火を点けて出ていくな!
まだ私がひとりで残っているのだから
第1057回 2009年8月3日
元・新自由クラブ代表
田川 誠一 氏 死去
それは8月6日だった。
私は劇作家Aさんと元県議会議員Nさんと二十数年ぶりの再会に立ち会った。
おふたりは再会を喜び、話がはずみ、Nさんのご招待で夕食をご馳走になった。
AさんがNさんとしばらく会わなくなったのは、Nさんが新自由クラブを離党して自由民主党へ入党したあらりだったことをNさんが話すのだった。
そして話は、Nさんの新自由クラブ入党から離党までのいきさつへと移る。
「あの人どうしている?」
そう、AさんはNさんに質問した。
「あの人……って?」
新自由クラブ代表(二代目)田川誠一氏のことだった。
田川誠一氏
神奈川県出身で朝日新聞社の記者から自民党所属の衆議院議員になった田川氏はハト派であり、河野洋平氏(前・衆議院議長、元・新自由クラブ初代代表)とはいとこの間柄であり、1976年に河野洋平氏らと一緒に自由民主党を離党し、新党「新自由クラブ」を結党した重要人物のひとりだった。
Nさんは河野洋平氏のもとへはせ参じて、この新自由クラブの準備に加わった。
その当時、Nさんは市議会議員2期目であり若干31歳。
前年には新市長を誕生させるために邁進し、見事に勝利した。
Nさんはその勢いで新自由クラブ結党ニュースの翌日には河野洋平氏のもとへ。恐いものがない時代だったのかもしれない。
金権政治イコール自民党。そして三木おろしなどで揺れ動く自民党の政権政党に疑問を持つ時代だった。
そして「中道路線」という民社党、公明党、社会民主連合らの連立政権の風が吹き始めたときに、保守中道政党としてこの新自由クラブは結党され、政界に風が起きたのだった。
1979年に河野洋平に代わって第二代代表に田川氏がなる。
しかし、自民党との連立や金権問題などから、そのブームも1980年になるとジリ貧となる。
この間、第2次中曽根内閣で自治大臣と国家公安委員会委員長を務めた。
河野洋平氏ら新自由クラブを離党し自民党へ復党する際に、田川誠一氏だけが新自由クラブに残る。
このとき、Nさんは田川氏の言葉が頭を離れないという。
「若いきみたちには未来がある。
自民党への復党もあるだろう。
しかし、(出て行く)きみたちには火を点けて出て行くことだけはやめてくれ!
たったひとりでもまだ私は残っているのだから」
その時の田川氏の凛とした姿は圧倒したとNさんは言った。
翌日8月7日に田川誠一氏が死去された。
91歳だという。
政権交代と新党ブームを作ったひとりの政治家の死は、マスメディアでは小さく報道された。
合掌
田川 誠一 氏 死去
http://mainichi.jp/select/person/news/20090808k0000m040121000c.html
田川 誠一 氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B7%9D%E8%AA%A0%E4%B8%80
新自由クラブ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96