ義朝一家の勢力圏内にははいっていなかった。だから、ここで駒王丸をかくまうことは、坂東武士の場合のように家の不沈をかけねばならないほどの問題にはならない。

そしてまたここでは、信州武士を統轄するような棟梁もおらず、それぞれ一家一族を中心にした小武士団が、互いに所領の争奪に溺列としている状況であった。したがって、まだ弱肉強食の無政府状態に近かった信州では、彼らを大きく統率して、坂東のようにその所領を他からの侵略から確実に保護してくれる実力者を必要とした。そうした統率者には、高貴の出身と輝かしい武勲をもつ源氏や平家の直系につらなる者という資格が、絶対に必要な条件であった。

駒王丸は、武士の社会では、最も由緒正しいとされている源氏の八幡大郎義家の直系である。いかなる犠牲を払っても、成人の日まで養育するに値するもの、地方の武士の抱く夢を大きく育てあげてくれる貴重な孤児であったのである。

 駒王丸は元服して木曽義仲と名乗る。かくて義仲は、平家全盛時代を通じて木曽谷に身をひそめ、中原一族の献身のもとに武将としての修練に励んだのであった。

 

旭将軍義仲 城氏撃滅

 

 九月に兵を挙げた義仲は、またたくまに木曽谷を制圧して信州一帯に威をを張り、一〇月には早くも亡父の旧領であった北関東の上野に進出した。しかし、頼朝の勢威が東国をおおうと、これと競い合うことを避けて年末には再び信州に帰った。

つまり、南関東から東海の駿河にかけては、すでに頼朝の勢力圏にはいっている。だから、源氏の同士討ちを避けて平家打倒の旗を進めようとすれば、義仲は、好むと否とにかかわらず京都への道は北陸道にとらざるを得ない。まず、隣国の越後である。

 北陸道に属する越前・加賀・能登・越中には多くの中小武士団が散在していた。彼らの多くは、平安中期の鎮守府将軍として豪勇の名を関東にとどろかした藤原和仁の子孫と称していたが、同族意識で結ばれていたのではなく、ばらばらの孤立的な存在であった。こ

れに対して越後には城氏という大豪族がいて、ほとんどの群小武士団を支配下におき、越後二国にわたる武士の棟梁的地位を占めていた。しかも城氏は余五(よご)将軍とうたわれた平惟茂(これもち)の子孫であり、平家の一族に属する。当時における北陸の平家勢力の代表であった。

 一一八一年(養和一)六月、城助茂(長茂・永用)は万余の兵を率いて信濃に侵入、善光寺平を越えて千曲川のほとり横田河原まで進出した。迎え撃つ義仲はまだ三千金騎の劣勢であったが、その奇襲作戦の成功で大勝を博した。大敗した城氏の権威はたちまち失墜

し、越後を捨てて会津へ落ちていった。かくて義仲の勢力は越後までのび、上洛への糸口ができた。

 彼らのなかでは一頭地を抜いた大武士団である城氏が、義仲によってもろくも潰滅させられたとの報は、越後以西の北陸武士に決定的な影響を与えた。越中・加賀・能登・越前の群小武士団は、次々と義仲の陣営に加わっていったのである。

 

  義仲 北陸快進撃       

 

束国の頼朝以外に、北陸にも義仲の如く大敵が出現したことは、平家にとっては予想もしなかったことであった。越前は束国よりも都に近い。そこまでが義仲に味方したことは、平家の心胆を寒からしめた。まず義仲を倒して治承四年以来の敗勢を一挙に挽回しようと、平家は前年から準備をすすめ、勢力圏の根こそぎ動員を行なって、十万余の大軍を平惟盛・通盛らに率いさせて京都を発った。

一一八三年(寿永二)四月である。

難なく越前の国境を突破した平軍は、敵が加・越・能の武士だけだったので五月初めには加賀まで占領、先鋒の一隊は越中平野まで進出し、本隊の大軍は加賀と越中国境、砺波山の倶利伽羅峠に陣どった。

 ところで義仲であるが、棟梁は唯一人でそれ以外は源氏一門でも家人であるべきだとする頼朝と、一門から強い大将が多く出て共存するのをよしとする義仲とは、旗揚げ以来とかく意志の疎通を欠いて不和であった。それがこの三月の来に、義仲の長子義高を頼朝の

長女大姫の婿として鎌倉へ送ることを条件に、ようやく和解が成立した。それで、義仲軍と平軍が接触したのは越中平野が最初である。たちまち平家の先鋒を追い散らして、義仲軍は惧利伽羅の麓に進出した。

 決戦は翌朝からと寝静まった五月一〇日夜半、義仲は得意の奇襲作戦に出て、切り立った深い地獄谷を除いた三方から夜襲をかけた。あわれ平家は総崩れとなり、続く安宅・篠原の戦いと完膚なきまでに撃破され、都に逃げ帰ったものはわずかであった。

義仲は、六月初めには越前に進み、外交交渉で延暦寺を味方につけ、七月には本営を鉄山において京都を瞰下にするところまで迫った。

 この悲境に直面した平家は、七月二五日、ついに安徳天皇を奉じ、一門あげて西海さして都落ちする。

 二八日、義仲は、以仁王の令旨をもたらした叔父行家とともに念願の入京を果たすのである。

 

  旭将軍

平治の乱以来、二十数年ぶりに源氏の白旗は都にひるがえった。直ちに義仲は、大河法皇から京都守護を命ぜられ、従五位下左馬頭兼越後守に任ぜられた。これは、没落前の源氏の棟梁源義朝と同官位である。義仲の得意は想像に余りある。

 しかし、帶京一、二か月で、政治性の貧弱さや部下の洛中核籍などによって、義仲と公家の間は円滑でなくなる。また、西海から盛り返してきた平家との戦いでも思うようにならなかった。

法皇は、義仲を退けて鎌倉の頼朝に期待する態度を次第に露骨にしてきた。 

形勢の非を覚(さと)った義仲はついに実力行動に出てクーデタ家没官領(もっかんりょう)五百余が所中の百四十余か所、前摂政藤原基通の所領八十六か所をみずから管領する、の挙に出た。

晩年の平清盛の行なった以上の大権力を発揮したのである。次いで頼朝追討の院宣を強要して、頼朝に対して官軍の立場を手中にし、一一八四年(元暦一)正月早々一挙に従四位下に進んで、

武門最高の栄官である征夷大将軍に任ぜられた。旭将軍の名は、これより起こるのである。

 

しかし義仲がこの栄誉に輝いたのもわずか数日、頼朝の代官として派遣された弟範頼・義経の率いる軍勢は瀬田・宇治川の二方面から京都に進入した。一日の戦いで義仲は破れ、北陸を目ざして近江まで落ちていったが、ついに琵琶湖畔の粟津の露と消えた。時に三

十一歳、鎌倉にいた長子の義高(十二歳)も頼朝の手で殺された。

 

大夫房覚明・唯一の文官  

 

旗揚げから滅亡までわずか三年余にすぎないが、この間、義仲を支えた桂は兼光・兼平など中原一族の乳母子(めのとご)であるが、いま一つ大夫房寛明の存在を見逃してはならない。

頼朝にはかなりの文官の政治顧問がいたがヽ義仲には寛明がただひとりの文官であった。

 寛明はもとの名を蔵人道広といい、勧学院の学生であった。のち奈良の興福寺の学僧として名を知られるようになったが、平清盛の怒りに触れることかあり奈良を逃れて東国へ落ち、木曽義仲の祐筆として仕えるようになった。学僧時代は最乗救といっていたのを、以後は、大尽覚明と名乗ることになった。

なぜ義仲に仕えるようになったかの事情は不詳であるが、彼の一族が信濃の豪族海野(うんの)氏であるといわれているから、おそらくその関りからであろう。なお海野氏は、義仲の旗揚げ当時からその陣営に属していた。

 

頼朝には、伊豆山権記や箱根権現あるいは鶴岡八幡宮の勧請など、神仏の崇敬に関する事績が多い。これは頼朝自身の信仰心が厚かったためでもあるが、東国の武士たちには、頼朝は天下の主なればこそこうした大壮大寺を崇敬できるのだとの、頼朝に対する強い畏敬の念を植えつけていった。

これに対して義仲には、木曽谷時代はもちろんのこと、信濃から上野・越後にかけて勢力を拡大している期間も、戦いのことだけで

あって神仏崇敬の事績はほとんどない。

諏訪・戸隠・穂高・弥彦の大明神や善光寺などの大寺があるにかかわらずである。それが、越中から越前にかけての北陸一帯に進出してくるころになると、突然のように埴生八幡や白山権現などの諸社寺に、所領などを奉納して崇敬の誠を捧げる事象があらわれてくる。これが、北陸の武士たちに与えた影響は実に大きいものがあった。彼らは、現実的利害だけでなく、精神的にも強く義仲に結びついてくるのである。

 

 それから半年後、苦境に陥った義仲から離反する武士が続出した。しかし北陸武士の多くは最後まで離れず、ほとんどが義仲と運命をともにしている。傘下の家人でなかった彼らがこのような行動に出ている背後には、上記の事情が介在していたのである。

 義仲のこうした態度の変化、それは寺社に捧げた願文の筆者がすべて寛明であることでわかるように、彼の献策にもとづくものであったことは疑う余地がない。

記録には寛明を義仲の手書きとか祐筆としているが、彼は単なる書記であったのではないのである。

 

 

  水島の戦い

 

一門あげて都落ちした平家は西海を九州に走った。一先ず大宰府入ったものの豊後の豪族緒方惟義に襲われ、九州を去って四国に渡った。以後二か月はどの間に、讃岐の八島を経て四国に渡った。八島と長門の彦島を根拠地として瀬戸内海の制海権を握ることに成功する。天下は鎌倉の頼朝と都の義仲に西海の平家で三分される形勢になったのである。

 都の政情と鎌倉の動きに不安を覚えながらも、度重なる法皇の命で義仲が馬を西に進めたのは九月、一〇月にようやく中国路に達し、四国の平家を討つ拠点として備中の水島を確保するため、腹心の矢田義清や海野幸広を将に大部隊を派遣した。

閏十月一日、重衡・通盛らの平軍との間に戦い始まった。しかしこの水島の戦いは木曽軍に不慣れ海戦が中心であり、矢田・海野ら討死という大敗北を喫した。義仲の経験した初めての敗戦であったのである。

 

  山門(延暦寺)工作

 

義仲の上洛に最も不気味な存在であったのは、京都への入ロの喉首を押える絶好の位置を占めた比叡山延暦寺であった。

山門と呼ばれた延暦寺は、平安初期から朝野の尊崇の的であった大寺院であるだけでなく、数千の僧兵を擁する大軍団でもあった。しかも平家とは不和ではない。これと戦ってたとえ勝っても、南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた平家と同じ非難を受けることは確実である。

山門が味方しないまでも中立を保ち、入京への道を開かせることが最も肝要なのであるが、こうした高等政策は義仲や側近の武将にはとても不可能であった。

このとき、遺憾なく能力を発揮したのが寛明である。

 寛明はまず、平家の無道を鳴らし義仲の軍が大義名分にもとづくか所以力説し、源氏と平家のいずれを選ぶかと迫った見事な牒状(ちょうじょう)を草して山門につきつけた。

山門のような僧兵を擁する大寺院は、当時は、一山の大事は上層部だけで決めずに広く詮議と称する大衆討議にかけるのが普通であったようだが、そうした事情は寛明は熟知している。大衆討議ともなれば、リードの如何によって結論は思いがけない方向に行くこと

がある。

寛明は、旧知を頼っていろいろの工作をしたらしい。かなりの曲折をかて、山門は源氏に同心と決定、義仲の前に入京への大道が広々と開かれた。寛明の山門工作は大成功を収めたのである。

平家一門の都落ちの直接のきっかけになったのは、この延暦寺の源氏同心であった。

 しかし、義仲の政治工作で成功をみたのは、後にも先にもただこの一回だけである。

入京後の義仲には、そのもつ武力以上に政治九松を発揮することが必要になる。優れた政治感覚で事を処理していかなければ、苦心して手に入れた軍事的成功も全く意味のないものに終わってしまう事態に、しばしば遭遇する。

だが、義仲の側近にもはや寛明の姿を認めることはできない。

なぜ寛明か義仲のもとを去ったのかは、明らかでないがヽ入京後の義仲がヽみじめな政治的七珍を重ねていったことと、覚明以外にはほとんど政治的感覚にすぐれたもののなかったこととに、密接な関係のあったことだけは確かである。






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最終更新日  2022年03月07日 14時34分39秒
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