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みみずの部屋

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みみず2218

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2021.04.10
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カテゴリ:中山道の旅
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 本当は中山道の旅10周年である昨年のうちに完結したかったのですが、新型コロナウィルスをめぐる情勢が厳しくなり、緊急事態宣言が発出されたりしてできませんでした。
 ようやく宣言が解除されたと思ったら今度は蔓延防止法を適用するとかいう話が出て、「やるなら今しかあるまい。」ということで外出がためらわれる中、あえて行ってきました。







午前8時50分ころ大宮駅到着。駅前のマックで朝ご飯を食べて、マックの前の広場でA-bike cityを展開。こりすのトトちゃんって何でしょう?マスクを張り付けたテープの跡がついていました。これも世相ですな。9時20分出発。



大宮駅前付近の中山道。この辺に旅籠なんかが立ち並んでいたはずなんですけど、何も残っていません。




住宅や工場が並ぶ県道を走り続けて10時10分浦和宿の星野権兵衛本陣跡に到着。今はうらわ美術館が建っています。





本陣跡から5分くらい走ったところにある調(つき)神社。斎王(皇族の未婚の女子で伊勢神宮に仕える人)がこの場所を選び神社を創建、武蔵の国から伊勢神宮に納める貢物(調)をここに集めさせたそうです。斎王が貢物を搬入搬出するのに邪魔な鳥居を撤去させ、それが今に続いています。「つき」にちなんで狛犬ならぬ狛うさぎが据えてあります。




辻の一里塚跡。後ろはURの集合住宅。




中山道が国道17号線と交差した先に交番があり、道が右にカーブしています。蕨宿の入り口です。宿場の入り口がカーブしたりつづら折りになって、そこに見附や番所があるのはお決まりのパターン。




蕨宿本陣跡は蕨市立歴史民俗資料館になっています。でも、そのほかに宿場の面影を残す建物はあまりありません。




ベージュ色の建物がうなぎ今井。江戸時代初期から続く老舗。ここでお昼ご飯を頂きました。江戸時代、蕨や浦和は沼地が多くうなぎが名物だったそうです。


 実は、みみずはこの蕨宿本陣の近く、中山道沿いに住んでいたことがあります。今から40年以上前、2歳のころです。
今でもたまに夢に見るのですが、昭和初期に建てられたと思われる古い町屋の中、薄暗い和室に鏡台と円筒形の赤いビニール張りの椅子がありました。その椅子は座面を上げると化粧品などが納められるようになっていて、その椅子の座面を上げたり下げたりして遊んでいました。まだ若い母が椅子に座って化粧をしている時にまとわりついて、邪魔をするなと叱られた記憶があります。土間(玄関)から上がると二階に上る急な階段があって、これが梯子に近い蹴込み板もないような代物で幼児が登るのはとても恐ろしく、親からも階段を上るのは禁止されていた記憶があります。
この家は当時親戚のもので、その管理のために両親が一時住んでいたのでした。
しかし横浜で勤務している父はさすがに通勤が遠すぎたので、すぐに引っ越してしまったそうです。
この家は平成に入るころまで残っていて、その取り壊しの時、両親と一緒にみみずもこの家を見に来たことがあります。家の中に入って古い鏡台と椅子を見た瞬間、「あっ!」と夢に見る光景を思い出したのでした。あの夢はここの記憶だったのかと。みみずが持つ一番古い記憶です。
今は跡地にアパートが建ち、父の持ち物になっています。
前にも書きましたが、一族は旗本、関東郡代の親族で、江戸時代から蕨宿近くに住んでいました。関東郡代の陣屋はすぐ近くの赤山にありましたから自然な話です。
みみずの本籍地は今でも蕨市のままです。
(ちなみに、他にはここで飴玉と間違えて防虫剤のナフタリンを飲み込んでしまい、病院に連れていかれて無理やり吐かされた記憶もありますし、記憶にはないですが迷子になって蕨警察署に保護されたこともあったそうです。やらかしまくりの2歳児だったようです。)




荒川を越える戸田の渡し。線路の橋のちょっと上流側に渡し場があったようです。




荒川を越えればいよいよ東京都に入ります。




おお! ついに道標にも「日本橋」の文字が出るようになりました。がんばれ!




基本的には国道17号線沿いに進むのですが、たまに国道をそれて裏道に入る部分もあります。清水坂は日本橋から来て最初に出くわす難所だったそうです。箱根路や碓氷峠に比べれば何でもないですけどね。




志村の一里塚。二つの塚が両方とも残っています。東京都内でこの状況は奇跡的だと思います。




志村の一里塚からしばらく行くと交番があり、中山道は国道からそれます。板橋宿です。これは縁切榎。




石神井川を渡る橋が「板橋」。




板橋宿本陣跡は左のマンションが二軒並んでいるあたりです。周囲は商店街で、これが巣鴨のとげぬき地蔵までずっと続いています。歩行者が多いので、時にA-bikeを降りて徒歩で進みました。




環7をくぐり、埼京線を越えて商店街は続きます。そして「おばあちゃんの原宿」として有名なとげぬき地蔵まで来ました。コロナ禍にも関わらずほとんど歩行者天国状態です。




ここで一服。大判焼きを買って食べました。お地蔵さまにはもちろんコロナ禍収束をお願いしました。




とげぬき地蔵の先で国道17号(白山通り)に合流。東大に突き当たったら右折し東大の塀に沿って進みます。街並みもなんだか落ち着いた雰囲気に変わります。




東大の赤門。徳川将軍家のお姫様が加賀前田家に嫁ぐときに前田家のお屋敷に建てられた門です。




「かねやす」まで来ました。江戸時代から続く雑貨屋さんなのですが、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれ、江戸の北限とされてきたそうです。実際はもっと北までが江戸だったらしいのですが、大火事があった後、あの大岡越前が防火のためにかねやすまでの土地で茅葺き屋根を禁じたので、一般人にはここまでが江戸だと思われていたそうです。




神田明神。平将門をまつる神社。街道を挟んで反対側には孔子をまつる湯島聖堂があります。




神田明神の坂を下り、「神田明神下」交差点を右折。中央線のガードをくぐって左折すれば日本橋までは一本道。ここからはあえてA-bikeを降りて徒歩で進みました。20年以上前に東海道を歩き始めたときは徒歩でしたから。




見えた! あの首都高の高架下が日本橋です。




日本橋の手前は三越本店などがある日本有数のおしゃれな街。あのライオンの前を通ってきました。




さあ、着いたぞ。もう夕方だ。




あの高架下、道のど真ん中に日本道路元標が埋め込まれています。今から20年余り前、20歳の時、大学の部活の仲間と元標を見てから東海道を歩き始めたのです。橋の向こう側にね。




橋の中山道側に道路元標のレプリカが置いてあります。




時刻は午後4時15分。京都の三条大橋を出てから11年目、東海道を歩き始めてからだと20年以上にわたる長い長い旅が終わりました。




東海道側、高島屋がある方に橋を渡って、都営浅草線の日本橋駅から横浜の自宅に帰りました。今日は30キロを走破。疲れたな。



 中山道の旅だけでも11年かかりました。東海道も含めれば20年以上。その時、みみずは二十歳の大学生でした。
まだインターネットは普及しておらず、いわゆるIT革命が起きたばかりで、ノートパソコンやデジカメ、携帯電話がようやく登場したころです。
世の中変わりましたね。
みみずもその後、就職氷河期を乗り越えてなんとか就職し必死に生きてきました。不況も長引いたりして、まさに死屍累々の屍を乗り越えて生きてきた感があります。
地震や津波があったり、世界では9.11の同時多発テロ以降不安定な状況が続いているし、おまけに最近のコロナ禍と、次から次に色々なことが起きて変わっていきます。
諸行無常、ですな。
街道沿いも不況でシャッター商店街になってしまったところもあったし、ガイドブックに載っているお店が無くなっていたり、泊まろうと思った旅籠が火事で焼けてしまったとか、そうかと思えば観光のためにきれいに整備された宿場があったり、常に変化しているのが手に取るようにわかりました。これからも社会や街道の風景は変わっていくでしょう。
 でも、街道から見た山や川、そして日本人がそこで暮らしてきたという事実は変わらないわけで、それはおそらく大昔、江戸時代、あるいはそれ以前からそこを歩いた人々が見たものと同じものを共有し、各時代の変化を追体験できるのです。
ダイナミックな旅ですよ。地図だけで表せるものではありません。時代を越えて立体的に日本を旅するということができる。それが街道歩きでしょう。

 さ、次はどうしようかな。




2001年ころ、20代のみみず。東海道の旅、静岡県さった峠付近にて。ついこの間のことのように感じますが…




それが20年以上経つとこうなる。そのまんまオッサンになりましたとさw​​​​





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Last updated  2021.04.13 22:23:04
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