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カテゴリ:手塚治虫とマンガ同人会
~山形マンガ少年~ 第三部 『熱い夏の日』 ●雑感その9 マンガ界が進化した時代 第933回 2007年5月27日 1960年後半、私が中学校のときは、マンガ家という仕事はマンガ家という先生と数人のアシスタントという弟子制度の中で作品を描いているという認識でおりました。 ところが中学二年生のときに、光文社月刊誌「少年」の付録に「マンガニカ」というマンガ界とマンガの描き方を紹介した特集号がありました。 この「マンガニカ」は藤子不二雄さんとスタジオゼロが中心に制作したものでしたが、この一冊で私のマンガ界とマンガ家に対する認識のズレに気付くのでした。 私にとって手塚治虫先生以外のマンガ家は、たとえ藤子先生や赤塚不二夫先生でも「新鋭マンガ家」であり、失礼ながらマイナーでした。 その新鋭作家たちの集団「スタジオゼロ」が新宿の一つのビルの中で、それぞれがプロダクション化して、マネージャーやアシスタントというメンバーが何人もおり、しかも編集者たちがその内容に深く関わっていることなど、当時の私には衝撃的事実だったのです。 つまり、マンガという原稿がマンガ家という監督によって、各得意分野の制作スタッフによって商品化されている実態を知ったのです。 こんなにもマンガ界は会社化す、システム化されて制作されているとは想像もしておりませんでした。 すでに劇画界はマイナーな世界の中で、プロダクション化し、自ら出版にも手を染めているところさえあったのですから。 当時のスタジオゼロには、他にも石森章太郎さん、つのだじろうさん、鈴木伸一さんらのそうそうたる売れっ子マンガ家たちがいたのですから、何もかもが新しいシステムの中で動いていくのは不思議ではないのです。 「マンガ界」は大きなうねりあげて進化していく時代でした。 (文中の敬称を略させていただきました) ~山形マンガ少年~ 第三部『熱い夏の日』 ●雑感その9 マンガ界が進化した時代 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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