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ねこログ

2021.12.02
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ブッソウゲ/ハイビスカス(アオイ科)

フヨウ(アオイ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「ボイコット」という言葉の由来、「バルフォア宣言」、「ハンガーストライキ」、・・・、アイルランドとパレスチナの、もういくつもの、つながり、について/ジョン・フォード、「静かなる男」を観る、「アラン諸島」への船旅、津村記久子「浮遊霊ブラジル」、など/こんなところでまた、「ピエド・ノワール」、アルベール・カミュの同胞に、出会うとは、・・・、ピエール・ロティ「アフリカ騎兵」、続編/続・スウィフト、夏目漱石「文学評論」を読む/クリスマスのなごやかなはずの食卓で、激越な、政治的議論が交わされる、それが何をめぐるものなのか知らなくても、この小説を「読めた」ことになるんだろうか?という疑問、など、・・・、ジェイムズ・ジョイス読みは続く、「若い芸術家の肖像」/もっていたかも知れない瞬間に、もっていることを知らない以上、それは、もっていたことにはならず(笑)、・・・、「ユーヴ・ガッタ・フレンド」をめぐる、たわごと/




「エルン卿」、または「アーン卿」、イギリス占領下のアイルランド議会に議席を持つ世襲貴族、「Ern」は、アイルランド島を表す、アイルランド語(ゲール語)による古名
・・・
1ヘクタールは、一辺100mの正方形の面積、0.01平方キロ、√16000=40×√10≒125、であるから、一辺12.5kmの正方形の面積になる、あるいは、160平方キロ、比較の対象を挙げれば、沖縄県の宮古島の面積が、159平方キロ、これに対して、アイルランド島の面積は、84421平方キロ、北海道、83424平方キロに近い、160÷80000=0.2/100、であるから、全アイルランドの、0.2%の土地所有者、ということになろう。

アイルランド島、郡(カウンティーCounty)区分図
「アルスターUlster」、現在の英国支配下の「北アイルランド」にほぼ該当する地方(プロヴィンスProvince

「ロング・ケッシュ収容所Long Kesh Detention Centre/女王陛下のメイズ監獄Her Majesty's Prison Maze」、ベルファスト南西10kmほどの、リスバーンLisburnの町の、英国空軍基地跡地に1971年に建設された、1976年以降は、陪審員抜き裁判によって「テロリズム」関連犯と認定された収監者は、「Hブロック」と呼ばれる特別に建設された房に収監された(「メイズMaze」というのは近傍の地名で、「迷路」という意味とは無関係のようである)
・・・
アーメッド・サダトAhmad Sadat(1953-)、西岸、エルサレム北方の町アル・ビレAl-Bireh生まれ、「パレスチナ解放人民戦線PFLP」書記長
マルワン・バルゴウティMarwan Barghouti(1959-)、西岸、やはりエルサレム北方の町コバールKobar生まれ、第一次及び第二次インティファーダ指導者、「ファタFatah」分派の急進派「タンジムTanzim」の指導者
「ナフハ監獄Nafha prison」は、イスラエル南部、ネゲブ沙漠の町、「ミツペ・ラモンMitzpe Ramon」にある

「A Shared Struggle: Stories of Palestinian and Irish Hunger Strikers(2021/05/05)/Norma Hashim & Yousef M. Aljamal」、表紙写真↓、パレスチナ人女性たちが、「Nafha H-Block Armagh One Struggle/ナフハ、Hブロック、アルマック、それらは、一つの闘いだ」というプラカードを掲げている、「アルマックArmagh」はベルファストの南西70kmばかりの町、女性専用監獄があるようである

また私事を語るが、高校生か大学生だった頃、「赤軍派」のシンパサイザーを自任していたから、「パレスチナ」の歴史など、大して理解もしていないにもかかわらず、重信房子の書物などばかりは、かなり読んでいたはずだ、その中で、日本の「赤軍派」以外にも、世界中の「反政府」的な武装組織の数々が、レバノン領内の、パレスチナ人難民キャンプ周辺の、「PLO」関係諸組織の支配地域で、「軍事訓練」を受けていた、ことが描写されている記憶があった、「赤軍派」は、「PFLP」と共闘関係にあったのだが、その基地に、これは、あいまいな記憶だから、決して正確ではないが、西ドイツの「バーダー・マインホフ・グルッペ」、イタリアの「赤い旅団/ブリガート・ロッソ」などの「都市ゲリラ」諸組織以外にも、バスク分離派「祖国と自由ETA」と、「アイルランド共和軍(IRA)」などの名前が挙がっていた、ように思う、それからほどなく、イスラエル軍とその意を受けたレバノンの右派「ファランジスト」による、パレスチナ難民キャンプへの襲撃が始まり、「PLO」は、チュニジアのチュニスに撤退を余儀なくされることになったし、それに伴って、「赤軍派」を含む各国組織も、「国際根拠地」を失ったであろうし、・・・、また、「時代」もめぐったというべきか、街角の書店に、極左党派の「機関紙」が販売されている、などという情景も、すっかりなくなってしまったから、「彼ら」がその後どうなったのか、あるいは、そもそもそんな「事実」があったのか、今となっては、確かめようもないと感じていた矢先、・・・、この記事にも言及のある、サリー・ルーニーの作品を読んでみようという思い付きから、ジョイス、ワイルド、スウィフト、と文学上の足跡をさかのぼりつつ、ここしばらくの間、ようやく、アイルランドの受難の歴史の一端を、垣間見ることができるようになったばかりだったのだ、・・・、不覚にも、「ボイコット」の語源は、この記事で初めて知った、「バルフォア宣言」のバルフォアが、アイルランドでも悪名高いことは最近知った、それから、1981年の、「ハンガーストライキ」については、司馬遼太郎「愛蘭土紀行II」の中に、「ザ・ウルフ・トーンズThe Wolfe Tones」という、中年男性のバンド、これは、「Wolfe Tone(1763-1798)」という18世紀末のナショナリストにちなむ命名なんだが、の話題が登場、YuTubeで探しているうちに、「Joe McDonnell」というタイトルの曲を発見した、
Joe McDonnell/The Wolfe Tones(ライヴ)
Joe McDonnell/The Wolfe Tones(歌詞付き)
「ジョー・マクドネルJoe McDonnell(1951-1981)」は、「プロヴィジョナルIRA/IRA暫定措置派」メンバーで、上の記事に登場するボビー・サンドと共にハンストに参加、61日目に死亡した、という、・・・、そんなわけで、いかに改めて、最近の、アイルランドの歴史にかかわる、順不同で雑駁なものだが、調査の成果を、掲げておく、・・・、
犬が西向きゃ・・・、と申しますが、サリー・ルーニーという、1991年生まれの作家の、「ファン」になってみる(笑)
逆に、愛着を示され過ぎると、今度は、こっちの方が、後ずさりして縮こまらなければならなかった、まるでヤマアラシみたいに・・・「サリー・ルーニー」読み、は、続き、ダブリンの街角に「イースターの月曜日」の残響を聴くことになる
少しばかり、ダブリンの地理に「明るく」なった気がしたので、今度は、調子に乗って、ジョイス、に手を出す、さらに、シニアド・オコナーから「対話の不可能性」まで
「資本主義的原初的蓄積」、またしても、「紅茶」と「砂糖」、・・・、「ユリシーズ」の買い物メモ
「サリー・ルーニーさんへ」、ガザからの手紙、そして、ガッサン・カナファーニ、をたどる
「デレヴォーン セローン」、一世紀にわたって、人々の探求の対象となってきたのだから、私の如き者の出番はない(笑)ことに早く気付くべきであった・・・ジョイス「ダブリン市民」読み、は続く、「トリニティー・カレッジ」から、アーウィン・シュレディンガーに関する追想、など
「ネルソン・ピラー」、司馬遼太郎、「ペンテコステ」再論、「鉄道路線図」への偏執とか、・・・、「19世紀社会主義」の「豪華絢爛、波瀾万丈」をたどるのが胸苦しいのは、すでにエンディングがわかっている映画を逆回しに観る感じ?ジェイムス・コノリー
ロディとノラ、ジェイムズ・コノリーの二人の子供に、「分割承継」されて「体現」されてしまったかもしれない、「社会主義」と「民族主義」、堺利彦、ウィリアム・モリス、そして、ジョイスとオスカー・ワイルドの「社会主義」
17世紀のスウィフトまで遡る?、「聖パトリックの日」パレードについて知りたかったこと、ふたたび、倫敦の漱石、「クレイグ先生」とオーウェル
やりきれない感覚が、非常に生々しく伝わってくる、「蔦の葉」記念日・・・ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」読み、は続く
身勝手な「トラウマ」の「成仏」、としての、オスカー・ワイルド「サロメ」、中勘助「鳥の物語」と「聖書」研究、を兼ねて、パレスチナを歩・い・て・、みる
続スウィフト、アイルランドからバルバドスへ、ここでもまた、砂糖キビ、そして中野好夫「スウィフト考」、「心にもない愛国者」
妖精レプレコンみたいに、虹の上を歩こう、・・・、「アイルランド人」ジョン・レノンを、聴く
「クレオール」であること、「島」に住むこと、へのこだわり、だったかも知れないじゃないか、・・・、もう一人の「アイリッシュ」、小泉八雲=ラフカディオ・ハーン



ジョン・フォード(1)のフォードという姓は英国系の姓だからまぎらわしいが、これは彼の兄フランシス・フォードの芸名からとった姓で、もともとフィーニィというれっきとしたアイルランド特有の姓である。
父の名もジョンであった。
その村はゴールウェイ湾の海浜にあって貧しかった。“父ジョン”に伯父がいた。この伯父はジャガイモ飢饉(2)の頃にアメリカに移住し、南北戦争に従軍したり放浪したりしたあげく、下宿屋を営む未亡人と結婚したことによって、小さな運をつかんだ。
その伯父の力で“父ジョン”はアメリカに渡った。
住みついたのはメイン州の港町ポートランド(3)で、この市の港のドック付近のスラム街にアイリッシュ移民がむらがって住んでいた。市の東地区は安定したブルジョワジーの住む地区で、そこに住む古くからのアメリカ人のことを、スラムのアイルランド人たちは、
「ヤンキー」
とよんでいた。
・・・
そのヤンキーどもが、アイリッシュに酒を飲まさないために――酒の害からアイリッシュを“守る”ために――一八五〇年、禁酒法を可決した(4)
これが“父ジョン”のチャンスになった。彼は闇の酒売りになってもうけ、やがて闇の酒場をつくり、金まわりがよくなった。
やがて同郷の婦人と結婚し、ついに高級住宅街ともいうべき場所に住まいを移した。家は白ペンキのかがやくニューイングランド風のものだった。ジョン・フォードはこの家で生まれたが、ただし、“父ジョン”がほどなくもとの市中に住み替えたために、そだったのは、さわがしいアイリッシュ街だった。
フォードは大学を中退し、西海岸のハリウッドに行って映画製作の下働きをした。
二十二歳の若さで監督になり、しかもつくるものがほとんどあたったために、二十代のある時期には巨匠として名声をえた。
・・・
・・・こういうジョン・フォードが、ワスプの典型ともいうべきメアリーとの生活のために、
生まれてはじめて、寄る辺のない不安に襲われ、この世で迷子になったような気持を味わった。
という。
お里アイデンティティの喪失である。それを回復するには、彼の父の故国であるアイルランドに帰るしかなく、一九二一年、二十六歳のとき、はじめてアイルランドを訪ねることになる。
かれが乗った船は英国のリヴァプールに入港したが、かれはそのまま乗り継いでアイリッシュ海をわたり、さらに陸路東海岸から西海岸のゴールウェイの町に着いた。
彼の故郷の村はゴールウェイ湾北岸のスピッダル(Spiddle)(5)という村で、私どもも後日そこを通ることになるが、氷河期が去ったあとの爪跡ともいうべき希薄な土壌と岩盤の露出のはなはだしい寒村である。
フォードは、ゴールウェイの町から二輪馬車を雇って一八キロ走って、その村に入った。自分の父親の生家がどの家かさがすのに苦労したし、それにフィーニィという姓が多すぎて、どのフィーニィが親類なのっかをつきとめるために歩きまわった。それらの経験は、三十年後の作品である『静かなる男』で生かされる。
ジョン・フォードがアイルランドを訪れた一九二一年は、国じゅうが、テロを含む反英闘争とそれに対する英国の弾圧、さらには見さかいなしの流血で、内戦同然の状態だった。第一次大戦中にアイルランドでイースター蜂起と呼ばれる独立運動がはじまり、政治団体である我等自身シン・フェイン同盟が結成され、また、“共和国軍”というゲリラ部隊が英国側と銃火をまじえていた。
フォードがアイルランドに来た一九二一年の三月以後、英国の弾圧は狂暴化した。
その弾圧には、新編成の二つの部隊がつかわれた。意図的に前科者が集められたといわれる「ブラック・アンド・タン」(制服が黄褐色タンでベルトが黒)(6)と、第一次大戦の復員兵で組織された「オークシス(6)という部隊が、弾圧の主役だった。これらの連中は人を殺すことをためらわなかった。
ジョン・フォードが訪ねたスピッダルの村は、故郷らしい平和なたたずまいでかれを迎えたわけではなかった。村の家のほとんどが英国警備隊ブラック・アンド・タンによって焼きはらわれ、村の若者のほとんどは山の中に逃げこんでいた。フォードが親類を探していると、マーティン・フィーニィというのが亡父の甥ということがわかったが、そのマーティンも北の方のコニマラ(5)の山地に潜伏しているということだった。
「マーティンの潜伏場所はどこなんだ」
と、ジョン・フォードはきいてまわった。フォードには英国警備隊の尾行がついていた。やがてマーティンはIRA(共和国軍)の大物で、首に懸賞金がかけられているということがわかった。ジョン・フォードがえがく西部劇のように劇的だった。
ジョン・フォードはどういうつ・て・を得たのか、尾行をまきつつはるか北方の山へゆき、マーティンのかくれ家をさがしあてて食料と軍資金の差し入れをした。
フォードはすでにアメリカで知名人だったために英国側も手加減していたのだが、この地に入って二週間後、ついに連行され、英国ゆきの汽船にむりやり乗せられた。
「愛蘭土紀行II」司馬遼太郎(朝日文庫)
(1)「ジョン・フォードJohn Ford/John Martin Feeney(1894-1973)
(2)「ジャガイモ飢饉Great Famine/Great Hunger/Irish Potato Famine(1845-1852)

(3)メイン州ポートランドPorland/Maine
(4)「禁酒法(1920-1933)」は、英語では、「Prohibition」と呼ばれるらしい、・・・、当然のごとく思い浮かんでしまうのは、「ザ・グレート・ギャツビー/The Great Gatsby (1925)」、主人公のギャツビーが、作家「スコット・フィッツジェラルドF. Scott Fitzgerald(1896-1940)」、その人の「投影」だと想定してみよう、おや、ジョン・フォードより2歳若いだけ、「同時代人」だったのだね、・・・、この作品が書かれたのが、1925年といわれるから、「語り」の「現在」の時点で、ギャツビー、29歳、まずまず妥当なところだろう、末尾でようやく明かされるが、「ロングアイランド」に豪邸を構え、日夜「パーティ」三昧に明け暮れられるのは、ひとえに、「禁酒法」下での、「アルコール密売」に手を染めて、財を成したからだ、という「設定」になっている、・・・、ちなみに、これもようやく最近知ったのだが、フィッツジェラルドもま・た・、「血統」から言えば、四分の三ぐらい、「アイルランド系」、といわれる。
「テヘランで『ロリータ』を読む」と、「ロリータ」を、同時に、読む

(5)「スピッダル」の綴りは、「Spiddal」のようである、「コニマラ」は「Connemara」
(6)ブラック・アンド・タンBlack and Tans/オークシス」、wikipedia英語版の説明によれば、「Black and Tans」は、1920年に、「Royal Irish Constabulary王立アイルランド警察」の「補助戦力auxiliary force」として、主に、第一次大戦の帰還兵のうちの失業者たちから徴募されたとある、「オークシス」なる名称は、この「auxiliary force」に由来する、つまり、同じ組織の別名だ、とにらんだのだが、それらしい綴りの用語は発見できなかった、司馬遼太郎は、このあたりの記述を主に、ジョン・フォードの孫による伝記を出典として書いたことが察せられるが、もちろん、どちらが「正しい」のか、ここでは判断できない、・・・、追伸、「オークシス」に該当しそうなものを発見した、「オークシリアリーズ/オークシーズAuxiliaries/Auxies」、「王立アイルランド警察補助戦力部隊The Auxiliary Division of the Royal Irish Constabulary (ADRIC)」、上で見たものと同一の組織を指しているように思える。
・・・
この村は、ジョン・フォードがロケーション(7)をして決めた村である。
実在の村はメイヨ郡のコング(Cong)村(8)で、二つの湖(北にマスク湖、南にコリブ湖(8)にはさまれた地峡上にあり、・・・
・・・
フォードは、このコング村を、映画の中ではアイルランドの代表的詩人イェイツの詩からとって、“イニスフリー村(9)ということにした。
・・・
「愛蘭土紀行II」司馬遼太郎(朝日文庫)

The Quiet Man(1952)/John Ford
(7)「静かなる男」ジョン・フォード(アマゾン・プライムヴィデオ)
映画の冒頭、駅に列車が到着するシーン、駅名は「Castletown」となっていて、これは、「コリブ湖」の北岸、したがって、そのロケ地、「コング」からは、5kmくらいしか離れていないところに実在しているようである。

(8)「マスク湖Lough Mask」、「コリブ湖Lough Corrib」
(9)架空の村、「イニスフリー村」は、wikipedia英語版によれば、「Inisfree」、「イェイツWilliam Butler Yeats(1865-1939)」の著名な詩「Lake Isle of Innisfree」に読み込まれた「Innisfree Island」も、別の場所に実在する、とのこと、地図で検索してみると、その記述とは異なるところに、同名の島が見つかるから、よくある地名なのかもしれない、・・・、イェイツの詩に詠みこまれた「イニスフリー島」は、「ジル湖Lough Gill」、・・・、はあ、なるほど、アイルランド語で「湖」は「lough」なのだな、と、早合点してはいけないようで、web上の辞書に問い合わせても、そんなもの知らん、と言われる、逆に日本語で「湖」を入力すると、「loch」と出た、この言葉を英語風に音訳したものが、「lough」なのだろう、と想像される、・・・、で、「イニスフリー島」は、その、「ジル湖Lough Gill」、にある、ごく小さな、無人島のようで、ゴールウェイよりもっと北方、スリーゴSligoの南東3kmあたりにある湖、そのまた南東の岸辺に、「イニスフリー島波止場Isle of Innisfree Jetty」というのが見つかったから、その少し沖合にあるのだろう、・・・、「詩心」というものが欠落した人間のようなので(笑)、どう読めばいいのかもわからない、しかし、これが、「アイルランド文芸復興」のシンボルともなるような、時代を画する作品だったようなので、ネット上から「パクって」来たものだが、掲載しておく、・・・、
・・・
The Lake Isle of Innisfree(1888)/William Butler Yeats
I will arise and go now, and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made;
Nine bean rows will I have there, a hive for the honey bee,
And live alone in the bee-loud glade.

And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow,
Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings;
There midnight's all a glimmer, and noon a purple glow,
And evening full of the linnet's wings.

I will arise and go now, for always night and day
I hear lake water lapping with low sounds by the shore;
While I stand on the roadway, or on the pavements grey,
I hear it in the deep heart's core.
「湖のなかの島」ウィリアム・バトラー・イェイツ
ああ、明日にでも行こう、あの島へ
そしてあそこに小屋を立てよう。
壁は泥土、屋根は草葺きでいい
豆の畑は畝(うね)を九つ、蜂蜜用の巣はひとつ
その蜂たちの羽音のなかで独り暮そう。

ああ、あそこなら、いつかは心も安らぐだろう
安らぎはきっと、ゆっくりとくるだろう
水の滴(したた)りのように、また
朝靄(もや)から洩れてくる虫の音(ね)のように。
そして夜は深く更けても微(ほの)明るくて
真昼は目もくらむ光にみちて
夕暮れには胸赤き鳥たちの群れ舞うところ。

ああ、明日にでもあの島へゆこう
なぜならいまの僕には、いつも
昼も夜も、あの湖の水の
岸にやさしくくだける音が聞こえるからだ。
車道を走っていようと
汚れた歩道に立っていようといつも
あの水の音がいつも
心の奥底のほうに聞こえるからだ。
・・・
「ここはアイルランドだ」
といってショーンに教えるのは、乗合馬車に乗せてくれた親切老人である。
「アメリカのようにはいかない。女に求婚するには、戸主(この場合、兄貴の大男)の許可を得なければならず、かれが反対すれば、結婚はできない」
・・・
ついに大男は善意のわ・な・にかかって、結婚を承諾した。披露パーティーもおこなわれた。
が、彼はパーティーのさなかでわ・な・に気づき、持参金(10)を妹にわたさなかった。
当時、濃厚に守られていたアイルランドの伝統では、花嫁が持参金(10)をもっていく。
「愛蘭土紀行II」司馬遼太郎(朝日文庫)
(10)ジョン・ウェインJohn Wayne演ずる主人公「ショーン・ソーントンSean Thornton」、が、モーリン・オハラMaureen O'Hara演ずる「メアリー・ケイト・ダナハーMary Kate Danaher」に求婚するが、メアリーの兄が、これに反対し、母の遺産であり、メアリーが稼いだものでもある「持参金」を、払おうとしない、・・・、この「持参金」制度については、ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民Dubliners」の中の「母親A Mother」にも言及があった、「プロジェクト・グーテンベルク」版の英文は、「dowry of one hundred pounds」なのに、安藤一郎氏の訳文が、「一千ポンドの持参金」となっているのは、どういう訳だ、という話だった、・・・、
やりきれない感覚が、非常に生々しく伝わってくる、「蔦の葉」記念日・・・ジェイムズ・ジョイス「ダブリン市民」読み、は続く
・・・
そういうことで、以下、図にのって、J・M・シング(一八七一~一九〇五)についてふれたい。
十九世紀末・二十世紀初頭に輩出したアイルランドの偉大な作家・詩人・劇作家たちは、カトリック(つまりはの人間)だったジェイムズ・ジョイスをのぞき、みな先祖が英国から渡ってきたプロテスタント(英国国教会をふくむ)だったことを思わねばならない。従って彼らの家は代々地主で、その生家に教養の伝統があり、かつ大学へゆく経済的余裕もあった。
・・・
私はシングのみじかい戯曲『海へり行く人々』(11)(山本修二訳、岩波文庫)をもっておらず、それを探すのに八方手をつくした。
・・・
とくにパリは、亡命者をふくめてアイルランド人でにぎわっていた。
すでに文名の高かった同郷の詩人W・B・イェイツ(一八六五~一九三九)もいて、シングの生涯を決する出会いをもつことになる。
二人が会ったのは、一八九八年、日本でいうと明治三十一年で、場所はパリのコルネエユ・ホテルだった。
・・・
「すぐさまパリをひきあげなさい。こんな街にいたって、なんにもなりません」
・・・
アラン島(12)へいらっしゃい。そしてあそこの住民の一人に成り切ってしまって、まだ表現された事のない向こうの生活を描くんですよ。(『海へり行く人々』解説。岩波文庫)
・・・
アラン島は、じつは“諸島”で、三つの島より成っている。私どもの船が接岸したのは、その主島であるイニシュモア島である。
・・・
このことはくりかえしのべてきたが、島は一枚の岩盤でできていて土壌はない。
記録映画の名作といわれる『アラン』(MAN OF ARAN)(13)でもそのように描かれていて、・・・
「愛蘭土紀行II」司馬遼太郎(朝日文庫)
(11)J・M・シング『海へり行く人々』(岩波文庫)、は、確かに希少本らしく、アマゾンでも、とんでもない高値が付いているのであきらめる、英語版なら、タダで、手に入る、「Riders to the Sea(1904)/John Millington Synge(1871-1909)(Project Gutenberg)」、この作品が、「アラン島」を舞台にしているらしい。
(12)「アラン諸島Aran Islands」は、ゴールウェイ湾の、大西洋への出口付近に、西北西から東南島に向かって、大きな島で言えば、三つ、Inishmore、Inishmaan、Inisheer、の順で並んでいる、ちなみに、今、web上の「アイルランド語辞書」を参照すると、「inis」が「島」のようであるから、「イニシュモア島」では、「島」が重なってしまうことになるな、・・・、ということは、イェイツの「イニスフリー島」も同様であることに気づく。
(13)こちらは、廉価版DVDが手に入りそうなので、といっても、 ¥980「も」するから(笑)、もう少し「躊躇」するだろう、そのうち、観ようと思う。

Man of Aran(1934)/Robert J. Flaherty(1884-1951)
・・・
ロンドン行きの航空券を持っていたので、イギリスに遊びに行くのか、と思っていたら、空の旅が終わったのち、マテウス君はガイドブックとにらめっこをしつつ、フェリー乗り場へとたどり着いた。船体にはクローバーの絵が描いてあって、一目でそれがアイルランドに行くものであることが了解できた。飛行機でも船でも、マテウス君はずっと英語の学習参考書のようなものを眺めていたのだが、頭に入っていたかどうかはわからない。
船旅の後、ダブリンで一泊して、マテウス君はさらに電車に乗り、アイルランドを横断した。アイルランドは小さな島で、二時間半もあったら端から端までたどり着けるようだった。そしてやってきた町で、マテウス君はさらに船に乗った。船のチケットには、「INISHMORE」と行き先が書かれていた。
・・・
またいつか会いましょう、という言葉につかまるようにしてアラン諸島までやってきたマテウス君を、ノリーンはどう思うだろうか。どうか不気味がったり、さげすんだりしないでほしい。あなたがくれたきっかけで、とにかくマテウス君は、不実な前の恋人を忘れ、五輪という重要な舞台において自分のベストの成績を収めることができた。・・・
「浮遊霊ブラジル」津村記久子(文春文庫「浮遊霊ブラジル」所収)

語り手の「私」は、町内会の、一度も海外旅行に行ったことのない老人たちの仲間で、うわさに聞く「アラン諸島」へ、ガイド付きの団体旅行を計画しているさなかに、心不全で死んでしまったので、その「心残り」のゆえに「浮遊霊」となってしまったのである、どうも、ある方法を使って、人間の「耳」を通って、人から人へと、「乗り移る」方法があるらしいことを知り、しかし、誤ってブラジル人の商社マンに憑いてしまった、おりしもオリンピック開催中で、先住民出身の槍投げ選手、マテウス君、選手村で偶然出会ったノリーンという女子槍投げ選手、そのユニフォームの胸元には、「IRL」、・・・、マテウス君が、「INISHMORE」の土を踏んだ瞬間、「私」が、「成仏」出来たことは、言うまでもない、・・・、「アラン諸島」に聞き覚えがある気がしていたのはこれだったのだな、で、読みなおしてみた次第。
・・・
このマテウス君の旅路をたどってみようと思ったのだけど、「ロンドン」から、「フェリー乗り場」がなかなか大変なようである、・・・、リヴァプール西方の半島の突端にある街が、「Holyhead」で、そこにダブリン行きフェリー乗り場があるらしい、「GWR/Great Western Railway」、「Avanti West Coast」は、いずれも鉄道会社の名称、で、乗り継ぎもたくさんあって、全部で8時間半もかかる、これは、あまりに迂遠な方法ではないか?「空の旅が終わったのち」とは書いてあるが、ロンドン、ヒースロー空港で降りた、とは書いてないから(笑)、リヴァプールまで、飛行機を乗り継いだ、としたらどうだろう?それでも、4時間以上はかかるようだが、
Paddington Station-(GWR)-Reading/Reading Bagnall Way-(megabus)-Birmingham Brunel Street/Birmingham New Street-(Avanti West Coast)-Crewe-(Avanti West Coast)-Holyhead
リヴァプールLiverpoolから、ホリヘッドHolyheadなら、ディー河River Deeの河口の湾を迂回して、少し南のチェスターChesterまでが、47分、そこで乗り換えて、1時間36分、
Liverpool Lime Street Station-(Merseyrail)-Chester-(Avanti West Coast)-Holyhead
「Holyhead」から「Dublin Ferry Port」までは、「Irish Ferries」という会社の、「Dublin-Holyhead」線であるらしい、3時間15分、
Holyhead Ferry Terminal-(Irish Ferries/Dublin-Holyhead)-Dublin Ferry Port

たしかに、「Irish Ferries」のロゴマークは、「クローバー」。
ダブリンの、フェリーターミナルは、リッフィー河左岸、つまり北側の河口の突端にあるらしい、そこから、たとえば、街中の、「コノリー駅Connolly Station」、「タラ街Tara Street」の北の次の駅だ、までは、バスで、30分、そこで、これは、路面電車だろうか、「Red Line」というのに乗り換え、「Busáras Luas Stop」から、「アイルランド鉄道会社Irish Rail/Iarnród Éireann」の「ダブリン・ヒューストン駅Dublin Heuston」、フェニックス公園東入り口のあたりだ、まで、12分、そして、「さらに電車に乗り、アイルランドを横断」、「やってきた町」をゴールウェイGalwayとしよう、これは、途中の駅名がちょっと異なる気もするが、前に作成した「路線図」のコースをたどるのだろう、たしかに「二時間半」、2:31、と出た、
Dublin Heuston-(Irish Rail/Iarnród Éireann)-Galway

司馬遼太郎前掲書には、ゴールウェイから「イニシュモア島」に、直接フェリーで行く方法もあるが、それは3時間ばかりかかるので、船酔いに弱い筆者は、ジョン・フォードの故郷である、スッピッダルを経由して、船着き場の町まで車で行った、というから、それは、ゴールウェイ湾北岸の町、「ロサヴィールRossaveal」を指すらしい、そこから船、これはチャーターしたもののようだが、に乗ったようである、GoogleMapの路線案内では、その、ゴールウェイから直接の経路は見つからず、では、ゴールウェイからバスで、ロサヴィール、これは、約1時間、そこからフェリー、という方法で検討する、・・・、「イニシュモア島」には、湾の南側の「ドゥーリンDoolin」からもフェリーが出ているようだが、これは、ゴールウェイから、遠すぎるように思える、・・・、今、「アラン島フェリー会社Aran Island Ferries」のウェッブサイトを覗いてみると、季節によっては、ゴールウェイからの直行便が出るらしい、これは、1時間半、で、それ以外の季節は、ゴールウェイからシャトルバスで一時間、ロサヴィールのフェリー乗り場まで運んでくれるサーヴィスがあるようで、しかし、肝心の、ロサヴィールからイニシュモアまで、どれだけ時間がかかるのかは、わからずじまいであった、・・・、思わず、なんで、こんな行くはずが、絶対にない「旅行」の計画に、こんなに「熱中」しているのか、我ながら不思議、こんなことでは、私も、「浮遊霊」となって、ゴールウェイの船着き場に現れることになるかも(笑)?




・・・



(français)En Galam ! ... Qui comprendra tout ce que ces mots peuvent éveiller d'échons mystérieux au fond d'une âme nègre exilée !
(English)" In Galam ! "Who can tell all the mysterious echoes the words are capable of awakening in the depths of an exiled negro soul !
(日本語)――≪ガラムに!≫・・・・・・この言葉が、故郷を遠く離れた黒人の魂の奥底に呼び起こしうる神秘的な反響のすべてを、誰が理解できるだろう。
Le Roman d'un spahi Deuxième Partie-X/A Spahi's love-story Second Part-X/Pierre Loti/「アフリカ騎兵・第二部十」ピエール・ロチ
「ガラム」の捜索は、難航した、・・・、インドネシアの紙巻きたばこメーカー「グダン・ガラムGudang Garam」、これは、「l」と「r」の差だから、まず問題外、同じく、「r」だが、スパイスの「ガラムマサラGaramumasara」、シナモン(肉桂)、クローブ(丁子)、ナツメグ(肉荳蔲)、を基本とするミックス・スパイス、・・・、シナモンは、クスノキ科ニッケイ属の樹木の樹皮、クローブは、フトモモ科チョウジノキの花蕾、ナツメグは、ニクズク科ニクズク属の樹木の種子、・・・、「丁子」は、インドネシアモルッカ諸島原産だが、オマーンのアラブ系王朝が、植民地ザンジバルにこれを持ち込み、プランテーションを開発した、という話であった、・・・、
そんな「浅はかな」ことを思いついた人間は(笑)、「世界」が相手となれば、相当数いたようで、・・・、「ノーベル文学賞」アブドルラザク・グルナと言う作家を、さわりだけでも、読んでみる
それから、「僕(しもべ)」という意味のアラビア語、したがって、人名にも用いられる、「Ghulam」、・・・、それらの試行錯誤を経て、フランス語版wikipediaに、あっさり、「Galam:le royaume de Galam, un ancien royaume du Sénégal」、ガラム王国、セネガルの古代王国、と出た、・・・、英語版では、「セネガルの歴史History of Senegal」に、「kingdom of Galam」という用語が登場するが、どちらを参照しても、もっともフランス語の方は、字面を眺めるだけだが、いつ、どこ、にそれが存在したのかは、はっきりしない、・・・、「ガラムの聖ヨゼフ城/Le fort Saint-Joseph de Galam」というものが、1698年から、1789年に存在していたようで、これは、おそらくフランス植民者の築いた城砦だったと思われるが、それが、1789年に、イギリスの手に帰した、という記事があり、その場所は、現在の、セネガル、モーリタニア、マリ、の三か国の国境が交わるあたり、Bakelという町のあたりであったらしい、・・・、英語版の記事には、フランス植民地支配下での、「原住民」、「混血」、「イスラム教徒」の処遇について、やや詳しい記述がありそうなので、のちに、もう一度、参照することにしよう。

1707年頃の、セネガンビア地方、図の右の方、セネガル川の上流域に、「GALAM」という文字が見える。
・・・
(français)Dakar, une sorte de ville coloniale ébauchée sur du sable et des roches rouges. - Un point de relâche improvisé pour les paquebots à cette pointe occidentale de l'Afrique qui s'appelle le cap Verd.
(English)Dakar, a sort of colonial seaport hastily built on a foundation of sand and red rocks, an improvised point of call for the steam- packets at the westernmost point of Africa known as Cape Verde.
(日本語)ダカール、とも角も一つの植民都市だが、砂地と赤い岩の上に建てられている。――ヴェール岬と呼ばれるアフリカの西の突端に、郵便船のために急に作られた寄港地である。
Le Roman d'un spahi Deuxième Partie-XVIII/A Spahi's love-story Second Part-XVIII/Pierre Loti/「アフリカ騎兵・第二部十八」ピエール・ロチ
ébaucher:下書きする、設計する
paquebot:郵便船
現セネガルの首都ダカールは、「ヴェール岬半島Presqu'île du Cap-Vert」という半島の先端に位置している、この命名の由来が少し興味深い、・・・、まず、「岬」は、英語cape、フランス語cap、ポルトガル語cabo、「緑」は、フランス語vert、ポルトガル語verde、まず、ポルトガル人航海者が、この西アフリカ大陸最西端の岬を「発見」、あるいは、熱帯の常緑樹に覆われていたからであろうか、「Cabo Verde緑の岬」と名付けた、それをのちに植民地として獲得したフランス人が、同じ意味のフランス語で、「Cap Vert」と読むか、あるいは、ここでピエール・ロティが採用しているように、ポルトガル語の綴りをそのまま流用して、「Cap Verd」と、呼ぶようになった、ところが、この「緑の岬」から西方の沖合、以下の計算のように、ほぼ800kmあたりに、群島が見えるであろう、私たちは地図の上で「見える」といっているだけだが、ポルトガル人航海者が、実際に、それを、この「緑の岬」を「発見」した数年後に、やはり「発見」したのだそうだ、・・・、どうしてそのような混乱が生じたのかまでは定かではないが、ともあれ、この、少しも「岬」ではない、洋上の島がまた、同じく「カボ・ベルデCabo Verde」と呼ばれるようになり、1974年のポルトガル植民地からの独立後の共和国の名称も、「カボ・ベルデ共和国República de Cabo Verde」で、今日に至ったのである、・・・、アフリカ大陸と、南アメリカ大陸が、最も接近し、大西洋が、もっとも「狭く」なっているこの海域にあって、「カボ・ベルデ」群島が、交通の要衝となった所以は、容易に想像できるだろう、・・・、ダーウィンの「ビーグル号」も、ブラジルに向かう直前に寄港しているし、南米、フランス領ギアナ沖合の孤島に流刑に処せられていたドレフュス氏が、釈放されるときも、フランスの軍艦は、マルチニックの基地を出発、彼を収容したのち、「カボ・ベルデ」で燃料補給の上、フランス本土ブルターニュへ向かったのである、・・・、それにしても、まことに「悲しき熱帯」というべきかもしれない、「残虐」だったはずのポルトガル人、スペイン人航海者たちは、彼らが「発見」した島々を「名付ける」にあたっては、ほとんど「素朴」、「無邪気」、悪く言えば語彙が乏しかったようだから、こうして、世界中に、「緑の岬」だの、「美しい島ilha bonita(ポルトガル語)/isla bonita(スペイン語)」だのが、いくつもいくつも存在することになってしまった、・・・、沖縄に来てからほどなく、私は、大量の犬猫を引き受け、しかも友だちのいない(笑)「独居老人」となってしまった(笑)ためもあって、一泊二泊の小旅行すら出来なくなったから、渡嘉敷島を一度、久高島を一度、訪れた以外は、船に乗ったこともなければ、「島」を海の方から望むこともないのだけれど、サンゴ礁由来の石灰岩からできた白砂、タコノキ科アダンの林、河口があるなら、マングローブ性の低木、それらの、あくまで「緑」が、海の「青」に映えて、それはそれは、なんと「美しい」のだろう、思わず、「いるは・ぼにーた!/いすら・ぼにーた!」と叫びたくなる衝動を、想像することはできるのだ、・・・、ポルトガル語の、「formoso」という形容詞は、やはり「美麗な、奇麗な」という意味のようで、台湾が、しばしば「Formosas Island」と呼ばれるのも、ポルトガル人航海者による命名、「ilha formosa」、に由来する、・・・、ところで、この、半島の方の、「緑の岬Cap-Vert」、その南側の湾内に、「ゴレー島Île de Gorée」というのがあって、英仏間の植民地争奪の焦点となっていたようだから、地図にも記しておいた。
Dalar, Senegal 15.23N/16.17W
Praia, Cabo Verde 14.93E/23.51W
緯度差0.3、緯線間隔111kmにこれをかけると、33.09km
緯度の平均15.08E、これの余弦(cos)が、0.97、
赤道上の経線間隔111kmにこれをかけて、107.18km、
経度差7.34、15.08Eでの経線間隔107.18kmにこれをかけて、786.31km
三平方の定理から、
√(33.092+786.312)=787.01
「ビーグル号航海記」、「南方郵便機」、「悲しき熱帯」
独房の中で数学の勉強をするような、人だった、だから、こんな記述が、「正確」であったとしても、当然のことなんだ・・・大佛次郎「ドレフュス事件」を読む
・・・
(français)≪Tu vas en Algérie, toi ! ... Demain, hélas ! moi, je pars pour le poste de Gadiangué, dans l'Ouankarah, - avec quelque autres de Gorée. - Il y a la guerre là-bas. - Trois mois à y passer à peu près, - et de l'avancement à gagner sans doute, - ou la médaille.
(English)" You are off to Algeria, ... I start to- morrow, worse luck ! for the outpost of Gadiangue, in the Ouankarah, with some other details from Goree. There is fighting going on yonder. Three months of it per- haps, and promotion to win no doubt, or a medal to be got.
(日本語)≪君は、アルジェリアへ行く!・・・・・・ところで俺はだ、どうも!俺は、明日ウヮンカラーガディヤンゲの屯所へ出発するのだ。――ゴレーにいた数人の仲間と一緒だ。――あっちでは戦争しているんだ。――大体三カ月ぐらいいなけりゃならんのだが、――昇進は受け合いだろうし、――ひょっとすると、勲功章も大丈夫だろう。
Le Roman d'un spahi Deuxième Partie-XVIII/A Spahi's love-story Second Part-XVIII/Pierre Loti/「アフリカ騎兵・第二部十八」ピエール・ロチ
médaille:メダル、勲章
「ガディヤンゲGadiangué」、モーリタニアに、「Gadianguer」という町が見つかった、サン・ルイSaint Louisから、セネガル河を遡行して、北の方に、30kmばかり、「ウヮンカラーOuankarah」は不明、・・・、当時、セネガル河河口部右岸、つまり北西部で、フランス植民地主義者と戦闘をまじえていたベルベル系の国家に、「トゥラルザ首長国Emirate of Trarza(1640-1902)」というものがあったらしい、南側の近傍には、ウォロフ族Wolofの「ワロ王国Kingdom of Walo(1287–1855)」、「カヨール王国Kingdom of Cayor(1549–1879)」、「ウォロフ王国Kingdom of Jolof/Wolof/Wollof(1549–1875)」が存在していた、・・・、ここで言及される「戦争」は、それらの諸国間の、あるいは、そこにフランスが介入したもの、であると想像されるが、はっきりしない、・・・、主人公は、ようやく四年間の徴兵期間が終了して、ダカールの港から、いったんフランスに戻り、故郷を訪ねる自由時間を与えられたのち、ふたたびアルジェリアに召集され、そこで召集解除、という段どりになったものの、故郷に「許嫁」を置いたまま、当地で、「同棲関係」にある、カッソンケ族のファトゥー・ゲイと別れるに忍びなくなって、「葛藤」していたところ、上の引用部分にあるような「申し出」、つまり、アルジェリアに「帰還」するのと、あと三か月兵役をのばして、「昇進」を狙うのとを「交換」しないか、という「申し出」に、応じることになる、なぜ、この同僚の兵士が、「アルジェリア」行きにこだわったのかは、次の引用で明らかになるだろう、・・・、ともあれ、こうして、主人公は、「戦場」へ向かうことになるのだが、それも、また、引用するが、どうも、ダカールよりさらに南の、ギニア方面へ向けて出発するようなので、ちょっと、位置関係が辻褄が合わなくなってくるような気もするが、ともかく、このまま続けることにする、・・・、「ゴレー」は、上で見たとおり、ダカールの「ヴェール岬」の南側の湾内の島、この時点では、そこにフランス軍の基地があったものと思われる。
・・・
(français)Peyral, continua tout bas l'autre spahi d'une voix douce, Peyral, c'est que vois-tu, je suis Algérien, moi. Tu sais ce que c'est : j'ai là-bas, à Blidah, mes braves vieux parents qui m'attendent ; ils n'ont plue que moi. Tu dois bien comprendre ce que c'est, toi, que de rentrer au pays.
(English)" Peyral," went on the other Spahi, speaking in a soft, low voice, " the fact is, you see, Peyral, I am from Algeria, I am. You understand, down at Blidah yonder I have my dear brave old father and mother waiting for me ; they have only me left. You must understand what it means for a man to get back home again."
(日本語)――ペーラル、(と、相手の騎兵は声をやさしくしてごく低く言い続けた。)君、実は、おれはアルジェリア人だからなんだ。わけが判るだろう。あの、ブリダーには、俺を待っているやさしい歳をとった両親がいる。俺だけしかいないのだ。君なら、国へ帰るちうことが、どんなことかよく判ってくれるはずだが。
Le Roman d'un spahi Deuxième Partie-XVIII/A Spahi's love-story Second Part-XVIII/Pierre Loti/「アフリカ騎兵・第二部十八」ピエール・ロチ
「ブリダーBlidah」は、Blida、アルジェの南西20kmの町、・・・、もう一度確認すると、この「アフリカ騎兵」は、1881年に発表されたが、ピエール・ロティ(1850-1923)は、実際に、セネガルに、1873年から1874年にかけて滞在している、この時の経験をもとに、自分と同年代の主人公を造形して、描いたのだと想定すれば、主人公ペーラルPeyralは、20代半ば、同僚のこの兵士も同様とすれば、彼は、アルジェリアのブリダーで、1850年頃に生まれたことになる、何が言いたいか?・・・、
60年前の、パリのサンミッシェル橋の事件、の記事から、アルベール・カミュの葛藤、「板挟み」に「身を寄せて」みること、「最初の人間」を読み、観る
この記事で見たとおり、アルベール・カミュの父方の祖父母は、アルザス出身、母方の祖父母は、スペイン、バレアレス島出身、それぞれ、十九世紀の後半のいずれかの時点で、アルジェリアに移住している、カミュの父は1885年生まれ、母は1882年生まれ、つまり、二人とも、アルジェリアで生まれた、「移民二世」、当時「黒い靴」を穿いているのは、ヨーロッパ人入植者だけであったから、「ピエド・ノワールPied Noir/黒い足」と呼ばれることになった、植民地生まれのヨーロッパ人の、「第一世代」だったことになる、・・・、フランス軍のアルジェ占領が、1830年、移民奨励が本格化したのは、1848年、パリをはじめとする「二月革命」以降、歴史上はじめて登場した「プロレタリアート」の鬱積する不満の矛先を逸らすため、と解釈されている、・・・、とすれば、この、ペーラルの仲間の「アフリカ騎兵」は、まさにその時期に移民してきた両親のもとに生まれた、もっとも早期の「ピエド・ノワール」ということになるのだね、という訳で、またしても、意外なつながりがみえたことに、ただ、驚いただけだけれども、・・・。
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「文学評論(1909)・下」夏目漱石(岩波文庫)




「若い芸術家の肖像」ジェイムズ・ジョイス(新潮文庫)・A Portrait of the Artist as a Young Man(1916)/James Joyce
・・・
Chapter I
第一章
Dante had two brushes in her press. The brush with the maroon velvet back was for Michael Davitt and the brush with the green velvet back was for Parnell. ...
ダンテのたんすには、ブラシがふたつ。くりいろのビロードがついているブラシは、マイクル・ダヴィットのため、みどりいろのビロードのついてるのは、パーネルのため。・・・(1)
...
... He wondered from which window Hamilton Rowan had thrown his hat on the haha and had there been flowerbeds at that time under the windows. ...
・・・ハミルトン・ロウアンはどの窓から、から堀へ帽子を投げたんだろう?そのころ窓の下に花壇はあったのかしら?・・・(2)
...
... He was telling them something about Tullabeg.
・・・先生は何かタラベッグのことを話している。(3)
...
He turned to the flyleaf of the geography and read what he had written there: himself, his name and where he was.
Stephen Dedalus
Class of Elements
Clongowes Wood College
Sallins
County Kildare
Ireland
Europe
The World
The Universe
彼は地理の本の見かえしをあけ、いつかじぶんがそこに書いたものを読んだ。じぶん、じぶんの名、そしてじぶんのいるところ。
スティーヴン・ディーダラス
初等級
クロンゴウズ・ウッド学寮
サリンズ
キルデア
アイルランド
ヨーロッパ
世界
宇宙(4)
...
... They lived in Clane, a fellow said: there were little cottages there and he had seen a woman standing at the halfdoor of a cottage with a child in her arms, as the cars had come past from Sallins. ...
・・・クレインの百姓たちだよ、とだれかがいった。あのへんの百姓家は小さい。いつかサリンズから来て馬車で通りすぎるとき、子供をだいている百姓女が戸の前に立ってるのを見かけたことがある。・・・(5)
...
... The drivers pointed with their whips to Bodenstown. ... Through Clane they drove, cheering and cheered. ...
...
And the train raced on over the flat lands and past the Hill of Allen. ...
馭者が、あれがボウデンズタウンだと、むちでさして教えてくれる。・・・クレインをかけぬける、大声でよびかけ、また、よびかけられながら。・・・
・・・
それから汽車は平原をすすみ、アレンの山をこえる。・・・(6)
...
He saw him lift his hand towards the people and heard him say in a loud voice of sorrow over the waters:
—He is dead. We saw him lying upon the catafalque. A wail of sorrow went up from the people.
Parnell! Parnell! He is dead!
They fell upon their knees, moaning in sorrow.
彼はその人が人々のほうへ片手をあげるのを見たし、海上から悲しみにみちた声でさけぶのを聞いた。
―なくなられました。棺台に横たわっているのを見てきました。
人々のあいだから悲しみの声がわきおこった。
パーネルパーネルパーネルが死んだ!
彼らはひざまずき、悲しみのうめき声をあげた。(7)
...
—That was a good answer our friend made to the canon. What? said Mr Dedalus.
—I didn’t think he had that much in him, said Mr Casey.
—I’ll pay your dues, father, when you cease turning the house of God into a polling-booth.
—A nice answer, said Dante, for any man calling himself a catholic to give to his priest.
—They have only themselves to blame, said Mr Dedalus suavely. If they took a fool’s advice they would confine their attention to religion.
—It is religion, Dante said. They are doing their duty in warning the people.
—We go to the house of God, Mr Casey said, in all humility to pray to our Maker and not to hear election addresses.
—It is religion, Dante said again. They are right. They must direct their flocks.
—And preach politics from the altar, is it? asked Mr Dedalus.
—Certainly, said Dante. It is a question of public morality. A priest would not be a priest if he did not tell his flock what is right and what is wrong.
―あいつが修道会会員にいったあの返事はよかったね。どういったんだっけ?とディーダラス氏はいった。
―あれだけ、はらができてるとは思わなかった、とケイシー氏がいった。
―そうそう、「神父様、そちらが神の家を投票場にするのをおやめになれば、こっちも、はらうものをはらうんですがね」という、せりふだった。
―けっこうですこと、とダンテがいった。カトリック教徒のくせに神父様にそんな口をきくなんて。
―わるいのはあっちだな、とディーダラス氏はおだやかな声でいった。宗教のことにしか口を出しちゃいけないってことは、馬鹿だって知ってるのに。
―あれが宗教ですのよ、とダンテはいった。みんなをいましめるという、義務をはたしているんです。
―われわれが神の家へゆくのは、へりくだった心で創り主に祈るためで、選挙演説を聞くためじゃないでしょう、とケイシー氏はいった。
―あれが宗教なのよ、とダンテがまたいった。神父様のほうが正しいんです。信者をみちびかなくちゃなりませんもの。
―それで、祭壇の上から政治のことを説教するわけかい?とディーダラス氏がいった。
―そうですとも、とダンテがいった。公共の倫理の問題ですもの。何が正しくて何がまちがいか、信者に教えないようでは、神父様でなくなります。(8)
...
He pointed to the portrait of his grandfather on the wall to his right.
—Do you see that old chap up there, John? he said. He was a good Irishman when there was no money in the job. He was condemned to death as a whiteboy. But he had a saying about our clerical friends, that he would never let one of them put his two feet under his mahogany.
...
—And can we not love our country then? asked Mr Casey. Are we not to follow the man that was born to lead us?
—A traitor to his country! replied Dante. A traitor, an adulterer! The priests were right to abandon him. The priests were always the true friends of Ireland.
—Were they, faith? said Mr Casey.
He threw his fist on the table and, frowning angrily, protruded one finger after another.
—Didn’t the bishops of Ireland betray us in the time of the union when Bishop Lanigan presented an address of loyalty to the Marquess Cornwallis? Didn’t the bishops and priests sell the aspirations of their country in 1829 in return for catholic emancipation? Didn’t they denounce the fenian movement from the pulpit and in the confession box? And didn’t they dishonour the ashes of Terence Bellew MacManus?
His face was glowing with anger and Stephen felt the glow rise to his own cheek as the spoken words thrilled him. Mr Dedalus uttered a guffaw of coarse scorn.
—O, by God, he cried, I forgot little old Paul Cullen! Another apple of God’s eye!
Dante bent across the table and cried to Mr Casey:
—Right! Right! They were always right! God and morality and religion come first.
彼は右手の壁にかけてある、じぶんの祖父の肖像を指さした
―あのおじいさんが見えるかい?ジョン、と彼はいった。せっせと働いてしかも金はもうからないという、立派なアイルランド人だった。白衣党だったせいで死刑になりましたがね。聖職についている連中について、こういうことをいったんだ。どなたにも、うちの食卓にはついていただきたくない、とね。
・・・
―じゃあ、われわれはじぶんの国を愛することができないのかな?とケイシー氏がいった。われわれを指導するために生まれた男に従うことはできないんですか?
―あれは国を裏切った男です!とダンテは答えた。裏切者で姦通者です!ああいう男を司祭様たちが見捨てたのは正しいことです。司祭様はいつだってアイルランドの味方ですもの。
―本当かい?とケイシー氏はいった。
憤慨のあまり顔をしかめた彼は、げんこつで食卓をたたき、それから一本ずつ指をおこしてゆく。
―アイルランドの司教たちははたしてわれわれを裏切らなかったろうか?あの併合問題のころラニガン司教はコーンウォーリス侯爵に忠誠を誓ったじゃありませんか。一八二九年にはカトリック解放と引きかえに、祖国の向上を売りわたしたじゃありませんか。壇の上からも告解室でも、フィニア党を非難したじゃありませんか。それにテレンス・べリュー・マクナマスの遺骨をはずかしめたじゃありませんか。
彼の顔は怒りで紅潮したし、スティーヴンもその言葉に感動して頬をほてらせた。ディーダラス氏があからさまな軽蔑をしめす馬鹿笑をした。
―おやおや、と彼は叫んだ。あのポール・カレンじいさんのことを忘れていた。あれだってやはり神さまの目だぜ!
ダンテが食卓に身をかがめて、ケイシー氏に叫んだ。
―正しいのよ!正しいのよ!あの方々はいつだって正しいのよ!何よりも大事なのは神様と道徳とキリスト教です。
(9)
...
—They were caught near the Hill of Lyons.
ライアンズの丘の近くでつかまったんだ。(10)
...
Chapter II
第二章
During the first part of the summer in Blackrock uncle Charles was Stephen’s constant companion. Uncle Charles was a hale old man with a well tanned skin, rugged features and white side whiskers. On week days he did messages between the house in Carysfort Avenue and those shops in the main street of the town with which the family dealt.
夏のはじめのうち、ブラックロックではいつもチャールズおじさんがスティーヴンの相手だった。チャールズおじさんは元気な老人で、肌はすっかり日やけしており、ごつごつした目鼻だちで頬ひげが白い。週日にはキャリスフォート・アヴェニューにある家からいいつかって、その家の買いつけの、大通りにあるいろいろな店へ使いにゆく。(11)
...
(1)マイクル・ダヴィットMichael Davitt(1846-1906)」、「アイルランド共和兄弟団Irish Republican Brotherhood」の組織者、1870年から7年間、反逆罪で獄中にあった、釈放後、1879年、パーネルとともに、「アイルランド民族土地同盟Irish National Land League」、結成、パーネルの不倫問題による、「アイルランド議会党Irish Parliamentary Party(IPP)」分裂に際しては、反パーネル派の、「アイルランド民族連盟Irish National Federation」についた、・・・、「ジョージ主義Georgism(地公主義/土地単税主義single tax movement)」的見解を有し、土地問題に関しては、「左派」とみなされた。
「チャールズ・スチュワート・パーネルCharles Stewart Parnell(1846-1891)
(2)「ハミルトン・ロウアンArchibald Hamilton Rowan(1751-1834)」、1791年、「統一アイルランド人協会Society of United Irishmen」、1798年蜂起の指導者、ウォルフ・トーンTheobald Wolfe Tone(1763-1798)らとともに、創立、・・・、「帽子を投げる」云々の逸話については、不明。
(3)「タラベッグ・カレッジ/聖スタニスラウス・カレッジTullabeg College/St Stanislaus College」、ダブリン西方オファリー郡County Offalyにあった、イエズス会系の学校、1818年創立、1868年閉校。
(4)(5)(6)「クロンゴウズ・ウッド学寮Clongowes Wood College」、1814年、イエズス会によって創立された、男生徒向け寄宿学校、ダブリンの西隣の郡であるキルデア郡County Kildareの、クレインClaneの町の南2kmあたり、サリンズSallinsにある、ボウデンズタウンBodenstownは、サリンズとクレインの中間、クリスマス休暇になったから、ダブリンの両親の家に帰ろうとしている、だから、学校から、おそらく鉄道の駅のある北の方へ向かっているのだろう、上で見たゴールウェイ行きの鉄道路線図では、「メイヌースMaynooth」という駅が、一番近そうに思える、それでも5kmくらいはあるが、・・・、そして、キルデア郡にたしかにアレンAllenという町があるのだが、それは、サリンズの真西5km辺りで、すると、ダブリンとは逆の方向になってしまう?
(7)この部分の書き方からは、パーネルの支持者たちが、港に集まって、船の上からの彼の死を看取ってきた人の報告を聞いている、と読める、・・・、党が二分し、カトリック教会からは激しい非難を受けつつも、死の直前まで、選挙運動に全国を飛び回っていたらしい、雨にあって、肺炎をこじらせ、全国遊説からダブリンに戻ったのち、イングランド南部、英仏海峡沿いの保養地、ブライトンBrightonでの静養中に亡くなった、とのこと、なるほど、遺体はそこから船でダブリンに運ばれたのだ。
(8)新潮文庫版、丸谷才一訳、の、表紙裏の、「主要登場人物」紹介、によれば、
サイモン・ディーダラス(Simon Dedalus)・・・スティーヴンの父、地主、酒飲み、お人よし、過去の賛美者。
ダンテ・リオーダン(Dante Riordan)・・・スティーヴンの伯母。頑固なカトリック教徒。
ジョン・ケイシー(John Casey)・・・サイモンの友人、熱烈なパーネル信奉者。
(9)「白衣党Whiteboys」、1761年以降、小作人、および兼業農家の土地への権利を求めて、地主層に対する、直接行動に従事した秘密結社的組織。
「ラニガン司教Bishop Lanigan」、「コーンウォーリス侯爵Marquess Cornwallis」、は不明。
「テレンス・べリュー・マクナマスTerence Bellew MacManus(1811?1823?-1861)」、「1848年の『青年アイルランド党』の蜂起Young Irelander Rebellion of 1848」指導者、反逆罪で死刑判決、その後1849年、減刑、オーストラリア、現・タスマニアに流刑、1852年には、脱出してアメリカ合衆国へ亡命、1961年、その地で死去、遺骨はダブリンに贈られ、「フェニアンFenians」、この言葉は、「アイルランド共和兄弟団(IRB)」およびその合衆国における支援組織を広く指す、による盛大な葬儀が営まれた。
「ポール・カレンPaul Cullen(1803-1878)」、ローマ・カトリック教会ダブリン総司教、「教皇至上主義Ultramontanism」に立つ神学者で、「教皇不可謬説papal infallibility」を提起。
ここに、「apple of God’s eye」という表現があるが、これは、以前、サリー・ルーニーの小説に出てきたから調べた、「apple of one's eye」で、日本語で言えば、「目にいれても痛くない」に似た表現、になる、聖書の字句に由来する。
逆に、愛着を示され過ぎると、今度は、こっちの方が、後ずさりして縮こまらなければならなかった、まるでヤマアラシみたいに・・・「サリー・ルーニー」読み、は、続き、ダブリンの街角に「イースターの月曜日」の残響を聴くことになる
(10)「ライアンズLyons」、キルデア郡、クレインの東、5kmほど。
(11)「ブラックロックBlackrock」は、ダブリン南東郊外、シドニーパレイドSydney Paradeより少し遠く、モンクスタウンMonkstownの少し手前、上の鉄道路線図にも、その名の駅がある、「キャリスフォート・アヴェニューCarysfort Avenue」は、ブラックロックの海岸から、南に向かって走る街路。
・・・




「ユーヴ・ガッタ・フレンド」、ですか?
When you down and troubled
And you need some love and care
And nothing, nothing is going right
Close your eyes and think of me
And soon I will be there
To brighten up even your darkest night
You just call out my name
And you know wherever I am
I'll come running to see you again
Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I'll be there
You've got a friend
If the sky above you
Grows dark and full of clouds
And that old north wind begins to blow
Keep your head together
And call my name out loud
Soon you'll hear me knocking at your door
You just call out my name
And you know wherever I am
I'll come running to see you again
Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I'll be there
Yes I will
Now, ain't it good to know that you've got a friend
When people can be so cold
They'll hurt you, yes, and desert you
And take your soul if you let them
Oh, but don't you let them
You just call out my name
And you know wherever I am
I'll come running, running,
Yeah, yead, yeah to see you again
Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I'll be there
Yes I will
You've got a friend
You've got a friend
Ain't it good to know, you've got a friend
Ain't it good to know
Ain't it good to know
Ain't it good to know, you've got a friend

You've got a friend/Carol King
おやおや、この「タペストリーTapestry」というアルバム、1971年の発売のようだが、高校一年生ぐらいのころから持っていた、当時のLP版の定価は2000円だったかな、一月の「お小遣い」の額がそんなものだったから、「清水の舞台」どころではなかった、そのうち、代金支払い能力がなくとも、欲しいものがあるなら、「略取」すればよい、という、誤った「アナキズム」理解、を援用して、「万●引き」という手段に訴えるようになったが、これに関しては、ちゃんとお金を払ったような記憶もある(笑)、で、今気付いたのだが、丸々と太った、きじとらの猫さんが、写っているのだね、・・・、その頃の学校英語は、まだまだ、ブリティッシュ・イングリッシュに準拠していたのだろうか、「秋」がautumnでなくfallであること、とか、have gotという現在完了形が、単なるhaveとほとんど同義だとか、all you have to do is callが原型不定詞であることとか、ain'tがbe動詞+notのくずれた形だとか、高校生には難しいところもあったが、もちろん歌詞カードを見ながらだが、大体の意味は、そんな難しいこと言ってるわけじゃなし(笑)、わかってしまったから、なお嬉しかったんだろうな、今も、YouTubeで、歌詞付きのを探してきて書き写したんだけど、ほとんど、半世紀前の記憶を(笑)、訂正しないですんだ、・・・、あの頃は(笑)、「大人になったら」、こんな風に、「私の名前を声に出し呼んで、そしたらすぐにあんたのうちの戸口に立っているはずだから」、まさかそんなわけないやろ?とは思うものの、そんな「友達」が、誰・に・で・も・できるものなんだろう、と漠然と、思っていた、すでに「友達のいない」子供であったから、それは、本・当・に・「友達がいない」ことが問題なのではなくて、「友達がいない」と思っている以上、「友達」というものが何であるのか、わかっていない、ということが問題なわけで、・・・、結局そのままずるずると、そんな状態が続き(笑)、こうして、「最晩年」に至っても、いまだに「友達」の何たるかを知らず、ということは、ひょっとしたら、これまでに「友達」なるものを、もっていたことがあった、かも知れないにもかかわらず、もっていたかも知れない瞬間に、もっていることを知らない以上、それは、もっていたことにはならず(笑)、気がつけば、おや、まわりには、もう、誰もおらず(笑)、そうして、どうやら、私には、「友達が、い・な・か・っ・た・」らしい、と、事後的に、過去形で、知ることになったわけだった。それこそ、この、窓際の、キャロル・キングの足元に坐ってカメラの方を凝視している、このきじとらさんとよく似たのが、ベランダにご飯を食べにくる常連として、新たに加わったようで、さいわいなことに、先客である、黒、と、それから、何と言えばいいのかな、白いところのない三毛、いや、それ三毛ではなかろう、黒と茶の二毛、の二人とも、特に仲が悪いわけでもなさそうなので、よかったね、新しいお友達ができたね、というわけで、そんなタイトルを思いついたまで、・・・、
・・・
ね、友だちがいるって言うのはいいことだと思わない?
人がみんなあなたに対して冷たくて、あなたを傷つけ、あなたを見捨ててしまう、そして、あなたから魂まで奪ってしまうことだってある、でも、そんな風にさせては、だめ、だから、・・・、
ほら、私の名前を声に出して呼んで、そしたらすぐに飛んでいくから、・・・、
疑いもなく、美しく、かつ、正しい、とは思うんですけど、「友達」をもったことがない(笑)、人間としてはだな、「冷たく、傷つけ、見捨てて、魂を奪ってしまう」、そんな「人」と、「名を呼べばすぐに飛んできてくれる」ような「人」とが、実は、区別がつかない、ひょっとしたら、同一人物かも知れない、ことこそが、真に戦慄すべきほどに、恐ろしいことなんだが、「世界」は、あるいは、そんな「恐ろしい」ことに満ち満ちているかもしれないじゃないか?というか、「あなたを傷つける『敵』」と、「あなたをいつも守ってくれる『友達』」とに、「世界」を画然と区別することなんて、きっとできないし、いや、それ以上に、すべきではない、それは、「政治的」に(笑)、正しくない、とさえ思うのね、・・・、にもかかわらず、今でも、この曲を聴き直せば、心躍り(笑)、涙さえ出てくる(笑)、それは、これらの言葉が、おそらく、上に指摘した「欠陥」にもかかわらず(笑)、万人の「心の琴線に触れる」、ように出来ているからで、で、私のような者さえ、それに感動できた、ということは、「友達」の何たるかを、結局わからずじまいで間もなく生涯を終えるにもかかわらず、・・・、私の「意識」だか何だかを構成している、まもなく「揮発」してしまうことになるだろう、ニューロン・ネットワークに刻まれた「記憶」の中に、「友達」という言葉に、感応できる「原型」とも呼ぶべき、何ものか、だけは、どうやら備わっているらしいことになるだろうから、とりあえずは、それで、ああ、よかったよかった、と「満足」することにしよう。


「焼けたトタンの上」、ではなくて、・・・?






ブッソウゲ/ハイビスカス(アオイ科)



フヨウ(アオイ科)

フヨウ(アオイ科)、セイヨウミツバチ(ミツバチ科)


また、昔のように、「賑やか」、になって来ました、ということで、・・・。



ブッソウゲ/ハイビスカス(アオイ科)

フヨウ(アオイ科)






Last updated  2021.12.09 14:27:30



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