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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月10日
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小笠原島発見説の顛末

 

 牧野寛氏著

『歴史と旅』特集 徳川十五代の経営学

昭和59年12月号

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

小笠原の無人の島々に

最初に足を踏み入れたのは貞頼だったのか?

 

小笠原貞頼発見説の真偽

 

旅行ブームというので、書店をのぞいてみると、観光案内書が目白押しである。そのなかに小笠原(諸)島に関係したものも少なく

ないので、いくつか手にとってみると、この島の歴史に触れた個所が目にとまった。例えば『伊豆七島 小笠原』(実業之日本社)に

は、つぎダのような記述がある。

 一五九三年(文禄二年)……小笠原貞頼が南海を探検渡航し、無人島を発見。上陸して日本国領土の標柱を立てた。

 一八六一年(文久元年)……徳川幕府が小 笠原開拓をもくろみ、九十余名の調査隊を乗せた臨界丸が父島二見港に入港。在住外国人に日本領であることを伝えた。

 この案内書には父島の略図がイラストで紹介されているが、そこには小笠原貞頼神社跡を載せ、同神社の説明として「小笠原の発見

者、小笠原貞頼を祀ってある」と記す。

 貞頼神社といえば、さらに詳しく紹介しているのが『写真帳 小笠原-発見から戦前まで』(倉田洋二編、アボック社出版局)であ

る。ここには戦時中に焼失するま々あった小笠原貞頼神社の写真が掲載されており、当初は扇村大滝で祀られていたが、明治三十二年

に扇浦の納涼(すずみ)ふもとに建立し、地元民に「貞頼さん」と呼ばれて親しまれていたという。

焼失後、再建されないままで、いまは「小笠原神社旧跡地」と刻まれた石碑だけが建てられている。

 ここで面白いのは、編者の倉田洋二氏が、大槻文彦『小笠原新島誌』にでてくる「小笠原島発見物語」を紹介したあと、

『後世、貞頼の存在をめぐって百家争鳴しているが、伝承でもよい、海国日本にふさわしい伝承として私はこの物語を信じたい』

と書き加えていることである。

 

 当初発見説を肯定していた『広辞苑』(岩波書店)も「小笠原諸島」の項で「一五九三年小笠原貞頼が発見」(第二版)と明記して

いたが、現在は「小笠原貞頼の発見といわれ」(第三版)と一歩後退している。また歴史学会編『新版 日本史年表』(岩波書店)では、旧版にあった「この年、小笠原島発見される」の一項を削消し、全く触れていない。どうやら小笠原島の貞頼による発見説は、しだいに疑問視されるようになってきた

といえよう。

 小笠原島が貞頼により発見されたとの説が文献のうえで問題にされたのは、山方石之助が『小笠原島志』(明治三十九年刊)で、小笠原島発見説の初見とされる著者不明の『巽無人島記』(享保ころの写本)の記録を七つの理由で偽書としたことである。

とくに享保年間(一七一六~二五)に表面化し、のちに『古事類苑』 (明治二十九年~大正三年刊)にも登場する小笠原宮内貞任事件に結びつけて、発見説を伝承ときめつけている。

 

小笠原貞頼の周辺

 

 さて、著者不明の『巽無人島記』の内容であるが、これによると、信州深志城主小笠原長時の孫信濃守長元と、その弟民部少輔貞頼

は、武田信玄に逐われて上州に住み、家康のもとで手柄をたてたが、貞頼は家康の周旋で秀吉から摂州三田五万石を与えられた。

文縁二年、朝鮮出兵には軍検使を勤め、帰陣のさい肥前名護屋で家康から、功にむくい、家臣の禄の不足を補うため南海の島国を見つけたら領知してよいとの証文を受け、伊豆八丈島の南の三つの島国を巡見して帰り、家康にこれを知らせ、秀吉からも領知の証文を受け、小笠原島と呼ぶよう、家康の上意を受けたという。

 

島の二ヵ所に木標を建て、それぞれ

 

「日本国天照皇太神宮地島長源家康幕下

小笠原四位少将民部大輔源貞頼朝臣」

「日本国天照皇太神宮地島長豊葦原将軍幕下

小笠原民部少輔源貞頼朝臣」

 

と記し、その後、寛永年間(一二四~四三)までしばしば渡航したというのである。

 ところで、この『巽無人島記』では深志城主小笠原長時の孫となっていたものが、前掲『コンサイス人名辞典』のなかで「信濃国深志城主」と肩書きつきで説明するなどの歴史書や観光案内書が少なくない。

 食うか食われるかの戦国時代に、城主が、のんびりと渡航することなどできるはずがないし、当時の深志城主は全く別人だったので

ある。

 中嶋次太郎『徳川家臣団の研究』『小笠原氏の虚像と実像』や金井圓『近世大名領の研究―信州松本藩を中心として』、それに『松

小笠原島発見説の顛末本市史』を参考にヽした系図は次のようにな

 

  長時……長隆……長元(長頼)

        ……女 茶屋四郎次郎清延の妻

        ……貞頼……長直……長啓……貞

  ……貞次

    ……女

    ……女

    ……定慶……秀政……忠真……後、小倉城主

     (深志城主)

 

 掲の金井氏の著書から貞頼にかかれる記述を紹介してみたい。

元来小笠原氏の宗家および支流には多くの系図の伝承があって、たとえば『寛敬重修諸家譜』の編者も取捨に慎重を期しているが、『笠系大成』その他ふつうの小笠原系図には載らないものに「小笠原民部系図」(『諸家系図纂』六百六十二)がある。

これには、長時の子に長頼(民部大輔)、長隆(左馬助)、女子二人、貞慶の五子があり、長頼の子に長元(信濃守)、長元の子に貞頼(民部大輔)があったとある。長隆ではなく長頼が越中で戦死したとし、貞頼は浪人していて、文禄二年に小笠原島を発見したという。

別に「長啓系図」があって、長頼-長元丿貞頼と承け、貞頼の子に、服部左京と長直(信濃守、兵庫助)があり、長直に二子あり、長子を長啓とし、その子を貞任(宮内)とする。

されここで、前掲の中嶋氏の著書に紹介されている茶屋家『由緒。

書』で、小笠原島発見とされる文禄二年における貞頼は、どんな状況にあったのだろうか。

これには

「文禄二年、韓嶋乱入攻めとり候御証文、

家康公様よりなし下され所持仕り候事」

 

とあるだけで、小笠原島に触れた記述は全く見当たらない。この『由緒書』は、貞頼の孫の長啓の著述だとされ(前掲中嶋氏の著書による)、この段階では小笠原島発見説が生まれていなかったことになる。

 しかも貞頼は、慶長五年(一六〇〇)になって

「石田治郎少輔、

逆心のみぎり御忠節申上げ候について、

小笠原民部少輔同左衛門佐ニなし下さる可くの

由御内意承はり、有難き仕合奉存候処、

不仕合にて民部相果申候」

 

と、平凡な最期となっている。貞頼なる武将は、当時としてはどこにでもいる平凡な人物だったわけである。長啓の子の貞任の時代になって『古事類苑』や『翁草』で紹介される『芦無人裔記』が登場し、いわゆる小笠原宮内貞任事件がもちあがる。

 

  『巽無人島記』の著者は貞任?

 

 まず、元禄十年(一六九七)に長啓が、当時八十一歳の河村瑞賢に「無人島の小笠原島に大移民を送る構想」(官本又次『大阪人物

誌』)をたてて援助を申し込んだが、瑞賢病死で計画挫折。

つぎに貞任が享保十二年に大岡越前守を通じて探検を許された。しかし、貞任の出身、経歴を疑う流説があっで、小倉小笠原家と町奉行所で糾問があり、貞任は深志城主小笠原家とは無関係ということで重追放になった。享保二十年十月のことである。

これが貞任事件である。前掲の金井氏の著書には次のような記述がある。

 貞任は(中略)享保十二年に、自分の家来筋の者に幕府に出願した(『無人島之記』)。当初老中に直接出願したところ、町奉行を通じて提出せよと差戻されたため、南町奉行大岡越前守役宅に出願して、翌十三年許可され、五年後の十八年に至って甥の民部長晁

に大坂から出帆させたが、そのまま消息を絶ったという(『翁草』)。再起を期して貞任は尽力したが、当時貞任の出自・経歴を疑う者があり、その正否を宗家たる小倉小笠原家および町奉行所で糾したところ、貞任一家は信州深志城主小笠原家とは関係がないことが判明し、享保二十年十月、貞任は重追放となった。貞頼の功績を綴った

『巽無人島記』はこの当時の成立にかかり、内容は小笠原島発見伝説と、 貞任家の経歴とを故意に付会した仮構である、とされる(山方石之助『小笠原高志』)。

なぜ責任が小笠原案と無関係とされたのか。深志城主長時が長子の良隆をさしおいて妾腹の三男貞慶が幼時から鋭敏(『松本市史』による)で、後継ぎにしたという事情がある。

 『巽無人島記』を書いたか。確証はないが、私は貞任ではないかとみている。

 当時の社会情況は、第一に享保年間が著者不明の写本を出しやすかったこと。当時の禁令をみても、先祖伝来記を無署名で出版して

はならないとしているが、宇野脩平氏の研究では六千四百種類も出版されていたという。

第二は耕地開発が奨励されていたこと。

第三は延宝三年(一六七五)に末次平蔵が小笠原島を調査しでいること。

第四は源為朝の八丈島発見にちなんだ命名とされているが、むし

ろ内容は小泉友賢『因幡民談』(延宝年間刊)。にでてくる亀井茲矩(これのり)が秀吉から琉球国を領知してよいと許された故事に似ている。

第五は納屋助左衛門がルソンから文禄二年に貴重品を持ち帰り秀吉を喜ばせた逸話が有名だが、『巽叔人為記』が助左衛門の逸話と同じ年をえらんだのは偶然の一致だろうか。

「関ケ原の役や、大坂の陣の落人浪人が、海外に出て商人に転向する者が少なくなかった。その後段々大名の改易があって、多数の浪人が出て、浪人問題は、当時の重大な社会問題となったが、このような浪人の中には、南洋に進出する者もあった」(岩生成一『朱

印船と日本町』)ことからも、浪人たちのロマンでもありえたのである。

貞任はもちろん、父の長啓も「浪人」(宮本又次『大阪人物誌』)をしており、南洋へのロマンをふくらませ、そして挫折した人物だった。

 なお、ここで付記しておきたいのは、小笠原島発見説が肯定と疑義の共存で今日に至った理由である。これについては前掲の金井氏

の著書に

「開国食後、すでに外国人雑居の状態にあり、林子平・高野長英・渡辺崋山らの訴えが現実化しつつあるのを認識した幕府が、文久元年、小笠原島巡撫に当たったころには『信州深志之城主小笠原民部大輔貞頼』の無人島初探検の伝えは、同島の日本所其の証拠として活用されるに至った(『林大学頭昇書上』、水野忠徳『南島要覧』)」とあることからも、なるほどとうなずけよう。






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最終更新日  2022年03月10日 07時39分51秒
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