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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月28日
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日本国内旅行の考察(仮題)

初版第1刷発行 1979年7月15日
  訳者 斎藤 信 さいとう まこと

  東洋文庫87
  発行者 下中邦彦
  株式会社 平凡 
  株式会社平凡社
  
 斎藤 信氏略歴
  明治44年東京都生まれ。
  東京大学文学部独文科卒(昭12)
  名古屋市立大学名誉教授。
  現職(著 当時) 
  名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。
  専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。
  主著『Deutsch fUr Studenten』。
  主論文「稲村三伯研究」など。

  一部加筆 山梨県歴史文学館

使節の一行が出島に別れをつげるに先だって、日本国内を旅行する種々な方法や道路・橋梁・宿舎・接待・旅行道具・格式の表示などに関する二、三の一般的な考察をあらかじめ述べておくことが必要だと思う。旅行を続けてゆく間にたびたび触れるこれらの事柄を読者諸君にお知らせするためである。
 
おそらくアジアのどんな国においても、旅行ということが、日本におけるほどこんなに一般化している国はない。
自分の領地から江戸へ行き来する大名の絶え間ない行列・活発な国内商業・その貨物の集散地、大坂にはこの国のあらゆる地方から売手や買手が殺到するし、また巡礼旅行も非常に盛んである。

 〔参勤交代〕

これらすべてがこの孤立した島国の多忙な生活の原因となっている。あたかも平常の静けさと孤独をそれで埋めあわせようとしているかのようである。しかも諸大名が一年の半分を江戸で、残りの半分を各自の領地で暮らすように義務づけているあの政策的な制度〔参勤交代〕ほど、日本での旅行をしやすくするのに役立っているものはおそらくあるまい。彼らの江戸への到着、最初の登城ならびに帰国の挨拶、帰還の旅立ちさえ各大名に対してたいへんきびしく
決められていて、それらは国の年中行事衷の中でひとつの特別な条項になっているほどである。従っていまや旅行者に安全と快適な気分を与えるすべてのこうした制度が成り立つわけであるが、こういう制度をわれわれが他のアジアの諸国で捜し求めようとしても、おそらくは徒労に終わるであろう。
 
大名行列

大名行列に関しては、我々は旅行中にいくつかを子細に見知る機会があるであろう。我々の行列が一般に大名のものと似ているのは、われわれの使節も大名と同様の身分の表示と特権をうけているからである。
ただ彼らがその表示や特権を行使するやり方が変わっているのである。彼らは一度できあがると、古くなっても習慣を廃止したがらないし、大衆にはその値打ちがわからないヨーロッパ的なやり方よりも、一般に知れわたった身分の表示の方が、国民の間ではいっそう多くの名誉をもたせるだろう、と思いこんでいるのだから致し方ない。
われわれの行列には大名たる格式の標示……槍・弓矢・小銃・
鎧櫃・陣笠・高価な鞍と布地をつけた代馬が握りのついた籐の杖、贅沢な刺繍をしたふたつの上履き・文机・それに茶道具やその他二、三の旅行用具を加えて、おごそかに後に続かせる。
しかしこれがヨーロッパの一国の使節にとってふさわしいものであるかどうか。それについては読者自身で判断していただきたい。

駕龍と駕龍舁(か)き

駕龍と駕龍舁(か)きはわが国の御者と馬と同じ役割を日本では演じている。地形が他のどんな乗物の使用にも不向きなので、御者と馬の代りをするわけである。
ただあまり多くない平坦な地域だけで荷物を運ぶのに無格好な車を利用しているが、そのほかではすべての荷物は人や牛馬に負わせて運ばせる。
駕寵にはいくつかの種類があり、階級や身分によって区別がある。いちばん上にいわゆる「乗物」がある。わが方の儀式用の馬車に当たるもので、貴族・役人・僧侶・医師・貴婦人だけが古いしきたり
によってそれを使うことが許されている。こういう貴族用の駕龍の図は「さし絵三」にある。駕龍は編み細工と漆塗りの木部からできている運ぶことのできる小さい四角形の家である。漆塗りの木製の屋根がついていて、屋根の上に多少弓なりに曲がった長い担ぎ棒が金其の留金でとめられてついている。屋根が上へあけられるようになっている左側に引き戸があり、その引き戸にもまた向い側にも窓があって、紙か絹布を張った枠がはめこまれ、外から上品に作られた竹の簾をたらして扱うことができるようになっている。時には同じような窓が前方につけてあることもある。こういう箱の中の平らな床の上に、蒲団とかゴザとかまたは熊か虎の毛皮を敷いて旅行者は坐っているのだが、日本人は若い時からあぐらをかくことに慣れているので、いたって快適なのである。われわれのうちでも比較的小さい人ならば、足を伸ばすだけの充分の広さがあるから、それで辛抱できるのだが、大きい部類の者にとっては伸ばしている足を背中と直角にした体位で、幾日も背をのばして坐っていなければならないのであるから、こういう駕箭は本当に拷間合のようなものである。  
内部には我々の方の旅行用の馬車のように種々便利なものがとりつけてあるが、それらの中には喫煙具や食物入れの小箱がある。このふたつは日本人の習慣からいって欠くことのできぬ必需品である。
日本人が駕龍をかつぐ方法は旅行者の安全ということを考えて十分計算されているようである。というのは駕龍の持ち上げ方は地面からほんの少し離れているだけだから、駕龍昇が滑ったり転んだりしてもめったに危険は起こりそうもない。ひとつの「乗物」にはふたりの担い手が必要であるが、その員数は状況次第で八名までふやすことができる。揺れ方が快適かどうかは、乗用馬の場合と同様で、担い手の歩き方によるのである。
九州の沿道では不器用な百姓が、荒い駄馬に乗っている時のように我々をゆすった。だから我々は動揺と衝撃のために陸上で船酔心地であった。
しかるに京都から江戸に至る街道では、熟練した駕龍舁きがわれわれを揺らさずに静々と運んだので、我々は駕寵の中で読み書きもでき、眠ることもできた。
諸侯のお屋敷では乗物、とくに婦人用のものが立派に作られている。竹の見事な編み細工と木部は黒漆に金蒔絵を施したものそ、銀や金張りの金具の飾りがついている。そして担い手の人数は、実際に乗物をかつぐか交替に備えて側を歩くかは別として、階級を示すのである。
 同じようなやり方で作られ、ただ少々小さくてそれほど高価でない次の階級の駕龍はいわゆる権門駕龍で、武士や役人が用いる。肩棒の長さとそ方の大小は彼らの身分をみわける目印としてこの駕寵にはふたりの、まれには四人の駕龍る。
 駕龍は編み物細工と軽い木で作られた運ぶ椅子で、宿駕龍の龍で竹や抑やその他の曲がりやすい木で編まれ、取手がついていて簡単
な円い担い棒が通してある。旅行者は秤皿の中にいるように、そのなかに坐るが、おおう物もなく快適でもなし、雨風にもさらされたままである。
 
   長持 ながもち

かなり大きな旅行用のトランク……長持というなまえは長い入れ物ということであるは長方形で、木製のまれには編み細われる。一般にはその中に贈物を、とくに花嫁道具をいれることが多い。
 ひとりの担ぎ手が二個ずつ一本の棒につけて肩に担いで運ぶ長方形の、割合に小さい荷物入れを両掛という。つまり「ふたつ掛かっているもの」のことである。編龍細工と軽い木からできていて漆塗りになっている。入念に作られ、漆仕上げで金具のついているのは挟箱で、ただ一個を一本の棒につけて高位・高官の人々の前か後ろで担がれる。我々は旅行中こういうものを持って行かないが、将軍とか長崎奉行を儀礼的に訪問する場合には使用する。上述の旅行カバンの類には運搬中要注意の品物をいれるのが普通で、乱暴な取扱いにたえるほかの荷物は、竹か柳の行李に入れ、筥か油紙か渋紙で包み牛馬の背にのせるので、駄荷という。すなわち駄獣にのせる荷のことである。また油紙や藁で作った雨外套・提灯その他軽い旅行具をしまうには、上に述べた油紙をかぶせた竹行李を持って行
く。これが雨具入れで合羽寵(Kappa kago)といい、おおいがあってその上に普通は藁帽子をつけておき、雨傘や日傘に用いる。
 
身分の高い日本人は特別な道具を旅行に携えて行く。一本の担い棒にしっかりとつけたふたつの小箱からできていて、好きな茶をたてるのに使う。茶弁当といって、その簡素な点と目的にかなっている点でわれわれの注意をひく。すでにケンプファーはこれについてたいへん詳しい記述をわれわれに示してくれた。
茶弁当を使うことは貴族の特権である。その意味において前述の箱類とともに使節の行列の中で人目をひくのである。

医者の駕龍にはもっと有用な品……旅行用の薬箱が付き添っている。
そのほか人々が荷物として特ってゆくものは、かなり大型の長い荷物で、長持の形に荷づくりされ長袴と同様人足が運ぶか、あるいは駄荷として牛馬に積むかである。ただふたつの駄荷が積まれている馬の上に普通ならば床や座蒲団や敷物をしき、旅行者はクッションやマットの上にかけるのと同じようにその上に腰かけ、馬を御すことには無頓着で、その方は手綱をとる馬方に任せる。こういう用途に向くよう用意した馬を空尻と云う。背に何も乗っていないとい
う意味である。我々の召使はたいていこういう馬を使って供をしている。ところで一般に、商売人は荷物といっしょにこういう馬に乗って旅行するのが普通である。
馬で旅行するもうひとつの特別な方法はたいへん風変りだからふれておきたい。
一頭の馬に、我々の国の驢馬(ろば)のようにふたつの籠をつけ、その各々の籠にひとりずつ乗り、三番目の人は鞍にまたがり馬を御すのである。このような旅行仲間を三宝荒神という。こうやって巡礼旅行するのはたいてい田舎の人たちである。

 牛馬は活発な国内商業のための輸送力不足に利用される唯一の駄獣である。主要な街道では荷物の運搬には雄の牛馬を使うが、農業の方面、ことに耕作とか木材や穀物の運搬には雌の牛馬を用いる。荷鞍は数本の小割で結ばれたふたつの鞍の前輪から成っている。雄牛用の鞍枠はカシ(樫)やナラ(楢)材の粗造りである。しかも馬匹用のは赤くぬられ、真鐘の鋲が打ってある。こういう鞍は毛を詰めた二枚のゴザ蒲団の上に置かれ、馬の場合には胸帯・腹帯・鞦(しりがい)で、牛にあっては腹帯・胸帯・尻帯の役をする藁縄で固定されている。けれども結び方はたいへんゆるいので、置いた鞍は皮紐や綱でとめられているのではなくて、むしろ積荷のバランスとか牛馬の変化のない歩き方によって安定を保っている。こういう仕方だと摩擦も少なく、牛馬が窮屈に感じないで歩くことは確かである。
馬には端綱(はづな)と勒(くつわ)があり、牛は藁縄を何回も首の回りに巻き、ひとつの輪を鼻に通すが、
その輪は頬の両側を通っている綱で首輪と結ばれている。葛(クズ)の蔓で編まれた鼻輪には端綱がしっかりと結びつけてある。さらに馬具にはわが国の馬車馬の場合と同じく小さい鈴やガチャガチャ鳴る金属の板をさげ、積荷は鞍の小割に通っている綱でしっかりとくくられている。馬方はひと引きですべての積荷がはずれるようにたいへん上手に結んでいるが、これは荷をつけた馬が倒れかけた場合には利点があるかもしれない。

蹄鉄は日本では使用されていない。牛馬の蹄には稲藁で作った靴をはかせるが、街道沿いの至るところで旅行借用の同じような藁靴といっしょに買えるように吊るしてある。しばしば細い道だけがまた段段さえもが山を越えて通じている日本の地形のようなところでは、蹄をおおうことは不適当ではない。
それで滑る心配もなく荷物を背負った牛馬は非常にけわしい高所へ登るのである。牛馬は同時にとがった石の上で蹄を保護する。馬方や牛方は勧や鼻輪をもち、声をかけて牛馬を御すのだが、歩かせるために打ったりすることはめったにない。
 運搬入については我々はすでに何カ所かで述べたし、荷を担ぐ者と駕龍舁きのあることを承知した。彼らの鍛練と忍耐と敏捷さには驚くが、反面かれらが節制を重んずるのは賞賛に値する。荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子がえらばれる。しかし駕龍を担ぐには相当の訓練がいる。荷物の担ぎ手が宿場ごとに交代するのに、駕龍昇は数日にわたって、10~15里(約40~60キロ)歩かねばならないから、軽やかな歩き方と豪壮な胸板が必要である。彼らは平坦な道を普通で一分間百歩のせまく規則正しい歩幅で足早にあるく。普通の荷担ぎ人足はみすぼらしいものを身にまとい、両足にはたいてい藁靴をはき、綿布とか藁または木の皮で作った脚布という一種のゲートルをつけている。そして長い杖をもち、休む時には荷物をその上にのせる。身分の高い人々の駕龍隮舁きも同じようなものを着ている。彼らは藁靴をはき脚布をまき藁帽子をかぶり、黒か紺色の木綿で作った着物を着ている。
腰のまわりに色のついた帯をしめ、その帯の下へ着物の裾のうしろの方をは背負いこんでいる。胸元と背中と両袖に主君の定紋をつけている。ほかのことでは非常に困苦に慣れた日本人が湿気に対してはたいへん敏感で、猛暑の夏の雨にも全身に油紙か藁の外套をまとっているのをみると、不思議でならない。

時にはそれは必要かもしれなかった。しかし今では一般の風習になってしまったので、ちょっとしたにわか雨に出会ったりした時、もし高貴な主人が従者に雨合羽を着せずに歩かせたりしたら、無作法とみなされるであろう。
 街道や間道は各地方間の活発な商業交通ならびに江戸に行き来する大名の通過によってずっと古い時代に作られたが、一方牛馬や荷物運びの人足たちによる旅行の仕方には、目的にかなう施設が必要であった。すでに我々の紀元二五〇年に日本の年代記は、この国の諸地方における街道の建設に言及している。

それは例の神功皇后が軍を新羅(しんら)にすすめたあの時代
であった。
この国の区分に多大の改革が行なわれた和銅年間(708~714)には信濃・美濃への街道がつくられ、それは現在木曽路と呼ばれている。それ以来三つの大きな島の諸地方には各方面にむかうたくさんの道路が通じ、相互の連絡はいっそう改善されるにいたった。
これらの道路はただ歩行者や牛馬のためで、従ってわが国においてのように荷車や郵便馬車には役立たないに違いないが、だからその建設にあたってはさほど困難もなく維持費もそれほどかからない。地面を平らにし、数インチ〔1インチは約平・5センチ〕の厚さに小石・丸石または砂利を敷き、踏みかためてから、歩行者が歩きやすいように砂をまく。
急斜面で道路がつくれない山岳地帯では、段は低いが幅の広い階段を考え出し、それで人馬は安全確実の上に置かれ、馬の場合には胸帯・腹帯・鞦(しりがい)で、牛にあっては腹帯・胸帯・尻帯の役をする藁縄で固定されている。けれども結び方はたいへんゆるいので、置いた鞍は皮紐や綱でとめられているのではなくて、むしろ積荷のバランスとか牛馬の変化のない歩き方によって安定を保っている。こういう仕方だと摩擦も少なく、牛馬が窮屈に感じないで歩くことは確かである。馬には綿綿と励があり、牛は藁繩を何回も首の回りに巻き、ひとつの輪を鼻に通すが、その輪は頬の両側を通っている綱で首輪と結ばれている。葛の蔓で編まれた鼻輪には端綱がしっかりと結びつけてある。さらに馬具にはわが国の馬車馬の場合と同じく小さい鈴やガチャガチャ鳴る金属の板をさげ、積荷は鞍の小割に通っている綱でしっかりとくくられている。馬方はひと引きですべての積荷がはずれるようにたいへん上手に結んでいるが、これは荷をつけた馬が倒れかけた場合には利点があるかもしれない。

蹄鉄は日本では使用されていない。牛馬の蹄には稲藁で作った靴をはかせるが、街道沿いの至るところで旅行借用の同じような藁靴といっしょに買えるようにつるしてある。しばしば細い道だけがまた段段さえもが山を越えて通じている日本の地形のようなところでは、蹄をおおうことは不適当ではない。
それで滑る心配もなく荷物を背負った牛馬は非常にけわしい高所へ登るのである。牛馬は同時にとがった石の上で蹄を保護する。馬方や牛方は励や鼻輪をもち、声をかけて牛馬を御すのだが、歩かせるために打ったりすることはめったにない。
 運搬入についてはわれわれはすでに何カ所かで述べたし、荷を担ぐ者と駕龍昇のあることを承知した。彼らの鍛練と忍耐と敏捷さには驚くが、反面かれらが節制を重んずるのは賞賛に値する。荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子がえらばれる。しかし駕龍を担ぐには相当の訓練がいる。荷物の担ぎ手が宿場ごとに交代するのに、駕龍昇は数日にわたって
10~15里(約40~60キロ)と歩かねばならないから、軽やかな歩き方と強壮な胸板が必夥である。彼らは平坦な道を普速1分間100歩のせまく規則正しい歩幅で足早にあるく。普通の荷担ぎ人足はみすぽらしいものを身にまとい、両足にはたいてい藁靴をはき、綿布とか藁または木の皮で作った脚布というご狸のゲートルをつけている。そして長い杖をもち、休む時には荷物をその上にのせる。身分の高い人々の駕龍舁きも同じようなものを着ている。彼らは藁靴を履き脚布をまき藁帽子をかぶり、黒か紺色の木綿で作った着物を着ている。腰のまわりに色のついた帯をしめ、その帯の下へ着物の裾の後ろの方をはしょいこんでいる。胸元と背中と両袖に主君の定紋をつけている。ほかのことでは非常に困苦に慣れた日本人が湿気に対してはたいへん敏感で、猛暑の夏の雨にも全身に油紙か藁の外套をまとっているのをみると、不思議でならない。
時にはそれは必要かもしれなかった。しかし今では一般の凪習になってしまったので、ちょっとした俄か雨に出会ったりした時、もし高貴な主人が従者に雨合羽を着せずに歩かせたりしたら、無作法とみなされるであろう。
 街道や間道は各地方間の活発な商業交通ならびに江戸に行き来する大名の通過によってずっと古い時代に作られたが、一方、牛馬や荷物運びの人足たちによる旅行の仕方には、目的にかなう施設が必要であった。すでにわれわれの紀元二五〇年に日本の年代記は、この国の諸地方における街道の建設に言及している。

われわれは旅行中そういう所を通ったことがある。当時、不浄だとして排斥されていた、エタという階層の人が住んでいる区間は、たとえ数時間の距離でも、ある場所から他の場所までの距離にはか
ぞえられないし、輸送の場合にも計算にはいらないという風習は奇妙なことだ。
日本という大きな島国では距離はみな日本橋という江戸の大きな橋から測る。
 日本では道路地図や旅行案内書は必要で欠くことのできない旅行用品のひとつでおる。旅行者は、ヨーロッパで使われるよりもっと多く一般にこういう類を利用する。海陸の旅行に好都合なようにできていて、旅行用地図や道程表のほかに日本人旅行者にとって有益なことがらの要点がのっている。すなわち旅行用品の指示・馬や人夫の料金・通行手形の形式・有名な山や巡礼地の名称・気象学の原則・潮の干満の表・年表などである。そのうえ現行の尺度のあらまし・紙捻(こより)を立てるとでき上がる日時計までついている。





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最終更新日  2022年03月28日 05時10分34秒
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