お産の時は真っ白け
奥さん、ここ数日蒸し暑い日が続いていますが、関東は今日は33℃の予報です。各地で暑いと言われていますから、くれぐれも気を付けましょうね⚠️さて、出産前の定子と清少納言は白い服を着ていましたね。後ろの屏風も白っぽかったと思います。 当時は、お産が始まったら、皆でワイワイ屏風や几帳を白に替えました。御帳台と呼ばれる柱で囲まれた貴人の寝所。ここで、お産。彰子のお産を書いた「紫式部日記」にも、道長の息子達や四位、五位の官人達も手伝って室内のしつらえを大急いで城に変えたとあります。もちろん、衣服も白に替えますが、これは女房達だけだと思われます。男性は近くにいたようですが、産所に入らなければ良かったようです。不確かですが。女性はそれこそ、袴以外は白。お産が終わって7日間は白一色で、8日目に普段の服に戻ります。ここでも室内の装飾を変えるのは大変そうですね。 白だけと言っても、二陪織物が許されている人は織り模様を凝らし、許されていない人は裳の腰の部分に銀糸を使った刺繍を施したり、服の袖口に銀を塗ったりして、少しでも他人と違う意匠を試みました。和歌の会等はもちろんですが、こうして服にも拘るのが女房達の心得のようなものになっていて、あまりに手を加えていなかったり、みすぼらしいと他の女房達が陰で笑いものにする、といったこともあったようです。女性が衣服に拘るのは昔も今も同じでしょうね。お産がそろそろだと言う頃になると、日頃は実家にいがちだった女房も駆け付ける為、いつもより多い人数が部屋にいることになり、皆裳や唐衣まで身に着けているので、どれが誰の裳かもわからず、身動きもままならないという有り様だったと「紫式部日記」にあります。そして、これが彰子の2人目のお産の時は、なんと史上初、袴も白にしたとか。第一子は夏の終わりのお産だったので、袿もあまり重ねられなかったようですが、この度は11月末だったので、綾織物、二陪織物、固紋や浮紋、と様々だったそうです。この『袴も白く』は、彰子の妹達のお産でも倣ったそうです。京都の夏は暑いので、当時女性はこんな格好もしたようです。うすものの、今でいうかとりや絽でしょうか、涼しい素材1枚だけ着るのです。大胆ですよね。道長の末子嬉子も妊娠中にこの格好でいたのを、衣服から透けて見えるふっくらしたお腹やお乳が・・・なんて書いてありますから。透けて見られるのもOKなんですね。 これでも袖や袴が暑そうだけど🐽まひろが一度宮中から下がる時、裳に模様が無かったようにも見えました。清少納言は、前に後ろから撮った映像がありましたが、裾の方に草木かな❓の模様がありました。まひろの裳にも模様があったのかもしれませんが、控えめにして、まだ貧乏らしさを出していたかも。ただ、裳の裾の方は写らなかったので、わかりませんが。でも、唐衣は二陪織物だったのですよね、固く織った物ではなかったけど。衣装の一番上に着るだけに、生地にも織り模様にもみな拘ったようです。 勅許が要るのは、唐衣も同じだと思うのですが・・・。「光る君へ」では、有職故実をかなり大事にしているので、考えてのことだとは思います。いつもポチっと応援ありがとうございます👘にほんブログ村にほんブログ村