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「まごころと自我や 如何」・・・・・2回目のその3
ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。 私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。 まごころ―真心― 人間が「人間同士、或いは社会や自然と対峙したときに、健康的で優しくて、暖かくて、より発展的で、時には厳しいときもあるかもしれませんが、事のあるべき姿を追い求める心」でしょうか。 (昨年の12月27日に戴いた時と幾らか成長していると嬉しいのですが。) 言わば天意にも通じるのでしょうか。 人は心を通わすときに、自分の都合の良い様に、自分の優位に働くようにとつい言動するようになりがちなものです。 相手の立場や優位性、あるいは自分の立場や思惑を別として人として偏らない真実のあり方が貫けたらどんなにか素晴らしいとも思いがちですが、極めて困難な判断を求められそうです。 人の事を尊重する余りそっちに偏った判断や言動になってみたり、時には自分へ思惑的に優位に働かせようとする判断が出てしまったりもするものです。 ただ中庸を求めるのではなく、真の心のあり方に基づいた行動や発言、誘導が出来るといいのですが。 自我について 難しいところですが、 「自分を優先してしまう心、或いは自分自身を中心的な存在であると思う心、他人を蔑み、或いは排除する心、他と比較する心」とでも言うのでしょうか。 自我が存在しないと、人そのものでなくなってしまいますしバランスを失って自我が勝ち過ぎると利己的、自己中心的、我田引水的な人として見られるのかもしれません。 人間の自我の目覚めは3歳頃からと言われますが、結局は自分を意識することは自我を意識することに等しいようにも思われます。 人として備わっていなければ困る「まごころ」と自分の存在を強く求め優位性や他を排除し、中心的立場を守り抜こうとする自我があらゆる場面で葛藤を繰り返し、時には自分さえも見失ってしまい事さえ出てきます。 和平先生のお言葉のようにそれ同士が競い合いながら、調和を重ね繰り返しながら個としての人が出来上がっていくのでしょうね。 人は自分の中でも数々の自問や葛藤を重ね、人との関わりの中でも苦悩や挫折や争いを繰り返し、自然とも命を張った闘いが存在するものです。 まごころと自我、そして内在する煩悩との鬩ぎ合いの中でいかに自分の確立を高めていくのか、それが修行と称したり精進ということなのでしょう。 明日の自分が何処まで確立できるのか、それが人生の大きな楽しみでもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.20 07:40:52
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