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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月28日
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郵便制度と国境警備

シーボルト 江戸参府紀行

  初版第1刷発行 1979年7月15日
  訳者 斎藤 信 さいとう まこと

  東洋文庫87
  発行者 下中邦彦
  株式会社 平凡 
  株式会社平凡社
  
 斎藤 信氏略歴
  明治44年東京都生。
  東京大学文学部独文科卒(昭12)。
  名古屋市立大学名誉教授。
  現職(著 当時) 
  名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。
  専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。
  主著『Deutsch fUr Studenten』。
  主論文「稲村三伯研究」など。

  一部加筆 山梨県歴史文学館

さて同じように我々の注目に値する他の事柄、すなわち郵便制度と国境警備のことに移ろう。歴史は我が紀元六四六年、孝徳天皇の時代にこのふたつの措置の実施を、同時に他の重要な国家の制度とともどもに述べている。国の全地方には若干の地方員が駐在し、そのために都との緊密な連絡の必要が宿駅を設けるきっかけとなったものと思われる。
今日では往来の非常に激しい街道に沿って全国いたる所に宿駅があり、牛馬や人足の雇い入れや交替に便利で一般に広間が用意してある。そういうものを駅站(えきたん)といったり、駅(むまつぎ)といったりする。
ひとつの大名行列が時には数百の人馬を必要とするから、それだ
けの数を扶養するのは、とうてい一企業者の手にはおえないから、荷物を運ぶ仕事と牛馬の飼養は宿場のある土地全体の生業部門となっている。そして宿場はその筋の監督下にあって安全確実に旅行者に対して必要な助力を与え、国中の交通を管理するところである。
                                                                                 荷物の目方と駄馬や人足の賃金は地方地方の状況d- s
さて同じようにわれわれの注目に値する他の事柄、を斟酌してその筋できめている。すなわち馬に登り降りするのである。一般に道幅の広い街道には地形の許すかぎり両側にモミ・イトスギ・コノデガシワなど蔭の多い樹木を植え、また必要に応じて堀・堤防・水路を設けている。
街道はその領地の大名たちの費用で維持され、大代官や庄屋の監督下にある。
大名行列がたびたび行きあうので、秩序を保つために規則がつくられ、各々は道の左側にいて他の者には右側を行かせるが、こうしたことは大きな橋の上でも見かけることである。
 
   一里塚
日本の道標はたいてい道の両側にあるふたつずつの小さい丘で、その上にはモミや東洋種のエノキが植えてある。「一里の丘」という意味で「一里塚」と呼ばれる。一里より短い距離は町によって表わされ、境界線や道標と同じように石に刻まれている。
 
日本の一里は
三六町で、江戸幕府の天文方のいうところでは緯度の一度は二八・二〇里である。日本の里は……支那や朝鮮のそれと混同してはいけないが、二千トアーズ〔フランスの古い尺度〕(一緯度二八・五四)あるフランスの里程よりいくぶん長い。
 二、三の地方ではなお古い五〇町一里を用いていて、われわれは旅行中そういう所を通ったことがある。
当時、不浄だとして排斥されていた、エタという階層の人が住んでいる区間は、たとえ数時間の距離でも、ある場所から他の場所までの距離にはかぞえられないし、輸送の場合にも計算にはいらないという風習は奇妙なことだ。

日本という大きな島国では距離はみな日本橋という江戸の大きな橋から測る。
 日本では道路地図や旅行案内書は必要で欠くことのできない旅行用品のひとつである。旅行者は、ヨーロッパで使われるよりもっと多く一般にこういう類を利用する。海陸の旅行に好都合なようにできていて、旅行用地図や道程表のほかに日本人旅行者にとって有益なことがらの要点がのっている。すなわち旅行用品の指示・馬や人夫の料金・通行手形の形式・有名な山や巡礼他の名称・気象学の原則・湖の干満の表・年表などである。
そのうえ現行の尺度のあらまし・紙捻を立てるとでき上がる日時計までついている。
 さて同じように我々の注目に値する他の事柄、すなわち郵便制度と国境警備のことに移ろう。歴史は我が紀元六日六年、孝徳天皇の時代にこのふたつの措置の実施を、同時に他の重要な国家の制度とともどもに述べている。国の全地方には若干の地方員が駐在し、そのために都との緊密な連絡の必要が宿駅を設けるきっかけとなったものと思われる。
今日では往来の非常に激しい街道に洽って全国いたる所に宿駅があり、牛馬や人足の雇い入れや交替に便利で、一般に広間が用意してある。そういうものを駅(えき)といったり、駅站(えきたん)いったりする。駅(むまつぎ)と言ったりする。
ひとつの大名行列が時には数百の人馬を必要とするから、それだ
けの数を扶養するのは、とうてい一企業者の手にはおえないから、荷物を運ぶ仕事と牛馬の飼養は宿場のある土地全体の生業部門となっている。そして宿場はその筋の監督下にあって安全催実に旅行者に対して必要な助力を与え、国中の交通を管理するところである。
 荷物の目方と駄馬や人足の賃金は地方、地方の状況を斟酌してその筋できめている。すなわち馬一頭に満載の荷を一駄といって36
貫目、乗用馬にたくさんの荷をつむのを乗掛といって10ないし18貫、乗用馬に軽い荷をつむのを空尻といい3ないし6貫、ひとりの人夫が担ぐ荷物は5貫目で、その際の駄賃は一頭の駄馬に対し定められている料金の人足ひとりなら半分、駄賃は3分の2という割合を標準としている。
貫目という重さは1750〔正しくは3750〕グラム、オランダの昔の7と2分の1ポンド、または日本の6と4分の1斤である。斤はオランダ人の間では、「kAtje」という名で知られている。料金は地形によって見積られ、山地とか主要都市の近くでは非常に高くなるので、1マイル〔7420メートル〕に対する一定の料金はない。
最も新しい日本の族行案内書によると、駄馬一頭分か長崎から矢上まで三里あって166文、そこから四里先の諫早まで206文、そして森本から田代まで1里につき41文とられ、長崎から小倉まで57里の総額2両3匁39文となる。
1826年のオランダ使節に対して、馬一頭馬につきで長崎から小倉まで3両河2分、兵庫…大坂間日匁3分7厘、京都から江戸までで8両6匁6分を請求した。最後にあげたふたつの都市の距離は126里で、それで計算すると1里ないし1フランス里に対して平均13ツェントまたは9クローネが、駄馬一頭に馬方つきの使用料となる。1752(宝暦2)年の旅行案内書とて804年のものとを比べると、上述の宿駅間の古い料金の方が22文だけ安かった。
 
手紙の普通便と速達便

手紙の普通便と速達便とはこの国第一の商業都市である大坂に中心をおき、そこからふたつの主要都市京都および江戸に、諸大名の城下町に、そして終りには外人との貿易都市である長崎に向かって活発に往来する。
郵便物は
毎月7日・17日・27日に大坂から長崎へ、
8日・18日・28日に京都と江戸に居られる。
京都は至近距離にあるのでさらに毎日でもその機会がある。
長崎までは郵便は7日でとどく。よく風をはらみたくさんの漕ぎ手をのせた小舟で下関か小倉までゆき、そこから手紙は走者によって目的地まで運ばれる。蝋(ろう)びきの布で包んだ手紙入りの小箱を棒にくくりつけ大声で叫びながら次の宿場にたどりつき他の走者に渡すと、下にもおかずさらに先へと運んでゆく。重要な手紙を運ぶときには不慮の事故に備えてふたりの配達人を便う。

  飛脚
これらの走者を日本では飛脚といい、支那語の「Hikeo」から来ている。これは翼のある足のことである。
こうした定期的な郵便のほかにいつでも飛御便を出すことができるが、その料金は季節や天候の関係でまちまちである。大坂から長崎までで100ないし200グルデンかかる。
我が国の株式取引と同様に行なわれる大坂の商売、特に米や干物の売買にはこういう飛脚使を盛んに用いる。
 なおここで電信のように、ある重要な知らせを急いで伝えるのに役立つ例の施設について述べておこう。それは蜂火台(ほうかだい)つまり火を燃やす爨(かまど)である。各地方の最も高い山にしつらえ、外敵の上陸というような国家にとって重大な事件が起こった場合、その台の上で火を燃やして合図をするのである。さほど重要でない場合には、支那や日本の戦術で古来知られている狼煙(のろし)をあげる。
 
  宿場には旅館や宿屋がある

宿場には旅館や宿屋がある。第ご轍の旅館は館または一般に本陣である。大名やその他身分の高い人々はここに泊まるが、庶民は宿屋をさがして泊まる。
旅行中われわれはこの両方を詳しく見るつもりである。われわれ使節は本陣に宿をとるのであるが、本陣が満員のときには九州では寺院に、東海道では宿屋に泊まった。
 入浴は非常に熱いのが一般の要求である。旅行者、とくに人足は毎日入浴する。すべての旅館には身分の上下に応じて異なった浴室かおり、また大抵は近くに公衆浴場もある。茶屋や女郎屋は夜更けまであいている。三味線をひく美しい芸者や女郎が、ところによっては可変らしい小間物売りの女もいて、旅行者を楽しませてくれる。
 
  国境警備 関所

国境警備は関または関門(かんもん)で、たいてい街道がひとつの地方から他の地方へ通ずるところに設けられている。
こういう関所の主な三つをいわゆる三関といい、昔は近江〔滋賀県〕の瀬田の陵路あるいは逢坂・美濃〔岐阜県〕の不破・伊勢〔三重県〕の鈴鹿にあった。
最後にあげた鈴鹿の関から国を東西に分け関東・関西とする。

現在は箱根・新居・福島・松戸・中川および江戸湾の西側にある浦賀は首都である江戸防衛の要所となっている。

  橋いろいろ(外題)
 日本の山岳地帯には急流が多く、それに江戸や大坂のように人口の多い都会は大きい河の河口にひらけ、諸方へ運河で分断されている。こういう状況からたくさんの大橋がかけられ、従ってその総数が全国で239といわれているのも怪しむにはあたらない。大坂だけで79、江戸には75の大橋がある。
橋は構造様式によって次のように分類される。
 岩橋はたいていは弧を描いてせまい支流や小川にかかっているが、最長、約25メートルにおよぶ長崎の橋をのぞけばそれほど多くはない。
 本橋は杉(スギ)・欅(ケヤキ)・桧(ヒノキ)で作られ、石の基礎に建てられた木製の橋脚の上にのり、幅の広い河に架かっている。最大のものは岡崎〔愛知県岡崎市の西を流れる矢矧川(やはぎ)にある橋で397メートルに達する。
 浮き橋は雨期に増水した森の小川やそういう川の河口にかけられている。竹で編んだ龍に石をつめたものを橋頭に積み重ね、強い木の支えを河床に据え、その上に板や木の枝をならべ、砂袋で重しをするのである。
 吊り橋、インドにあるような吊り橋や自然の岩橋はいくつかの高山地帯にある。高い岩が富士山の火ロヘ行く途中にあって、鉄のクサリを使ってよじ登るものもあり、また飛騨地方にはふたつの岩にうまくザイルを張ってつなぎ、それに動かすことのできる龍をつけたものがある。「はね橋」または「引き橋」はただ城塞だけに見られる。
日本のいくつかの地方には舟僑もある。越中の富山付近の幅763メートルの神通川にかかる橋は、鉄のクサリつなぎあわせ板をのせた二艘の川舟からできている。これと似たものは越前の福井付近と上野〔群馬県〕の佐野にある。
日本の歴史書は架橋の初めを仁徳天皇の14年(西暦326年)としている。

612年には百訴から移住して来た者が、橋づくりに熟達していて多くの地方で架橋工事を行ない、彼の監督のもとに大小約180の橋ができあがったということである。その中では木曽のかけ橋や
遠江〔静岡県西部〕の浜名の橋が有名である。
七世紀の終りころ支那へ旅した僧道昭もまたたくさんの構を架けた人だといわれているが、その中には山城国〔京都府〕の宇治橋がある。

航海および航海術

 航海および航海術は、海上商業が自国の沿岸航行だけに限られていて、そのうえ船の構造様式に一般の規則を設けている国においては、ほとんど進歩というものがなかったのかもしれない。
それにもかかわらず沿岸の航海は国内商業の場合と同様に完全な段階にあるのがわかる。ことに入江や港にめぐまれた地方では沿岸の航行は陸上の輸送よりはるかに有利である。そういうわけで海上交通ができない場合に限って陸上輸送をするのである。

  古代の船(外題)
 
すでに古代の伝説に船の使用のことが語られている。また第一代の神武天皇(前667年)は軍船を造り、それに乗って本土に対する遠征を企てた。
もっと一般的にかつ国民の生活に感動を与えたと思われるのは、崇神天皇の時代の航海である。すなわち天皇は紀元前八一年に命令を下し、全国にわたる沿岸住民の交通の便をはかるために船を造らせた。
第二世紀の終りごろには日本の艦隊はいちじるしく充実し、多数の兵員を朝鮮半島に運ぶことができるようになった。
 察するに昔の日本の船は朝鮮のものの模倣であって、年代記の記述によれば、日本人は紀元前43年に朝鮮の船を知っていた。われわれが神社の奉納額で見るような古代の日本船の絵はこうした見解の正しいことを示している。ともかくそれは独特な構造をもっていて、今日にいたるまで支那の造船術からほとんど受けついでいるものもないし、ヨーロッパの造船術からの影響は皆無である。両者を知るよい機会を日本人は数世紀以来もってはいたのだが。
 
  日本の船(外題)

日本の船は杉・樅(モミ)・楠(クスノキ)の木材で造られており、まれにはトウヒ・欅(ケヤキ)その他の種類の材が用いられる。その構造の独特な点はほとんど目立つような竜骨や肋材のないこと、開いた船尾とくちばしの形をして突き出た船首とである。帆柱は多数の木を合わせてつくり、一枚の大きな帆をはり、釘や金具は銅製である。船体にタールを使うことを知らないから焼いて虫害に備える。索具はアサまたはワジュロの繊維でできているが、またときには稲の藁でつくったものもある。
一方帆は木綿織の布地を用い、わりに小さい舟ではただ藁で編んだゴザを使うこともある。
 鉄製で四本の腕の出ている錨はオランダの四つめ錨に似ている。軽い舟には錨の代りにただ石の重りをつけた木の勾(かぎ)を用いる。商船は八ないし18間(約14~32メートル)の長さで、幅は長さに比例して4間まである。そして約150トンの荷物を積むことができる。非常にすぐれた造船所は大坂・堺および兵庫にある。
 沿岸は港にめぐまれていて、それらのうちには長崎・下関・兵庫・堺・江戸・石巻および青森……あとのふたつは日本の北部、すなわち津軽地方にあるのだが……は大型船に適した良港である。大坂港は船の出入りがいちばん多いけれども、港が深くないのでただ小さい商船が入港できるに過ぎない。港には問屋があって航行の業務をつかさどり、入港手数料や荷物の引渡しを行ない運賃や運送状を処理する。
またいっそう重要な港には少なくとも番所を置き、入港および出港する船に監視の目を光らせている。
 
湖や河の舟行

商業や交通にとって同じように重要なことは湖や河の舟行である。淀川は近江の大きな湖水〔琵琶〕に源を発し、商業の中心地大坂を近江・山城・内〔大阪府〕だけでなく、丹波〔京都府の大部〕や伊賀〔三重県〕地方とも結び、日本の心臓部における活発な商業の仲介をする。
また隅田川や中川は住民の多い江戸にとってはたくさんの支流をもつ水路として輸送に役立っている。
他方大井川・瀕田川・安倍川のような河川は舟の航行には不適だが、しかし渡し舟で盛んに往来して豊富な財源をもたらす。
 
川舟は何の性質やその用途に応じて当然構造が異なっているが、一般に舶先(へさき)は突き出ていないし、底が平らで舟縁は底と直角をなしているなどの点で一致している。川舟は無格好で、遊山船や快連動は別として海の船のように立派ではなく清潔でもないのに気づく。船の種類は次のとおりである。
 一、軍船
ふたつの上甲板とひとつの後部上甲板があるか、あるいは単にひとつの上甲板だけで後部上甲仮のないものもある。
二、監視船
蚕齢ともいい、前部に屋形を備えた小艇で、港湾の監視に任じ、時に「見送り」と呼ばれる。そして海洋を航行することができ、捕鯨船に似ているところから、鯨船(Kudsira fune)とも呼ばれる。
三、商船(Akinai fune)
北船と南船とに分けられ、北船は、北日本や蝦夷へ商売にでかけ南船よりも大形で高い船尾を備えている。南船のうちにはいわゆる堺船と田舎船とがあって、堺船には舷側の手摺に開口部があり、田舎形にはそれがない。両方とも船尾のところが開いていて、中甲板があり、上甲板には屋形がある。
 四、木船
石和舟ともいう。薪やその他の荷を運ぶのに用いる、小さな丈の低い舟である。荷物をつむためのただひとつの場所と薬ぶきの屋形が甲仮にある。
 五、漁船犯は鯨船と鰹船・普通の釣舟
などがあり、生きている魚類を送るにはいさわ船の様式を採り入れた特別の船を用い、船槽の中央部の舟底の格子づくりの窓によって海水が出入りするようになっている。これを生簑船という。
 六、遊山船
遊び船といい、湾内や河で用いる。
 七、湖水や河の船は川舟(KAWAFUNE)といい、積み舟と渡し舟に分けられる。                  。
 
  運河
最後にわれわれはなお運河について述べなければならないと思う。運河は一方では船が通るために、もう一方では農業を保護するために設けたのである。
船を通すための運河では安芸〔広島県〕の音戸の瀬がすぐれている。それは今の倉橋の島(Kurabasi no sima)を日本本島から隔てて、商都広島へ向かうまっすぐな水路を造っているものである。農薬用のものは、流れを肥沃な平野にみちびく、土手で囲まれた水路と思えばよい。
兵庫周辺の地方では海を埋め立て、土地が造られていて、百年にわたる人力が河川による被害を食い止めた実例をしばしば旅行者に示している。

 旅行者
さてわれわれが旅行者そのものを見てみると、彼らは旅行の目的・旅行のやり方に従い、また自分にふさわしく旅装をととのえているのがわかるが、しかも自国の風習をきちんと守っているのである。
旅行に当たっては人々は身分の上下を問わずある程度の準備をし、出発に先だって故郷の寺や社に参り、自分や家族のために神仏の加護を祈ってからでないと、誰ひとりとして旅に出ない。別れの宴では旅に出ようとする者はもう一度親戚や友人を呼び集め、皆から賤別の品や土産をもらうのだが、これはよその土地へ行くものに故郷の産物を持たせてやり、その品々を行き先でほかの品と交換していた古い時代の尊ぶべき風習が名残りをとどめているのであって、旅行者が適当なお返しの品を持って帰省する今日の慣例もまたこれに由来している。
旅行のやり方そのものについては、身分が低いほど旅は気まま気まかせ、という言いならわしが日本ほどぴったりする国はおそらくほかにあるまい。
日本の高貴な人々は家柄や礼儀作法にかたく縛られているようにみえ、その人の自由な意志はもはや全く問題にならない。服装・従者・旅行の道具・紋章・通路・一日の旅程・昼食・宿泊・そのうえ休息や娯楽の場所さえもあらかじめ身分相応に決められている。 従って年々行なわれる諸大名の参勤交代の旅行は彼らにとっては形式張った出費のかさむ仕事である。最近では従者についていちじるしい制限を設けはしたが、時代おくれの礼式が規定している外見の華美の風はなお変わることなく続けられた。

本来の旅装を身につけている者は歩行者と騎行者に過ぎない。駕龍に乗って行くひとは、みな身分相応の身なりをしている。旅行着は野服と呼ばれ、股引・脚本・半纏という外套・藁笠また、ときとしては漆塗りの笠や、すでにたびたびのべた草履という藁靴などである。そのうえ一般人の旅行者は一本の刀をさし、貴族や武士階級の者は長さの違った刀を二本さしている。それは伺時に武士や役人の目印であって、われわれの供をする番所衆や、二、三の地方においてわれわれが通過する地域の大名から儀伏兵として供を命じられた兵士たちも二本差しの武装をしている。
 これら一般的な観察は、読者に対し全体の見通しならびに旅行の途次に現われるに相違ない多くの個個の事柄の評価を容易にすると思うが、こうした観察を終わったので、われわれは再び出島にもどって来ようと思う。
出島ではわれわれ使節は旅行の準備を終えているのだ。荷物の一部は艀(はしけ)に積みこまれ、海上を下関に運ばれ、一部はすでに保管させて、次の日には陸路をあとを追って下関へ向かうのである。
 数人の役人は古くからの慣例に従ってわれわれの住いに来るが、それはわれわれの持ってゆこうと考えている物の中に万一禁制品があえりはしないかを調べるのが目的である。けれどもそれもただ形ばかりに行なわれ、満足してその上に封印を押すが、最初の宿泊地で再び取り除かれてしまうのだ。
 
1826年2月15日の夜明けとともに、われわれは日本人の旅行仲間を待っていた。彼らはわれわれを出島から連れてゆかねばならなかったのである。
ビュルガー君と私は、ドイツ人としてこんなに珍しい国を旅行する、まれな籤をひきあてた幸運を喜びあった。われわれは準備万端怠りなく、われわれの仕事に対する感激でいっぱいだった。そして私が勇気と厳粛な意図を抱いて、ひとつの事業に没頭しているのを感じとったとすれば、それは今この時なのだ。明けゆくこの日が、故郷からはるか遠く離れた国々のうちで、特別な衝動にかられて訪れたひとつの国の内部を私犯あけて見せる約束をした今なのである。





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最終更新日  2022年03月28日 05時28分29秒
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