カテゴリ:決意することに遅過ぎるということはない
レースのカーテン越しに窓の外を眺めると、明々と陽光が射し込んできました。 予報では曇り空が続くはずでしたけれど、どうも様子が違います。 その陽射しは刻々と強烈さを増し、それに合わせて室内の気温もグングン上昇していることを肌で感じます。 この三~四日は梅雨明けを撤回するという噂を耳にするくらい物憂げな天候が続いていましたから、実に久しぶりの太陽です。 この好機を逃すまいということで、敷布団を二枚引っ張り出して、バルコニーの物干し竿に吊るしました。 きっと考えることはみな同じなのでしょう、近所のどこからか洗濯し立ての清潔な香りが漂ってきます。 まるでこちらの心まで洗われるような気がして、その場に立ち止まって目を閉じました。 様々な記憶に彩られた、夏の朝の匂いです。 蚊取り線香、ラジオ体操、朝顔、グラウンドの土埃、草いきれ、高校野球、アイスクリーム、・・・。 夏の匂いの中にはこれまで通り過ぎてきた色んな情景が閉じ込められていて、なんとはなしに懐かしさを覚えます。 この数日間、朝方に見た印象的な夢について考えてきました。 そこでは赤ん坊の自分と現在の自分が同時に存在して、触れ合っていました。 過去の自分を現在の自分の中へ取り込む統合過程を示唆しているのか、それとも過去と現在の自分をはっきりと相対化する意識の表れなのか、はたまた我が子を持ちたいという未来への願望なのか。 水曜日から金曜日まで、この夢の解釈を巡って自分なりに仮説を立ち上げて、文章にしてみました。 そのプロセスで、新たな一つの問いかけが鮮明に浮かび上がってきました。 それは、「自分とは何者で、これからどこへ向かっていこうとしているのか?」という問いです。 言い換えれば、過去、現在、未来に渡る自己というものを、自分なりにまとめ上げていかなければならないんじゃないかという自分自身への要求です。 「まとめ上げる」というのは、何も一つの基軸に沿って自己というものに整合性を与えるということではありません。 それはきっと、無理なんじゃないだろうかと考えます。 「自分」というものは一つだと思いがちなのですが、個人的な感覚からすると、そうでもないような気がするのです。 なんらかの衝撃によって、ある時点で「不連続」に自己が変化してしまうということだってあり得るんじゃないでしょうか? 実際にそれは、ちっぽけなこの「わたし」という人生においても、起こったことなのではあるまいかと考えています。 だから、「自分とはこういう人間である」という一義的な解答を提出するのではなくて、自分に影響を与えた出来事、あるいは人、そういう他との関係性を洗い出し、その時々の自分というものを連続する時間の中に位置づけてみたいと思うのです。 具体的に一例をあげましょう。 わたしは70年代後半、サラリーマン夫婦の間に第一子として生まれました。 ただそれだけの事実の中に、わたしという人間を規定するいくつもの要素が含まれています。 例えば、70年代後半という時代がもたらす空気や、サラリーマンのライフスタイルに取り込まれたことによる影響、あるいは第一子という家庭内での位置づけなど、自分に強烈な影響を与えた要素がたくさん内包されているのです。 さらに70年代後半という時代がどういう時代なのかを深堀りしようと考えれば、太平洋戦争から立ち直った戦後日本における位置づけを問わなければならないでしょうし、そうなると今度は戦前も含めたこの国の歴史における「戦後」がどういう位置にあるのかまでをも考えなければならなくなるでしょう。 つまり、今わたしが感じていることは、この世界の歴史においてわたしが生きてきた時代はどういう位置にあり、わたしを育んだ社会とはどういうものだったのかを、洗い直してみたいということです。 そうすることで、上に掲げた問い「自分とは何者で、これからどこへ向かっていこうとしているのか?」に対して、幾分なりとも答えを導くことができるのではないかと考えています。 これからの社会により親密に、自分らしく関わっていくためには、この問いを避けては通れないように感じています。 今日も好い一日でした。 ありがとうございました!! 【三文日記】 図書館から「カラマーゾフの兄弟1」(光文社古典新訳文庫)を借りてきました。 予約したのは2月のはじめでしたから、およそ半年間も待ちわびていたことになります。 この二週間は「カラ兄」の世界にとっぷりと漬かっていようと思います。 ●今日の天気 晴れ。 ●今日の運動 お休み。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009/07/26 08:07:51 AM
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