2024/05/12(日)15:29
道綱の母の死
道綱の母がいつ亡くなったのかは、他の平安時代の女性同様わかって
いません。
ただ、実資の「小右記」から、多分この年だろうと推定はされていま
す。
長徳二(996)年五月二日の日記の最後に、
「新中納言(道綱)の亡母の周忌法事が行われた。七僧の粥時(しゅくじ)
を送った。また、内裏に伺候していたので訪問しなかったということにつ
いて、だいりから到信を遣わして伝え送った。(現代語訳・倉本一宏)」
とあります。
道綱の母親の周忌ですが、手厚く行うのは一周忌なので、恐らく亡くなっ
たのは前年の長徳元(995)年で、五月であろうと思われます。
一周忌なら早めに行うとしても、同月に行うように思います。
もしかしたら、五月二日が命日かもしれません。
実資は、道綱の母に僧侶が食べる食事を送って供養としたようです。
そして、内裏での仕事があったので、参列出来ないと、人を遣わして伝
えています。
(C)NHK
残念ながら、これよりずっと前に兼家は道綱の母の元へは訪れなくなり、
2人は最期も会うことはなかったと思います。
さて、当時の公家は藤原家が多く、結婚等でそれぞれが親戚なので、
「小右記」の中でも○○の妻の法事だの、△△の母の法事だのと、
それはもう、法事だらけと言ってもよい程立て続くこともあります。
今より親戚付き合いも密だったから、何かと大変だったでしょう。
そして、998年に婉子女王が亡くなっているので、翌年999年に一周忌
を行い、それからちょっとして、婉子女王への、今でいう陰膳を止める
よう指示しています。
その後の年には、特に婉子女王の法要について書かれていないので、
やはり一周忌は盛大に❓法要を営むようですね。
一方、兼家の嫡妻である時姫は、980年に亡くなっているので、道綱の母
より15年程早くに没したのですね。
987年、後一条天皇が即位した時、道長が申請したのでしょう。
時姫は正一位という、生きている間はおくられない一番高い位を、死後
7年後に授けられています。
因みに、道長は従一位です。
娘達の永達と自身の権勢欲ばかりが目立ちますが、兼家の葬儀を心を
込めて行ったことや、時姫へ正一位をおくるなど、親思いも人一倍だ
ったことがわかります。
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