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三河の住人の庵

三河の住人の庵

土呂 本宗寺

07.07.22
梅雨明けを思わせる炎暑の中 三河一向一揆の旧跡 
土呂「本宗寺」の跡をたずねて歩いた。

岡崎市福岡町というのが今の地名である。

この地は15世紀のころ ずいぶん栄えた所だったらしい。
その面影は ほとんどない。

応仁2年(1468年) 本願寺第八世の法主蓮如上人が、三河御巡化の折り、この地に 本宗寺を創建した。

その後 蓮如上人直系の子から孫へと 住職が引き継がれていった

100年後の 永禄6年(1563年) 若き徳川家康との確執から 広がった一向一揆の戦いにより、三河の本願寺派の主要な寺院は悉く破却された。
本宗寺も 一揆の終盤 家康方との攻防の最中に起きた火災で 七堂伽藍と寺内町のすべてが 消失したという。

福岡の町を歩いていても 当時の面影を残すのは 土呂の隣の 上地八幡宮くらいのもの。

上地八幡宮境内.JPG

それほど 家康による破壊がすごかったということではないだろうか。

本宗寺は 当時 土呂にあった土呂八幡宮に付随する神宮寺のそばに建てられたという。
やがて神宮寺も 本願寺派の寺院となっている。

本宗寺がここにあったことを示す案内の杭以外なんの遺構もない。
土呂御坊 「鷲塚山 本宗寺」となっている。 
土呂御坊跡.JPG

土呂八幡宮は 本宗寺と共に消失したが 一揆後に再興された。
しかし 記録の類はすべて消失してしまったという。
 
土呂八幡拝殿.JPG

土呂八幡宮の西に 御堂山には 御堂山教会があり 蓮如の墓所がある。
蓮如は1499年京都山科で亡くなったのだが その後 遺骨の一部を譲り受け この地に葬ったという。
元は 塚だったのだが 近年 墓を建てたのだという。
遺骨の譲り状なるものが 近くの浄専寺に今でも残っているそうである。

蓮如墓.JPG

この御堂山は 一揆のすぐあと 家康の命により 石川数正が 土呂城を築いたというが 破壊だけでは足りなかったということか。

土呂城址2.JPG

一向一揆から20年後 拠点となった寺も 再興が赦免された。 
勝蔓寺 上宮寺 本証寺は 規模は小さくとも 元の位置に再建されたが
本宗寺は その後も各地を転々とし なんと1611年になって 現在の地 岡崎市美合町平地山に 再建できたのである。

美合 本宗寺本堂.JPG
現在の 土呂殿「本宗寺」である
ここには 宗門再興に尽力した 家康の叔母 芳春院妙西尼の墓、石川数正の墓がある。


ところが 土呂の地にも 本宗寺があるのだ。
ここも 土呂殿「本宗寺」という.

土呂八幡宮のある御坊山から 浄専寺へ下る途中
かつて 三八の市が開かれたという 市場町にある。

土呂殿本宗寺本堂.JPG

あまり 有名ではない。
歩き回らなければ 気付かなかった。

寺の案内書によると

「<前略>三カ寺(勝蔓寺、上宮寺、本証寺)は それぞれの旧地にて復興することになったが、本宗寺の復興は一家衆寺院の為と証専に帰郷復興の意志が無かった故、再興の夢が絶たれた。(証専は蓮如の血脈で一揆の時の住職)
<中略>本願寺は後、伊勢の国に 証専の血脈をもって本宗寺を再興した。
<中略>本宗寺勝詮は 土呂本宗寺を再建し史跡の保存を目的として現地の一部に寺地を得て、土呂殿本宗寺と名乗り小堂を結んで、その史実を留めようとした。それが今の本宗寺である。」

本宗寺跡めぐりは 一揆当時25歳という若さなのに 家康の底知れぬ恐ろしさを感じるものであった。



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