カテゴリ:他愛もないことだけど、大切なこと
「巡査部長が、恐喝未遂容疑で逮捕・・・」 そんなニュース記事を一日に一件は見かけます。 「正義の味方」のはずの警察による事件とあって、インパクトがあることから記事になりやすいのでしょう。 こういう情報に接すると、「警察官って、ひどい人種だよね」なんて一括りにしてしまいがちなのが人間というもの。 誠実に職務を遂行するたくさんの警察官が陰日向にわたしたちを支えてくれているだろうに、ほんの一部の例外的な人間の不祥事によって「警察」そのものがおぞましい印象を伴うことになるのです。 そして、それは警察官に限らず、企業や学校、あるいは政治の世界でも同じこと。 ただ報道されないだけで、わたしたちの周りには小さなものから大きなものまで、悪事が渦巻いているのです。 人間が群れを成すとき、全員が善意だけを携えているなんてことは現実的にあり得ません。 生来の気質や不遇な生い立ち、あるいは職場・家庭での人間関係の不和や不満などなど色々ないきさつはあるにせよ、悲しいかな人間というものには他者が嫌がることをついついしたくなる性向が具わっているようです。 だから、どれだけ口酸っぱく注視して不祥事を起こさないように指導しても、撲滅できるものではないんじゃないかなぁという気がします。 逆にもしも悪事の皆無な人間社会があるのだとしたら、それはむしろ健全ではないとさえ思えてしまいます。 人間が集まって何かしら事を成そうとすれば、善意と同じくらい、あるいはそれ以上の悪意が存在していて当然なように感じるのです。 冷蔵庫が冷気を作り出すためには熱風を吐き出さなければならないように、物事を前に進めるためには善き力が働くその陰で、悪しき力も放出されなければならないと思うのです。 だから、大切なのはその悪しき力を封じ込めることではなく、その吐き出し方を工夫してできるだけ穏当に済ませることなのではないでしょうか? 管理者がストレスを溜めた部下を飲みにでも誘って少々乱れたっていいから思いのたけを聴いてあげたり、職場内でスポーツ大会でも催して、ちょっとくらい荒れてもいいから仲間同士で悪いエネルギーをぶつけ合わせたり、悪いものが出るにしてもその出方をうまく処理することが肝要ではないでしょうか。 そして、もっと大事なことは、悪事を働いてしまうごく限られた人ではない、多くの人々がささやかな善を持ち寄ること。 たとえ世間が眉をひそめるような事を仲間がしでかしてしまったとしても、日ごろからみんなが小さな善を積み重ねていれば、その集団全体が「悪」と見なされることは避けられると信じています。 逆に、もしも一人ひとりがささやかな悪を持ち寄ることが日常となってしまっている集団なのだとしたら、人目を引く大悪事が起こってしまっても、それは必然と言わなければならないでしょう。 要するに、人間集団の善し悪しは、ほんのひと握りのスーパースターや大悪人で決まるのではなくて、もっと総体的なもの、あるいはむしろ人目に触れることのない多くの「ごく普通の」人々の小さな積み重ねによって決まるのだと思います。 ということで、大悪人になることはないであろうわたしたち一人ひとりが、小さな善を心がけましょう。 道端にゴミが落ちていたら拾って廃棄したり、狭い道で人とすれ違うときには立ち止まって譲ってあげたり、本当にささやかでいいから善きものをこの世界に持ち寄りましょう。 わたしは、そんなふうに思います。 今日も健やかに過ごすことができて感謝します。 ありがとうございました!! 【三文日記】 テレビで野球中継を観ていたら、なんとなく見覚えのある映像が・・・ よくよく思い返してみると、その球場は子どもの頃に野球部の練習で訪れたことがあったのでした。 画面のなかで投手が立っているマウンドに自分も登ったのだと思うと、嬉しいような信じられないような不思議な気分になりました。 ●今日の天気 雨のち晴れ。 ●今日の運動 ジョギング30分。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010/07/07 06:12:49 AM
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