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「因果と輪廻の天法や 如何」・・・・・2回目のその7
ある著名な先生から頂いたお題に対する私の思いです。2回目の参加です。 私の個人的な思いですので夫々の方で違って当たり前。皆さんもご自分に問うてみては如何でしょうか。 とりわけ、私共の言動、或いは過ごし方、関係のあり方とでも言うのでしょうか。 それには拠り所として、「いい事を続けていればそれなりにいい事が自分へも巡ってくる」とか、「悪い事をしたら悪い巡り会わせや報いがある」と信じたものです。 因果とは 物事や精神的は働きには全て原因とその結果が存在すると言われます。 当然、人の為になる言動や幸せをもたらした行いにはそのお返しとしての結果、自分へも幸せが巡ってくると信じたものです。 逆に悪い言動、人を不幸に陥れる行動はそのうち自分事態が奈落の底や地獄を味わうと諭されてきました。まさしく因果応報です。 人生を重ねるとそうでもない側面に遭遇する事も少なくはありませんが、大よそ世の中はその様に出来ているようにも理解できます。 或いは人間は比較的に打算が働きますから100%そうだとなると、全ての人間が善良になってしまいますし、人間社会の面白みや悩み苦しみも殆どなくなってしまい、逆に無味乾燥な人間臭さもなくなってしまい、それこそ因果などという言葉さえも存在しないのかもしれません。 輪廻とは 人間の体はいつかは屍となり、土に戻り朽ち果てるものとなりますが、それもいつしか体を変えて戻ってくると信じられます。 同じように自然界も狂うことなく、めぐり来るものです。 輪廻転生と言われる様に、前世の事はこの世に、この世の事は後の世に、命や形を変えても巡っていくと言われます。 そのこと故に、次なる世の自分の姿までをも思い描き、精進を重ね、悟りを開くまでは無くても努力を重ねるもののようです。 天法とは 人間は長い歴史の中で、因果応報を考え、輪廻転生を胸のうちに出来るだけ穏やかに健やかに、安らかに生きたいと願ったのでしょう。 その人間の本来としての道、歩み方、心構えとでも言うのでしょうか。 それが天法なのではないかと思いますが如何でしょうか。 人は常に嘆き苦しみ、葛藤を繰り返し、欲に取り付かれ、人を妬み、物の虜になるように出来ているように思います。 人間本来の姿はこうなんだと、常に繰り返す魂が何処から与えられるとも無く夫々の人間に備わっているのではないでしょうか。 天法を貫こうとする魂と、それを妨げる魂とのぶつかりあいが常に交錯し、様々な悩み苦しみを作り出しております。 人の歩みは常に誘惑と欲の歴史であって、天法との狭間にあってもがき苦しむものです。 でも、それが人としての存在であり由縁なのではないでしょうか。 欲と誘惑から開放された人間社会は果たしてどうなんでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.24 09:02:14
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