法律の条文はなぜ悪文なのか
法律の制定は官僚主導だ、という話を前回書きました。その続きで、先週の日経コラム「春秋」でこんなことが書いてありました。国会に提出されたある法案を見ると、1つの条文の長さに驚く、と、その悪文ぶりについて書かれてあった。法律の条文は、文章として見るとたいてい悪文です。日本国憲法なんてその典型で、朗読CDなんてものが出ていますけど、内容の良し悪しはともかくとして、あれを文章として読み味わおうなんていう人の気が知れません。それはともかく、上記日経コラムでは、条文が長く悪文になるのは、立案者たる官僚が、国会議員をけむに巻いて、自分たちが解釈の主導権を握るのが狙いだ、と指摘がありました。たしかに、法律の条文は、特別な能力でもないと読めないかのような体裁になっていることが多い。ただ、官僚を擁護する趣旨ではないのですが、法律の条文には一般の文章と異なる特殊性があります。それは、法律の条文が、「物事をわかりやすく伝える」ことを目的としているのでなく、「どんな場合にその条文が適用されるか否かを明確にする」ことを最大の目的としている点です。条文に出てくる用語は正確に定義しておかないといけないし、例外的に適用されない場合であればその例外の範囲を明確にしておかないといけない(そのせいでカッコ書きが異様に多くなったりする)。法律が悪文になるのは、ある程度は仕方がないのです。同じ日経コラムに、政府機関の文書に「国民等」という表現があるのを見て、「官尊民卑」だとの指摘がありましたが、これはどうでしょう。官僚はよく「等」の字を使います。ここでは「とう」と読みます。これも、法律上の用語が厳密に定義されているためです。たとえば、「国家は国民の生存権を擁護しないといけない」という文章があったとします。ここで国民とは「日本国籍を有する者」というのが定義ですから、この文章だと、日本国籍を有しない定住外国人は一切保護されなくてよいということになる。国民でも定住外国人でも保護されますよ、という文章にするには、「国民等は」と書くことになる。「お前ら」「貴様など」というときの「ら」「など」に「等」の字を使うと、確かに相手を見下すニュアンスになりますが、ここにはそういうニュアンスはないはずです。ついでに「植木」のあとに「等」を使うと、先日亡くなられましたが「ひとし」と読むことになります。