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2009年06月14日
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カテゴリ:人生
5月20日にTBSで夜7時30分から、関口宏の「モトをたどれば・・・生き直しとは?迷う団塊」を見ました。
番組では、夫婦で第二の人生を探す人達のこと、退職をして夫婦が逆転した人達のこと等を紹介していました。
今回は私の半生を披露して、団塊の世代の人間がどのように生きてきたのか、お伝えしたいと思います。

団塊世代の特徴
番組では、団塊世代とは、あらゆる”つながり”を捨てて、効率を求め、競争に明け暮れて、仕事中心の人生を送ってきた人達であると、くくっていました。
確かにその通りです。
私達は家族とのつながり、地域社会とのつながり、親戚とのつながり、あらゆるつながりを絶って、会社人間になりきって仕事中心に生きてきたのであります。
私などは子供と一緒に遊んだり、食事をしたり、勉強を教えてあげたりなど数えるくらいにしか思い出すことができません。
妻は家庭のことをシッカリやって、夫は世間に出て100人の敵と戦っているのだと、決め込んでやってきました。
よくもまあ私の妻は、文句も言わずに、家事全般をやってきたもんだと、今更ながら感心いたします。
しかし、妻はシッカリと地域社会に溶け込んでいて、沢山の友人を作り、人との輪を作って生きていたのです。
遊びも大体が会社の同僚との遊びでした。ゴルフ、マージャン、カラオケ、飲み会.....
そして、妻も同じ会社に勤めていた女性でした。
会社とは切っても切り離せない関係になっていたのです。

悲しさ、目標
番組では、昔の友達との付き合い、近隣の人々との付き合い、そういうものがあってこそ人間が人間らしい生活を送れるのに、それがないのが団塊世代の人達だ、と言っていました。
悲しい人生と言えば言えるかもしれません。
しかし、目標はシッカリしていたような気がします。

家庭を持ったらテレビを買い、洗濯機を買い、冷蔵庫を買って少しでも良い生活をしたいと、頑張ったものです。
昭和57年頃には田中角栄の「日本列島改造論」が発表され、給料も年間50万円くらい上がったりしました。
その頃から、車を買おう、家を買おうと、次から次へと希望をかなえていった時代でした。
映画に出てくるアメリカン・ファミリーを夢見ていたのかもしれません。
為替が1ドル360円の固定相場制からニクソン・ショックの変動相場制になった直後でございますから、まだまだアメリカン・ファミリーの生活など夢のまた夢でした。

余裕なき生活
余裕のある生活はできませんでした。
子供が大きくなったら、高等教育を受けさそう、住宅ローンがあるからできるだけ貯蓄をしておこうと、切り詰めた生活をしなければならない時代でした。
私は金沢に実家があったのですが、家族4人で金沢まで旅行したことなんか一度もありませんでした。
その旅費を捻出するのが大変だったのです。
毎年、金沢に里帰りできるようになったのは、子供達が社会人になってからであります。

給料と住宅
給料も住宅も劇的に変わりました。
大学出たての22才の初任給が、月給2万2千円でした。
大田区池上の会社の寮に、相部屋でした。
それから結婚して、共稼ぎの給料が合わせて月給3万5千円でした。
住まいは、小岩駅近くの6帖1間で、トイレは共同で、バスがありませんでした。
子供が1人出来る頃には勤務先が変わって大宮の2Kに転居し、その後に上尾団地の2DKに移りました。
給料は会社を変わったこともあり、月給12万円位になりました。
子供が2人になる頃に船橋の新築マンションを買いましたが、3LDKとはいえ、60平方メーターくらいの狭いマンションでした。
給料もこの時期になると数年間にわたり年50万円位昇給したようです。
上の子供が3年生の頃にマンションを売却して、千葉市花見川区の5DKの一戸建てに転居しました。

会社の命令
一戸建てを買って、近所のソフトクラブに入ったりして、やっと、地域とのつながりができたかと思ったら、すぐに転勤です。
それも海外への単身赴任です。
会社の命令ですから逆らえません。
これでまた地域とのつながりも、家族とのつながりも絶たれてしまったのです。
海外での生活は約5年間でした。
2LDKのマンションで賄い婦つき、運転手つきの生活でしたが孤独との戦でした。
毎日毎日、接待されたり、接待したりで、酒席の連続でしたが、1人マンションに帰ってくると、孤独感がドット押し寄せてきました。
よくも、毎日毎日、強くもない酒を飲んで、孤独に耐え、体も壊さずに生きて帰って来れたなあと、今も不思議でなりません。

独立
海外赴任から帰国して、3年後に独立しました。
地域密着で不動産の仕事を始めたのです。
仕事柄、地域をよく歩くし、当然、多くの人々に会うし、また遠くの県からの転入者の方々もご紹介できたり、人々とのつながりを持てて、普通の人らしい生活ができるようになりました。
大学時代は法律が専攻で、社会人になってからはずっと営業畑だったし、会社を辞めてすぐに宅地建物取引主任者の免許をとって不動産業で修行もしたので、割とスムーズに新しい仕事に移ることができました。
そして、家族で一緒に食事をする機会もぐんと多くなりました。
しかし悲しいかな、子供達はもう私の相手をしてくれる年令ではなくなっていたのです。

団塊世代の訴え
団塊世代の人生は大体今まで述べましたようなパターンだと思われます。
仕事中心で、会社の命令に従い、家庭は妻に任せ、あらゆるつながりを切り捨てて、良い生活を求めて前進する。
会社を勇退する頃には、妻や子供達は広い世間に飛び出して、もう自分の手の届かない所に行ってしまっている。
自分だけが取り残されて、悩み、本当の人生を探してもう一度生き返そうとする。
しかし、そこには老人を受け入れてくれない世間が待っている。

団塊世代を代表して次のように叫びたい。
「妻よ、子供達よ、会社の皆さん、ご近所の皆さん、我々を嫌わないで欲しい。
我々が現在こうあるのは、時代の要求がそうさせたものであり、皆の幸福を願って、歯を食いしばって生きてきたのだ。」と。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。M担当記

千葉市,習志野市,八千代市不動産の未来タウン(株)ホームページ

2005-09-17 14:33:43 クリックお願いします














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最終更新日  2009年08月31日 14時10分08秒
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