2021/01/01(金)13:15
聖徳太子の予言「みろくの世」がいよいよ始まる!!!
2021年1月1日(金)
皆さま元日の朝いかがお迎えでしょうか。
聖徳太子の予言する「みろくの世「」がいよいよスタートします。
1月20日トランプ大統領の就任式が行われ、ゲサラの実行が具体的な日程にのぼってくるでしょう。
これは、聖徳太子の「みろくの世」予言と一体のものだと考えられます。
聖徳太子が「預言の書」を書き残していることはようやく知られるようになってきました。
日本書紀には聖徳太子の予知能力が「兼知未然」と明確に記載されていたのでした。
しかし、聖徳太子の「兼知未然」、未来予知能力とはいったいどのようなものなのかは記載されていません。
ですから、まさか「預言の書」まで残しているとは考えられなかったのです。
聖徳太子の「兼知未然」の能力を国立国会図書館の蔵書の中から掘り起こし初めて世に知らしめたのは飛鳥昭雄氏と山上智氏でした。
2001年に「聖徳太子の『秘文』開封」が出版され、続いて2008年「聖徳太子の秘文『未来記』開封」が出版されたのです。
「聖徳太子の『秘文』開封」には、楠正成が四天王寺に宛てた直筆のお礼状が写しが載せられているのでした。
四天王寺が公表した楠正成のお礼状だとされています。
このことは聖徳太子の予言の書が楠正成の時代に存在した疑いようのない証拠だと考えられます。
飛鳥昭雄・山上智『聖徳太子の「秘文」開封』より
聖徳太子は明治維新で都が京都から東京に移されることを予言していました。
楠正成は明治になって都が東に移って以来、皇居を守っています。
楠正成は後醍醐天皇の新政を実現する上で最大の功労者だとされています。
南北朝時代に後醍醐天皇は京都の南である吉野に朝廷を開いたことから「南朝」と呼ばれました。
後醍醐天皇の南朝の政治は長くは続かず、間もなく足利幕府に擁立された北朝に戻ってしましました。
それが明治維新まで続いてきたのです。
明治維新になって南朝の楠正成が皇居を守るようになったのは、明治天皇が後醍醐天皇の血統に繋がっているからだと言われています。
<ウキペディア>
「この写真は古くから知られており、明治28年(1895年)には雑誌『太陽』(博文館)で、佐賀の学生たちの集合写真として紹介された。この「フルベッキ博士とヘボン先生」という記事を書いた戸川安宅は被写体となった人々については一切言及していない[4]。日本滞在経験のある日本学の研究者ウィリアム・グリフィスはその著書『Verbeck of Japan』(1900年)の中で、フルベッキがアメリカに送ったこの写真は「のちに政府の様々な部署で影響力を持った人々」「のちに皇国の首相となった人物」が写されていると述べており、大隈重信と岩倉具定、岩倉具経らが確認できる、としている[5]。その後、明治40年(1907年)に刊行された『開国五十年史』(大隈重信編)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」のタイトルで掲載されている。」
前列中央(右からも左からも七人目)の方が明治天皇だと言われています。
向かって右から四人目の方が坂本龍馬、向かって左端の刀を支えにして立っている方が勝海舟、後列向かって右から十三人目の方が西郷隆盛だといわれています。
「フルベッキ写真」で検索するといろいろと出てきます。
聖徳太子の未来予言は「みろくの世」招来を意図したものだと思われます。
広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」は「聖徳太子の未来予言」を最終的に形に顕したものだと考えるからです。
この弥勒菩半跏思惟薩像は聖徳太子の御手製だと考えられます。
聖徳太子は正式な会議の席上で、並み居る諸大夫に「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏像をお祀りするものはいないか」と言われたのでした。
それに対して秦河勝が進んで申し出て、「臣(やつがれ)がお祀りしましょう」といったのです。
「私は尊い仏像を持っている」と言えるのはご自分のお手製であって初めて可能な言い方ではないでしょうか。
もしも、他から贈られたものであれば、「私は○○から贈られた尊い仏像を持っている」と贈り主を明示する筈なのです。
広隆寺資財交替実録帳の金堂の項には、「金色弥勒菩薩像」すなわち国宝第一号弥勒菩薩像について「所謂太子本願御形」されていることが伝わっています。
「太子本願御形」とは、聖德太子の御本願を形にしたものだと解釈できるのです。
太子のご本願を、太子以外の誰かが、広隆寺に収められている弥勒菩薩像として形に表すことができるのでしょうか。
それは聖徳太子ご本人でなければ出来ない話なのではないでしょうか。
太子と接触したことの無い国外の造仏師には絶対に不可能なことは明らかなのです。
これまで、この弥勒菩薩像が国外からのものだと考えられてきたようです。
それは日本書紀推古三十一年記が根拠とされたのだということなのです。
推古三十一年(623年)は、秦河勝が聖德太子から弥勒菩薩を預かった推古十一年(602年)からすると二十一年も後のことになります。
従って日本書紀の記載の仏像が広隆寺の弥勒菩薩とは別の仏像であることは明白なのです。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像には、赤松と楠木が合わせて使われていることが早くから知られていたようです。
楠木は朝鮮半島には自生していない木であるのでした。
これは湿度の高い日本の風土に適するように、わざわざ伸縮率の違う赤松と楠木を合わせて使うという高度な技術の現れなのでした。
聖徳太子は御本願の「みろくの世」を、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像として丹精こめて形に表したのではないでしょうか。
いずれにしましても、広隆寺の国宝・弥勒菩薩半跏思惟像は「所謂太子本願御形」であることは間違いないのでした。
イエスの没年33年と符合する預言開示の不思議
1678年に潮音禅師によって「先代旧事本紀大成経」が初めて世に出されました。
「先代旧事本紀大成経」は全72巻もの膨大な歴史書だったのです。
その69巻目に聖徳太子の予言書の「未然記」が含まれていたのでした。
これは、聖徳太子・蘇我入鹿=蘇我善徳が死んだ645年から1033年間の時空を越えて、まるで眠りからさめたように世に出たことになります。
1678年から、聖徳太子の殺された645年を引いた1033年は、イエスが磔刑となって死んだ33の数字を持っているのでした。
日本書紀による聖徳太子の没年は621年とされており、真の聖徳太子・蘇我入鹿=蘇我善徳の没年645年の丁度真ん中が633年であり、やはりイエス没年の33の数字なのです。
これはイエス没後600年となり、聖徳太子のもう一つの予言書「未来記」が自分の死後600年後の出来事から予言が始まっていることと対応しているのでした。
新約聖書ヨハネの黙示録の第22章は最終章です。
そこにはイエスの再臨が予言されています。
12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
平御幸さんによれば、それはイエスの没後2000年の後の最初の巳年2037年だと解読されています。
それがクフ王のピラミッドの女王の間に刻まれているとされています。
エフライム工房より
「そう。実は、最後の文字が日本に見つかるのです。しかも、エフライム系として分かるように」
「えー、日本にですかー!しかもエフライム系…?」
先生が問題としている文字は、一般には謎の図形とされているもので、それは図-6↑のようになっている。先生はこれを文字だとし、しかも日本に同じものがあると言う。
「先生、図形と言えば図形ですけど、文字と観れば文字に見える…?」と瞳は怪訝(けげん)な顔をする。
「でも先生、日本に同じものが本当にあるのですか?」私には記憶がない。
「実は、平家の傍流の家紋に同じものがあるのです」
「えっ、平家ですか?それならばエフライム系となりますけど…、一体どこの氏族ですか」
「それは三浦です」
「あの相模を支配した、平家なのに源氏側に付いた三浦一族ですね」
「そうです。その三浦の家紋の三つ引両(みつひきりょう)が、謎の図形の最後と同じなのです
ウキペディア
生命の樹
酒船石 令和元年2月飛鳥探真撮影
飛鳥昭雄さんと山上智さんによって、『聖徳太子の「秘文」開封』と「聖徳太子秘文『未来記』開封」の二書が出版されたことにより、聖徳太子に対する認識を根本的に見直さなければならないことになりました。
聖徳太子の予言書の存在を否定することは何人にも出来ないことになったからです。
しかし、「先代旧事本紀大成経」の69巻目に含まれる「未然記」の存在を認めることは、「先代旧事本紀大成経」を偽書扱いにしてきたこれまでのアカデミーの立場を改めなければならないことに繋がります。
それは大変に勇気のいることだと考えられます。
「専門家」としては無視するのが最も無難だということになるのでしょうか。
ところで、聖徳太子以外の誰かが、「未来記」と「未然記」の予言をすることが出来ると考えられるでしょうか。
聖徳太子の最大のブレーンだった秦河勝だったら出来るでしょうか。
聖徳太子と秦河勝では、お互いの天命における役割の違いにより分担されていたとと思われます。
「聖徳太子」は、イエスと同じく自分の命を投げ出すことによって、この地球世界に「みろくの世」を顕現する役目を持っている方なのではないでしょうか。
そして、21世紀の今に再び蘇って、「みろくの世」を造るための先頭に立つと考えられるのです。
広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」は、言葉によらずにそのことを予言しているのではないでしょうか。
聖徳太子の予言書の存在は、聖徳太子の実在の確かな証拠でもあるのでした。
『未来記』が預言する七難と三災
<聖徳太秘文『未来記』開封抜粋>(飛鳥昭雄・山上智)
【第七章/三】
一者大風難 二者大水難 三者大火難 四者大旱難 五者大暑難 六者大寒難 七者大雪難
又起三災 一者兵乱災 二者疾病災 三者飢饉災
【読み下し文】
一には大風の難 二には大水の難 三には大火の難 四には大旱の難 五には大暑の難 六には大寒の難 七には大雪の難
又三災を起こす 一には兵乱の災 二には疾病の災 三には飢饉の災
新型コロナウイルス騒ぎは、「二には疾病の災」で、まさにまさに、そのままですね。
しかし、「新型コロナウイルス」は85パーセントの人は大丈夫なのです。
もし感染したとしても死に至る人はわずかなのですからその時は諦めるしかないのではないでしょうか。
『未来記』が預言する七難と三災が全て今日の地球世界の状況に当てはまっています。
これに加えて「四には経済の災」を加えることが出来るのではないでしょうか。
しかし、現在の世界の状況を、「みろくの世」顕現のための予兆と観るか、人類の滅亡のための予兆と観るかの二つの道に分かれますね。
70億の人類は一人残らず、自分の自由意思によって、結果的にどちらかの道を選んで行くことになるということになるのではないでしょうか。
もう一度ヨハネの黙示録を観てみたいと思います
12:「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
13: わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
14: いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
都にはいるためには、自分で自分の着物を洗わなければならないとされています。
「イエスの千年王国」=「聖徳太子のみろくの世」の門は全ての人に平等に開かれているのではないでしょうか。
拙著「蘇る聖徳太子の真実」で、万葉集は聖徳太子によって始められたことを明らかにしました。
その証拠が万葉集第二の歌だったのです。
しかし、この本には書かなかったのですが、私は第一の歌も聖徳太子の歌ではないかと考えています。
何を言い出すやらとびっくりされるかもしれません。
万葉集入門サイトから引用します。
万葉集入門
万葉集巻一の一
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち堀串(ふくし)もよみ堀串(ぶくし)持ち
この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ)家聞かな 名告(なの)らさね
そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ
しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ
家をも名をも
《現代語訳>
籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も
この歌は第二の歌から150年も前の雄略天皇の歌とされてきました。
しかし、150年も前の歌が、何故に唐突に第一の歌として収録されなければならないのでしょうか。
その理由を合理的に説明することは出来ないのです。
入鹿神社のある小綱町の隣に「内膳町」があります。
聖徳太子の奥さんの膳部夫人は「芹摘妃」という別名があると伊勢物語に書かれています。
聖徳太子が芹摘みをしている膳部夫人を見染めて、斑鳩に連れ帰って奥さんにしたんだそうです。
聖徳太子である蘇我入鹿公は、中年になっても、蘇我馬子が亡くなるまではたびた太子道を通って飛鳥嶋庄を訪れていたはずなのです。
小綱町か内膳町あたりで芹摘みをしているうら若き膳部夫人を見染めてしまったのではないでしょうか。
芹摘みをしている膳部夫人を、母親の家まで行って断ってからその日のうちに斑鳩へ連れ帰ったのでした。
一目で惚れしてしまったということになりますね。
万葉集第一の歌はその時の聖徳太子の歌だとしたら何の矛盾も無く治まるのです。
もしそうだとしたら、聖徳太子は私たちが考えているような堅苦しい聖人ではなく、本当に人間臭い聖人だったということになってしますのです。
参考にこちらのサイトをご覧ください。
伊勢物語と仁勢物語
後日談:芹摘妃の正式な名は「膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)・膳大郎女」。身分は低い出自ながらも、聖徳太子にもっとも愛され、愛した妻でした。「芹摘妃」は、聖徳太子との間に、四男四女、八人の子供が生まれました。それゆえ聖徳太子は「死後は共に埋葬するよう」と言ったと伝えられ、聖徳太子が病に伏すと、看護し、共に同じ病に倒れ、太子が亡くなる前の日に没した。現在も聖徳太子と共に、同じ墓所で眠っている。
黒路よしひろ「万葉集入門」サイト
万葉集入門 (michikusa.jp)
万葉集関連書籍紹介 http://manyou.plabot.michikusa.jp/
2019年10月8日更新
蘇る聖徳太子の真実 著者/飛鳥真探・編集/佐宗知佳 (文芸社出版) 定価1400円(税別)
当サイト「万葉集入門」を鑑賞してくださっている飛鳥真探さんが、長年のご自身の研究成果をまとめた古代史論考「蘇る聖徳太子の真実 - 皇室は聖徳太子の血統を継いでいた」を上梓されました。
『日本書紀』に隠された暗号を解き明かし、真の聖徳太子の正体に迫ろうとする飛鳥真探史観の集大成。
■日本の歴代天皇は聖徳太子の血統を継いでいる
■日本の天皇には日本と朝鮮の血統が流れている
■善光寺は聖徳太子を祀る寺だった
■藤ノ木古墳に納められていた遺体は聖徳太子と膳部夫人である
■万葉集は聖徳太子によって始められた
など、実地に足を運び、自らの肌で感じ取ることでのみ見えて来る古代史論考の魅力がここに存在します。
また、万葉集においても、その序文が存在したであろうとの仮説を立てて、それぞれの歌に込められた暗号を大胆に考察。
謎の歌人、柿本人麿(柿本人麻呂)の正体と、その実像についても迫っていきます。
通説を疑うことによってのみ見えて来る<歴史の真実>。
万葉集論や古代史論は数多あれど、これほど大胆に通説を解体し、真実を再構成しようとした人物は飛鳥真探氏以外にはいないのではないでしょうか。
アマチュア研究家だからこそ出来る通説に縛られない自由な発想。
その歴史論考の大胆さに驚くとともに、そこに至るまでのしっかりとした下地の知識の豊さにも感動しました。
実地に足を運び、地元の人々と交流し、はるか過去の出来事に思いを馳せる歴史愛好家の醍醐味が詰まったすばらしい一冊を手に取って、ぜひみなさんも失われた歴史の瞬間を想像する楽しさを体感してみてください。
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