カテゴリ:古今東西のお語
<中編の続きより>
海の色も、山の姿も、そっくりそのまま昨日につづく今日であった。しかし八年の歳月は住む人と取り巻く社会を大きく変えた。日華事変が起こり、日独伊防共協定が締結され、国民精神総動員の運動が生活を監視した。戦争がすべてを支配した。 大石先生は三人の子の母となっていた。長男の大吉、次男の並木、末っ娘の八津。春から学齢に届く長男のランドセルを買いに町に出た先生は、帰りのバス停で降りてくる人のとび上がるほどの大声に驚かされた。 「あっ、小石先生!」 声のほうを見れば、かつての岬組みの男の子たちのたくましく育った姿がバスから次々と現れて、先生も大声で叫んだ。 「あらっ、仁太さん! あら あら みんないるの まあ」 「先生、しばらくです」 「先生、ごぶさたいたしまして」 今日この町の公会堂で徴兵検査が行われていたのだった。抱く感慨にぼやけはじめた五人に、先生は昔の元気さでつと送り出した。 「さ、いってらっしゃい。そのうち、みんなで一度、先生とこへ来てくれない」 見送った教え子のうしろ姿はその後も脳裏に残った。兵隊墓に白木の墓標がふえるばかりであるのに、それを褒め称え、続くことを名誉とせねばならないのだ。なんのための勉強だったのか、無事帰ってくるのは幾人あるだろう。女とて待ち受けるものに変わりはない。このランドセルを与える大吉もやがては砲弾の的になるのかと思うと、産むこと、育てることの意味を見失って滅入った。小学生の子の母でさえそれなのにと思うと、何十万何百万の日本の母たちの心というものが、どこかの掃きだめに、塵芥のように捨てられて、マッチ一本で灰にされているような気がした。 日毎に広がっていく戦線の逼迫は、入営からすぐ戦線へと送り出された。船着場の桟橋に建てられた歓送歓迎アーチは年中どよめいていた。また絶え間なく、声なき「凱旋兵士」の四角な、白い姿がアーチへと戻ってきた。 「からだを大事にしてね」 「名誉の戦死など、しなさんな。生きてもどってくるのよ」 彼らを送る日、教え子だけにしか聞こえないように、声をひそめて言った。いくばくかの餞別と、かつての岬組み一年生みんなで撮った写真をハガキ大に再製して渡した。よろこばれた。 「先生だいじょうぶ、勝ってもどってくる」 そういう声の、もどってくる、は辺りを憚るようにひそめられていた。 教え子たちは出て行ったまま一本のたよりもなく、その翌年の半ばも過ぎた。ミッドウェーの海戦の報は不安とあきらめに村人を追い込んで、ひそかに御百度を踏む母などを出した。 * * * それからの五年は、大石先生にとって悪夢の五年間だった。一億玉砕の掛け声のもと、学徒は動員され、女子供は勤労奉仕に出た。村から若い者はいなくなった。校庭の隅で本を読む二宮金次郎も、何百年来、朝夕を知らせてきたお寺の鐘までも、戦争に行った。 長男の大吉は戦中しか知らないためか、母よりも軍国の少年の面子を重んじるようになっていた。病気休暇で戻っていた父に乗船命令が来たときは、父が戦争に行くことを大吉は喜こんだ。一家揃っていることが子供に肩身の狭い思いをさせるほど、どこの家庭も破壊されていたのだ。 「みんな元気で大きくなれよ。大吉も、並木も、八津も。お母さんを大事にしてあげるんだよ」 病人まで引っ張り出さねばならない状況から、終戦の近いことが窺われた。が、同時に戻ってこれないことも察せられた。サイパンを失う少し前に戦死の公報が届いた。 「しっかりしようね大吉、ほんとにしっかりしてよ大吉」 大吉を抱き寄せて、自分をも励ますようにいう母だった。 ほどなく終戦を迎えたが、とにかく物がなく食べ物もなかった。海辺にいて魚さえ手に入らないのだ。一匹のめばる、一つの卵に何度も頭をさげねば手に入らなかった。先生の母、おばあさんは、防空演習で転んで寝たきりになって、医者も薬もなく、せめて美味しいものをと母一人かけまわるのだったが、お寺にお坊さんもいないことを悔やみながら死んでしまった。 一番悲しかったのは突然の八津の死だった。急性腸カタルだった。青い柿の実を食べたのである。昨日まで元気だったのが一夜のうちに夢ときえた八津のいのち。 戦争はすんでいるけれど、八津はやっぱり戦争で殺されたのだ。── 近年、柿も栗も村の木はどれも熟れるまで実をつけていたことはなかった。待ちきれなかったのだ。子供たちはいつも野で、茅花を食べ、いたどりを食べ、すいばを齧った。土のついたさつまは生で食べた。 亡骸を納める箱も箪笥を潰さないと作れなかった。疫痢という噂が立って誰も来てくれぬ通夜の枕元で、わずか一年の間に三人の家族を失った母と大吉と並木は、八津の棺にめいめいの思い出の品を入れて、八津の死出の旅路を見送った。 こういうことがあって、大石先生は急に老けたのである。白髪は増え、小さな身体は痩せてよけい小さくなった。四十であったが、七八つは老けて見えた。 大石先生が再び教職に戻れたのは、教師を目指した教え子のサナエが本校にいたからである。サナエが教頭に再三頼んでようやく先生を岬の助教にしてもらえたのだった。四十ゆえの悪条件だったが、大石先生の目は輝いた。 「岬なら、願ったり叶ったりよ、まえの借りがあるから」 やくそく したぞォ…… 遠い記憶が先生の心によみがえった。 そうして十八年ぶりに先生は岬へ向かった。ふた昔まえ、洋服と自転車で人に先駆けた彼女も、今は白髪混じりの髪を無造作にひっつめ、紺がすりのモンペで、息子の舟で送られている。 昔のままの教室に入ると背骨はしゃんとしてきた。子供たちの顔が希望にもえているように見えた。十八年を隔てて昨日に続く今日の錯覚にさえとらわれた。 「名前を呼べば、大きな声でハイと返事をするのよ」 先生の声は若くはりのある声だった。 * * * ミサコが挨拶に来た。 「先生、この度はまた、不思議なご縁で勝子がお世話になることになりまして」 かつての教え子のその子供たちが岬の教室に数人いたのだ。昔の元気さでいくつもりが、面影に立つ亡き教え子ばかりが偲ばれて、きてみると泣けて泣けて、泣けることばかりが思い出される小石先生だった。 「サナエさんと相談したんですけど、岬組みで先生の歓迎会をしようかって」 「まあうれしいこと。何人いますの」 「男が二人、女が三人。小ツルとマッちゃんも呼ぼうといってますの」 「マッちゃんて、川本松ちゃん?」 長く行方不明だったが戦争中にひょっこり戻ってきたのだという。しかしフジコは行方不明のままだった。コトエは行年二十二歳で他界した。 「ちょっとお墓へ参りましょうか」 二人は近くで水をもらって墓地に立ち寄った。コトエの墓で倒れていた位牌をとって胸に抱くと、涙が溢れた。摘み花のマユミの葉をとり、奥の兵隊墓へと上った。日清、日露、日華と順を追って古びた石碑に続いて真新しい墓が並んでいた。仁太、竹一、タンコの三名がそこにいた。 ソンキは失明して除隊になり帰っていた。「いっそ死んだほうがましじゃ」とばかり言っていたらしい彼が、あんまの弟子入りをしたと聞いてほっとした先生だった。 春草の萌えだした中からタンポポやスミレを摘んで供えると、二人は黙って墓地を出た。 いつしか新しい教え子たちが集まっていた。 ── 泣きみそ せんせえ 泣きみそ せんせえ 「どうも、へんなあだ名よ。こんどは泣きみそ先生らしい」 小石先生は笑いながら、まだ知らぬらしいミサコにいった。 若葉の匂う五月の日曜日、歓迎会はマスノの料理屋で行われた。ミサコとサナエが迎えてくれた。マッちゃんは先生を独り占めするほどに再会を喜んだ。「こんなざまになりましてな」と盲目となったソンキが挨拶すると、先生は手を取ってひいた。キッチンは大きな魚を持ってきた。ソンキは如才無く「みな、うらに気兼ねせんと写真の話しでも何でも大っぴらにしておくれ」といった。 先生に皆で会いにいったあの時の写真が小ツルから出されると、ソンキが指で押さえながら言った。 「この写真は見えるんじゃ、まん中が先生じゃろ。その前にうらとタンコと仁太が並んどる。これがフジコで、左の小指一本握り残して手をくんでいるのがマッちゃん」 音楽学校の夢の叶わなかったマスノが窓の手すりに寄りかかって歌い始めた。 ♪ あした浜辺を さまよえば 昔のことぞ しのばるる 風の音よ 雲のさまよ 寄する波も かいの色も ゆうべ浜辺を もとおれば 昔の人ぞ しのばるる 寄する波よ かえす波よ 月の色も 星のかげも <終> ~~~~('')/~~~~~~~('')/~~~~~~~('')/~~~~~~~('')/~~~~~ 最後の唄、小説では『荒城の月』です。 ♪ はるこうろうの はなのえん めぐるさかずき かげさして 『浜辺の歌』は木下作映画より。 ここはぴったりはまる唱歌がいくらでもありそうですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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