小川正子 よるべなき人々とともに生きた医師の記録『小島の春』
小川正子 よるべなき人々とともに生きた医師の記録『小島の春』 『週刊20世紀』昭和13年(1938) 朝日新聞「歴史をあるく」 一部加筆 山梨県 山口素堂資料室 挑とぶどうの果樹園がひろがる山梨県春日居町は、東京・新宿から電車で2時間たらず。温泉町で知られる石和に近い田園地帯にある。この町の郷土館内にハンセン病の人々に尽くした小川正子特別展示室があり、町出身の正子の足跡を知ることが出来る。 同じ敷地内には、晩年、正子が病気療養した家が一部移築され、記念館になっている。その家の座敷には膝を崩した中年女性が一人、もの想いにふけっている。1938(昭和13)年に出版された『小島の春』の著者、小川正子の姿を模したものだ。 ハンセン病が癩病と呼ばれて1932(昭和7)年、正子は瀬戸内の小島に造られた国立のハンセン病施設「長烏愛生園」に医官として赴任した。いや『押しかけた』といえるかもしれない。 当時、ハンセン病の特効薬はなく、「感染を防ぐには隔離しかない」とされていた。しかし、患者のための施設は少なく、情報も少なかった。ハンセン病患者やその家族は、隠れるようにして生活することが少なくなかった。日本全体が貧しく、ハンセン病になっても医者にかかれない人がほとんど。正子は四国や中国地方の山の中まで分け入り、病気についての啓蒙活動をし、患者が見つかれば長烏麦生国のような無料の施設に入って治療するように説得した。 この長烏麦生国時代の手記をまとめたのが、『小島の春』(長崎出版)。医師としての使命と患者の平凡な生活をこわす心苦しさ……隔離療養に対する二つの立場の狭間でゆれる心を吐露した内容だ。挿入された短歌が胸を打つ。正子は歌人でもあった。 国境の村たづね来て寄る辺なき 人等をさらに泣かしめにけり それにしても、医師であれば働く場はいくらでもあっただろうに、ハンセン病の施設を選んだのはなぜ?の疑問がわく。小川正子記念館の館長であり彼女の研究家でもある末利光さんは、「東京女子医学専門学校(現東京女子医大)のころ訪れたハンセン病施設に深い感銘を受けたからではないか」と想像する。 長島麦生園では小児科を担当した。幼いころに父母と別れた子がいる。母の名を呼びながら病状が進んで弱っていく子もいる。父母には汽車賃が工面できない。正子は「亡くなる前に一度会わせよう」と切符代を送った。その子の母は、転がるように園に駆け込んできた…… 30万邦以上のベストセラーになった『小島の春』は、いま読んでも胸がつまる。40年には映画化され、夏川静江主演で杉村春子らが出演、その中に幼き日の中村メイコの姿もある。しかし、このころ正子はすでに病魔に侵されていた。結核である。 春日居町郷土館の敷地内に医師小川正子記念館か併設されている。正子が晩年を療養に過ごした家だ。正子は1943(昭和18)年4月29日、41歳の若さで亡くなった。医療に尽くした日々の記録が残されている。 小川正子記念館にはハンセン病患者の写真や、医師として働く正子の写真などが並んでいて、ハンセン病の実情を訴えている。 夫と妻が親とその子が生き別る 悲しき病世に無からしめ 戦後、特効薬プロミンの登場によってハンセン病は完治するようになった。死後になってしまったのは残念だが、正子の願いはかなった。 長島に橋が架かり、96(平成8)年4月1日から「らい予防法の廃止に間する法律」が施行されて、隔離条項も除かれた。しかし、いまなおハンセン病の後遺症と差別に悩んでいる人々がいることも確かだ。 (文・写真 平見睦子) 春日居町郷土館・小川正子記念館 (現甲州市)〒406-0013山梨県東山梨郡春日居町寺本170-1 電話0553-26-5100 交通 JR中央線春日居町駅下車、徒歩15分 *春日居町郷土館は、甲斐の国最古の寺といわれた寺本廃寺三重塔の模型や発掘された古代瓦などを収集、展示している。山梨県は果樹栽培が盛んなところ。笛吹川フルーツ公園には果樹園や温室があり、山梨県で栽培されているフルーツを見たり味わったりできる。