758089 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ねこログ

ねこログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2018.07.23
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

シジュウカラ(シジュウカラ科)


コアジサシ(カモメ科)


メジロ(メジロ科)


アオサギ(サギ科)


リュウキュウツバメ(ツバメ科)


シロチドリ(チドリ科)


セッカ(ウグイス科)


ハシブトガラス(カラス科)


セイタカシギ(セイタカシギ科)


ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


オグロシギ(シギ科)


クロサギ(サギ科)・白色型


セッカ(ウグイス科)


シマキンパラ(カエデチョウ科)


キセキレイ(セキレイ科)


タカサゴモズ(モズ科)


クロサギ(サギ科)・黒色型


ヒヨドリ(ヒヨドリ科)


スズメ(ハタオリドリ科)


キョウジョシギ(シギ科)


ヒバリシギ(シギ科)


チュウシャクシギ(シギ科)


シマキンチャクフグ(フグ科)またはノコギリハギ(カワハギ科)、「第一背びれがあれば後者」、とのことだが(笑)、「第一背びれ」が、どこなのか?はたまた、ないのか、それとも折り畳まれているのか?、残念ながら、わからぬままだ。


クマノミ(スズメダイ科)


アミアイゴ(アイゴ科)・幼魚、方言名「すく」
国際通りの土産物屋などに(笑)、瓶詰で売られている「すくがらす」は、「すく・辛子」であり、これを一網打尽にして泡盛と島唐辛子、ナス科のトウガラシと同一種と思われる、に漬け込んだものだ。二十年ばかり前に一度食べたことがあるきりだが、著しく辛く、ごく少量を島豆腐の上に薬味の様にのっけて食すのがよいようだ。


オグロトラギス(トラギス科)


スベスベマンジュウガニ(オウギガニ科)


ハマフエフキ(フエフキダイ科)、方言名「たまん」


ヒトヅラハリセンボン(ハリセンボン科)


ゴマモンガラ(モンガラカワハギ科)
海の中で出会うと、慌てて(笑)、そのフリルのような(笑)鰭をはためかせて、それがいやがうえにも「一生懸命」という雰囲気を醸し出す、そうして、逃げる。あまりにも愛らしいので、申し訳ないが、「追いかけて」(笑)しまう。


ノコギリダイ(フエフキダイ科)、コクテンサザナミハギ(ニザダイ科)、アカヒメジ(ヒメジ科)、など。


アミチョウチョウウオ(チョウチョウウオ科)、ノコギリダイ(フエフキダイ科)


メガネスズメダイ(スズメダイ科)


ノコギリダイ(フエフキダイ科)、モンツキハギ(ニザダイ科)、ヤマブキベラ(ベラ科)、など。


デバスズメダイ(スズメダイ科)


ヒレナガカンパチ(アジ科)、ではないか?と思っている。


ミナミダテハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)


リュウキュウツヤハナムグリ(コガネムシ科)


リュウキュウドウガネ(コガネムシ科)


オキナワハンミョウ(ハンミョウ科)


カバマダラ(マダラチョウ科)


コセアカアメンボ(アメンボ科)


クロイワニイニイ(セミ科)


クマゼミ(セミ科)


ハラボソトンボ(トンボ科)


アオモンイトトンボ(イトトンボ科)


ウラナミシジミ(シジミチョウ科)


クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)


リュウキュウカジカガエル(アオガエル科)・幼生


ホオグロヤモリ(ヤモリ科)


こんなことになっちゃったのは「我から」、つまり自分のせいなのだから、泣き言をいって世を恨むのはよしましょう、って言っているのかな(笑)?
フヂは元来葛類(かずらるい)全体の総称であって、必ずしも紫の花を垂れて咲く藤一種には限っていなかった。人も知るごとく河内の葛井寺はフヂヰデラと読んでいる。昔の藤布の中には紫の藤でなく、たとえば貴人の喪服(もふく)にも用いられたという藤衣(ふじごろ)もなどは、或いはまた別種の葛の繊維をもって織ったものだったかも知れない。
・・・
羽織(はおり)などという引掛かって仕方のないものを流行はやらせ、帯などという大袈裟(おおげさ)なものを腰にまとい、奥様が帯をしているのやら帯が奥様をしているのやら、分らぬような恰好(かっこう)をしてあるき、或いは年中作り物のような複雑な頭をして、笠(かさ)も手拭(てぬぐい)もかぶれなくしてしまったのは、歌麿(うたまろ)式か豊国(とよくに)式か、とにかくについこの頃からの世の好みであった。いわばほんの一時の心得ちがいであった。深窓の佳人ならばそれもよかろうが、中以下の家庭の女がそんな様子をして生きて行かれるはずがない。だから女の働く風は、いずれの国でも大体昔から定(きま)って変らなかったのである。それが芝居を見ると十二単衣(ひとえ)を着て薙刀(なぎなた)を使ってみたり、花櫛(はなぐし)を挿して道行(みちゆき)をしたり、夏でもぼてぼてとした襟裾(えりすそ)を重ねた上●(じょうろう)が出て来るが、それはまったく芝居だからである。
「木綿以前の事」柳田国男(青空文庫)
粃/秕(しいな):殻ばかりで中身のないもみ。うまく実らないで、しなびてしまった果実。中身のないもの。価値のないもの。
***
She got up from her bed, where she had been lying and taking turns reading two novels chapter by chapter, and with leaden feet moved to the door.
Americanah/C.N.Adichie(4theState.co.uk)
ベッドの上で二冊の小説を一章毎、かわりばんこに読んでいた彼女は、起き上がり、重い足を引きずってドアの方へ向かった。
アメリカに住み始め早速重篤なdepressionうつ症状に見舞われたイフェメルであるが、「二冊の小説を一章毎、かわりばんこに読んで」と、「英作文」せよ、といわれても思いつかないだろう(笑)、だからメモしておいただけだが、同じく重篤な鬱状態にある(笑)私も、しょっちゅう、読みかけの本を放置したまま、新しいものに手を出し、ひどいときには十冊ばかりを、一章毎に(笑)読んだりしている。ずっと以前に読んだ筈の「木綿以前のこと」もそんなふうに、何のきっかけだったか忘れたが、読み直し始めた。木綿以前に、どんな繊維が、衣料として用いられていたのか?同書は、その論点からは早々と離れて話題は多岐に広がっていくのだが、「綿」がとりわけ気がかりになったのは、当地の街路樹などにしばしば植栽されているトックリキワタ(パンヤ科、または、アオイ科)、その名「木・綿」の通り、ピンクや白の艶やかな花の後、果実が割れて「綿」を吹き始める。花時が秋の終わり、綿は年明け後の頃だったと思う、その植物が、「木綿」の原料植物、ワタ、と分類上はそれほど遠くない種であることを知ったからだな。
当地で、発病(笑)する以前、まだ付き合いのあった人々の中には、芭蕉布の機織りや、藍染をしている人達がいた。当時はそんな事柄に少しも興味をもたず、こうして不義理をして離れてしまってから、改めてこっそり調べてみたりするのは、もとより、「罪滅ぼし」、トラウマ経験に対する「治療行為」であることもまた、言うまでもない。
***
樋口一葉の最後の作品が「われから」、甲殻類ワレカラ科の生き物、浅い海の藻に付着して生活、
海女の刈る藻に棲む虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ(古今和歌集)
こんなことになっちゃったのは「我から」、つまり自分のせいなのだから、泣き言をいって世を恨むのはよしましょう、って言っているのかな(笑)?

その、甲殻類ワレカラ科は、もともと貝の一種と思われていたらしく、それにしては殻が柔らかく割れやすいので「割れ殻」となった、とも言われる。以前、海岸の潮溜まり、「いのー」で見つけたものの、名前がわからなったエビ様の生き物、ひょっとしたらこいつがワレカラ?、とも思ったが、いや、違うような気もして(笑)。一応、掲げておく。
今から思えば、結構ロマンチックな時間ではなかったかと、少し切なく、懐かしい。
これ(↑)の、5:11あたりに登場する筈である。


進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛(から)きジスイリュージョンを甞(なめ)ている。
Ifemelu fanned herself with a magazine. "It's so hot." she said. At least, these women would not say to her "You're hot? But you're from Africa!"
Americanah/Chimamanda Ngozi Adichie(4TheState.Co.UK)
イフェメルは手にした雑誌を団扇代わりにしてあおぎつつ、「暑いわね」と言った。少なくとも、ここの女たちは、「あら、暑いって?でも、あんた、アフリカから来たんでしょ?」とは言わないことは、わかっていたから。
「アメリカーナ」チママンダ・ンゴズイ・アディーチェ
ブレイズとかコーンローとか言う独特の髪の編み方があるようで、ここはニューヨークの、そういったアフリカ人専用の髪結いの店、店主はコートジボアール出身、従業員も、セネガル、ベニン、ガーナ、そして、客のイフェメルはナイジェリアである。プリンストンだったか、エリート大学の「フェロー」、お前らみたいな非・知的階級にそんな言葉説明してもわからんだろ?とばかりに、ともすれば高飛車に構える彼女も、心置きなく「暑いわね」と言える(笑)連帯感をかみしめている。
今年首都圏の会社に就職した、倒産した予備校の(笑)最後の生徒の一人、私の(笑)「一番弟子」は、沖縄のことに多少の関心でも持っていない限り読むことすらできないような(笑)典型的な「うちなー」苗字で、新人歓迎とか何とかの折に、ともかく名前を呼ばれるたびにひと騒動もちあがる、くらいの(笑)歓迎ぶりで、「パンダの気持ちが少しわかったような気がします」と、メールに書いて寄こしたものだ。彼らもまた、「え、暑いの?沖縄出身なのに?」、と、夏になるたびに問い返され、それがいささかの悪意を帯びたものでないだ・け・に・、あいまいに微笑み返すしかないことを、学んでいかなければならないのだろう。気が付いたら(笑)、私もまた、少しこちら、つまり、「パンダ」の「側」に(笑)身を寄せているようである。
***
病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他(ひと)も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前(いちにんまえ)働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑(のどか)な春がその間から湧わいて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。
・・・
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫(つら)ぬき、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間すきまなく発展して来た進化の歴史と見傚みなすとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁(ページ)を埋うずむべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭(ひゃくせきかんとう)に上のぼりつめたと自任する人間の自惚(うぬぼれ)はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯さかのぼっては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点(がてん)せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛(から)きジスイリュージョンを甞(なめ)ている。
・・・
生死とは緩急(かんきゅう)、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束(ひとたば)に使用される言葉である。よし輓近(ばんきん)の心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく掌(てのひら)を翻ひるがえすと一般に、唐突(とうとつ)なるかけ離れた二象面(フェーゼス)が前後して我を擒(とりこ)にするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係を迹付(あとづ)ける事ができよう。
 人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、明日あすは残りの半分の半分を喰え、その翌日(あくるひ)はまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してから幾日目(いくかめ)かに、ついにこの命令に背そむいて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手を拱(こまぬ)いて空むなしく余のこれる柿の一片(いっぺん)を見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件の下(もと)に与えられたる一個の柿は、生涯(しょうがい)喰っても喰い切れる訳がない。希臘(ギリシャ)の昔ゼノが足の疾(と)きアキリスと歩みの鈍(のろ)い亀との間に成立する競争に辞(ことば)を託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容を構成(かたちづ)くる個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その半なかばずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理に愚弄(ぐろう)されるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を免(まぬか)れて、生から死に行く径路(けいろ)を、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。
・・・
大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己おのれらの寄り集って拵こしらえている全部に対しては風馬牛(ふうばぎゅう)のごとく無頓着(むとんじゃく)であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。
「思い出す事など」夏目漱石(青空文庫)
漱石「思い出すことなど」は1910年―1911年朝日新聞連載、「修善寺の大患」後に書かれた。高橋源一郎は「日本文学盛衰史」執筆のために、暗記するほど読み返した、と言っている。後に引用するが、少し前の「満韓ところどころ」の散漫さに比べれば、目を見張るばかりの密度、と言わねばなるまい。何がそうさせたか?もちろん「死」が、そうさせた、とは言えるでしょう?幸徳秋水処刑を期に急速に「社会主義」に接近した石川啄木、朝日への掲載を約束しながらその原稿、「時代閉塞の現状」を握りつぶしてしまったことが、ずっと後に「こゝろ」の「K」への鎮魂として、また「明治の精神」が終わってしまった、との、どう考えても唐突な述懐として結実するには、なおそれだけの時間を要した、それほどまでに、「幸徳事件」が、「明治」の「知識人」にもたらした絶望は、深かった、との認識は、もうこの頃は、確信にまで(笑)高まりつつあります。
明治幕藩政府は、筋金入りの「ならず者国家RogueNation」でした。琉球処分・廃藩置県を敢行した初代沖縄県令・奈良原繁は、「池田屋事件」で何人も「人を斬った」侠客です。ロベスピエールであれレーニンであれ、「革命政府」というものはそういうものだから、ことさら眉を顰めているわけではない、ただ、○○政権は政府を私物化するな!などと言う文言を耳にするにつけ、およそ、「私物化」されなかった政府、などというものがあり得たのか?世界中の厖大な人々の中に、フランス革命・アメリカ独立革命さえな・か・り・せ・ば・、という見解が、歴史に「仮定」を持ち込むべきでない、とはいうものの、充分にあり得ると同様、この国の「明治維新」も、また、なくてもよかったもの、と「読み直す」ことも可能かと、思い至った次第です。
***
しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害そがいすべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰めいせきになっている。曰いわく、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲もうけなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
 かの早くから我々の間に竄(入ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」石川啄木(青空文庫)
「我等の一團と彼」石川啄木(青空文庫)
***
「最後の大杉」内田魯庵(青空文庫)
***
世界は、ほとんどの時間、世界の『システム』に対して闘いを挑む人々に対して冷淡でした。しかし私たちは、真にこれらの支援を必要としている人々に思いを馳せる必要が、依然としてあると思います。
メイ・シゲノブ-革命の子供。アル・ジャジーラ記事。
***
それにしても、この時代、荒れ果てた東京で、猫や犬の死骸を片づけたり、浮浪者を助けたりと、穢●多非●人たちは誠実に努力をした。だが、一段落がつくと、そのようなことはすぐに忘れられ、清めた人達のほうをう・と・ま・し・く・見たりするのである。清め(浄め)が汚れ(穢れ)に反転してくるのである。清・め・が・汚・れ・に・反・転・す・る・―このパラドックスこそが、前近代の医者や僧侶への見方もふくめて、日本の差別意識の最深部にある。
「弾左衛門とその時代」塩見鮮一郎(河出文庫)


まず、奪っておいて、次に、お前には何もない、と言う。
「大逆事件(幸徳事件)」
1910(明治43)5/25発覚、6/1幸徳逮捕
1911(明治44)1/18判決、1/24幸徳処刑
石川啄木
1910(明治43)5月~6月「我等の一団と彼」
1910(明治43)8月下旬「時代閉塞の現状」(1910、8月「朝日新聞」文芸欄掲載の魚住論文への反論
1910(明治43)9/115「朝日歌壇」選者となる
1911(明治44)1月、幸徳弁護人平出修から幸徳「意見書」を借り出す
1911(明治44)5月「A Letter from Prison」
1912(明治45)4/13没
夏目漱石
1910(明治43)3月~6月「門」(朝日新聞)
1910(明治43)8/24「修善寺の大患」
1910(明治43)10月~1911(明治44)4月「思ひ出すことなど」(朝日新聞)
1914(大正3)「こゝろ」4/20~8/11(朝日新聞)
森鴎外
1910(明治43)6月「普請中」
1910(明治43)3月~1911(明治44)8月「青年」

***
フィリステル:philistineなら「ペリシテ人、俗物、実利主義者
森鴎外「普請中」より
***
拊石は上あがり口ぐちで大村を見て、「何か書けますか」と声を掛けた。
「どうも持って行って見て戴くようなものは出来ません」
「ちっと無遠慮に世間へ出して見給え。活字は自由になる世の中だ」
「余り自由になり過ぎて困ります」
「活字は自由でも、思想は自由でないからね」
・・・
「青年」森鴎外(青空文庫)
「拊石」は、夏目漱石に擬せられた作家、「大村」のその弟子の一人の設定。この作品には鴎外自身と思しきものが「鴎村」なる名で登場し、なかなか、自虐的に(笑)描かれている。
「幸徳事件」の全過程を通じて、「権力」中枢に位置していた森鴎外が、その詳細を知らなかったわけがない。にも関わらず、「思想は自由でないからね」くらいのことしか言えなかったことを「恥じた」からこそ、この作品が、なかなか無様な中断をしていることを、むしろ(笑)好感をもって眺めることができるくらいだ。
***
「『罪と罰』の殺人罪」北村透谷(青空文庫)
「學海居士」は、依田学海。
「罪と罰」は、真顔で(笑)、探偵小説、と受け取られていたようだね。内田魯庵訳が全三編のうち、第二編で中断しているのは、評判が悪かったからだ、と言われる。これは北村透谷が、さしたる理由もなく金貸しの老婆を殺害するのは「倫理」にかなうまい、との批判に、答えたもの、まことに「小説」などというものを、「真顔で」受け止めるしかなかった時代なのであること、だからこそ、人びとが「言葉」を生み出すことに必死でなければならなかったことに、思い至る。
***
内田魯庵訳「罪と罰」に頻繁に出てきた言葉、「身柱元・ちりけもと」、項(うなじ)の下、両肩の中央、脊椎骨の第三椎の下、灸点の名、とのこと。
***
岩波文庫版中村白葉訳の第三巻、ラスコーリニコフに代わって罪を受けようとしたミコールカが、「ラスコーリニキ」であったことが明かされる。これはロシア正教会内部の「分離派」だそうで、となると当然、主人公の命名にも、何らかの「謎かけ」が隠されていそうで、でも、今のところは(笑)、その「予感」にとどまらざるを得ない。スヴィドゥリガイロフが自殺する直前、「小ネヴァ川」にかかる橋を渡り、ペトローフスキー島へ向かう。旧レニングラード(笑)、そんな外国の町を訪れることは決してないのだが、せっかくだから地図を眺めてみたくなった。

ロシア正教会の歴史(wikipedia)
***
Jail Guitar Doors/The Clash
「まず、奪っておいて、次に、お前には何もない、と言う。」
ウエィン・クレーマーに捧げられた曲である。
そして、ウエィン・クレーマーによる、Jail Guitar Doors、
Jail Guitar Doors/Wayne Kramer


他者によって何とか形を保てている、「ゲル状」の存在。
残業ばかりの生活だ。長時間拘束の見返りは、ステイタスと厚生年金だ。しかし、会社を辞めて、上司や同僚と飯食うのを止め、友人とべたべた会うのをやめたら、どうなるか。オレは他人によって何とか自分の形を保てている。他人と会わないでいたら、オレはゲル状になるだろう。
・・・
相手の心を覗くことは、相手の心を予想することとは違う。ただひたすら注意深く、全身を耳にして耳を澄ますのだ。答えは出さない。相手の心がわかることはないから。ただ、自分たちが平均台の上にいるということを知っておく。理解は不可能で、誤解だけが可能。知らないということを深めたくて、心を覗くのだ。
・・・
男女の間にも友情は湧く。湧かないと思っている人は友情をきれいなものだと思い過ぎている。友情というのは、親密感とやきもちとエ●ロと依存心をミキサーにかけて作るものだ。ドロリとしていて当然だ。恋愛っぽさや、面倒さを乗り越えて、友情は続く。走り出した友情は止まらない。
「カツラ美容室別室」山崎ナオコーラ(河出文庫)
***
着物といえばもめんに限られ、そのもめんを作る綿も他の農産物同様、原則として領内の自給でした。といっても綿は過程では作らず、農家から買い入れました。那珂川べりのカラリとした平野は、夏になると一面、白い綿の花におおわれ、その中を日によって蒼く、またうす黄色く那珂川が悠々と流れ、雪白の野に、黒い森、緑の土手、青い田が風情を添えていました。なにしろ今の茨城県よりだいぶ狭い水戸領だけの自給経済では何物も豊富とはいかず、綿の生産額も少ない上に、それを個々の家庭で糸に作り、更に染めて織るという手数は大変なことで、したがって着物一枚作るということは、なかなか容易なことではありませんでした。一つ着物をいつまでも着る必要がありますから、手入れをまめにし、お母さんやお祖母さんのお古も大事にします。三界に家なしといわれた女にとって、着物だけが唯一の財産で、これには夫も自由に手がつけられなかったのも、本来は夫の金ではなく、自分の働きで作りだしたものだったからでしょう。人が死ねば必ずかたみの着物をわけることになっていたのも、故人を記念する意味ばかりでなく、着物というものが、今日よりもはるかに得がたい、貴重な遺産であったからでしょう。
蚕を飼って絹物を作ることはもめんよりなお手がかかり、それだけに、それをする家も少なくまた貴重視されてもいましたが、それでもおいおいに絹物を多く着ることがはやったので、・・・
・・・
開国になってからは、ちょうど堤の一部が水に侵され、だんだんに強い勢いで水が流れ込みでもするように、年々に新しいものがはいって来ました。唐糸といって舶来のもめん糸が、現れたのもその頃でしたが、幾年もたたない間に、毎日主婦の手をとっていた、あのビーンビーンという糸繰車も、那珂川べりの綿畑も、そのおかげでどこかへ消えてしまうことになったのです。・・・
「武家の女性」山川菊栄(岩波文庫)
社会主義者にして、女性解放運動家の、山川菊栄は、また、柳田国男の「弟子」であった。なるほどこれは見事に「木綿以前のこと」の「続編」をなしているかのようである。


そして正しさはいつも自分以外の他人を貶める、・・・、ことについて。
私も母も、妹のことを心配し、世話を焼いてはきたものの、妹の深い心のうちを汲み取ろうという気はなかった。常に私たちは正しいから。そして正しさはいつも自分以外の他人を貶める。
・・・
涙がぼろぼろこぼれました。もう自分は死んだほうがいい。みじめで、何もできなくて、生きる価値がないと。
「そう。最低なの」
「はい・・・」
「だったら、もうこれ以上、落ちようもありませんね」
あっさり受け入れられてしまうと、少し心が静まりました。すっと風穴が開いたような不思議な感じでした。
「あなたは今、井戸の底にいます。一番深い底の底にいます。この下はありません。これで終わりなのです。最低だと思えた人は強いのです。もう落ちようがないのですから」
「座禅ガール」田口ランディ(祥伝社文庫)
田口ランディ氏は、記憶では私と同年代だったと思う。東北の震災の翌年に、東京の寺院で行われた鎮魂のイベントの情景からこの小説は始まる。語り手の作家の「私」の年齢が「四十過ぎ」という「設定」になっていて(笑)、いや、作家が一人称の主人公を如何なる年齢にしようが、完全に「自由」なのだから、失礼きわまる読み方だが、先日お話したように(笑)、水村美苗「私小説」、「20年前の同じ十二月十三日の金曜日」という記述に引っかかって、暦を計算してみたところ(笑)、十年弱の「サバ」が読まれていたことを発見したばかりだったから、少し可笑しかった。そのイベントに現れる、明らかに心を病んだ、若い女が、何か「不釣り合いに」美貌であることが語られる。なかなか触れるのが困難な話題であるが、人の容貌の美醜というものも、「客観的」な、器質的なもの以上に、まず、自分が自分をどう思っているか?ということは多くはその前提として、子供の頃から、まわりの「他者」が、自分にどのような眼差しを注いできたか?に、より大きく決定されるのであろう。「可愛い」からちやほやされる、のでは無く、ちやほやされるから、「可愛く」なるのである。以前、一年ぶりに元「教え子」に会った時、「あ、髪切ったんだね」と言うと、「そう、切りましたよ」と、彼女は私の目の前で、くるりと回って見せた。若い女がそんな「馴れ馴れし」(笑)振舞いを見せてくれたことに、私が「劣情を催し」た(笑)などということを言いたいのではなく、嗚呼、この人は、ちゃんと「愛されて」育ってきた(笑)のだな、自分に対する、「肯定的」な評価を、屈託なく受け入れることができる環境、言い換えれば、底意のない(笑)「褒め言葉」を上手に発してくれる人々に、恵まれてきたのだな、と思い知らされ、思わず、なかなか強力な「嫉妬」に見舞われた、ということが言いたかった(笑)。この小説の登場人物は、テレビ番組の企画に応募して、整形手術を受けたことが、やがて明らかにされる。彼女の美貌が「不釣り合い」に見えたのは、彼女自身が「美人」であることに、「美人」と見做される者が、「他者」の眼差しによって獲得してくる筈の「身のこなし」を備えることができていなかったからなのだね。
「ここが『底』だ」と知ることで「心が静まる」経験は、私もちゃんと持っているよ。若くして亡くなってしまった菜摘ひかる、という作家、「風●俗嬢菜摘ひかるの性●的冒険」だったかな?「自虐プ●レイ療法」と名付けられていて、落ち込んでいるときは、「気を紛らし」たりするんじゃない、考えれば不愉快になる筈の当の事柄を、むしろ、徹底的に考え詰める。しかし人間とは不思議なもので、そうやって自分を「責める」ことにも、いつか「飽きて」しまうときが来る、そうして、あるとき唐突に、「喪が明けた」ことを知る。そんな表現を使っていたかどうか記憶は定かではないが、フロイト的には(笑)、「抑鬱症状」が「喪の作業の反復強迫」なのであれば、これは悪い喩えでは、ない。もっとも症状が重篤だった、もう十年以上も前になるが(笑)、あの頃、何度この「療法」に助けられたか知れない。ここが「最低」である、ことを知る、というのは、一階微分係数が正の側からゼロに近づくことだ、「微分可能」すなわち(笑)一階導関数が「連続」である限り(笑)、そこから上昇に転ずる蓋然性がある、ということだ、後に、相談を持ち掛けてきた生徒さんたち、私如きに「相談」するような奇特な(笑)人は多かれ少なかれ「同病」である(笑)、には、こんな数学用語の粉飾を凝らして、得意そうに語り聞かせたものだ(笑)。
十八年前、沖縄に来たばかりの頃、多少おつきあいのあったやんばる在住のお友達の一人、彼女は私より二回りも若い人だったが、なかなかの博学で、例えば山歩きの途中など、場違いな(笑)「インテリ」臭い会話を交わすのが、なかなか楽しかったものだ。私はと言えば、浅ましく、何でも知ったかぶりで答えたものだが、実は、彼女の言及した書物、読んでいないものがたくさんあった(笑)。やんばるの山中で「ミッシェル・フーコー」が言及されるなんで、それこそ、ヴェンダースの初期の映画みたいで、若気の至りが、笑える(笑)。フーコーはその後も縁がなかったまま終わりそうだが、それ以外のいくつかは、その後私が「引きこもり」に退行したのちに、こっそり読んでみた。石牟礼道子がその一つだし、また、ここに挙げた田口ランディさんもそうだったので思い出した。そのお友達の何人かとは、一昨年、 #高江 N1裏テントで、奇跡的な再会を果たしたのだけれど、彼女は本土の故郷に帰った、ということを聞いた。この人に対しても、傲慢だった私は(笑)きっと不義理をしているのだから、今もちゃんと、やや切なく、胸が痛むのである。
***
木田元は冒頭で、ハイデガーを読めば読むほどその力量に惹かれ、知れば知るほどその人柄が嫌いになると述べている。ふつう、哲学者はこんなことは語らない。・・・木田元はもちろん言葉を通してしかハイデガーを知らない。それはしかしハイデガーの友人にしても同じことなのだ。人は他者の人となりを、言葉を問うしてしか知り得ない。そしてその実像が常に遠ざかり続けるのは、相手が死者だからではない。生きている人間、たとえば夫婦にしても、友人にしても、いや何より自分自身にしても、おなじことなのだ。木田元はだからここで自分自身に対するアンビヴァレントな気持ちを告白しているようなものなのだ。
「ハイデガー拾い読み」木田元(新潮文庫)・三浦雅士による「解説」
サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモアと母の電話のやり取りの中に、最近読んだのだけれど記憶にとどまってないな、「今世紀唯一の大詩人」という表現があって、これはハイデガーがリルケについて語ったのが「講義録」に残っているのだそうである。サリンジャーは1937年にヨーロッパ遊学してドイツ語を学んでいる。1948年に「バナナフィッシュ」が発表される段階で、彼が「講義録」を呼んでいる可能性は低いが、ドイツ語圏では、それほどまでにハイデガーの発言が注目を受けていた証拠だ、と三浦雅士は考証する。木田元もまた、日本人留学生のノートの「私家版」講義録を、出版よりはるかに早い50年代に読んでいる。だから、カント「純粋理性批判」の誤訳・誤読を知っていた。こんな話だ。
Sein ist kein reales Pradikat.
英語に素人翻訳すると、
Being is not a real predicate.
「存在する」という言葉は、リアルな述語ではない、
これをドイツ語圏の学者も、日本語の翻訳も、「リアル」を今日的な意味にとらえてしまったから、意味不明の一節になった、というのだ。
realはラテン語res「物」に由来し、「事物が何であるかという『事象内容』に属する」という意味、たとえば、
円は一点から等距離にある点の軌跡である、
は、「円」という主語が表す「事象内容」を述べているから、realな術語である。これは、しかし、そのような「円」が実在するか否かには、関心を払っていない。反対に、たとえば、
神が存在する、
の、「存在するsein/be」の方は、主語が表す対象についての判断が行われている、と、そういう事らしい。
ちょっと、前件が偽であるなら後件に何を置いても、命題は真となる、という論理学上の問題と似ている気がしたので(笑)、気になった。
1928年生まれの木田元は、戦後「満州」から引き上げ直後、ドストエフスキー、キルケゴールを読み漁り、そこからハイデガーに接近することになった、と述べている。実は、まだ読み終えてはいないが、この書物を手にするきっかけは、これなのだな(笑)。
高橋源一郎「日本文学盛衰史」(講談社文庫)以来、「明治」趣味が昂じて、思わず(笑)、内田魯庵訳「罪と罰」、これは、国会図書館所蔵のものをスキャンしたままの画像ファイルが、「前篇」のみ全500ページ余りを、kindle版108円也、でdownloadできるようになっている。いたるところゆがんだ、「やる気のない」(笑)コピーで、しかも鉛筆で書き込みがある。余白に数式まで書かれているから、あるいは当時の「帝大」かどっかの「書生」が、数学の授業中に隠れて読んでいたのかも?と思うと微笑ましい、数式自体は、
m+v=b m-v=l 2m=b+l m=(b+l)/2
という、愚にもつかぬ(笑)連立方程式であったけれども、因みに「連立方程式」は、simultanious equationと言うのだ(笑)、で、初めはなかなか、物珍しさも手伝って、なるほど「社会主義」や「虚無主義」に揺れ動く「貧乏書生」像は、急速な資本主義化を経験する、その先後はややずれるものの、二つの「後進国」ロシア/日本の「同時代」だったのだな、と納得もでき、快調だったのだが、次第に余りの冗長さに辟易してきたものの、今更やめるわけにもいかず、結局、岩波文庫版、これは、中村白葉による最初のロシア語からの翻訳、内田魯庵晩は、英語からの重訳、まで買いこんで、なお読み続けているが、まだ終わらない(笑)。ラスコーリニコフの心理の延々たる描写は、もとより「病的」なのであって、それは、フロイトの分析「ドストエフスキーと父親殺し」を援用するまでもなく(笑)、同じく「病者」である私には、いやほど(笑)わかるのである。しつれいだが、こんなの、どこにでもある「うつ病患者」のブログ(笑)、じゃないか?と見下さざるを得ない。「明治」の文学者たちは、それに、少し遅れて木田元も、これをどんな風に読んだのだろう?どう見ても「面白い」などとはかけらも思えないからこそ(笑)、むしろ、気になって仕方がない、とも言う。そんな訳で、ここしばらく、ドストエフスキー研究(笑)、が続くかもしれない。
***
「浜下り」雑感・この島が円錐形だったら?


旧暦三月三日は「浜下り」と呼ばれる。「三日月」の日であるから、干潮は正午から、二時間ばかり過ぎた頃になろう、大きく干上がった干瀬に出掛け、潮干狩りなどを行う行事のようである。確かに良く引いている。露頭したリーフエッジまで、歩いていけそうなのだが、比較の対象がないので距離が読めない、だからこんなことを考えた(笑)。
沖縄本島の、少なくとも南部は、隆起サンゴ礁によってできたと言われている。隆起と沈降の繰り返しがあり、その間の時間、浅くて太陽光の通りやすい海にサンゴが造礁した、だから、それは当然、不連続面となるのだが、思い切って(笑)、円錐や四角錐で「近似」してみたらどうだろう?






沖縄本島の面積は、約1200平方キロ、これを円形と見做せば、その半径は約20キロ、図中緑で示した。
南西から北東に配置するかなり細長い長方形の方が実情に近かろう、北端の辺戸岬(へどみさき)から南端の喜屋武岬(きゃんみさき)までおよそ100キロ、面積を固定して考えると、横幅は12キロとなろう。図中赤で示した長方形。
錐体の高さをどうするか?沖縄本島最高峰は、国頭村の与那覇岳、約500メートル。隆起サンゴ礁とは異なる北部高島地形であるから、決して島の真ん中にあるわけではないが、ここでは、「直」円錐、「直」四角錐、とすることにした。
本年の「浜下り」、旧三月三日の潮位は、平均海水面から見て、満潮時プラス76センチ、干潮時マイナス120センチ、とのこと。島の「面積」は当然、平均海水面で測定されているものなんだろうな?だから、ここでは、円錐なり四角錐が、上下1メートルずつ浮んだり沈んだりすることで、水面に現れている部分の面積が、どのくらい変動するものかを調べてみたかったのである。あの見遥かす干瀬の広がりを、数字に表してみたかったのだな。

結論は、なかなか凡庸なものである(笑)。島全体で、この日の満潮と干潮とで、約10平方キロの面積が変わる。1パーセント弱だな。それを距離で見ると、円錐モデルでは、80メートル、四角錐モデルでは、長いところで400メートル、短いところは50メートル、まずは妥当なところだろう(笑)、この程度の精度なら、目測で出も言えただろう(笑)、とはいえ、「裏付け」というものがあれば、それはそれで、「心強い」、誰も聞いてくれないが(笑)、自慢そうに語る薀蓄のネタができたわけであった。

***
Lola/Jacques Demy(wikipedia)
「ツイ●ター」上の知り合いで(笑)、私の「逮捕」騒動後、 #辺野古 ゲート前で初めてお会いして、言葉を交わすようになった、私より一回りばかり年上のオバサン(笑)。那覇の桜坂、というのは私が当地にやってきたころは、まだ古びた「エ●ロ映画」屋で、全国の多くの「エ●ロ映画」屋がそうであるように、映画産業全般の衰退とともに、若い人達を中心にして、小奇麗、曰く「お洒落」な(笑)、「名画座」として蘇った。「鬱」発症後は、そんな人ごみに近寄ることすらできなかったが(笑)、「運動」系の上映もするからだろう、 #辺野古 を訪れる「ないちゃー」支援者連には、評判だった。その「おばさん」が誘ってくださったので(笑)、私も、重い腰を上げ(笑)顔を出してみる。ジャック・ドゥミ「ローラ」、いやはや、いい映画であった(笑)。
主人公のかつての恋人「セシル」のほかに、もう一人のもっとずっと若い「セシル」がいる。年上の「セシル」は、米兵チャーリーの「恋人」らしき振舞いをしつつも、「ミシェル」が帰ってくるのを、ずっと心待ちにしている。チャーリーと主人公、二人が「セシル」の子供に買い与える「トランペット」が「重複」する。若い「セシル」に主人公が与える「仏英辞典」。若い「セシル」と、チャーリー、遊園地の回転木馬から降りる瞬間、画面は「スロー・モーション」になり、バッハ平均律クラヴィーア「プレリュードとフーガ」第一番が、鳴り響く。
その名も「平和通り」で、それを指摘した私を、フランス語を解するだけでなく(笑)、クラシック音楽の造詣さえある(笑)、と誤解し下さった彼女をそのままにして、おごっていただいたビールで、ただただ、私は、上機嫌だった。
ずぶの素人であった「右岸派」、トリュフォー、ゴダールと違って、「助監督」の下済み経験豊富な者たちが、セーヌ川「左岸派」を構成するという。
この「おばさん」(笑)、は、飲み屋に座っても、平気で「 #辺野古 」を話題にしたりする。この辺りで飲み屋を営んでいるのは、もっぱら「ないちゃー」で、そんな話題を振り向けられると、躊躇せざるを得ない人達であることを、私は知っているつもりだから、さりげなく話題を移してみせたりするものの、しかし、この人の「臆面もなさ」は、あるいは、私などにはまねのできない「凄い」事柄なのかもしれない、と気弱に考えても見る。

THE WELL-TEMPERED CLAVIER(Book 1) Prelude & Fugue No.1 in C major BWV846/Glenn Gould, J.S.Bach


毎年夏の初めになると、これを見て下さいといわんばかりさも自慢そうに可愛い雛を何羽もつれて親鳥が庭へ出て来て遊ぶのでした。
どこの屋敷にも大きな樹が繁っているので、梟もいましたが、あの真白な軟い胸毛に濃い空色の長い尾羽、黒いびろうどの帽子をかぶったような可愛い小さないたずら者、鵲(かささぎ)の兄弟の尾長もそれぞれの屋敷につきもののようになっていました。人なつこい鳥で子供たちのいい遊び相手でしたから、近処の家では、小さい女の子と尾長を部屋に入れておくと、お守りの代りになるといっていたくらい。千世の家でも、桐の大木に巣をつくって、毎年夏の初めになると、これを見て下さいといわんばかりさも自慢そうに可愛い雛を何羽もつれて親鳥が庭へ出て来て遊ぶのでした。
「武家の女性」山川菊栄(岩波文庫)
オナガは、カササギと同じく、カラス科に属する。当地の図鑑にはカササギは掲載されているが、オナガの方は見当たらないので、お目にかかることは出来そうにないのが、残念であるが。山川菊栄は、「千世」という自分の母親への聞き取りをもとに、この書物を現した。でも、まるで眼前に、それこそ「自慢そう」(笑)な鳥の姿が浮かぶような筆致、この人もまた、「野鳥雑記」をものした「師」柳田国男とともに、生き物を「見る」眼差しをもっていたに違いない、と思われる。「武家の女性」が書かれたのは1943年、「困難な」時代、厳しい検閲の目をかいくぐって、このようなものし・か・書けなかった、と人は言いたがるが(笑)、いや、どの時代もそれぞれに「困難」なのである、このようなものこ・そ・が、書かれる必要があった、と言うべきではないか(笑)?
***
何処にも出かける気力も体力もなく、何より、「カメラを向ける」ほどの関心を「外界」に向けることさえできない日々が、半月ばかりも続いたかな?その間に、カモ類やオオバン(クイナ科)、などの長期滞在者はことごとく去ったようで、干瀬はひっそりとしているようにも見えた。しかし、いつものことながら仔細に目を凝らしてみると、保護色に優れたシギ科の者たちが、まだまだたくさん隠れている。いずれも、もっと南にいた者が、北への渡りの途中に一時立ち寄った者たちであるらしい。特に、この、チュウシャクシギのように、くちばしが長いものの、それが、下向きに曲がってい・な・い・、オグロシギ、であるようで、「バードウォッチャー」歴十年余りにして(笑)、初めてお会いした。シギ科は、カモ科などに比べると「性淘汰」の影響が小さく、雌雄同体であることが多いのだが、「婚姻色」たる夏羽では、雄の方がやや派手目になるようで、確かに、首元が鮮やかなオレンジ色に見える。どう見ても「仲のよい」(笑)夫婦者風にみえるが、その地味な方、くちばしが、図鑑で見るよりも(笑)、やや短すぎる気もするが、・・・。先日、 #辺野古 「連日500人動員」(!)の企画には、是非義理を果たさねばならないので、かなり(笑)無理を押して参加、当然にも(笑)ますます疲弊して、また数日寝込んだわけだが、「フロート」、オイルフェンスの浮きのことだ、に、今年初めてのアジサシがとまっていました、というお話を聞いて、だからこっちにもきっと来ているに違いない、探しに来たのだ。いつものことながら「ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ」みたいな(笑)、なかなか騒がしい声は聞こえても、素晴らしい速度であっという間に縦横に飛び去るばかりで、一向にカメラに収まってくれない。十分目が慣れてくると、しかし、いくら飛ぶのが「好き」な(笑)彼らでも、ときどきは休憩しているもので、ここかしこの岩肌に、白と灰色の翼、黒い頭、黄色い嘴が、見つけられるようになる。コアジサシ(カモメ科)。間もなく、旅の者たちも去った夏の浜辺は、留鳥のシロチドリと、クロサギのほかは、いくつかのアジサシ類のものになる。もっとも、七月末辺りにはもう、冬の渡りの一番手がやってくるのだが、・・・。こうしてまた、一年が過ぎるのである(笑)。


年に数日の特別な日に違いない、と思うから。
南から渡ってきたばかりのコアジサシ(カモメ科)、こちらは、今まさに北へ向かって旅の途中のセイタカシギ(セイタカシギ科)、ダイゼン(チドリ科)、キョウジョシギ(シギ科)、いずれも「婚姻色」・夏羽が鮮やか、次々に「水浴」、梅雨入りしたばかりと聞いたが、快晴で日射しも強かったからな。北へ南への移動の途中の両者がこの場所ですれ違うのは、年に数日の稀有で特別な日に違いない、と思うから、老骨にむち打ち(笑)、本日は若潮~長潮か?、昼前ごろの干潮に、間に合った。昨日、一昨日に引き続き、オグロシギ(シギ科)と思われる「夫婦者」これも、短期滞在の「旅鳥passage visitor」であるらしい。たくさん栄養補給をして、次の旅に備えなければならない、せわしない(笑)食べっぷりも頷けよう。眺めているだけの者にも、「嬉しさ」のごとき「共感」が(笑)喚起されるのは、「異種」の生き物であっても、「種」の境界はあくまでも、相対的なものだからね、「雰囲気」が伝わる、「伝染」するらしいからなのだね、今しも、セイタカシギがなかなか派手に水浴びを始めた、と脇で見ていたダイゼンも、お、気持ち良さそう、とばかりに、思わず(笑)、同じしぐさを始める、すると今度は、やや離れたところにいたキョウジョシギ二羽までもが、あそこの浅瀬は水浴びに具合がよいらしい、と、わざわざやって来てこれに加わるのである。いや、「擬人法」に過ぎないよ(笑)、「動物に『意識』はない」とあくまで反論されることを、妨げない(笑)。しかし、そのような「擬人法」表現が、私の「意識」に(笑)、喚起された限りで、私にもまた、「彼ら」の「共感」に感応する「動物的基層」が存在しているらしいという推測について語っている。
***
96 degree in the shade, real hot, even in the shade/摂氏温度と華氏温度
ファーレンハイト氏はダンチッヒの人、「ブリキの太鼓」の舞台の街であるが、18世紀初頭、そこがドイツ名ダンチッヒと呼ばれる街であったのかポーランド名グダンスクであったかは複雑な問題である。1569年ポーランド・リトアニア共和国に併合、1806年ナポレオンによる征服、1807~1815自由都市ダンチッヒ、1815年ウィーン会議にてプロイセン領、ヴェルサイユ条約後1920~1939自由都市ダンチッヒ、1939年ナチによりドイツへの編入。ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」は、このナチの侵入から、1945年赤軍による解放、までの期間が描かれている。ファーレンハイト氏は、1708年か1709年の冬の日、当地で記録された極めて低い気温を0度に、また、自分の体温を100度と設定して温度目盛りを考案した。水の凝固点/沸点をそれぞれ0/100とする摂氏温度(セルシウス)と比較すると、水の凝固点が32F、沸点が212F、したがって、変換式は、
C/100=(F-32)/(212-32)
摂氏より1.8倍「細かい」目盛となる。ThirdWorldに96°Fという曲があって、
96 degree in the shade, real hot even in the shade
96度、日陰でも、十分、暑い
ジャマイカのキングストンは、今調べてみると(笑)、北緯18度、まがうことなき熱帯である。
(96-32)×100/180=35.56
確かに、日陰でも、暑かろう。亜熱帯の当地でも、想像は、出来る。
(100-32)×100/180=37.78
であるから、ファーレンハイト氏のその日の(笑)体温は、やや高めであったことになる(笑)。


山川菊栄「武家の女性」(岩波文庫)に、病に罹った「嫁」が実家に「帰される」例として徳富蘆花「不如帰」(青空文庫)を挙げていたので、退屈さをこらえて、何が「退屈」なのか?の考察は、後ほど(笑)、読み始めた。浪さんの海軍士官の夫が香港からの手紙に「華氏九十九度」が登場したから、計算してみたまでだ。
***
「わが住む村」山川菊栄(岩波文庫)には、富士山の「火の燃え立つも見ゆ」という「更級日記」の記述が引用されている。で、調べてみた(笑)。富士山は今日もなお「活火山」であるが最後に記録された噴火は1707年、「更級日記」の記述の対象となっているのが、1020~1059の出来事、とのことであるから、なるほど、あり得るのだ。ちなみに1990ごろまで、小学校では富士を「休火山」と教えていた、とのことだから、なるほど、老人は意外の感に打たれたのだ。そう、樋口一葉のどれだったか西行の、富士の歌が引かれていて、その縁で瀬戸内寂聴「白道(びゃくどう)」(講談社文庫)、幸田露伴「二日物語」(青空文庫)を読むことになった。西行の歌には、富士の「烟(けむり)」が詠み込まれている。頼朝に面会に鎌倉に向かう途上、と言われるから、その頃、イイクニツクロウカマクラバクフ(笑)、1192年、富士はまだ、「活火山」だったのである。


啄木が「『あゝ淋しい』と感じた事を『あな淋し』と言はねば満足されぬ心には徹底と統一が缺けてゐる」と言い、二葉亭四迷が「眞實の事は書ける筈がないよ」と感じ続けて来た「違和」。
今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山も一色(ひといろ)に打ち煙(けぶ)り、たださえ永(なが)き日の果てもなきまで永き心地(ここち)せしが、日暮れ方より大降りになって、風さえ強く吹きいで、戸障子の鳴る響(おと)すさまじく、怒りたける相模灘(さがみなだ)の濤声(とうせい)、万馬(ばんば)の跳(おど)るがごとく、海村戸を鎖(とざ)して燈火(ともしび)一つ漏る家もあらず。(1)
・・・
わが海軍の精鋭と、敵の海軍の主力と、共に集まりたる彼我の艦隊は、大全速力もて駛(は)せ違い入り乱れつつ相たたかう。あたかも二竜(りゅう)の長鯨を巻くがごとく黄海の水たぎって一面の泡(あわ)となりぬ。(2)
・・・
初めは平和、次ぎに小口径の猟銃を用いて軽々(けいけい)に散弾を撒(ま)き、ついに攻城砲の恐ろしきを打ち出(いだ)す。こは川島未亡人が何人(なんびと)に対しても用うる所の法なり。(3)
・・・
山は朝霧なお白けれど、秋の空はすでに蒼々(あおあお)と澄み渡りて、窓前一樹染むるがごとく紅(くれない)なる桜の梢(こずえ)をあざやかに襯(しん)し出(い)だしぬ。梢に両三羽の小鳥あり、相語りつつ枝より枝におどれるが、ふと言い合わしたるように玻璃窓のうちをのぞき、半身をもたげたる武男と顔見合わし、驚きたって飛び去りし羽風(はかぜ)に、黄なる桜の一葉ばらりと散りぬ。(4)
「不如帰」徳富蘆花(青空文庫)
そう言えば高橋源一郎は、「日本文学盛衰史」の中で、圧倒的な数で書かれた「明治」の小説のことごとくが、耐え難いほど、つ・ま・ら・な・い・(笑)、ことを告白していた。もちろん、「明治」の小説のみをテーマにあれほどの大部な作品を書いたのだから、それは誇張に過ぎないのだが、しかし、「不如帰」には、正直、仰天(笑)した。余りの「紋切型」加減に、半分過ぎたあたりからは、一体これでどんな「オチ」をつけるつもりだろう?、むしろ、楽しみになって止められなくなったくらいだ。どこを引っ張ってきたって、文句はつけられる(笑)。(1)、この人、相模灘の暴風雨を描くとき、それを見てもいなければ、想像すらしていないね(笑)、きっと漢文の教養が邪魔してしまうのだろう、「荒れる海」とくりゃ「躍る万馬」に決まっていよう、何も考えなくても、つるつる出てくるようになっているんだろうね。日清戦争の時代に、まだ徴兵制はないし、この人は多分、戦場には赴いていない、だから(2)も、当時の新聞もこんな文体だったのだろうな、せめぎ合う軍艦には、たちまち、「二竜の長鯨」が、口を突いて出てきてしまう。「不如帰」が「国民新聞」に連載されたのが、1898年、日清戦争、ポーツマス条約、三国干渉、と、この国が、初めての「ナショナリズム」の暴発を経験する時代だから、巷にも、こんな「軍事」用語があふれていたであろう、(3)は、姑が嫁をいたぶる様を描いているのだが、申し訳ないが、ここには、「反戦・平和」などという思想を読み取ることは、出来そうにないね。だから(笑)断言するが、(4)、この人は、決して、窓辺に現れた「小鳥」、など、一度も見たことがない。非難しているわけではない、私自身、「うつ」発症後、やむなく(笑)「バードウォッチャー」になる以前は、事実、一度も、鳥を「見た」ことなどなかったのであるからね。もし「見た」のなら、こういう風には、書かない、「見る」という経験は、主体に変容をもたらすものの筈だ、もちろん、あてずっぽうで言っているんだけどな(笑)。
啄木が「『あゝ淋しい』と感じた事を『あな淋し』と言はねば満足されぬ心には徹底と統一が缺けてゐる」と言い、二葉亭四迷が「眞實の事は書ける筈がないよ」と感じ続けて来た「違和」、それらが、「言文一致」なり「自然主義」なりの「文学運動」として、今から百五十年前のこの国を席巻していた(!)、筈で、たとえば高橋源一郎前掲書も、それをテーマの一つにしている訳だが、そして確かに、二葉亭四迷「平凡」は、「不如帰」の百倍も(笑)面白く読めたけれども、実のところ、この人達が、何を「悩んで」いたのか、見当が付かないところがあったのだが、すこし、腑に落ちるところがあったかも知れない。「明治」文壇の第一世代は、ほとんどが幼少期から漢籍の教養を叩きこまれた旧・士族階級出身だ。考えるより先に、うっかり(笑)、「躍る万馬」やら、「二竜の長鯨」やらが口を突いて出てきてしまうほど、「教養」がありすぎたのである。だから、文語か口語か、という問題では必ずしもなかったかも知れない、何か、無理にでも、ま・っ・た・く・新しい、別の、自分にとっても異質の「文体」を発明することなしには、到底「思ったまま」、「見たまま」に「描写」するなどということが覚束なかったのではないか?文章というものが、もともと、そんなものを「表現」するた・め・にあったのではないのだからね。
少し「お口直し」(笑)をしましょう。
・・・
十兵衞これに力を得て、四方(あたり)を見廻はしながら森厳(かう/″\)しき玄関前にさしかゝり、御頼申(おたのまをす)と二三度いへば鼠衣の青黛頭(せいたいあたま)、可愛らしき小坊主の、応(おゝ)と答へて障子引き開けしが、応接に慣れたるものの眼捷(ばや)く人を見て、敷台までも下りず突立ちながら、用事なら庫裡の方へ廻れ、と情無(つれなく)云ひ捨てゝ障子ぴつしやり、後は何方(どこ)やらの樹頭(き)に啼く鵯(ひよ)の声ばかりして音もなく響きもなし。
・・・
紅蓮白蓮の香(にほひ)ゆかしく衣袂(たもと)に裾に薫り来て、浮葉に露の玉動(ゆら)ぎ立葉に風の軟(そよ)吹(ふ)ける面白の夏の眺望(ながめ)は、赤蜻蛉菱藻(ひしも)を嬲なぶり初霜向ふが岡の樹梢(こずゑ)を染めてより全然(さらり)と無くなつたれど、赭色(たいしや)になりて荷(はす)の茎ばかり情無う立てる間に、世を忍び気(げ)の白鷺が徐ゝ(そろり)と歩む姿もをかしく、紺青色に暮れて行く天(そら)に漸く輝(ひか)り出す星を脊中に擦つて飛ぶ雁の、鳴き渡る音も趣味(おもむき)ある不忍の池の景色を下物(さかな)の外の下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋の裏二階に、気持の好ささうな顔して欣然と人を待つ男一人。
「五重塔」幸田露伴(青空文庫)
特に根拠はないのですが(笑)、この人は、鵯(ひよどり)の声も知っているし、鷺(さぎ)が水場を渉るのや、雁(がん・かり)がねぐらを目指して飛ぶさまを、「見た」ことがある、と思えるから、安心して読めるに過ぎません。
徳富蘆花は、デヴュー作「不如帰」がベストセラーとなった十数年後、幸徳秋水処刑中止の嘆願のために奔走し、第一高等学校の生徒に「謀反論」というタイトルで講演を行っている。他にも読むべきものが「目白押し」なので(笑)、まだ読んでいないのだが、若干期待している。漱石が「こゝろ」の末尾で、「明治」の精神が終わった、という言い方をしているのが、とても唐突に思えたのだが、今となっては、こういう想像をしている、つまり、1911年、明治44年、の、幸徳秋水処刑をもって、「維新」以来の、一つの時代が終わったのである、ほとんどの「知識人」が、それに対して「沈黙を守る」という「選択」しかしなかったのだけれども、「沈黙」によってすら、それは、いわば「集団的トラウマ経験」となることにはなったのである。「私たち」には、そのように「読む」しか、ないからね。同時期に森鴎外は「青年」を書き、真実の人生とやらに煩悶する主人公を描きつつ、中途で投げ出してしまうことになったようだが、そこにすら、漱石らしき人物を登場させて、「活字は自由でも、思想は自由でないからね」などと言わしめているくらいなんだから。
***
増してもっと僻遠な地帯では麦その他の雑穀を主食としているのも不思議ではありません。明治の末にある事件で監獄に入った人が出て来てから、四分六の飯を食ったとたいそう苦労したつもりで、手柄顔に吹聴するので、秦野の農家の息子はなんでそんなにいうのか分からなかったそうです。
「四分六というのは一体どっちが四分で、どっちが六分なんです?」
と聞くと、相手は妙な顔をして、
「知れたことさ、麦が四分に米が六分だ」
というので、今度はこちらがびっくり、
「なあんだ、そんなら御馳走じゃありませんか」
と笑ったといいます。
「わが住む村」山川菊栄(岩波文庫)
明治の末のある事件、と言えば当然幸徳秋水らの「大●逆」事件が想起されるが、同事件では被告の大半が死刑となったのだし、ここにうっすらと漏れ出ている山川菊栄その人の「冷笑的」とも言える文体から推して、これは少し前の「赤旗事件」ではないかと想像している。失礼な言い方だが、やや「お調子者」としか言いようのない無計画なデモンストレーションで、予想を超える弾圧を受けた、この事件で獄にいた被告たちは、しかし、お・か・げ・で・幸徳事件に連座されることを免れたのであるからね。


どうせじきに忘れてしまいますが(笑)、忘れてしまえるからこちらは生きていけるのですが、・・・。
Joseph Losey(wikipedia)
「緑色の髪の少年The Boy with Green Hair」ジョゼフ・ロージー(1948)、スーパー・マーケットの催事場で安売りのDVD見つけたから、買って帰って、観た。引き続き、以前注文してあった、「召使The Servant」(1963)、「銃殺King and Country」(1964)、「できごとAccident」(1967)、そしてこれは一度観てはいたが、「唇からナイフModesty Blaise」(1966)を、立てつづけに(笑)。ロージーの名を初めて耳にしたのは、遠く(笑)蓮実重彦の書物だったろうが、二年ほど前、ハリウッドとマッカーシズムのことをちょいと調べたときに、「非米調査委員会」に喚問されるブレヒトに付き添ったのが、彼だった、ということを知って以来、気がかりだったのだ。ブレヒトの「ガリレオ・ガリレイ(ガリレオの生涯)」をベースに「Life of Galileo」が1975年に作られていることがこの記事には見えるが、そう簡単には手に入りそうになさそうである(笑)。1972年には「The Assassination of Trotsky」、邦題は「暗殺のメロディ」、それは当時、ポスターなどで見かけた記憶がある、これも、入手困難そうである(笑)。
***
そうしているうちに、もういつだったか思い出せないくらい遠いむかしにあの片腕のマッカンダルが話してくれたいろいろなことが、おぼろげに脳裏に浮かんできた。じぶんには果たすべき使命がある、という確信を抱きはじめたのも、ちょうどそのころだった。・・・海のむこうにもこちらにも息子たちがいたが、彼らは子供にかまけて老人のことを忘れていた。そんな老人に許された特権が、まさしくその使命だった。
「この世の王国」アレッホ・カルペンテイエール(サンリオ文庫)
「世界最初の黒人革命」、ハイチ革命について少し調べてみようと思い立ったきっかけが何だったか?またしても、何冊もの本を同時に(笑)拾い読みしているので、わからなくなったが、ずっと気掛かりだったのは、スラヴォイ・シジェク、どの書物だったか忘れた、当地に革命鎮圧のために派遣されたナポレオン軍の兵士たち、戦線の向こう側から、何やら声が聞こえてくる。よく聞き取れない、どうせ、土・人・の・戦いの踊り、か・、な・ん・か・、だろうと思っていると、やがて近づくにつれて、不鮮明ながら言葉が聞き取れ始める。それは、他ならぬ、「ラ・マルセレーズ/義勇軍行進曲」だった!彼らは、自分たちが、「何」と戦おうとしているのか?困惑し始めた、と、紹介されていたエピソード。カルペンテイエールは、以前いくつか読んだことがあった筈だが、キューバの作家。「人・種・」として言及するならば、カリブ海地域に連行されて来た奴隷の子孫であるよりは、奴隷を連行したヨーロッパ人植民者の子孫である方に、近い。
Haitian Revolution(wikipedia)
1751-1757 Rebellion led by François Mackandal
1758 François Mackandal excuted
1790 Vincent Ogé led a brief insurgency in the area around Cap Français.
1791 urban slaves from Le Cap to lead the rebellion, The signal to begin the revolt was given by Dutty Boukman, a high priest of vodou and leader of the Maroon slaves, during a religious ceremony at Bois Caïman on the night of 14 August.
1792, The French National Assembly granted freedom to slaves in saint-Domingue.
***
水村美苗「私小説-from left to right」には、語り手、そのまま「美苗」の姉「奈苗」が一人暮らしのニューヨークのアトリエで飼っている二匹の猫、食べ物をねだるしか能のない(笑)オスの「ワガハイ」と、こちらは甘えるしか能のない(笑)メスの「punka baby」が登場します。同じ作者の「本格小説」にも、ほとんど同じ「設定」で、やはり二匹の猫が登場するから、きっと、実在のお姉さんの実在の飼い猫だったのでしょう。物語の中で、既に出世した「太郎ちゃん」とやはりニューヨークの寿司バーでばったり出会い、食べきれないほどの寿司や刺身をごちそうされて、持ち帰り用に折詰にしてもらう、こんなの持って帰ったらうちのbabyたち、くるっちゃう!という一節が、とても好きなので(笑)、あやかって、ちょうど同じくらいの年齢の、やはり(笑)甘えるしか能のない、三毛猫が二人いるので、元は、mini三毛子、micro三毛子、と「識別記号」を与えていたのですが、大punka、と、小punka、に改名しました。punksは「パンクス」だから(笑)、これも「パンカ・ベィビー」なのかも知れないけれど、「ぷんか」の方が響きがいい気がするので、そうしている。こちらは、小punka、の方、甘えている相手は、「実の」母でも何でもない、全とら尻尾短く白靴下♪おかあさん、人気があるようで、大punka、の方も、同じように、お腹を枕にして眠っていたりもします。
また、冬から春にかけて、たくさんの家族が身罷り、こげ♪、全とら尻尾長い♪おかあさんの子・きじとら(濃)♪、全とら尻尾短く白靴下♪おかあさんの子・脚白♪、そして、全とら尻尾長い♪おかあさん。どうせじきに忘れてしまいますが(笑)、忘れてしまえるからこちらは生きていけるのですが、せめて順番くらいは書きとめておきましょう。こちらの、全とら尻尾短く白靴下♪、もやや食欲が落ちたように見受けられたので、また、心配し、絶望し、でも、いろいろ機嫌を取って、旨そうなものを出してあげると、ちゃんと食べてくれたので、一安心、という訳です。


もはや、「人肌」が、「恋し」からざる、季節。
足先に鋭利な爪をもち、これをもってか・つ・て・は・獲物をしとめたり、または今でも、ほぼ垂直に近い壁面を登り降り、実は「降りる」方はあまり得意ではありません、高速道路の橋脚に立ち往生して、消防士さんが巨大なはしご車から救出しました、などという心温まる(笑)ニュースをお聞きになったことがあるでしょう?、うちでも、後からご紹介しますが、故おかあさんそっくり三毛♪おかあさんの子・全茶♪、というのが、図体はでかいのに気が小さく(笑)、いつもいじめられて鴨居の上に逃げ込んで、一日の大半をそこで過ごしていますが、これがなかなかどうして、食事の物音に心波立って、降りようとするのですが、焦れば焦るほど、折り方がわからなくて(笑)、動揺しているのがひしひしと伝わります、それはともかく、だから、私の小汚い安物のシャツが、穴だらけなのは、そういう事情、と言い訳したかっただけで、おや、これは珍しい(笑)、「実の」親子、小punka♪、と、その母、つい先ごろ亡くなった、全とら尻尾長いおかあさん♪、の子、きじとら(淡)♪、であります。夏が近づくにつれ、「人肌」はもはや、現金にも、「恋し」からざるものになるらしいが、今夜は、風が吹き、やや冷え込んだので、こうして、慣れぬ"selfy"を使用することになった次第。因みに、この「母」、このように人間には大いに甘えるものの、気性は激しく、その、鴨居に逃げ込んでしまう、全茶♪、の「いじめっ子」張本人、であります。


「樹上生活者」、の、遠い、記憶。
「人間」の世界にも、ごく普通に、よくあることだから、想像に難くはない、集団の「社会」生活には、さまざまな矛盾葛藤が蓄積し、ときとして、亀裂が生ずるのは世の常、この、常時、十数匹~二十数匹で構成される「世界」にも、しばしば、「いじめる/いじめられる」の関係が生じます。「いじめられや・す・い・」、他者の攻撃への衝動を「誘発」しや・す・い・、性質が、他ならぬ、「いじめられる」者の「側」に、「備わって」いる、という推認の「型」は、もとより「イデオロギッシュ」で(笑)、当の「いじめられ」型・本人には、なかなか受け入れがたいものではありますが(笑)、英語のvulnerablityという言葉は、そういう「攻撃誘発性」、と共に、ただひたすら「弱い」、だったらば、今度は、「守ってあげたい」(笑)衝動を「誘発」する可能性だってあるわけですが、用例から見る限り、その二つの用法を含んでいるように、素人ながらには、思えます。左の、故おかあさんそっくり三毛♪おかあさんの子・全茶♪、は、そんな「いじめられやすい」やつのようで、今も、もっぱら鴨居の上で暮らしております。重力ポテンシャルに逆らって(笑)、「高い」ところに「逃げる」ことが、私たち(笑)にも、不自然でなく理解できるのは、やはり捕食者に怯えて樹上に隠れ住んでいただろう我が「祖先」の遺伝子の「記憶」なのだろうか?「いじめ」の強度にも、また、それに「怯える」心理にも、波があるようで(笑)、一番ひどいときは、鴨居の上で、うんこやしっこまでされてしまうこともあって、さすがに、その始末には、大概の事柄には動じなくなっている(笑)「飼主」も困惑させられました。この頃は少し、「平和」が持続しているようで、食後のしばらくの時間、こうして、地上で、くつろいでおられたので、珍しく、撮影してみる気持ちになったのでした。そう、鴨居の上でもちゃんと眠ってはいるのです、寝ぼけて落ちかけて慌てることもしばしばあるようですから、でも、昼寝は、「地面」の上の方が、気持ちいいに違いありませんからね。


鴫立沢(しぎたつさは)の夕暮に笻(つゑ)を停(とゞ)めて一人歎き、・・・。
昔は家族の人数次第で、三畝、五畝、あるいは一反ぐらいの綿を作らない家はありませんでした。綿の花は、一面緑の夏の野に、雪の咲いた趣でした。女たちは、大きなしょい籠をしょって、ようやく柔らかくなった秋の日ざしの中に、綿の花をつみに行きます。早生(わせ)の花は小さく、晩生(おく)の花は大きいのでした。私は明治三十年ごろ、小学校の二年生ぐらいのとき、教科書の中に、一面白い花に覆われた綿畑に半身埋もれて、手拭を姉さまかぶりにした襷(たすき)がけの娘が、左手にかかえた大きな籠の中に花をつみ入れている挿絵のあったのを思い出します。その画の中の人物は、そのころのこの辺の娘たちのありのままの姿だったのです。この辺ばかりでなく、そのころはまだ、日本中いたる処に、そういう風景が見られたのでした。一反歩もあれば、二、三日は花つみに通ったものだそうです。
さてつんできた綿は、綿屋を呼んで打たせ、それを篠竹を削った長さ五寸ばかりの篠に捲き、それをたくさん例のしょい籠に入れておきます。そろそろ夜が長くなりますから、夜鍋に糸をくるようになります。この辺では明治に入って行灯からランプに移るまでの間、カンテラといって
、油皿の代わりに今の小さな霧吹きのような油壷に石油を入れ、それに灯心を浸して、その先に灯をともしました。そういう灯の下で女たちは、横にしたしょい籠の中から、一つずつ篠捲きを取り出し、糸車の前に坐って、ビーンビーンと右手で車をまわし、左手で糸をくるのでした。
・・・
日露戦争のころから、この村の綿畑が姿を消すようになったのは面白いことだと思います。
そのころから日本の紡績業がボツボツ発展してきましたし、戦勝景気で輸入がふえ、支●那、インド、アメリカの綿花が大量にはいってきたので、内地で綿など作っている必要もなし、そんなことをしては不経済にもなったのです。第一次世界大戦から日本の紡績業は飛躍的に発展し、それまで太番すなわち太いもめん糸しかできなかったのが、細番まで作るようになり、内地から外国品、主として英国品を駆逐するに留まらず、東洋から南洋市場、ひいては欧洲まで進出するほどになりました。したがってもめん類の上等なものが廉く手にはいるようになりましたから、農家の女が手間ひま欠いて、糸を紡ぎ、機を織っていては割に合わなくなったのでした。村々から綿畑と手機が姿を消した後、なお残ったのは、西陣とか結城とか、古い伝統をもつ特別な職工だけで、そういう飛切りの高級品、贅沢品のほかは、機械が機を織り、女の重要な仕事の一つは、家庭から工場へと移されたのでした。そして成年の女が一日に一反織る代わりに、尋常科を出て間もない小娘が、大きな機械機を幾台もうけもち、ただ見守っている間に、一分間に何百反の反物が、電気と機械の力で、ひとりでに織り上げられてゆくことになったのです。
「わが住む村」山川菊栄(岩波文庫)
面積の単位としての「畝」は、1畝≒1a(アール)=100平米、一辺10mの正方形。「反」、1反=10畝≒10a=1000平米、√10≒3.16だから、一辺30mの正方形。水木しげるに「一反木綿」が出てくるが(笑)、これは面積の単位とは異なり、「反物」の語源ともなった布地の大きさの単位、おおよそ、一人分の着物が作れる分量であったといわれる。「鯨尺」は、通常長さの単位として用いられる「尺」、1尺≒30.3cmより少し大きく、1鯨尺≒37.88cm、これを基準に、幅9寸五分、長さ2丈6尺、または2丈8尺、ということは(笑)、幅0.95×37.88=36.99、長さ2.6×37.88=98.49または2.8×37.88=106.06、40cmと1mの長方形、なるほど、そんな木綿の妖怪なら、いそうである(笑)。


「武家の女性」、「わが住む村」は柳田国男の企画する「女性叢書」シリーズの、それぞれ一冊として、1943年に出版されている。治安維持法下、ほとんど言論を封殺されていた筋金入りの「社会主義者」山川菊栄に、その「師」である柳田は、こうして、糊口をしのぐ仕事を提供し、生活の支援を与えていたのである。
***
タイトルは幸田露伴「二日物語」(青空文庫)から。樋口一葉「暁月夜(あかつきづくよ)」に、「西行が富士の烟りの歌を」とあった縁で(笑)。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな
「有明」と言うのは、夜が明けたのにまだ月が沈んでいない、「十六夜」以降の月夜の翌朝を言うのだそうだ。「暁月夜」もまた同意だろう。「令嬢(ひめ)」が鎌倉に立つ前夜、「敏」と語り明かしたのがそんな月夜であったのだな。


「無繁殖個体」には、驚嘆を禁じ得ない、事柄。
あーあ、またお腹が大きくなって来ちゃったよ、と、内心心穏やかでなく(笑)、見て見ぬ振りをしていたら、昨日のご飯が終わった後、しばらくして何処からともなく、声がする(笑)、放置してあったこの籠の中に自分から入り込んで、さっさと(笑)出産、済ませてしまったようである。ちゃんと、雨風、いや、室内だからそれはないんだけどな(笑)、「他者」の干渉やら、諸々の危険を避けるにはうってつけの、こんな狭いくぼみを、ちゃんと上手に見付けることができる、なんて「偉い」んだろう?(笑)、「無繁殖個体」のままで終わることになる(笑)者としては、驚嘆を禁じ得ないのである。
もちろん(笑)、貧乏だから、飼い猫に「去勢・避妊」、つまり、精巣または卵巣の摘出手術を、受けさせる資力がない、だ・か・ら・、こんな風に「だらしなく」(笑)猫を増やしている、との、ありうべき(笑)「非難」、「憫笑」は、手に取るように想像できる。だが、「文明化」した人間社会と、猫が共存するには、すべからくそれらの手術などの手段を通じて、「管理可能」な「ペット」として馴致するのが、唯一の方法で、かつ、「猫にとってもしあわせ」などと真顔で、胸を張って言われると(笑)、違和感は禁じえない、と、控えめに申し上げたいだけだ(笑)。およそ原理的に(笑)「管理」不可能であるところの「他者」の生命、いや、自分自身の「生命」だってそうだ(笑)、をば、まずは「管理せよ」と命じ、次に、当然にも(笑)「管理」できなかったことについて、「無責任」だと詰る、そういうあんたは一体(笑)誰なんだ?こういうのを、「明治」の文学のタームでは、「壁訴訟」というのですね、なるほど(笑)。伊波普猷のおじいさんのうちには、猫が十数匹いたそうです。もちろん、旧琉球王朝の貴族、お役人、だったのだろうから、立派な庭園のある豪邸だったのでしょうから、比ぶべくも(笑)ありませんけれども、そんな話を聞くと、少し、「勇気」というか「自信」というか(笑)、取り戻したことにでもして、・・・。
おかあさんは、「全とら尻尾短く白靴下♪おかあさんの子・脚白くない♪」、先日亡くなったきょうだいに、「脚白♪」がいたので、そいつとの識別のために、こんな名になった。お子様は、白、黒、きじとら2、四人いらっしゃるようですね。生き延びれるかどうかはもとよりわかりません、ましてや、生き延びれて「しあわせ」であったか、とか、むしろ、こんな苦しいくらいなら生き延びなかった方が「しあわせ」であったとか、それこそ(笑)、NoneOfYourBusinessではございませんか?私は、あなたが、「しあわせ」かどうか判断できる、その口ぶりは、まさしく、「親」のディスクール(笑)、「パターナリズム」では、ござんせんか?
***
構造主義から離れること、それは、フランスの言語学者エミール・パンヴェニストの用語を使えば、「言語language」から「言説discourse」への移行と、部分的に重なりあう。「言語」というのは、主体なき記号の連鎖として「客観的=対象的に」みられている、発話行為と文字表現(ライティング)である。「言説」というのは、<発話utterence>として、つまり、話したり書いたりする主体に関係し、またそれゆえに、少なくとも潜在的には読み手や聞き手にも関わって来るものとして把握された言語のことを言う。
「文学とは何か」テリー・イーグルトン(岩波文庫)
「ポストモダン」を遠く離れて(笑)、今頃になって、「言説=ディスクール」の定義をはじめて知ることができ(笑)、今までよく知らないで使うの「恥ずかしい」と思って遠慮して(笑)きたから、こうして「大手を振って」使えるようになった喜びを、メモしておく(笑)。


ただ一度しか起こり得ないことがらの「確率」、という背理、について。
ただ一度しか起こり得ないことがらの「確率」、という背理、について。
「ある事柄」が、生じる確率がp、したがって、生じない確率は(1-p)としたときに、n回の、もちろん(笑)「独立」な、試行中に、その「ある事柄」がちょうどi回だけ生ずる確率は、以下に掲げる「二項分布」B(n,p)の表式によって計算される、とされる(笑)。
この島の小学校や保育園の庭に、米海兵隊のヘリコプターからの落下物が頻々と降ってくる、「真面目に整備しているのか?」、当然にも生じる憤慨の声に、しかし(笑)いささかの違和感を禁じ得なかったのは、私自身が、「真面目」な人間でない(笑)からかもしれないが、憎むべき相手に、「落ち度」があった時、それを「悪意」や「怠惰」に帰そうとする心理は、一種のこれまた「躁的防衛」と理解できるが、それはもちろん(笑)冷静な態度とは言えない。「悪意」でも「怠惰」でもないにもかかわらず、そのような事態が現に生じている事態にこそ、真に戦慄すべきではないのか?下の計算表は、そんなとき、ふと思いついて作ってみた。

機械の故障、整備の見落とし、などというものは、どんなに「真面目」で「善意」であっても、多数回の繰り返しにあっては、必ず何度かは生じてしまうものであろう。工業的な製品の管理にあっても、通常は、不良品の発生確率が5パーセント程度に抑えられていることを目標として、「検査」というものが計画される。これは正規分布において平均値プラスマイナス2標準偏差のレンジに含まれる標本数が、全体の約95パーセントに等しい、という統計学的知見に根拠を置いている。
ならば、それら故障、見落としなどの回避できない失敗が生じる割合を「確率」と把握してもまんざら当を得ないわけでもなかろう?例えば1000回に一回しかミスをしない、日曜を除いて毎日一回整備をするんだとして、6×52×3=936、だから、約三年間、一度もミスがありませんでした、という「経験」を、そう読み変えることも可能だろう。逆に言えば、1000回に一回は、必ずミスがあ・る・のであり、それは他ならぬ今日かも知れないし、三年後かもしれない、等間隔に近く生じるかも知れないし、立てつづけに起こったと思ったら、長い間ないかも知れない、ランダムである、というのは、均一であるということでは決してなく、局所的な偏りはいくらでもあり得、かつ、その偏りの分布、すら予測できない、ことに本質があるのであろう?だから、1000分の一の確率でミスが生じるというのなら、どうしてもそう考えてしまうが(笑)、今日ミスをしたから、あと1000日は大丈夫、という訳にはいかない、もっともっと長い目で見て、その長い長い期間の平均として算出された、と仮想されたものが、1000日に1回のミス、という事態なのである。
ならば、この「二項分布」の式を利用して、「ある事柄」が、決して起こらない事態が長く持続することを、どれほど「期待」できるか?が算出できるではないか?と、考えた。統計学の教科書の練習問題などにも散見されるものではあるが、上のような事情からすれば、これは確率論の誤用ではないのか、という疑念も払拭できない(笑)。例えば1000回に1回ミスをする、というときの「1000」は観念的に平均化された「1000」、では、ミスのない事態が1000回続くのは?と問うときの「1000」は他ならぬ、今から持続した具体的な「1000」なのであるからね。それでも「誤用」からさえ、いやむしろ、「誤用」からこそ(笑)、人は多くを学ぶことができたのであるし、やってみよう(笑)。
上の式のiに0を代入するだけなので、簡単な話だ。パーソナルコンピュータで十分計算できる範囲のようなので、ポアッソン分布による近似、の論点は、差し当たり必要ではない。「ある事柄」が生じない確率(1-p)を、その「生じない」事態が持続する回数だけ累乗すればよいのだ。
1000回に1回しか起こらない、と思・わ・れ・て・い・る・事柄が、実・際・に・、引き続き1000回、起こらない、でいることが、どれほど期待できるか?
これが、約37パーセントなのである、という答えを、どう「感じ」るかは人によりけりだろう、もちろん、私は多少意外だった、からこそ、わざわざ書くことにしたのだが。ポアッソン分布による近似が可能であることを踏まえて言えば、0.9を10回掛けるのも、0.99を100回掛けるのも、0.999を1000回掛けるのも、ネイピア数eの逆数、約0.37になるのは理の当然(笑)、ではあるものの、例えば、0.999を100回掛けても、ま・だ・、約0.90、つまり1000回に一度はミスしてしまう事柄を繰り返すのを100回にとどめておきさえすれば、実・際・に・ミスが生じる事態は、9割方回避できたであろうのに、その反復回数をそれ以上に増やしていくや、おそらく急激に「危険」は高まっていくのである。
私としては、我が意を得たり、と納得し、溜飲を下げた(笑)、ところだったのである。つまり、どんなに「真面目」な整備に努めたとしても、その十分に整備が行き届いたであろう航空機であったにせよ、こんなにも飛・ば・し・過・ぎ・れ・ば、そりゃ、事故も起こるであろう?、と、最短13分間隔でくり返し機影が現れる、この空、を見上げて、なかなか平凡な(笑)、結論に達したわけであった。


「クロのパン略」、を、思い出した訳さ。
La Conquête du Pain/The Conquest of Bread、または、「麺麭の略取」、Peter Kropotkin、ピョートル・クロポトキン(1842-1921)が1892年に書いたもの。金子文子が「何が私をこうさせたか」(岩波文庫)に、朴烈と、新しい雑誌を作ろう、と語り合うときに、「『クロのパン略』なら、あたし、持ってるよ」と言うくだりがあって、その、いかにも「若者らしい」(笑)、彼らには二人とも、「若者」以外のものになる選択肢はなかったのだけれども、言葉の省略法が微笑ましく、そういえば、ずっと昔(笑)、レーニンの「何をなすべきか?」を「なにナス」と、当然のように言及されて、何か漠然と茄子様のものしか思い浮かばずに、困惑した記憶があるな。百五十年ばかり前に書かれた書物を、ただ、読む、という以外の事が何も出来ない、という、困った(笑)状態がずっと続いていて、この際だから、取り寄せて読むことにしてみた。岩波文庫版の訳者は、幸徳秋水であった。英語版からの重訳であるらしい。

三匹いたきじとらのうち二匹はまもなく亡くなって、白、黒、きじとら一匹は、今のところ、すくすく育ち(笑)、日々、見た目も「拡大」(笑)している。生き延びてくれたら、名前は、シロ、クロ、きじとら、でいいか?と考え、「クロのパン略」を思い出した訳さ(笑)。


「すまいとばし思うて?」、とは。
気の弱い男というものは、少しでも自分の得とくになる事に於おいては、極度に恐縮し汗を流してまごつくものだが、自分の損になる場合は、人が変ったように偉そうな理窟を並べ、いよいよ自分に損が来るように努力し、人の言は一切容いれず、ただ、ひたすら屁理窟を並べてねばるものである。極度に凹へこむと、裏のほうがふくれて来る。つまり、あの自尊心の倒錯である。
(諸国はなし、巻一の三、大晦日おほつごもりはあはぬ算用)
「新釈諸国噺・貧の意地」太宰治(青空文庫)
***
・・・たまにはフランスの兄さんに、音信をしろよ。」
 オフ。「すまいとばし思うて?」
 レヤ。「なんだい、それあ。へんな言葉だ。いやになるね。」
 オフ。「だって、坪内さまが、――」
「新ハムレット」太宰治(青空文庫)
さて、「すまいとばし思うて?」、とは?す:動詞「為」終止形、まい:推量の助動詞「まじ」連体形「まじき」イ音便「まじい」の転か?、と:格助詞、ばし:強調の副助詞、(係助詞「は」+副助詞「し」=「はし」の転か?、思ふ:動詞、て:接続助詞、・・・、ということか?「ばし」が難題であった(笑)。「しないだろうとで・も・思われたの(でしょうか)?」
***
「惜別」1945年9月
「新釈諸国噺」1944年1月~11月
「清貧譚」1941年1月
「駈込み訴へ」1940年2月
「走れメロス」1940年5月
「トカトントン」1947年1月
「人間失格」1948年6月~8月
「お伽草紙」1945年10月
「右大臣実朝」1943年
***
モンタギュー夫婦(ふうふ)入(はひ)る。ロミオ近(ちかづ)く。
ベンヲ" や、お早はやうござる。
ロミオ そんなに早はやうござるか?
ベンヲ" 今いま九時じを打うったばかり。
ロミオ あゝ/\、味氣無(あぢきな)い時間(じかん)は長(なが)い。……今(いま)急(いそい)で去(い)んだは予(わし)の父(ちゝ)でござったか?
「ロミオとヂュリエット」シェークスピヤ/坪内逍遙訳(青空文庫)
Romeo_and_Juliet(wikipedia)
坪内先生(笑)訳「ロミオとヂュリエット」、「ヲ"」、「ヱ"」、「ヰ"」が気になったので(笑)、調べてみた。
エスカラスEscalus、ヱ"ローナVeronaの領主。
パーリスParis、領主の親族、年若き貴公子。
キャピューレットCapulet
モンタギューMontague
相確執せる二名族の長者。
キャピューレットCapuletが一族の一老人(叔父)。
ローミオーRomeo、モンタギューMontagueの息。
マーキューシオーMercutio、領主の親族にしてローミオーRomeoの友。
ベンヲ"ーリオーBenvolio、モンタギューMontagueの甥にしてローミオーRomeoの友。
チッバルトTybalt 、キャピューレットCapuletが妻の甥。
ロレンス法師Friar Laurence、フランシス派Franciscanの僧。
ヂョンFriar John、同じ派の僧。
バルターザーBalthasar、ローミオーRomeoの下人。
サンプソン(或ひはサムソン)Sampson
グレゴリーGregory
キャピューレットCapulet家の下人。
ピーターPeter、ヂューリエットJulietが乳母の下人。
エーブラハムAbram、モンタギューMontagueの下人。
藥種屋の老人。
樂人甲、乙、丙。
パーリスParisの侍童(こしゃう)。他の侍童(こしゃう)。警吏一人。
モンタギューMontague夫人、モンタギューMontagueの妻。
キャピューレットCapulet夫人、キャピューレットCapuletの妻。
ヂューリエットJuliet、キャピューレットCapuletの女。
ヂューリエットJulietの乳母。
以下、舞踏会の招待状に名前だけ登場する者のうち、「ヰ"」がどんな綴りに対応するか、わからないな。ウィスキーwhisk(e)yを昔は「ウヰスキー」と書いた。ということは、「ヰ」はワ行二段の筈だ。それに濁点が付いたら、どんな音なのだ?
ヰ"トルーヰ"オー
ワ"レンタインValentine
リヰ"ヤ


「それに、なんですか?あれ、もう、セミが鳴いてるじゃないですか?」、「それも、こっちでは、『普通』だね」
ここ数日は、ようやく「梅雨」らしく降雨のせいで気温も少し下がり、また猫たちが(笑)「人肌」を求めて纏わりつくようになったが、少し前は、連日の真夏日であった。
「なんですか?この暑さは?」
慣れた人でも、しばらく離れてまたやって来ると、この亜熱帯の島の、暑さ、肌をじりじり焦がすかの如き紫外線と、粘りつく湿度に、改めて驚くものらしい。二十年近くはなれたことがないから、そんな感覚は忘れてしまったが(笑)、想像はできる。
「それに、なんですか?あれ、もう、セミが鳴いてるじゃないですか?」
「はは、それもこっちでは『普通』じゃない?」
と、答えてはみたものの、実はまだセミの声に気づいていなかったから、「嫉妬」した(笑)。何年も住んでいながら、ようやく去年、オオシマゼミとクロイワツクツクの二種が、もう秋にさしかかる頃に鳴きはじめることを知ったばかりだったし。だから、それから、俄然(笑)、セミの声に注意をはらうことになった。いつか、一度だけ、コゲラ(キツツキ科)を目撃したことのあるダム湖の公園、確かに、「じーじー」と、地味ではあるが、聞こえる。幸運なことに、地上数十センチ、しゃがみ込まなければ見えないような木立の、何の木であろうか?、こんな鮮やかな赤色の樹皮、根元に、二匹並んで鳴いているのを発見。クマゼミなどに比べれば、明らかに一回り小さく、色合は、クロイワツクツクなどと同じく、本体は緑がかっていて、羽にはまだら模様。これが、当地ではもっともはやく鳴きはじめる、クロイワニイニイ(セミ科)、であった。「黒岩」さんは、数多の昆虫を命名された方のようであるが、その事跡は聞いたことがあった筈だが、忘れてしまった。
沖縄本島、セミ類の、出現時期↓

申し遅れたが(笑)、上の会話の相手は、一昨年 #高江 、何台かの車で「牛歩」に出発するとき、一人では(笑)不安なので、助手席に乗っていただき、以来、顔を合わせると、挨拶くらいはして下さる、そんな「お友達」の一人。


大抵(たいてい)が五十年(ごじふねん)と定(さだ)まつた命(いのち)の相場(さうば)黄金(こがね)を以(もつ)て狂(くるは)せる譯(わけ)には行(ゆ)かず、・・・
樋口一葉研究

どれもタイトルが極めて簡潔だから(笑)、何度か読んでもすぐ忘れてしまう。「あらすじ」などを言うのは興ざめの気がするので、気に入った一節を抜書きにしてリストを作ろうと思った(笑)。

闇桜
何(ど)うでもようございますよ妾(わたし)は最早(もう)帰(かへ)りますから。あやまつた/\今(いま)のはみんな嘘(うそ)何(ど)うして中(村なかむら)の令嬢(れいぢやう)千代子君(ちよこくん)とも云(いは)れる人ひとがそんな御注文(ちうもん)をなさらう筈(はず)がない良之助(りやうのすけ)たしかに承(うけたま)はつて参(まゐ)つたものは。ようございます何(なに)も入(い)りません。さう怒(おこ)つてはこまる喧嘩(けんくわ)しながら歩行(あるく)と往来(わうらい)の人(ひと)が笑(わら)ふぢやアないか。

別れ霜
大抵(たいてい)が五十年(ごじふねん)と定(さだ)まつた命(いのち)の相場(さうば)黄金(こがね)を以(もつ)て狂(くるは)せる譯(わけ)には行(ゆ)かず、花降(はなふり)樂(がく)きこえて紫雲(しうん)の來迎(らいがう)する曉(あかつき)には代人料(だいにんれう)にて事(こと)調(とゝ)のはずとは誰(たれ)もかねて知(し)れたる話(はなし)、鶴(つる)千年(せんねん)龜(かめ)萬年(まんねん)人間(にんげん)常住(じやうぢう)いつも月夜(つきよ)に米(こめ)の飯(めし)ならんを願(ねが)ひ假(かり)にも無常(むじやう)を觀(くわん)ずるなかれとは大福(だいふく)長者(ちやうじや)と成(な)るべき人(ひと)の肝心(かんじん)肝要(かんえうかなめ)石(いし)の固(かた)く執(とつ)て動(うご)かぬ所(ところ)なりとか

たま襷、五月雨、は、手元にない。

經つくゑ
士族出(しぞくで)だけ人品(じんぴん)高尚(かうしよう)にて男振(をとこぶり)申分(ぶん)なく、才(さい)あり學(がく)あり天晴(あつぱれ)の人物(じんぶつ)、今(いま)こそ内科(ないくわ)の助手しよしゆといへども行末(ゆくすゑ)の望(のぞみ)は十指(し)のさす處(ところ)なるを、これほどの人(ひと)他人(たにん)に取(と)られて成(な)るまじとの意氣(いき)ごみにて、聟(むこ)さま拂底(ふつてい)の世(よ)の中なかなればにや華族(くわぞく)の姫君(ひめぎみ)、高等官(かうとうかん)の令孃(れいぢよう)、大商人(おほあきんど)の持參金(ぢさんきん)つきなど彼(あ)れよ是(こ)れよと申込(こ)みの口々(くち/″\)より、小町(こまち)が色(いろ)を衒(て)らふ島田髷(しまだまげ)の寫眞鏡(しやしんきやう)、式部(しきぶ)が才(さい)にほこる英文和譯(ゑいぶんわやく)、つんで机上(きじよう)にうづたかけれども此男(このおとこ)なんの望(のぞみ)有(あ)りてか有(あ)らずか、

うもれ木
意の趣(おもむ)く処(ところ)景色(けしき)ととのいて、濃淡(のうたん)よそおいなす彩色(さいしき)の妙(みょう)、砂子打(ぼつう)ちを楽と見る素人目(しろうとめ)に、あっと驚歎(きょうたん)さるるほど、我れ自身おもしろからず、筆さしおきてしばしばなげく斯道(しどう)の衰頽(すいたい)、あわれ薩摩といえば鰹節さえ幅のきく世に、さりとは地に落ちたり我が金襴(きんらん)陶器(とうき)、

曉月夜
拾(ひろひ)きしは白絹(しろぎぬ)の手巾(はんけち)にて、西行(さいぎやう)が富士(ふじ)の烟(けむり)の歌(うた)を繕(つくろ)はねども筆(ふで)のあと美(み)ごとに書(か)きたり、いよいよ悟(さとり)めかしき女(をんな)

さをのしづく
ある人のもとにて紫式部と清少納言のよしあしいかになどいふ事の侍りし

うつせみ
家(いへ)の間數(まかず)は三疊敷(さんでふじき)の玄關(げんくわん)までを入いれて五間(いつま)、手狹(てぜま)なれども北南(きたみなみ)吹ふきとほしの風入(かぜいり)よく、 庭(には)は廣々(ひろ/″\)として植込(うゑこみ)の木立(こだち)も茂(しげ)ければ、夏(なつ)の住居(すまゐ)にうつてつけと見みえて

雨の夜
庭(には)の芭蕉(ばせを)のいと高(たか)やかに延(のび)て、葉(は)は垣根(かきね)の上(うへ)やがて五尺(ごしやく)もこえつべし

月の夜
さゝやかなる庭の池水いけみづにゆられて見ゆるかげ物いふやうにて、手すりめきたる処ところに寄りて久しう見入るれば、はじめは浮きたるやうなりしも次第に底ふかく、此池このいけの深さいくばくとも測はかられぬ心地こゝちに成なりて、月は其そのそこの底そこのいと深くに住むらん物のやうに思はれぬ、久しうありて仰あふぎ見るに空なる月と水のかげと孰いづれを誠まことのかたちとも思はれず、物ぐるほしけれど箱庭はこにはに作りたる石いし一ひとつ水の面おもにそと取落とりおとせば、さゞ波すこし分れて是れにぞ月のかげ漂たゞよひぬ、・・・
大路おほぢゆく辻占つぢうらうりのこゑ、汽車の笛ふえの遠くひゞきたるも、何なにとはなしに魂たましひあくがるゝ心地こゝちす。

和田芳恵「一葉の日記」によれば、1895年(明治28年)、一葉は、内田魯庵訳・ドストエフスキー「罪と罰」を、借りて読んでいる。「繰り返し読んだ」とある。ラスコーリニコフは、明らかに「心を病んだ」人であるが、当時の読者が、そのように解釈したのかどうかは明らかではない。「にごりえ」のお力の性格付与に影響を与えた可能性がある、と示唆されている。この作品には当初、「ものぐるひ」なるタイトルも考えられていたらしい。


されば天地は万物の逆旅(げきりょ)、光陰は百代(はくたい)の過客(くわきゃく)、浮世(ふせい)は夢幻(ゆめまぼろし)といふ。
折ふしは春の山二月初午の日、泉州に立たせ給ふ水間寺の観音に、貴賤男女参詣でける。・・・此寺にて万人かり銭する事あり。当年一銭あづかりて、来年二銭にして返し、百文請取り、二百文にて相済ましぬ。・・・
(ここに武蔵国から男がやって来ていきなり一貫もの借銭をした、寺僧はあっさり渡してしまったものの、今後はこのような高額の借銭には応じぬことに決めた。男は舟問屋でこの銭を元手に次第に家栄え、)
・・・かりし人自然の福有りけると遠浦に聞き伝へて、せんぐりに毎年集まりて、一年一倍の算用につもり、十三年目になりて、元一貫の銭八千百九十二貫にかさみ、東海道を通し馬につけ送りて、御寺につみかさねければ、・・・
「日本永代蔵・初午は乗って来る仕合」井原西鶴(角川文庫)
仰天したのは他でもない(笑)、今年借りた金を来年倍返しするなら、年十割の利息、はっきりとは書いていないが、複利なのだとしたら、2の13乗は確かに(!)、2^13=8192なのである。
2^10=1024≒10^3
で、二進法に親和性の強いコンピュータの世界では「キロ」、「メガ」などの補助単位をこれで代用するから、業界では常識に属する数字であるから、これを基準にすれば、2の13乗は暗算で得られよう、しかし西鶴もまたこれを常識として心得ていた、というのなら?こんなのもある。
さればとよ、世に大名の御知行、百二十万石を五百石どり、釈迦如来入滅此のかた、今に永々勘定したて見るに、これを取りつくさじといへり。
「日本永代蔵・波風静かに神通丸」井原西鶴(角川文庫)
釈迦入滅には諸説あるようだが、いずれも紀元前500年前後、「日本永代蔵」が刊行されたのが1688年というから、約2200年、
1,200,000÷500=2,400
ほら(笑)、なかなか正確ではないか?
西鶴にまで(笑)手を延ばし始めたのは、一つは、溝口健二「西鶴一代女」のDVDを古本屋で安く手に入れることができたためと、もう一つは、もちろん、樋口一葉のおかげである。「大つごもり」が、「諸国はなし」の「大晦日あはぬ算用」のいわば「本歌取り」である、といわれているからだ。
***
「ぷ!」と龜はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冐險の道ぢやありませんか。いや、冐險なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衞生な無頼漢みたいな感じがして來るけれども、信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。それを人は曲藝かと思つて、或ひは喝采し、或ひは何の人氣取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶對に曲藝師の綱渡りとは違つてゐるのです。藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冐險をしてゐるなんて、そんな卑俗な見榮みたいなものは持つてやしないんです。なんの冐險が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じてゐるのです。花のある事を信じ切つてゐるのです。そんな姿を、まあ、假に冐險と呼んでゐるだけです。あなたに冐險心が無いといふのは、あなたには信じる能力が無いといふ事です。信じる事は、下品(げぼん)ですか。信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きてゐるのだから、しまつが惡いや。それはね、頭のよさぢやないんですよ。もつと卑しいものなのですよ。吝嗇といふものです。損をしたくないといふ事ばかり考へてゐる證據ですよ。御安心なさい。誰も、あなたに、ものをねだりやしませんよ。人の深切をさへ、あなたたちは素直に受取る事を知らないんだからなあ。あとのお返しが大變だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチなもんだ。」
「お伽草紙・浦島」太宰治(青空文庫)
この時、突然、机上の小雀が人語を発した。
「あなたは、どうなの?」
 お爺さんは格別おどろかず、
「おれか、おれは、さうさな、本当の事を言ふために生れて来た。」
「でも、あなたは何も言ひやしないぢやないの。」
「世の中の人は皆、嘘つきだから、話を交すのがいやになつたのさ。みんな、嘘ばつかりついてゐる。さうしてさらに恐ろしい事は、その自分の嘘にご自身お気附きになつてゐない。」
「それは怠け者の言ひのがれよ。ちよつと学問なんかすると、誰でもそんな工合に横着な気取り方をしてみたくなるものらしいのね。あなたは、なんにもしてやしないぢやないの。寝てゐて人を起こすなかれ、といふ諺があつたわよ。人の事など言へるがらぢや無いわ。」
「お伽草紙・舌切雀」太宰治(青空文庫)
「お伽草紙」太宰治(青空文庫)
承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、・・・
同年。五月大。廿九日、丁卯、・・・
承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、・・・
承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、・・・
承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、・・・
同年。十月大。十三日、辛卯、・・・
建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、・・・
「右大臣実朝」太宰治(青空文庫)
「右大臣実朝」研究
1943年に書かれた太宰治「右大臣実朝」には、実朝の存命中はまだ少年であった元「御家人」で、今は出家の身である者の語りとして、以下のような記述がある。もとより、何か、確かな出典があるのだろうが、私には分からない(笑)。早速(笑)、「ウラを取って」みた。偽Excellスプレッドシートの日付関数は、1900年より古くは辿れない。旧暦・干支のついたカレンダーをサービスしてくれているこのサイトを参照して、作表した。もとより、明治より前の元号は旧暦に対応したものであろうし、また、改暦の月日を確認したわけでもないから、ここでは新暦の西暦(笑)に、一律に対応させてある。

承元二年戊辰。二月小。三日、癸卯、・・・
同年。五月大。廿九日、丁卯、・・・
承元三年己巳。五月大。十二日、甲辰、・・・
承元四年庚午。五月小。六日、癸巳、・・・
承元五年辛未。正月大。廿七日、辛亥、・・・
同年。十月大。十三日、辛卯、・・・
建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、・・・
「右大臣実朝」太宰治(青空文庫)

各年に割り当てられた「干支」、承元二年(1208)は「戊辰」、承元三年(1209)が「己巳」、同じく、承元四年(1210)「庚午」、承元五年(1211)「辛未」、建暦二年(1212)「壬申」、はその通りであるようだ。(参考:西暦・干支・元号)
承元二年の旧「二月」は「小」の月、同「五月」は「大」、承元三年「五月」が「大」、承元五年「正月」が「大」、同「十月」も「大」、まではよいが、承元四年「五月」は「大」、建暦二年「二月」は「小」ということに、このデータでは(笑)、なっている。なお、承元(じょうげん)から建暦への改暦は、承元五年の十月以降に行われたらしいことがここから分かる。

日付に割り当てられた「干支」はどうであろうか?
承元二年二月三日「癸卯」→「庚戌」であり、「癸卯」なら一週前の一月廿六日
承元二年五月九日「丁卯」→「甲寅」であり、「丁卯」なら約二週後の五月廿二日
承元三年五月十二日「甲辰」→「辛亥」であり、「甲辰」なら一週前の五月五日
承元四年五月六日「癸巳」→「己亥」であり、「癸巳」なら、約一週前の四月二十九日
承元五年正月廿七日「辛亥」→「丁巳」であり、「辛亥」なら、やはり約一週前の正月廿一日
承元五年十月十三日「辛卯」→「戊戌」であり、「辛卯」なら、同じく約一週前の十月六日
建暦二年二月三日「庚辰」→「丁亥」であり、「庚辰」なら、ちょうど一週前の正月廿六日、・・・
資料(笑):1202~1212年の各日付の「干支」、一覧。

と、なんとも不思議な、微妙な、ほとんど規則的といってもいいような(笑)、ずれを見せている。同じ「干支」の日は、10と12の最小公倍数から、当然(笑)、60日、つまりほぼ二月に一度しか現れない、だから、一週間内外の「誤差」は、むしろ正確、の部類といってもいいことになろう?実朝の家来であった原著者の思い違い、太宰治の引用時のミス、あるいは、このカレンダー生成プログラムのバグ、原因は多々あろうが、いずれにしても(笑)、そもそも、この日記のような文書に、日付の干支を加えておく習慣が、後の歴史家が考証する際に、60日未満の誤差でのチェック機能を果たしていることを、知ることは出来たのである。

タイトルは、「日本永代蔵・初午に乗って来る仕合」の冒頭、「逆旅」とは「旅籠」のことである。当然(笑)思い浮かぶのは、「おくのほそ道」の書き出し、
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。・・・
「おくのほそ道」松尾芭蕉(角川ビギナーズ・クラシックス)
なるほど、西鶴と芭蕉は、同時代人だったのである。

こうして思い付くままに並べてみたが、なかなか感慨深い(笑)。源実朝とアッシジのフランチェスコが、また、松尾芭蕉とライプニッツが、重なりあう時代を生きていた、だなんてね!
「おくのほそ道」に俳人にして紅花商人が登場する。ベニバナ(キク科)英名Safflower、「くれのあい(呉藍)」、「すえつむはな(末摘花)」、染料及び食用油。


うってつけの「ルームメイト」、と言えましょう。
猫は、「寝・子」、ではないかと言われているくらいで、たしかに、一日の大半を眠って過ごす。同じく、一日の大半を眠って過ごすしかな・い・(笑)、「失業」、おや、そんなこともありましたな(笑)、「独居」老人、には、うってつけの「ルームメイト」、と言えましょう。眠らなければならないのは、「再生産」、すなわち、一日24時間周期、これは地球に生きる者がやむなく(笑)負わなければならない制限ですが、で、疲弊した身体を再び元の状態にまで回復する、そのためにどうしても(休養)が必要な訳だが、生き物それぞれのハードウェア上の条件から、その24時間を活動と休息を一定の割合に、割り振らねばならない。効率の悪いシステムなら、どうしても休息の方が長くなる。猫の場合は、そして「私」も(笑)、どうやらそれは1:2に設定されているらしい。人類が、多大な犠牲を払ってやっと獲得したかに思われたものの、またしてもなし崩しにされかけているところの、「8時間労働制」には、そのような生物学的根拠があるのだ、と、猫を眺めていて、初めて知ったのでした(笑)。


男と女のいる、・・・。
She did not think the novel was about Africa at all. It was about Europe, or the longing for Europe, about the battered self-image of an Indian man born in Africa, who felt so wounded, so diminished by not having been born European, a member of a race which he had elevated for their ability to create, that he turned his imagened personal insuffichiencies into an impatient contempt for Africa; in his knowing haughty attitude to the African, he could become, even if only fleetingly, a European. She leaned back on her seat and said this in measured tones. Kelsey looked stattled; she had not expected a mini-lecture....
Americanah/Chimamanda Ngozi Adichie(4TheState.Co)
その小説がアフリカについて書かれたものだとは全然思わない。それはヨーロッパについての、あるいはヨーロッパに対する希求、アフリカに生まれたインド人という傷つけられた自己イメージについての物語だ。彼は、ヨーロッパ人という、彼が登りつめようと願った人種の一員、に生まれなかったことに、大いに傷つき、委縮しているがために、今度は自分の不十分性という個人的な思い込みを、アフリカに対する憎悪へと、いらだちまぎれに振り向けたに過ぎない。彼がアフリカ人に対して知ったかぶりの高慢な態度をとるのは、そのことによって、例え束の間であっても、彼自身が、ヨーロッパ人にな・れ・る・からだ。イフェメルは椅子にもたれかかって、落ち着いた物腰てこんな風に喋った。ケルシーは、驚愕していた。こんなところで「ミニ講演」を拝聴させられるとは!
「アメリカーナ」C.N.アディーチェ
あとでも触れるが、これは美容院での出来事、隣に居合わせた「白人」の客、ケルシーの、アフリカに「理解ある」素振りが、余程頭に来たと見える(笑)、「暗い河A Bend in the River」V.S.ナイポールV.S.Naipaul、に孕まれている植民地主義者的偏向を、完膚なきまでに批判している。
ここまで言われたら読みたくなるのが人情であるが、廉価では手に入りそうにない。ナイポールは、いくつか読んだことがあるが、ずいぶん昔、無理をして英語で読んだりしたものだから(笑)、あまり記憶がない。1932年、カリブ海のトリニダード&トバゴTrinidad and Tobago生まれ、二代ほど前から農業労働者として移住したインド人家族の子として。「暗い河A Bend in the River」(1979)は、おそらく、モブツ・セセ・セコ治下のザイール(1971-1997、現・コンゴ民主共和国)を思わせるアフリカの一国を舞台としている、といわれる。「解放」後の「第三世界」の「暗黒」面を描きたてることで、植民地主義支配へのノスタルジーをかき立てる、そのスタイルの、ジョゼフ・コンラッドとの類縁性も指摘されている。「西ヨーロッパ」に抑圧されたポーランドの生まれであるコンラッドが、アフリカへの侮蔑的な視線をもつに至る屈折を、トリニダード・アンド・トバーゴという社会のマイノリティーたるインド人社会に生まれ、植民地「宗主国」イギリスで教育を受けたナイポールにも投影してみることができよう、などと得意そうに(笑)書き始めて調べてみると、トリニダード・アンド・トバーゴは人種構成の上で、インド系35%、アフリカ系34%、とのこと、調子に乗った(笑)憶断は、このくらいで控えておこう。それでも一つだけ指摘できそうなのは、ナイポールは、大雑把に調べたところ、アフリカに居住した経験を持っていないように見受けられる、ならば、「当事者」ではあり得ず、彼もまた(笑)「憶断」しているのである。同じ場面でケルシーが得意そうにあげたもう一冊の「アフリカにつ・い・て・」の書物が、チヌア・アチェベの「崩れゆく絆Things Fall Apart」、そして、そのアチェベには、「アフリカのイメージ、コンラッド「病の奥」における人種主義An Image of Africa: Racism in Conrad's "Heart of Darkness" (1975)」の著作があることが知られているから、やはり、話は、つながる、のである(笑)。
Things Fall Apart/Chinua Achebe(wikipedia)
A Bend in the River/V. S. Naipaul(wikipedia)
***
しかるに彼ら閣臣の輩(やから)は事前(じぜん)にその企を萌(きざ)すに由(よし)なからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括(ひっくく)って、二進(にっちん)の一十(いんじゅう)、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して――もし二十五人であったら十二人半宛(ずつ)にしたかも知れぬ、――二等分して、格別物にもなりそうもない足の方だけ死一等を減じて牢屋に追込み、手硬(てごわ)い頭だけ絞殺して地下に追いやり、あっぱれ恩威並(なら)び行われて候と陛下を小楯(こだて)に五千万の見物に向って気どった見得(みえ)は、何という醜態であるか。啻(ただ)に政府ばかりでない、議会をはじめ誰も彼も皆大逆の名に恐れをして一人として聖明のために弊事(へいじ)を除かんとする者もない。出家僧侶、宗教家などには、一人位は逆徒の命乞(いのちご)いする者があって宜いではないか。しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽(だいろうばい)で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものがないとは、何という情ないことか。幸徳らの死に関しては、我々五千万人斉(ひとし)くその責(せめ)を負わねばならぬ。
「謀叛論(草稿)」徳冨蘆花(青空文庫)


四百キロにわたって、島影一つ見えぬ絶海。
四百キロにわたって、島影一つ見えぬ絶海。
また、知らなかった(笑)。「引きこもり」が一層悪化して(笑)、犬の散歩にすら、およそ、「外」に出ることができない日々が続いていて、今年の梅雨はほとんど「から梅雨」だそうで、北部の貯水池の水位もどんどん下がっていて、この先夏場の深刻な水不足が心配される、という話は聞こえてきていたが、というのは(笑)、沖縄本島の南半分は、何度も言ったが、隆起サンゴ礁由来の地盤で、石灰岩というのは、
CaCO3+CO2+H2O←→Ca2++2HCO3-
と、空気中の二酸化炭素と水分と反応して容易に溶けてしまえるから、その節理は「ポーラスporous」、つまりスカスカで、保水性が極めて低い。だから雨水もあっという間に海に流れてしまうから、人口密集地である「南部」の水需要はすべて、非石灰岩性の堆積岩の基盤をもつ「北部=やんばる」の山間部の貯水池に依存せざるを得ない、という、これまた一つの「南北問題」を形成しているのだが、何の話だっけ?そうそう、樋口一葉の真似をして(笑)、「句点」のない文章を続けてみたくなったら、訳が分からなくなったが、それでも、うつ病患者にとっては、太陽光の恩恵が何物にも代えがたいようで、昨日、午後からは雨が降ったが、ほぼ梅雨明けだそうで、そんな風で少し気持ちも上向き(笑)、ようやく犬の散歩の務めも果たし、本当に久しぶりに、カメラを携えて、花や鳥や虫を「眺める」ことさえできるほどの高揚感があったのだ、その途中、F某と思しき戦闘機の、それは少しも珍しくない日常の「サウンドスケープ」だが、それにしても、やや「只ならぬ」感じの爆音が降ってきて、すわ、ま・た・、事故かよ?と、努・め・て・(笑)冷笑的に、空を見上げてみたりもしたが、どうやら、実際、事故だったようなのである。以前、オスプレイが中部の海岸地帯に不時着したときも、その直前、やはり犬の散歩の途中(笑)、異音を発する機体を目撃した。そんなことは、少しも「自慢」にならないのに、そういう、ある種の「はしゃぎ方」ができるようになったのは、私がこの土地にようやく「馴染んだ」証であると同時に、もちろん、「見たくないもの」を、見なければならない「精神的外傷」に対する「躁的防衛」の機序であることも、付け加えるまでもない(笑)。で、冒頭の話であるが(笑)、新聞もとらず、テレビももたず、インターネットも、「時事」に関わるようなものは決して見ない(笑)、ことにしているから、今日になるまで知らなかった。海上保安庁のものとおぼしきヘリコプターが、日頃おなじみのCH53などとは音が違うのですぐわかる(笑)、いやにやかましいので、ま・た・、何か起こったのか?と、思わず、地元紙のサイトを参照してみたのだ。
で、そんな訳で知ることになってしまった(笑)F15の墜落現場が、「那覇市の南方80kmの海上」、とのことなので、早速、調べてみることになった。やはり、梅雨明けのせいか(笑)、やや「躁状態」が続いているようではある。
何年か前、池上永一「テンペスト」を読み耽っていたとき、嗚呼、 #高江 も #辺野古 も、ない、少なくとも私にとってはね、遠い昔に思えるな、石垣島に島流しになった真鶴が、首里王府を懐かしみ、最高峰於茂登岳に駆け上り、北東の方角を望んでみたが、島影一つ見えなかった、というくだりがあり、確かに、標高500メートルの山頂から見渡すことのできる「視野」は、半径80kmに過ぎず、石垣から沖縄本島まで、ほぼ四百キロ、ご覧のように、本当に「島影一つない絶海」なのである、ということは、確認済みであった。おぼろげな記憶だったので、もう一度計算してみることにしたまでだ。図の中央部分が、おそらく「那覇市南方海上80km」あたりになるだろう。

確かに、航空写真で見ても、海以外、何もなさそうな、場所なのである。この島の北側には、那覇と与論島の距離が百キロ余り、那覇と国頭の距離が八十キロ、ということだから、北端の辺戸岬から与論島は、平地からでも見える筈、奄美大島まで三百キロくらいはあるものの、ご覧のように、その間には、飛び石のように、島々が配置されているのに対して、南側、沖縄本島と宮古島とを隔てる「絶海」の距離は、北はサハリンから、南はインドネシアに至る、ユーラシア大陸東岸島嶼地帯の中でも、珍しいものではなかろうか?ちゃんと調べたわけじゃないが、台湾とフィリピンの間、台風情報でよく耳にするバシー海峡も、目測100キロ程度に思える、ということは、きっと渡り鳥たちにとっても、ここは「難所」なのだ、春秋の旅の途中に立ち寄ったのであろう者たちが、わき目もふらずに(笑)、餌探しに余念がないのも、うなずけよう、というものだ。と、こうして上手に「花鳥風月」の話に流してしまうのも、私の内部の、一つの(笑)「検閲機構」の仕業であることも、また、付け加えるまでもない。
***
クロイワニイニイに続き、リュウキュウアブラゼミも鳴き始めた。



続・男と女のいる、・・・。
「男と女のいる舗道Vivre Sa Vie」は、ゴダールの映画のタイトル、のつもりだ(笑)。ノラちゃん♪というオス猫と、こぶんか♪というメスの子猫が、どっかのゴミ捨て場で拾ってきたプラスチック製の椅子の上で、「見つめあって」(笑)いたので、そんなタイトルにした。これが「続」編なのはどういう訳だっただろう?ああ、最後のシーンね、キジバトさんの夫婦者が、仲睦まじく、電線の上で語り合っている。だから、男と女のいる電線、なのだ。先日、 #辺野古 の一週間連続行動、というのに来てくださった関東のお友達、帰られる前に、那覇の桜坂で映画を一本観て、で、ビールをしこたま飲む、もちろんおごっていただいて(笑)、それが「ヌーベルバーグ・左岸派」と言われる、ジャック・ドゥミの「ローラ」で、それがとても気に入り、何が「左岸」か「右岸」か?、セーヌ川を挟んで、多少のニュアンスの差があるようなのだが、それはよく分からないものの(笑)、調子づいて今度は中古DVDが廉く手に入るたびごとに、つつましい「映画三昧」。例えばヒッチコックの、「逃走迷路Saboteur」、ステージから観客席に向かってピストルをぶっ放すシーンは、ああ、どこかで見たことがある!シド・ヴィシャス「マイ・ウェイ」のプロモーション・ビデオ、アレックス・コックスの「シド・アンド・ナンシー」にも引用されている、あれの、「本歌」だったんだな。あるいは、溝口健二「赤●線地帯」、若尾文子に入れあげて「夜逃げ」することになる「ニコニコ堂」主人が、布団屋でなければならないのは、ああ、もちろん、樋口一葉「にごりえ」へのオマージュ、だからなんだな、そんなことを発見して、今更発見してどうなるものでもないが(笑)、一人で膝を打ったりしている。
小津安二郎、「秋刀魚の味(1962)」は「晩春(1949)」の、ほぼ忠実なリメイク、つまり、自分自身の「引用」なのだな。
***
旧暦四月三十日だから、もちろん「朔」の大潮、水曜日の朝、ときどき休みがちではあるが(笑)、それでも「義理」がたく(笑)、 #辺野古 には朝から出かけて、ともかく一回だけは「ごぼう抜き」を皆さんとご一緒して、でも申し訳ないがそれだけで、メンタルに(笑)、ぐったり疲れてしまう「弱い」人間(笑)だから、出席取り終わった授業こっそり抜け出すみたいに「早退」のチャンスを窺っていたら、久しぶりで、やんばる在のお友達に会った。少し立ち話をして、じゃあ、二回目のごぼう抜き、頑張ってね!、とかいい加減なこと言い残して、立ち去ったわけだ。少しも「帰り道」なんかじゃない、大いに遠回りなのだが、せっかくの潮目だし、今帰仁の海までやって来た。ずっと混同していた、ウラナミシジミ/クロマダラソテツシジミ、であるが、えてしてそういうものだが、改めて眺めると少しも似ていないのに(笑)、これは海岸植物ハマササゲというマメ科のものに、卵を産み付けているようだから、間違いなくウラナミシジミである。もちろん、クロマダラソテツシジミの食草は、ソテツ(ソテツ科)であるから。


このような偶然、としか思えない「利他性」を、その剰余として、含みこんでいるかも知れない、と、差し当たり「感動」(笑)しておくことにする。
「乳母」の歴史、英語では、広く、子供であれ病人であれ、の、面倒を見ることを、nursingと呼び、そのうち特に、母乳による授乳をともなうものを、wet-nursingと言うようである。
A woman can only act as a wet-nurse if she is lactating (producing milk). It was once believed that a wet-nurse must have recently undergone childbirth. This is not necessarily the case, as regular breast suckling can elicit lactation via a neural reflex of prolactin production and secretion. Some adoptive mothers have been able to establish lactation using a breast pump so that they could feed an adopted infant.
女性は、自分自身が乳の産生を行っている間だけ、「乳母」の役割を果たすことができる。かつては近い過去に出産を経験した者のみが「乳母」足ることができると信じられていた。しかし、必ずしもそうではなく、常に授乳を行っていることが神経的な反射として、黄体刺激ホルモンの分泌を促すのである。乳児を引き取った養母には、搾乳によって、乳の産生を開始し得る場合がある・・・
某ペディアの記事による。
屁理屈を言わせてもらうと(笑)、この表現は循環を含んでいるね、「常に授乳を行っていることが、乳の産生を促すregular breast suckling can elicit lactation」というが、じゃ、最初はどうやって授乳「出来た」んだよ?後段にあるように、子供が乳●首を吸う刺激が、また、某Tubeの「わいせつ」(笑)検閲にかからない用心に・・・、乳産生のためのホルモン分泌を促す、という事情なんだろう。辞書を引けば「黄体刺激ホルモン」とでるが、字面通りに見れば、lactは、カフェラッテの「latte」、カフェオーレの「レ(lait)」、「乳」を表すラテン語だから、prolactinは、乳をつくることを促すホルモン、という意味になろう?
単語帳(笑)、elicit引き出す、suckle授乳する、reflex反射、secrete分泌する
***
脚白くない♪おかあさん、体調を崩し、一時は食欲も落ちてしまって、部屋の片隅にうずくまっていることが多くなった。当然、想像できるが、子供の世話、どころの騒ぎではない、という状態だったのだろう、授乳をやめてしまったようなので、そうでなくても乳が出なくなっていたかも知れない、いずれにしても、「乳母」、ならぬ「乳・父」が登場しなければならなくなったのである(笑)。かねてからの疑問であったから、この際調べてみた訳だ。こうして、洋の東西の、一世紀半ばかり前の書物ばかり(笑)読んでいると、特に、そのようなものを書く階級に於いては著しかったのかも知れないが、頻々と「乳母」が登場するではないか?溝口健二「西鶴一代女」でも、東国の裕福な侍が、「お腹さま」たる女子を求めて都に使者を送る、難関を突破して選ばれ、希望通りに男児を生むものの、ただちに子供から引き離され実家に戻されてしまう、ではないか?どうして、「乳母」の乳が出るのか?が謎だった、私もまた、出産→乳の産生、という因果関係が必須だ、と思っていたのだ。だったら、今まで、たとえば、故・おかあさんそっくり三毛♪、ほかの母猫、故・こげ♪、や、きじとら(淡)♪、の生んだ子供たちがしがみついてくるのに、嫌がりもせず、寛容にも(笑)そのままにしていたとき、ひょっとしたら、乳が出ている可能性も、あったのだ、と思わず膝を叩いた次第。「出産→乳の産生」という「因果」経路以外に、「乳●首の刺激→乳の産生」という経路が、言わば「傍流」として形成された、とするのなら、もとより、その「必要」があった、より正確に言うと、そのような「無駄」を許容する性質を突然変異によって獲得した変異群の方が、より、生き延びる確率が高かった、と言うべきなのである。哺乳類の始祖から、人と猫が分かれてから、どれだけの世代が経過しているだろう?この性質が、ヒト、固有のものなのかどうかは、今のところ(笑)不明であるから、断定は差し控えるが、・・・、「利己的遺伝子論」にもかかわらず(笑)、生き物は、このような偶然、としか思えない「利他性」を、その剰余として、含みこんでいるかも知れない、と、差し当たり「感動」(笑)しておくことにする。
「乳母の力」田端泰子(吉川弘文館)などというものまで、取り寄せて読み始めた。平安時代の貴族の誰かれが、どの乳母に育てられ、誰と誰とが「乳兄弟」であるとか、貴族の娘や妻の誰かれが、どの天●皇の乳母になったとか、その詳細な検証には舌をまくが、しかし、残念ながら読み終えることはできそうにない(笑)。でも、おかげで(笑)、源実朝の乳母が、という話から、「右大臣実朝」太宰治(青空文庫)を読むことになり、そこに引用されているのは「吾妻鏡」らしいのだが、そこでまた干支と暦の裏を取る(笑)というどうでもよい作業に没頭して時間を潰すことができたのは、幸いであった。
で、脚白くない♪、の食欲は回復したが、子供達がぴーぴー騒ぎながら私の(笑)「授乳」を受けている様を、或いは「気がかり」そうに見守ってはいるものの、育児生活に戻る様子はない。それは無理もない、かもしれない。もう、この子達の母親は、「私」(笑)、になってしまったようだからね(笑)。


こういうのを、英語で、"Behind the bars" 、と、言います。
脚白くない♪おかあさん、食欲は回復して一安心。でも、だからと言って、元通り、授乳生活に戻るか、と言うとそういうわけにもいかないだろうな、とは覚悟していた。すでに、一度、こうして「乳母」(笑)が介入してしまって、お子様たちをこんな風に閉じ込めてしまって、しばらく時間が経過してしまった訳だから、状況が異なりすぎて、彼らの記憶容量の制限の下では、時間の連続性を再構成できなくてもやむを得ない、とは思う。愚かなけだものたち、などとは、もちろん言わない(笑)。こんな奇妙な事態に対応すべき遺伝的素材がないのは、むしろ当然のことではないか。それでも、おかあさんは、このかごの近くにやって来て、しばらく不思議そうな表情をして、あの、子供をあやすときの甘い声を出したりもするのだが、やがて、ぷいと、立ち去ってしまう。そうして、「乳母」のお仕事が再開する。ほとんどの時間は静かにすやすやと眠っていてくれるが、目を覚ますと、ほら、こんな風に、延々と泣き暮らす(笑)。そんなところは、きっと人間の子供も同じ、いや、よく知らないけど(笑)。


続・こういうのを、英語で、"Behind the bars" 、と、言います。
前回のは、スマホのカメラで撮ったので、使い方が未だによく飲みこめておらず(笑)、せっかくの(笑)、「鉄格子」にしがみついたとら♪ちゃんのお顔が見えなかったので、撮り直した。「乳母」、いや、私がlactateするわけじゃないな、でも、歴史上も「乳母」と呼ばれる人たちが、必ずしもwet-nursingをしたわけでもなさそうな話だが、それはさておき(笑)、「代理母」生活、何日目になるかな、最後まで、つまり、大人になるまで、全員が生き延びてくれる、とは少しも期待してはいないものの、こうして何とか、元気そうに、ぴーぴー泣いてくれるのは、やはり嬉しい(笑)、「乳母」冥利に尽きる、という訳である。


天運を当てにする気になったのもやむを得ない。
島には赦免花という迷信ができていた。それは一本の大きな蘇鉄であるが、その木に花の咲いた次の年は、必ず御赦免の沙汰があるというのである。幕末の頃には八丈の流人はだんだんと数を増し、政府もいろいろの機会にこれを減らそうとしていたようだが、その標準というものが立っていたわけでもなかった。中には死んだ者または島抜けをした者へ、年月を経てから島御免の状の到達することもある。それほどにも名簿は不精確であり、また選抜もでたらめに近いものだった。天運を当てにする気になったのもやむを得ない。
「島の人生」柳田国男(ちくま文庫柳田国男全集1所収)
これは八丈島の話。ならばソテツの花は何年に一度しか咲かないのだろうか?当地にももちろんソテツの株は、植栽されたものも、自生しているらしいものも随所に見られるが、そう言えば、その数に比して、花、そう、ちょうど今時分が花時である、を見るチャンスはやや少なめにも思える。調べてみたが、よく分からない(笑)。年に数センチしか成長しない、明らかに生存競争上はハンディを負っているにもかかわらず今日まで生き延びているのは、根に窒素固定作用を有するバクテリアを共生させ得たから、痩せ地でも生育可能となったからだ、とのこと、そんなに生育が遅いのなら、あるいは花も何年に一度しか咲かない、ということもありそうではある。紅色の小判状の種子は豊富なデンプンを含むが、サイカシン(Cycasin/Cycazine)なる、みたところ六炭糖の側鎖の一つにアゾ結合-N=N-という構造の、毒物をもっていて、

1904年「明治沖縄大旱魃」以降の「ソテツ地獄」は、人びとが、それが毒であることを知りながらも、なお、水に晒して毒抜きをする暇もないほど、飢えていたから生じたのだ、と聞いた。
長らく、ウラナミシジミ(シジミチョウ科)との区別がついていなかった、なんでもそんなものだが、わかってしまった後から見れば、どうして混同していたか?と訝るほど、これはちっとも「波」ではなく、なるほど「黒・斑(まだら)」であろう?、クロマダラソテツシジミ(シジミチョウ科)が数多群れ集っているのに誘われて、もちろん、それは産卵のためなのだろう、こうしてソテツの花、雄花と雌花、を発見したのである。
この柳田国男の八丈島の故事を読み返すことになったのは、横山源之助「明治富豪史」(ちくま文庫)に、アホウドリ(ミズナギドリ目アホウドリ科)、「信天翁」、羽毛が輸出産品として利を生むことに着目した冒険者たちが、沖縄、小笠原近海のいくつかの無人島の発見者である、との記事を見つけたからであった。

ここに、たとえば間もなくやってくる「スーパー・タイフーン」2018年8号・Mariaの予測進路を重ね書きしてみれば、確かにここが、「ヤポネシア」と呼ばれていい、というような、より広いパースペクティブを(笑)もつことができるのである。



***
八丈島:北緯33度06分34秒東経139度47分29秒、最高峰・八丈富士・標高854メートル
青ヶ島:北緯32度27分28秒東経139度45分33秒、最高峰423m

柳田国男「島の人生」には次の二章が含まれている。
八丈島流人帳(昭和八年七月)1933年
青ヶ島還住記(昭和八年八月~十月)1933年
青ヶ島は八丈島の南方80kmばかりにある活火山の島、安永九年~天明四年、というから、1780~1784年、大きな噴火があり、住民こぞって八丈島に避難した、その様子を記録から読み解く試みである。「南方80km」に、思・わ・ず・反・応・したのは(笑)、過日のF15墜落地点が、那覇市の南方80km、という記憶があったからだろう。沖縄本島から、宮古・八重山まで、300ないし400km、島影一つない絶海である。以前、池上永一「テンペスト」で、主人公の真鶴が石垣に島送りになり、望郷の念やみがたく於茂登岳の頂上に駆け上り、懐かしい首里の町が遠く望もうとしたが、到底果たせなかった、という一節を読んで、確かめてみたことがあるから知っていた。於茂登岳標高約500m、そこから望見できる地表面は、およそ半径80kmの円周だ、という計算だった筈だ。


ならば、青ヶ島が爆発したのに、その煙のせいで八丈島からは、見ることができなかった、という記述にも納得がいく。沖縄のように隆起サンゴ礁主体ではなく、火山島であるから、八丈島の最高峰は、800m位と高いから、晴れていれば、なお望みやすかったであろう。
火山から熱した土砂が噴出し作物が全滅する。山帰来の蔓をたどって芋を掘りだし、飢えをしのいだ、という記事があった。オキナワサルトリイバラというユリ科のつる性植物があって、多分見たことは一度くらいはある筈だが、あまり記憶にないな、方言名が「ぐーるー」または「さんちら」、後者は「山帰来」であろう。その根は久米島絣の染料として名高い、とある。


きっと今も、そこらへんに、自生しているに違いない草木。
この点はしばしば見誤られる事実であるが、農民自身にとって、その主要部分が年貢納入のために強制された生産であるか、独自に販売するための商品生産であるかで、性質は大いにちがう。
「新・木綿以前のこと」永原慶二(中公新書)
「上布」というのは、苧麻(ちょま)、カラムシ(イラクサ科)、の茎の表皮から採った繊維で織られる。
宮古織物事業協同組合
カラムシはアカタテハ(タテハチョウ科)の食草だ、という記憶だけが(笑)あった。アカタテハがこうして飛んでいる以上(笑)、少なくとも近縁種は、今もそこいらに自生しているに違いない。池上永一「テンペスト」では八重山に島流しになった真鶴が、八重山上布の卓抜した織り手として、首里にカムバックする(笑)という、荒唐無稽な筋書きではなかったかと記憶する。
那覇伝統織物事業協同組合
久米島紬事業協同組合
沖縄の織物の原料は、芭蕉、苧麻、絹、木綿があるが、絹は首里と久米島が主産地であったようだ。
喜如嘉の芭蕉布
「木綿以前のこと」・研究

  • アサ(麻、大麻草/Cannabis,hemp)アサ科。「織物の日本史」遠藤元男(NHKブックス)には、「桑科あさ属」とある。
  • アマ(亜麻、リネン/Linum)アマ科
  • カラムシ(紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお))イラクサ科
  • コウマ(黄麻、インド麻、ツナソ(綱麻)/Jute)アオイ科、同属のシマツナソは別名モロヘイヤ
  • マニラアサ(マニラ麻)バショウ科
  • サイザル麻、キジカクシ科リュウゼツラン属
  • イチビ、キリアサ(桐麻)、ボウマ(麻)、アオイ科。「織物の日本史」には「綿葵科」とある。

チヌア・アチェベ「崩れゆく絆」(光文社古典新訳文庫)、に、さっそく「サイザル麻」登場。日照りにヤム芋畑を、分厚いサイザル麻の葉で覆った、とある。
***
暦を見ると、上弦の頃のようで、なるほどすでに光が夕刻である。ミナミハタタテダイ(チョウチョウウオ科)、とキャプションにはつけておいたが、間違っているようだね。それだと、もう少し茶色っぽくて縦長、もっと「ひらひら」(笑)した感じになる。こいつは、オニハタタテダイ(チョウチョウウオ科)と思われる。系統樹上ではかなりかけ離れているチョウチョウウオ科とツノダシ科、でも、こんなに姿が似ているのは、確か「適応放散」と言ったっけ?このような「ひらひら」した形、背びれの先端が長く長く伸びた形に、何らかのメリットがあったことを物語っているのだろうな。


それをば、人は、「もののあはれ」、と名付けたのだったかも知れないじゃないか?
「予想通り」、などと言うと、生命を蔑ろにしている、とお叱りを受ける(笑)かもしれないが、生き物はもとより、必ず、一度、いつかは、死ぬのであるから、ただ、人は、それを必ず目撃するとは限らず、むしろ、目撃することを、全力を挙げて避けている、ようなふしさえあるから、他者の「死」に対して、何か、神妙に、居ずまいを正して、接しなければならない、と感じているなら、それ自体、その「禁忌」に根差しているのであるから、いつもながら話が長いね(笑)、話の長さ自体が(笑)、もちろん「検閲」作用である、とら♪ちゃんは、ほかの二人に比べて明らかに身体が小さく、大人しかったから、きっと、もたないだろう、と早々と諦めていたが、あんなにぴーぴー喧しかった(笑)、くろ♪ちゃんも、わからないものだな、命というものは、急に大人しくなったと思ったら、あっさりこと切れてしまった。こうして一人になってしまったけど、よろしくね、というご挨拶のつもり。お湯を沸かして、それを冷まして、粉ミルクを溶いて、またもう少し冷まして、という段取りだから、三人分が一人分に減ったからとて、手間は、さして変わらない。作る量だって、きっちり三分の一、なんてわけにもいかないから、大目につくって、残りは、大人(笑)たちに、ときならぬ御馳走を振る舞うことになるだけだ。
用の東西を問わず(笑)、およそ一世紀半前頃の書物ばかりを読みあさってきたが、気が付かされることが一つ、乳幼児死亡率の激減、という事態は、まさに、ごくごく近年の、しかもおそらく、「先進国」、という地球上のごく一部においてのみの、達成である、ということだな。人々は、子供が、大人になるまで育つ、ということに、初めから、そんなに期待していない、それが、常日頃のもろもろの振舞に、影を落としている。「多産」なのも一つ、それは、またまた眉を顰められる向きもあろうが、「生命」をば、「代替可能物」ととらえているということだ。一つの命に一つの「尊厳」、そんな風に考えることができるようになったこさえ、「近代」のもたらした、しかも、「特権」的な(!)恩恵かも知れないじゃないか?
「無繁殖個体」(笑)である私も、こうして知らず、かつての時代の、親たちの、憂鬱を、分け持つことができたかも知れない。「生き延びる」ことが当然の事態であるなら、「生き延びれなかった」ことが、「落ち度」として責めを受けることになってしまう。そうではないよ、初めから、生きることの方が、奇跡に近い過程なんだ、人々は、「近代」よりもはるかに長い時間を、そうやって、「死」が当たり前であって、もっと「死」に親しい、憂愁と諦観を生きてきた。それを、人は、「もののあはれ」と、名づけたかも知れなかった(笑)。
一人になっちゃった、しろ♪ちゃんも、この二日後には、亡くなることになる。明け方、既にぐったりしているところを、幸いにも目撃できたから、片手の掌に載せて、暖を取り、看取ることができた。呼吸が不整になる瞬間、きっと痛みが走るのであろうか?私の親指にかみついたりする。でもそれ以外の、長い長い「待つ」時間は、すやすやと、あたかも幸せそうに(笑)、眠っているようで、いやしかし、こんなに、小さな、生き物、生暖かい、毛むくじゃらの塊と、私の掌を通して、なんだか(笑)「意思疎通」ができるような錯覚に陥れること自体が、やはり奇跡のように、「有り難い」ことだと、感じない訳にはいかなかったな。






行く者の悲しみ、残る者の憾み(うらみ)、隻鳬(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし、・・・
旧暦の、月の呼び名を、失念してしまったので、書きとめておく。
睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走
「おくのほそ道」松尾芭蕉(角川文庫ビギナーズ・クラシックス)などを読んでいたからだな。私立中学受験の昔から(笑)、つるつると暗唱出来た筈なのに、「寄る年波」を感じない訳にはいかないな。
松の間々皆墓原にて、翼を交はし枝を連ぬる契りの末も、ついにはかくのごときと、悲しさもまさりて、・・・
これは、樋口一葉にも出てきた「比翼連理」の謂いなのだろうな。
人跡まれに、雉兎芻蕘(ちとすうじょう)の行きかふ道そことも分かず、・・・
「雉」はキジ、「兎」はウサギ、「芻」は「スウ」で、まぐさ、「蕘」は「ジョウ」で、薪(たきぎ)、または、樵(きこり)、そんなものしか通らないような荒れた細道、という意味なのだろう。
旅の終盤、病を発した曾良と別れるに際して、
行く者の悲しみ、残る者の憾み(うらみ)、隻鳬(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし、・・・
「雙/隻」は、なるほど、字面を見れば明らか、「ふたつ/ひとつ」なのだな。「雙鳬倶に北に飛び、一鳬は独り南に翔る」という漢詩を踏まえたものだそうで、「鳬(ふ)」はチドリ科のケリに比定されている、という。サトウキビ畑の間を流れる渓流で、一度だけ見たことがあるな。チドリ科としては大きめ、ムナグロ並み、羽色は地味な灰色だった。近縁のタゲリは、しばしば近所の遊水地にも現れた、緑の混じったもう少し目立つ色彩で、何より、そう、レンジャク(レンジャク科)を彷彿とさせるような、「冠」が目立った。どちらも当地の冬鳥で、だから、夏になれば番(つがい)になって繁殖地である北に渡り、冬には単独で、もちろん群れを作ってだろうが、南にやってくる、なるほど、中国の古人は、ちゃんと、見ているのである。
***
こうして木綿は、「庶民衣料」という、もっとも日常的な存在にもかかわらず、江戸時代の経済、さらには政治においては一貫してきわめて重要な役割を演じ、近世社会展開の深層の力となってきた。しかし、それも明治維新を経て、殖産興業政策のもとで、決定的な打撃を受けることになる。
・・・
(国産木綿の繊維は短く、イギリス製機械に適合しない→インド、中国の輸入木綿を原料とし国内綿作を切り捨て→)
・・・
しかし結局、明治二十九年(一八九六)、議会は綿花輸入関税の撤廃を議決し、綿作農民は完敗した。
日本の国内綿作は、これを転機に、数年ならずして消滅した。それまで畿内・濃尾をはじめ、開花期には田畠を見渡すかぎり真白に埋めつくした木綿は、完全にその姿を消し去らなければならなかった。
「新・木綿以前のこと」永原慶二(中公新書)
これが、柳田国男が、山川菊栄が目撃した、この国の農村地帯の、「ランドスケープ」の、激変だったのである。あとからやって来た私たちは、既に、想像することもできないのだけれども。


なるほど月齢はほぼ四週間で巡り来たり、したがって、「朔」と「望」の大潮も、二週間後ににやってくるのである。
アディ―チェ「アメリカーナ」は、時間と場所が行ったり来たりする構造を持っているのだが、「通奏低音」的に(笑)反復される一つの場面は、ニューヨークの美容院、と言っても、「アフロ」の編み込みをしてくれる店、従業員も、セネガル、コートジボアール、ベニン、ガーナ、とことごとくアフリカ出身者だ。とても珍しい白人客が現れて、読書をしているイフェメルに話しかける。「アフリカ」の「よき理解者」の素振りが、目に浮かぶように(笑)辛辣に描かれる。彼女が、「アフリカ」を学んだ、として挙げた書物が二つ、チヌア・アチェベ「崩れゆく絆」Things Fall Apart、とV.S.ナイポールの「暗い河」A Bend in the Riverだった。後者については、イフェメルの、完膚なきまでの(笑)罵倒をのちに引用しよう。アチェベ(Chinua Achebe)の「崩れゆく絆」光文社古典新訳文庫版で、早速取り寄せた。ついでに「Afirca's Tarnished Name」(PenguinModern)も。
acephalous、頭部のない、argumentative、論争好きな
アチェベがコンラッドの「病の奥」を、植民地主義、人種主義として痛烈に批判したことは、かねてから記憶にあったが、この際だから(笑)、まずは、コンラッドの方を岩波文庫¥1也(笑)で、手に入れ、読んでみることにした。
***
この日も水曜日だから、奇特にも(笑)早朝から #辺野古 に向かったようだね。なるほど月齢はほぼ四週間で巡り来たり、したがって、「朔」と「望」の大潮も、二週間後ににやってくるのである。一回目の「ごぼう抜き」終了後、いつもの通り(笑)抜け出して、そうすれば、海、ここは読谷、に着いた頃にはちょうど潮目もよろしい。「夥しい」などと言う凡庸な形容詞しか思いつけないが(笑)、そんな魚たちの、しかも、多くの異種を含んだ団体様に取り囲まれていると、いつものことながら、「酔った」様な、妖しい、狂おしい気持ちになる。広く干上がった礁池では、ごく近くにコアジサシ(カモメ科)の一群れが休んでいる。ポケットカメラしか手元にないから鮮明でないのが残念であるが。そして、サトウキビ畑のセッカ(ウグイス科)も。


13_Colors/13色の色鉛筆。
「乳母」役をしばし経験させてもらった子猫たちも亡くなって、こうしてまた、元通りの家族構成(笑)になったので、改めて、記念撮影。こげ♪ちゃん、脚白♪ちゃん、全とら尻尾長い♪ちゃん、が相次いで亡くなったのが最後だったかな?夏場は比較的調子を崩すものが少ないので、こうして、ごはんのたびに、指差し数えて、ああ、全員そろっている、と胸を撫で下ろすだけで、つつましい(笑)「幸福」感さえ漂ってくるから、ありがたいものである。



それも、「冥途の土産」としては、悪くない話。
何年か前の県立美術館・博物館のポスター、「復帰闘争」期の写真展のものだったのだろう、白ヘルメットに黒マジックインキで「沖縄奪還」、疲れ切って座りこんでいる少年の、振り返りざまの、ほぼ「あどけない」と言っていい表情が、目に焼き付いている。70年代初頭に高校生だったのだとしたら、私より少しばかり上の年代になる。今も存命ならば、という仮定の上でだが。「彼」は、その後の「人生」を、どんな風に送られたのだろう?でも、一度そうやって切り取られ、紙の上に固着されてしまった「表情」は、もはや、一つの「共同体」の「集合的記憶」、手短に言うならば、だったら、初めから手短に言え!(笑)、「歴史」、を構成する堆積物のひとかけらとして、余りに饒舌になり過ぎているから、「肖像権」だの「プライバシー」だの、申し訳ないが(笑)ブルジョワ的な、「所有」の観念を、はみ出してしまっている。その「少年」は、他ならぬ「彼」であって、同時に、誰でもない、だから、そこに「私」を「代入」することだって、出来るのだ。
そういうことならば(笑)、それも、「冥途の土産」としては、悪くない話じゃないか?え?何ぐちゃぐちゃ言い訳してんだよ?ああ、これ(↓)、写っちゃってんだよ(笑)。

***
彼はその銃を抱えて、非常に用心深く背を屈め、葦原を迂回して、そっと鶴のいる方へ近づいて来た。鶴は自分を背後から狙っている者がいることを全然知らないように、静かに立ち、静かに餌をあさっていた。男はいよいよ鶴に近づくと、今度は腹這いになり、慎重に匍匐して進んで来た。そしてついに鶴の姿が見えるところまで来たのに違いなかった、というのは、男はそのまま進むのを止めて、伏せの姿勢になり、銃を構えて、鶴に狙いを定めたからである。私は一瞬、鶴が撃たれて、その場に倒れるのを見たように思った。が、次の瞬間、鶴はこんなことを全く知らないように見えたが、しかし非常に正確に、ゆっくりと羽搏いたかと思うと、不思議なほどの賢明さを以て、悠々と飛び立った。私は望遠鏡ですぐそれを追った。鶴はまず空中高く飛び上がった、それから一瞬静止したかと思うと、今度は広大なる空間の奥の方へ飛んで行った。それは段々と小さくなって、ついには一つの点となって、やがていかに望遠鏡を調節して空間を拡大しても、もうその姿は見えなかった。
「鶴」長谷川四郎(ちくま日本文学「長谷川四郎」所収)
長谷川四郎(1909-1987)は、「安重根―十四の場面」の著者林不忘(本名、長谷川梅太郎、1900-1935)の弟で、「鶴」が発表されたのは、戦後、昭和27年、つまり1952年であるが、1937年から1944年まで南満州鉄道調査部、満州国協和会調査部に勤務し、大連、北京、新京(現・長春)などにいた。1944年、35歳にして召集、海拉爾(ハイラル)部隊に入隊。ハイラルは、現・中国内モンゴル自治区フルンボイル市(呼倫貝爾市)の一部、とのこと。翌1945年8月、所属部隊はソ連軍に降伏、以降、1950年2月まで、シベリア各地の捕虜収容所に暮らす。そういう経歴の持ち主であるから、上に引用した情景は、「ソ満国境警備哨」での記憶に根差している、と見ることができよう。地図で見ると、同地はハルピン(哈爾濱)の北西、目測で数百キロ、ウランバートルの東北東、同じく一千キロ、である。

「バードウォッチャー」の実感としても、鳥は、カメラであれ銃眼であれ、自分が「視線」の対象となった、という事実に早々と気付くが、逃げるための行動を起こすのは、まさに、シャッターなり引き金なりが、音をたてるであろうそのぎりぎり寸前にすべきだ、ということを学んでいる、としか思えない。人生60年、鳥の生涯4年、とすれば、人類が鉄砲なり矢なりで、鳥を撃つ技術を習得してからの厖大な時間で、人の15倍の世代交代をなしているのだから、あるいはこのような振る舞いが遺伝子的に定着されるのに十分な「進化的時間」だった、と言ってもよいのではないか、と想像している。
そんな訳で(笑)、取り寄せたまま読んでいなかったチェーホフの「シベリアの旅」を読み始めた。
その代わりにというのもおかしいが、これほどに夥しい野禽の群を見るのも、生まれて初めてのことだ。目をずらせて行くと、野づらを渉り歩き、水溜まりや路傍の溝を泳ぎまわり、また危うく馬車の屋根をかすめんばかりに、白樺の林へと物憂げに飛んでゆく野鴨の群。あたりの静寂を不意に破ってひびく聞覚えのあるきれいな啼声に、おどろいて眼を上げると、丁度頭のうえを渡ってゆく一番(つがい)の鶴。それを見ると、ふっと淋しい気持ちになる。野雁も飛んで行く。雪のように真白な白鳥も、列を作って飛んで行く。・・・・・・方々ではぼ・と・鴫(しぎ)の低いつぶやきが聞こえ、鴎の哀しげな啼声もする。・・・・・・
「シベリアの旅」(中央公論社「チェーホフ全集」13巻)
「ぼ・と・鴫」は種名ではなくて(笑)、広辞苑によれば、「ぼと」は「ぼろ(襤褸)」の転訛であろうとのことだから、何か地味な羽色のシギを指すのだろう。チェーホフ(1860-1904)が、シベリアを経てサハリンを旅するのは、1890年の4月から12月、とのこと、引用部分のすぐ前にも「もう五月と言えば」とあるから、南の島で冬を過ごした渡り鳥たちが、繁殖地であるシベリアに、続々戻ってきた時期なのであろう。
冒頭、まだ冒頭しか読んでいないのだが(笑)、居眠り運転のトロイカ(三頭立て)郵便馬車と衝突事故を起こすことになる、チェーホフを運ぶ馬車の御者に、父親も母親も「分離宗徒(ラスコーリニキ)で」と語らせている。ドストエフスキー「罪と罰」で、罪をかぶって自首した左官屋は「ラスコーリニキ」であった。主人公の名、ラスコーリニコフも、あるいは、それと関連のある、少なくとも彷彿とさせることを予期した、命名なのでは、と疑っている。ロシア正教会内部の異端派であるが、このように、随所に登場するほどに、勢力をもっていたのであろう。


「ねぇ、あんた、あたしの話、聞いてんの?」、みたいな台詞を、・・・。
門司の港を離れて、玄海灘へ出ると、波が高かった。ある日、おキミは甲板に出ていた。浪の向こうから一群の小鳥がかん高いさえずりをあげて、降りこぼれるように船へ舞い降りた。頭より少し高いところで、シュルシュル、チリ、チリ、チリ、と鳴いた。たがいにチリチリと鳴きかわした。一羽がおキミの肩にとまった。
そしていっせいに飛びたつと、たちまち海原の奥へ消えていった。九州のほうへ、自分たちがむかうのと反対のほうへ。
のちのこと、老いたおキミがある日、渡り鳥の大群が飛来したのをみて、
「ああっ、この鳥!うちが朝鮮に売られていくとき、玄海灘で逢うたんよ、うちの肩にとまったんよ」
と叫び、その夜眠らなかった。
頭に冠をかむり、尾をピンと立てたこの鳥は季節ごとに九州の空に訪れた。わたしは綾さんと、この小鳥はなんという鳥だろう、と、鳥類図鑑で調べた。連雀であった。
「からゆきさん」森崎和江(朝日文庫)
キレンジャク(黄連雀)、ヒレンジャク(緋連雀)、というレンジャク科の鳥は、本州では「冬鳥WinterVisitor」、沖縄版の図鑑には「旅鳥PassageVisitor」となっているから、夏場に日本よりもっと北の地帯で繁殖し、冬は、ここよりもさらに南で過ごすらしい。ヒレンジャクを一度だけ目撃したことがある。たしかに、ここに書かれているような音だった気がする、聞き慣れない声が隣家の庭から聞こえる。おりしも旅の途中の一群れが、そこには腹の足しになる木の実が残っていたのだろう、立ち寄った様子だった。なんとも奇抜な色と形、一度観たら決して忘れないであろう。二つの包みを綱でつないで両肩に振り分けて運ぶ、「連雀商人」は、この鳥の尾羽のデザインが、あたかもそう見えることからの命名、東京都三鷹市下連雀、という地名に、子供の頃から記憶があるのは、最晩年の太宰治がそこに住んでいたからだろうな。門司港から朝鮮半島に向かう「密航船」の甲板上で、この鳥が玄界灘を南に向かったのを目撃した、というのなら、それは、秋の終わりか冬の初めでなければならない。
「鳥類図鑑」
***
そうじゃありませんか。先生はさっきからしきりに同志同志と言いますが、僕はこのごろ、その同志というやつが重荷のように不愉快なんです。(突然、叫ぶように)いったい同志とは何です! 同志なんて決して、実現しない空想の下に、めいめい、その決して実現しないことを百も知り抜いていればこそ、すっかり安心しきって集っている卑怯者の一団に過ぎません! お互いに感激を装って、しじゅう他人の費用で面白い眼にありつこうとしている――。
「安重根―十四の場面」林不忘(青空文庫)
この中に、安重根作とする詩の朗読場面があり、
わが同胞五六の後は
われらの江山は奪われて
行楽ともになし得ざりしを
甲午年の独立と
乙巳年の新条約後
ようよう自得下行の時に
今日あるを知らざりしか
・・・
「甲午年の独立」は、1894/明治27年(甲午)の「甲午農民戦争(東学党の乱)」、
「乙巳年の新条約」は、1905/明治38年(乙巳)の「第二次日韓協約(乙巳条約)」、であろう。
「五六」は、わからない。1876年「日朝修好条規(江華島条約)」かとも思うが、不明。
林不忘は、本名長谷川梅太郎(1900-1935)、「丹下左膳」シリーズの流行作家。関係のあった編集者の中に、和田芳恵、そう、樋口一葉研究家の、を見付けた。安重根の事跡をたどりたくなったのは、森崎和江「からゆきさん」(朝日文庫)に引用されている、1910年/明治43年、旅順に於ける伊藤博文狙撃に関する裁判での弁論、
「日本皇帝の日露開戦の詔勅に東洋平和、朝鮮独立の文字あるを見て、日露の役には大いに日本軍のために尽力をなし、遂に日本の勝利となるや、我々同志は朝鮮独立の始めて安固となるを得べしと、大白を浮かべて祝したり。が、幾何(いくばく)もなく五か国協約あり。次いで七か国協約の締結あり。ここに我等の希望は全く水泡に帰したるより、憤激慷慨(こうがい)せざるをえざりし。・・・」
「五か国協約」、「七か国協約」は、それぞれ、
第二次日韓協約/乙巳条約、1905/明治38年
第三次日韓協約/丁未七条約、1907・明治40年
に該当するのではないかと思う、確かではないが。因みに、第一次日韓協約は、1904/明治37年、この年は、「甲辰」である。
私の考えを申しますれば、千八百九十五年の日露開戦に際して、日本皇帝陛下の宣戦の詔勅(しょうちょく)によれば、東洋の平和を維持し、かつ韓国の独立を鞏固(きょうこ)ならしむるという御趣旨であったから、その当時韓国人は非常に感激いたしまして、とにかく日本人のつもりで日露戦争に働いた人も尠からざることで、日露の媾和が成立して日本軍が凱旋(がいせん)することになりました時のごときは、韓国人は自国の凱旋のごとくに喜んで、いよいよこれから韓国の独立が鞏固になると言っておりましたところが、その後伊藤公爵が韓国の統監として赴任して以来、前に申しました五カ条の協約を締結しましたが、それはまったく先に宣言せられた韓国の独立を鞏固ならしむるという意に反しておりましたために、尠からず韓国上下の感情を害して、それに対し不服を唱えておりました。のみならず、千八百九十七年にいたりまして、またもや七カ条の協約というものが締結されましたが、・・・
芝居の中で安重根役が演説するこの部分は、先の公判弁論を伝える新聞記事を元に書かれたと思われる。だが、年号が日清戦争のものと混同している。あるいはフィクション性を強調して、検閲を回避する細工かもしれない。この作品が発表されたのは、1931年である。
狙撃を受けた伊藤博文の脇には、南満州鉄道総裁の中村是公がいて、軽傷を負っている。帝大「予備門」での同窓として、「是公(ぜこう)」、「金ちゃん」と呼びかわす仲であった夏目漱石は、その中村是公の招待を受けて大連等を訪問、その旅日記「満韓ところどころ」を1909/明治42年10月から12月の「朝日新聞」に連載している。
「満韓ところどころ」夏目漱石(青空文庫)
伊藤狙撃事件が1909年10月26日、安重根が処刑されるのが1910年3月26日であるから、漱石の訪問は、その少し前、ということになろう。作品の中にも、既に胃潰瘍の兆候が描かれているが、1910年6月、長与病院入院、同年8月、「修善寺の大患」、である。漱石のこの旅は、大連(遼寧省大連市)の満鉄本社に是公氏を訪ねるところから始まり、旅順(国遼寧省大連市旅順口区)に日露戦跡を見た後、奉天(遼寧省瀋陽市)、撫順(遼寧省撫順市)を経て哈爾賓(黒竜江省ハルビン市)に至り、その後再び奉天に戻って朝鮮に向かったものである様だが、作品は、胃病が悪化して心そこにあらずの体だったからか、撫順の当たりで、唐突に、ほぼ不機嫌に(笑)中断されている。



***
台風8号・Mariaが接近しているから、波が高いのがわかるだろう。満潮に向かう海岸、だんだん狭くなってくる岩礁に、それでもまだ、餌探しをあきらめない(笑)、者たち。コアジサシ(カモメ科)は、当地で繁殖する「夏鳥SummerVisitor/MigrantBreeder」、ということは、こうして仲のよい二人は(笑)、できたての夫婦者、なのだろうか?こいつらも、地上で休んでいるときも、飛び回って餌探しをしている間も、ひっきりなしに、ぴゅるぴゅる、囀っている。地上ではつねに羽繕い怠りないから、動きが細かく、カメラがぶれてしまう。オレンジ色の嘴が薄く開いて、「喋って」いるのがわかる。隣は、羽繕いに忙しく、だから、「ねぇ、あんた、あたしの話、聞いてんの?」、みたいな台詞をつけたくなる。


何やら一人でぶつぶつ言いながら、「遊んで」いるに違いない。
鷸(しぎ)にありては百羽掻也(もゝはがき)なり、僕にありては百端書也(もゝはがき)なり月(つき)や残(のこん)の寝覚(ねざめ)の空(そら)老(お)ゆれば人の洒落(しやれ)もさびしきものと存候(ぞんじさふらふ)、僕(ぼく)昨今(さくこん)の境遇(きやうぐう)にては、御加勢(ごかせい)と申す程の事もなりかね候(さふら)へども、この命題(めいだい)の下(もと)に見るにまかせ聞くにまかせ、且(かつ)は思ふにまかせて過現来(くわげんらい)を問はず、われぞ数(かず)かくの歌の如(ごと)く其時々(そのとき/″\)の筆次第(ふでしだい)に郵便(いうびん)はがきを以もつて申上候間(まうしあげさふらふあひだ)願(ねが)はくは其儘(そのまゝ)を紙面(しめん)の一隅(ぐう)に御列(おんならべ)置(お)き被下度候(くだされたくさふらふ)、田(た)に棲(す)むもの、野に棲(す)むもの、鷸(しぎ)は四十八品(ひん)と称し候(そろ)とかや、僕のも豈夫(あにそれ)調(てう)あり、御坐(ござ)います調(てう)あり、愚痴(ぐち)ありのろけあり花ならば色々いろ/\芥(あくた)ならば様々(さま/″\)、種類(しゆるゐ)を何(なに)と初めより一定不致候(いつていいたさずさふらう)十日に一通の事もあるべく一日に十通の事もあるべし、かき鳴らすてふ羽音(はおと)繁(しげ)きか、端書(はがき)繁(しげ)きか之(これ)を以もつて僕が健康の計量器(けいりやうき)とも為(な)し被下度候(くだされたくそろ)勿々さう/\
「もゝはがき」斎藤緑雨(青空文庫)
斎藤緑雨(1868-1904)、「もゝはがき」は、最晩年の1904年11月、不定期連載された。日露主戦論に変節した「萬朝報」をともに退職した友人・幸徳秋水が、肺結核を病み、窮乏を極めていた緑雨のために、「平民新聞」の紙面に一コーナーを設けたのだという。「一葉の日記」和田芳恵(講談社文芸文庫)に、次のような一節があったので、手にしてみた。
一葉は、自分の作品を編纂する場合があったら、斎藤緑雨か横山源之助に頼みたいと思った。このことは、一葉が二人の考えに共鳴したからだろう。・・・
引用部分は、鴫の例え話が面白かったからだ。試みに手元の図鑑「沖縄の野鳥」を繰ってみると、シギ科だけで、確かに(笑)、44種あった。この写真の前日だったか?同じ海岸で、カメラの電池が無くなってしまったので撮れなかったが、こんな季節にいる筈がない(笑)と思われる、シギ科の一群れ、遠目にはアオアシシギかキアシシギかと思われた、が飛び立つのを目撃した。北に向かう旅の途中の最後の一団だったかも知れない。八月の末辺りには、もう渡って来る者がいる、というのに?
***
右の件々誓約候上は御規則等堅く相守可申候萬一違背候節如何様の御處置被成候共決して苦情申立間敷候事
「日本の下層社会」横山源之助(岩波文庫)、「手工業の現状」
右(みぎ)の件々(しなじな)誓約(せいやく)候そうろう上(う)えは御(おん)規則(きそく)等(とう)堅(かた)く相(あい)守可(まもるべく)申(もうし)候(そうろう)/萬一(まんいち)違背(いはい)候(そうろう)節(せつ)如何様(いかよう)の御(おん)處置(しょち)被成(なされ)候(そうろう)共(とも)決(けっ)して苦情(くじょう)申立(もうしたて)間敷(まじく)候(そうろう)事(こと)
「被成」は、漢文訓読の習慣が定着しているからこそこんな読み方ができる、間に「返り点(レ)」が打ってある、と見るのであろう。
「まじく」は、打消推量の助動詞「まじ」の連用形(笑)だから「間敷」は宛て字であろう。
これは福井の羽二重(はぶたえ)、これは絹織物である、の企業組合が職工との契約時に取り交わした誓約書の雛型である。引用したのは、「候文」の練習問題として。
路上に出づれば同年の婦女衣装を飾りて戯れ、入りては父母団欒の下に楽しく正月を送りつゝあり。しかも全国三万八千五百九人の工女(昨年五月の調査)かれ等は遠く親の膝下を離れ、二十畳乃至三十畳の琉球畳の寄宿舎に於て火鉢に群がりながら朋輩の晴れ着せるものを羨み、或は途上目睹せる世人の幸福をかにかく噂しながら為すこともなく、もし有りとせば、遥かに故郷のことを懐ひ父母兄弟の面影を胸にうつし、近隣親戚の児女と遊び戯れしに三年前を懐うて淋しく正月をし居るべし、・・・
「日本の下層社会」横山源之助(岩波文庫)、「正月楽しき乎」
***
最晩年の樋口一葉が、横山源之助の訪問を受けている。初対面であるにもかかわらず、半日ばかり歓談したようである。意気投合したのだろうと思われる。一葉の作風が、「たけくらべ」1895(明治28)年を転機に劇的に密度の高いものになった、というのが定説で、諸々の研究者がその「因」を探り当てんとしている。吉原遊郭近傍の下谷龍前寺町で、雑貨屋を営んだことが、事業としては到底成功とは言い難かったものの、国家が保護を与えた売●春産業に携わる人達に身近に接する機会は、歌塾「萩の舎」で「貴人」達に囲まれ「下級士族」の身を嘆くばかりであった者にとって、目を見開かされるものであったことは疑いない。その後引越しをした本郷丸山福山町は、「たけくらべ」のモデルとなった公許・吉原の大籬(まがき)などよりずっと条件の悪い私●娼街の近傍であり、そんな「銘酒屋」の従業員の一人に請われて、店の客への営業用の書簡を代筆するようなこともしている。もとより、これが「にごりえ」お力の像に結実するのである。下谷龍前寺町から引越しを余儀なくされたのは、必ずしも雑貨屋の採算が成り立たなかったからではなく、「売●春は社会の悪」といった発言のためにその産業で成り立つ地域に居づらくなったとも、和田芳恵などは推測しているようである。久佐賀義孝は霊視能力を有し、もって株式相場を操作し大富豪となった怪しげな人物であるが、一葉は単身その屋敷に乗りこみ、桁外れの借金を申し込む、ということをしている。この不可解な行動も、諸研究者をして様々な憶測を逞しくさせているところではあるが、私としては(笑)、売●春従事者の女性などの「更生/厚生施設」の経営、といったいわゆる「空想的」社会主義的を企図したものではなかったか、と想像している。横山源之助の一葉への書簡に、
人間の運命と世相の真実御瞑想余り気迅なる事/御忍耐生活を処せられん事是れ小生第二に貴方に望むものに御座候
/当分確実なる見込つき候まで文学者生活御忍耐如何に候や
「一葉の日記」和田芳恵(講談社文芸文庫)
とあるのが傍証。その計画を横山に向かってぶち上げたのに、当の「社会主義者」横山が、まあまあそんなに焦らずに、とりあえずは文学者として、生活をまっとうしてください、となだめている様が、微笑ましい、と思う。
因みに先の横山前掲書引用部分に「琉球畳」とある。小学校の社会科では、畳表の主産地は岡山県、と習ったのが今でも記憶に残っていたのだが、イグサ、単子葉植物イグサ科、イネ科でもカヤツリグサ科でもない、の主産地は熊本県八代地方とのこと。ただ、沖縄県も少なからず産出しているようで、先日もうるま市で収穫が行われたとのニュースを聞いた。「い・ち・う」いずれも一音のみであらわされる植物名が、それぞれ、畳表のイグサ、かつて屋根を吹くのに用いられたチガヤ(イネ科)、そして繊維原料の一つ、「苧麻(ちょま)」、イラクサ科カラムシに対応する。たった一音で名指されるのは、それだけ生活に密着していたからだ、との推定は、成り立つだろう。
そんな横山源之助にして、後年の「明治富豪史」(ちくま学芸文庫)では、日露戦争後、日本の貧しい農村地帯から夥しい数の若い女たちが、「帝国」の最前線に「売られて」いった事態を差して、十分に皮肉な口調とはいえ、「醜業婦」、「娘子軍」などという言葉で傲然と描いてしまっていることが、気がかりだったのが、「からゆきさん」森崎和江(朝日文庫)を読む動機だった。夏目漱石「満韓ところどころ」(青空文庫)にも、あるいは日本人の女性かと思われる姿が散見する。でもそれは、ことさらに「遠景」として描かれているようだ。これは同書にも触れられているが、石光真清「城下の人/曠野の花/望郷の歌/誰のために」四部作(中公文庫)にも、しばしば、「からゆきさん」の姿が、日本軍の「スパイ」としてであれ、それに抵抗する馬賊のメンバーとして、であれ、登場することは、気付いていた。
そのかたちなき心の気配。そのなかへはいってからゆきを感じとらねば、売りとばされたからゆきさんは二度ころされてしまう。一度は管理売●春のおやじや公●娼制をしいた国によって。二度目は、村むすめのおおらかな人間愛をうしなってしまったわたしによって。
「からゆきさん」森崎和江(朝日文庫)
・・・
ふたつのからゆきは、あいまじわるかのようにみえながら、ついにひとつになることはなかったのである。からゆきさんにとってクニは、ふるさとであった。志士たちは、ふるさとを棄て、一身をかえりみることなく、天下国家をうれう特権にひたっていた。
「からゆきさん」森崎和江(朝日文庫)
前回引用したが、自由民権運動最末期の「大阪事件」で収監された福田英子の術懐によると、「テロリズム」計画を抱いた「壮士」連は、諸々の「名士」から「カンパ」を巻き上げることができた度に、遊郭に繰り出して宴会をしていた。所詮「社会主義者」は、そんな人達だったんだよ!と「冷めた見方」を開陳してみせるのは、もはや意味をなさない。ああ、それ?知ってるよ、でも、私?私は大丈夫、自分だけは助かりたいカンダタの無慈悲な心、なのであって(笑)、現に存在するものは根拠を有する、と認定することは、「肯定」に限りなく近いものであるが、そうではない「批評」もまた、無力なのであるから。

なんで泣いてんのかな?おせんべい、割れちゃったから、泣いてんのかな?そうでもない、隣の「塩味」の方は笑っているから、そうか、こいつは、「梅味」、酸っぱいから泣いてるんだね(笑)?どんなものでも、目や鼻を付ければ、「顔」に見える。どうしてそんなものが「可愛く」見えるか、と言えば、それは、vulnerableな、「子供」の装いをしているからだ。おかしいな(笑)?「子供」は嫌いなはずなのに。犬猫に見えるからかな?でも、動物は、「泣き」も、「笑い」も、しないよ。「笑う」ことと「遊ぶ」こととの間には、必然的な関係は、ないんだね。猫たちは、大真面目な顔で(笑)、しかし、ちゃんと、「遊ぶ」のだ。ここのコアジサシ(カモメ科)も、頭や翼の色が薄いから、今年、当地で生まれたばかりの「当年子」かも知れない、何やら一人でぶつぶつ言いながら、「遊んで」いるに違いない。


アダン(タコノキ科)


オオハマボウ(アオイ科)


シマアザミ(キク科)


ホウオウボク(マメ科)


インドヨメナ(キク科)


テッポウユリ(ユリ科)


イジュ(ツバキ科)


ホウコグサ(キク科)


イヌタデ(タデ科)


ナンゴクネジバナ(ラン科)


キツネアザミ(キク科)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2018.08.06 05:03:20



© Rakuten Group, Inc.
X