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ついに55才になってしまった。父は、昭和48年3月19日満55才の誕生日に国鉄公安職員の職を退職となった。もう、そんな年か(´へ`;)胸中は、複雑である。何故ならば、私の人生はこれから築いていかなければならないからだ。2度の大病により、本来ならば既に尽きている筈の「命」、余程この世の修行が足りないのか、2度も還された...(^^ゞ
経過は、日記や妻のつけていた看護日記、その他に書いてあるので省略するが、リハビリのメーカーに勤務していた時、所長から引き継いだ「月ヶ瀬リハビリテーション病院」のレイアウトから立会い検査までの日々、腰に爆弾を抱えている為に柔道整復師になった事、病院勤務時代は執刀医の対面にいた事などが大いに役立ち、今日に至っている。 しかし、4年前、意識不明から覚醒し「両足が動かない、両手もおかしい...」と気付いた時、脳が酸欠?状態でなければ自殺していただろう(たぶん)...日々ハッキリしてくる思考回路...しかし、実行する勇気がなかった...1.舌を噛んだままベッドから頭を下にして落ちる...2.舌を噛んだまま顎をベッドにぶつける...これが出来なかった...痛いだろうな~出血が止まらなかったらどうしよう~...などと、余分な事を考えるようになっていたからだ(´へ`;) 7人のDr.達から、「残された人生と思わないでください、足は必ず動く時が来ます。与えられた命と思ってください。助かったのは奇跡です、でもアノ状態で生き続けていた事の方が我々には奇跡でした。貴方なら出来る!我々は、そう思っています...」と、7回?も聞かされれば自然と憶えてしまうこの言葉に、日々「一体、何が出来るんだ...」と涙が止まりませんでした(´へ`;)息子が高校受験に失敗?(挫折)した時に、中澤先生(当時:入試110番)が息子に言ってくださった「今何が出来るか?今何をすべきか?そして、そこで何が出来たか?」を思い出していた... いつになったら退院できるのか?先が観えない生活に「死んでいた方が家族は楽だったな...」と考えたりもした。離婚してあげようかとも思ったが、一人ぼっちになってしまうので、それだけは言うのを避けた(´へ`;)結婚式の時には、滅多に出席されない北村院長先生(板橋)や婦長、そして看護婦さん達が暮れの忙しい時に、わざわざ静岡まで来てくださった程の看護婦だから...と、プラス思考した(^^ゞ しかし、「経理のひと」と結婚していたらどうなった事だろう...と思い出してもいた(書いてしまった)(^^ゞ 「お母さん、すまないねぇ~...」と、右手を揺らしながら某俳優さんを真似てもみた...「人口呼吸器のコンセントを外してしまえばよかったのに...」とも言った。「何を言ってるの(>_<)」と当然の如く叱られた。「こんな体じゃ、剣道できないよ...」と、弱音も言った。「何言ってるの、もうダメだよ!そんな事(>_<)」「そんな事?ミラクルマンだぜオレは♪」「はい、はい、そうね...」と、サジを投げられた。そんな事を思い出しながら又々長々と書いてしまった(´へ`;) あれから4年、奇跡(剣道五段合格)も起きた!息子も大学3年だ、娘も高2、神様はもう少し猶予をくれるだろうか? クリップが2個も入っている頭蓋の中は、オレが生存記録を創るしかない状態だ。毎年誕生日が来ると脳裏に蘇ってしまうのだ。 今朝も目が醒めた時「あっ、生きている...ラヴちゃん、腰が痛え~よォ~」と起きた... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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