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子供達の姿に、今日一日さわやか
今朝の事でした。信号のない小さな交差点での事でした。 小学校の2,3年生でしょうか、 まだあどけなさの残る可愛い盛りの子供たちでした。 集団の登校にしては人数が多すぎる、でも遠足の時期にしては早すぎる。 社会見学なのでしょうか。 私が差し掛かる小さな交差点を2列縦隊で横切っています。 私の車に気付いた途端、渡るのを機敏に制止する子供の姿が目に入りました。 普段は腕白坊主おぼしき男の子でした。 いたずら坊主といっても言い過ぎではないような子供でした。 通りすがる私の車に向かって帽子を取って、 ごめんなさいと言っているのでしょうか、 言葉を発しながらお辞儀をしています。 それに呼応するかのように後ろに並んだ20人ぐらいはいたでしょうか、 ほとんどの子供が頭を下げてくれました。 思わずこちらも頭を垂れたのは反射的でした。 子供たちの姿には、 ほほえましかったり、 励まされたり、教えてもらったりするものです。 謂わば「背負うた子に道を教えられる」とはこの事なんでしょう。 人間お互いさま、 大人が子供に教えていると思うのは大変な間違い、 子供に、或いは子供を通じて学ぶ事、諭される事も多いものです。 子供は大人の鏡、大人は子の鏡。 子供は大人の言動を具に、しかも余すところなく、 隅から隅まで見ているものです。 私にも長男・次男・長女、3人の子供がいますが、 「親にしてこの子あり」と思しき様子が日頃から目に付きます。 時には「鳶が鷹を産む」こともないとは言いませんが遺伝子は不思議なものです。 肉体的なことのみではなくて、 精神的なこと、日頃の言動や小さなしぐさに至るまで良く似るものです。 今日の子供たちの行動に「あなただったらどうする」 と問いかけ反省ながら、一日爽やかに過ごせる事に感謝!!感謝!!。 「毎日出かけていく子供がいた、 最初に目にしたもの、 驚き、哀れみ、愛、あるいは恐れと共に受け入れたものそのものに、彼はなった。 それはその日一日、あるいはその日のる時間、 あるいは何年も、あるいは年の経めぐるずっと長いあいだ、 彼自身の一部になった。 詩人ウォルトホイットマン」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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