486337 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ねこログ

2020.12.23
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



ダイサギ(サギ科)

トックリキワタ(アオイ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

ヒメシオマネキ(スナガニ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

オオゴマダラ(マダラチョウ科)、ランタナ(クマツヅラ科)


「ねこログ」、総目次(笑)/「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「西サハラ紛争」、「モロッコ」をめぐる記事から、いくつかの連想の糸をたどる、ジェレミー・ハーディング、四方田犬彦、エスター・フロイト、サン=テグジュペリ、・・・。/「アッサム」と「ベンガル」、「ヒンズー」と「ムスリム」、「移住民」と「部族民」、「紅茶」は後ほど詳述予定だが、「ゴーヤー・ラヴ」も思い出されたので、・・・/マルチニックを脱出してフランスに向かうフランツ・ファノン、フランスを脱出してマルチニックに向かう、レヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトン/「プロスペロ・コンプレックス」から、マダガスカル、モーリシャス、「リンゼイ・コルン」という作家の名前の、おぼろげな記憶へ/インド洋を「渡る」という想像から、「貿易風」、「偏西風」、「モンスーン」の研究、台風の季節に調べた「コリオリの力」がここでも役立つ(笑)/「プロスペロ・コンプレックス」続論、と、「あらし」に描かれるチュニス、カルタゴ、など/「アラブの春」10年、パトリス・ルムンバ暗殺60年、の記事など/



「彼ら」の「親愛の情」の表現形式としては、まずもって「鼻を近づけて、匂いをかぐこと」が、第一級のものなのでしょう(笑)。
昔観た映画、カメルーンで制作されたもので、「アフリカ、お前をむしりとる」、「ブリティッシュ・カウンシル」の視聴覚室で、子供たちが、「スプリング、サマー、オータム、ウィンター」と復唱させられる、「この国には、雨季と乾季、二つの季節しかないのに」、と、ナレーションが重なる、・・・、「四季の移ろい」は、「北」、「グローバル・ノース」の「発明品」で、「南」の寸法には、合わないのかも、当地でも、Tシャツに短パン、どころか、ほとんど「半裸」(笑)で半年以上が過ごせるが、それが、ある日突然、「冬」になるのだ、その激変の感知においても、なお、「ヒト」より「猫」が勝っているようで、彼らが、さして仲が良い筈もなかったのに(笑)、にわかに身を寄せ合って暖を取り始めると、ああ、また「冬」がやってきた、とやっと気づくのだ。そんな様子を収めたい、とカメラを近づけると、しかし、こちらは、眠っているところを撮りたいのに、「ヒト」が近づいたから、「サービス」してくれるつもりなのか(笑)、にわかにぞろぞろ起き出してしまって、思い描いていた「構図」は台無しになる、どころか、「彼ら」の関心は、当然にも、もっぱら、自分たちに近づいてきた「カメラ」そのものに向けられるので、何よりも、その匂いをかぐことが先決のようで、だから、こうして、「鼻」の大写し、になってしまうのだ。




私事を語ることになるが、「西サハラ問題」なるもの名前だけは知っていたが、少し詳しく調べるきっかけになった導きの糸はいくつかあって、四方田犬彦「モロッコ流謫」、1960年代、京都、カルカッタとともに「ヒッピー」の「聖地」であったタンジェ、決して故郷に戻ることのなかったアメリカ人作家、ポール・ボールズ「シェルタリング・スカイ」、マラケシュの、ジャマ・エル・フーナ広場から、映画「グッバイ・モロッコ」を思い出し、ジークムント・フロイトのひ孫にあたるその作者、エスター・フロイトの原作を読むことになった、「モロッコ」を描いた映画、ヒッチコック「知り過ぎていた男」、「カサブランカ」、デートリッヒ主演の「モロッコ」、特にその「モロッコ」から、ベルベル人のフランス・スペイン植民地主義への抵抗闘争、「リフ戦争」の存在を知る、おりしも、「アラブの春」終息後も、北部モロッコでは、ベルベル人の抵抗運動が継続していることも伝わってきた、「スペイン内戦」には、フランコが植民地から導入した「ムーア人」部隊のほかに、「共和派」で戦ったベルベル人たちが存在することも知った、その「スペイン内戦」の戦場を訪れたこともあるサン=テグジュペリが、「南方郵便機」の中で描いていた、おそらく彼自身の経験に基づくものだろう、その飛行経路の中に、植民地時代の名称として「シズネロス」とあるのは、現西サハラのDakhla、なのである、と言ったことかな、・・・。


上の、アフロ―アジア語族分布図を見れば、モロッコは、タンジェからラバト、カサブランカに至る海岸沿いが、アラビア語地帯、内陸、アトラスの山岳地帯は、ベルベル語、と二つの言語グループの混在した国であるのに対して、西サハラの方は、もっぱらアラビア語地帯のようである。西サハラが「サフラウィ・アラブ共和国」と名乗っているのも、そのような「民族的アイデンティティー」を表象しているのかもしれない。(11)に見るように、モロッコの王朝交代の歴史は、言わば「土着」のベルベル系と、東、チュニジア方面からの移住民たるアラブ系、さらに、一度はイベリア半島まで進出したアラブ・イスラム勢力が、「レコンキスタ」と呼ばれるキリスト教勢力に押し返されて開いた王朝であるとかの、目まぐるしい入れ替わりであるようである。アラブ系とベルベル系は、混淆著しいとも言われるが、(12)の記事などに見えるように、今日もなお、ベルベル人は、「少数派」とみなされ、迫害を受けているようでもある。

(1)、「王子」の「星」に繁殖するバオバブの木が、当地の、同じくアオイ科またはパンヤ科の、トックリキワタに、少し似ていること、など。
(2)、「知りすぎていた男」、ジャマ・エル・フーナ広場の「書き割り」舞台、「モロッコ」、デートリッヒが、ハイヒールで歩き始める「沙漠」は、ハリウッドのセットなのだろう、に向かうのは、ゲイリー・クーパーが「傭兵」として戦うはずの敵は、少しも描かれていないが、「リフ戦争」のベルベル人なのである、など。
(3)、「大西洋」の語源が、ここ「アトラス山脈」にあること、「ベルベル人」の語源が「バルバロイ」同様、わけのわからない言葉を喋る者たち、であること、など。
(4)、イギリス領ジブラルタルの対岸、モロッコ北端に、「セウタ」というスペイン領が、あること、また、フロイトのひ孫である以上、「ユダヤ系」であることを改めて思い出したこと、など。
(5)、マラケシュ、ジャマ・エル・フーナ広場で、「ファンタ・ナランハ」、ファンタ・オレンジのスペイン語読み、を飲むエスター・フロイト、など。
(6)、「南方郵便機」に登場する「シズネロスVilla Cisneros」が、現西サハラDajla/Dakhla、のスペイン植民地時代の呼び名であること、また、「ムーア」という「呼び名」について、など。
(7)、「星の王子様」冒頭、飛行機が不時着した場所は、西サハラ国境に近いモロッコ南部に比定され、記念碑も立っているそうだが、サン=テグジュペリが実際に墜落事故を起こしたのは、パリからサイゴンに向かう「レース」中、リビア砂漠であった、リビアのイタリアによる植民地化についての探求、「スペイン内戦」、おそらくアナキスト陣地を訪れたサン=テグジュペリ、など。
(8)、モロッコ南部、西サハラとの国境に近いキャップ・ジュビーの飛行場勤務のサン=テグジュペリが、「不帰順モール人」との「奴隷」解放交渉をする、モーリタニア等では、サハラ以北アフリカのアラブ、ベルベル人が、サハラ以南のアフリカ人を「奴隷」化する慣行が今日も残存していて、間大西洋奴隷貿易の史実を「正当化」する言論が、好んでこれを根拠として援用する、など。
(9)、「ヒディアス・キンキー」末尾にモロッコ王の誕生日祝賀の光景、その年のラマダン期間中にクリスマスがあったという話と合わせて、イスラム歴の計算、また、エスターの姉、ベラが、「パンクス」発祥の地、ヴィヴィアン・ウエストウッドのブティックで働いていたこともあるデザイナーであること、など。
(10)、「スペイン内戦」について書かれたものには、フランコが植民地モロッコから導入した「ムーア人」が、いかに「残虐」であったかの記述に事欠かないが、ここにももちろん人種主義的バイアスを検知することができると思う、「リフ戦争」でフランス、スペインの植民地主義者と闘ったベルベル人軍人が、「共和派」に参加している事実を、「変節漢」と詰って恥じないヘミングウェイの「無知」をはじめとして。
(11)、おりしもクリスマス、聖書でキリストの生誕に関する言及は、たしかルカ伝の「馬小屋」と、マタイ伝の「東方の三博士」のみだそうで、ヨーロッパの画家が描く「三博士」の中に、しばしば「黒人」が一人いる、パレスチナの「東方」ならば、インド―ヨーロッパ語族の「茶色」い人々、その向こうには、「黄色」い人々の土地が広がるはずで、これは、ヨーロッパが、聖書の土地パレスチナに「自己同一化」しながらも、地理上は依然として「ヨーロッパ中心」を維持した結果の錯覚なのであろう、「黒人」王国として知られていた「エチオピア」が、「東方」だというのなら、・・・、エドワード・サイードがそんなことを書いていたかどうかもう記憶にないのだが、これこそもちろん「オリエンタリズム」なのである。
(12)この歌手の、歌っている映像が見つけられた、逮捕の半年前、抗議運動が始まったばかりの頃の日付がある。
ムーシネ・フィクリMohsin Fikri/サリマ・ズィアニSiLya Ziani(YouTube2016/12/23)

逮捕されてから、カサブランカの監獄までバスで運ばれるのに、夜中に、13時間かかった、とある、アル・ホセイマからカサブランカに陸路向かうなら、フェズ、ラバト経由と思われる、その直線距離の積算が、420km、「13」で割ると時速32km、実際の距離は、2割ぐらいは長くなるだろうから、時速40km弱、妥当な計算と思われる




そんな風にして、「観測器」の精度が信頼できなくなると、それを通じての「世界」の把握もおぼつかなるわけだから(笑)、これまた、一層、「寒々した」気持ちになるのも故なしとしない(笑)、・・・。
沖縄の冬は本当に陰鬱で、ほとんど晴れることがない、と言ってもいいくらいだ、「常夏の国」と聞いてきたのに、話が違う!と、「暴れて」みても(笑)仕方ないので、諦めてはみたものの、いまだに、「慣れる」ことがなく、それどころか、これは、こちら=観測者側、の事情だが、年毎に「寒さ」が厳しくさえなってきたように感じられるのは、これは、単に「老衰」(笑)のせいなんだろうが、そんな風にして、「観測器」の精度が信頼できなくなると、それを通じての「世界」の把握もおぼつかなるわけだから(笑)、これまた、一層、「寒々した」気持ちになるのも故なしとしない(笑)、もう記憶も定かではないが、ここ一月ばかりの間、太陽が顔を出したのは、三日もあったろうか?そうやって、陽が射すと、「もったいない」(笑)と急き立てられるので、無理をして出かける、でも「無理」をしたから、帰ってくるともう疲労困憊、気持ちも投げやりに荒んで(笑)、せっかく撮った写真を、見ることすらしない、そんなふうにしてたまってしまったものを、やっとのことで、「重い腰を上げて」編集したわけだ。「青空」が、「切ない」ほど(笑)、「恋しい」ので、晴れている間は、なるべく、上を見上げる構図をとる、そうでないのは、背景が灰色っぽいのでわかるが、曇っているときのもの、オナガガモとハシビロガモが写っているときの海岸なんて、雨が降り始めて、手がかじかんできて、カメラも濡れそうになるし、早々に退散したくらいだ。キャプションに「マニラヤシ」と書いたのは、間違い、何の記憶違いだろう?そんな種はないようで、当地の街路樹にしばしば用いられている、トックリヤシモドキH. verschaffeltii、ヤシ科Arecaceaeヒオフォルベ属Hyophorbe、であるらしい、マダガスカル東方マスカリーン諸島Mascarene Islands、それはつまり、モーリシャス共和国Republic of Mauritiusと、フランス海外領レウニオンFrench department of Réunion、からなる一帯だが、そこが原産なのだという、その名には記憶がある、まだこちらに「移住」する前、「反基地・平和」系ツアー、私鉄総連の「春闘」バッチを付けたガイドさんが、58線沿いの嘉手納から北谷にかけて、だから道路の片側は常に「基地」なのだが、延々と、等間隔に植栽されているその、いやが上にも「南国情緒」の樹木、そう呼ぶんだ、と教えてくださったのだった。





アオサギ(サギ科)



ハシブトガラス(カラス科)



ダイサギ(サギ科)

ヤマトシジミ(シジミチョウ科)

トックリキワタ(アオイ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・オス

タイワンハネナガイナゴ(バッタ科)

ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・オス



ヒメシオマネキ(スナガニ科)





イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス

コサギ(サギ科)

イソシギ(シギ科)



オオゴマダラ(マダラチョウ科)、ランタナ(クマツヅラ科)

タイワンツチイナゴ(バッタ科)

ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・メス、タチアワユキセンダングサ(キク科)

セイヨウミツバチ(ミツバチ科)、ツワブキ(キク科)

ツマグロキンバエ(クロバエ科)、ツワブキ(キク科)





トックリヤシモドキ(ヤシ科)

アキノノゲシ(キク科)

ホソバワダン(キク科)

ダイサギ(サギ科)



シマアジ(カモ科)

ツマベニチョウ(シロチョウ科)、トックリキワタ(アオイ科)

ハクセキレイ、キセキレイ(セキレイ科)

オナガガモ(カモ科)・オス

ハシビロガモ(カモ科)・オス

キアシシギ(シギ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・オス



クロサギ(サギ科)・黒色型

トックリキワタ(アオイ科)・白花品種

タイワンハネナガイナゴ(バッタ科)

旧暦十一月八日の月、南中一時間前

旧暦十一月八日の月、南中

旧暦十一月八日の月、南中一時間後

トックリキワタ(アオイ科)・白花品種



ダイサギ(サギ科)

キセキレイ(セキレイ科)





ハクセキレイ(セキレイ科)

キセキレイ(セキレイ科)







Bodo tribal group
Bodo language、シノ―チベタン語族Sino-Tibetanブラフマプトラン語族Brahmaputran
Bengali Muslims、ベンガル語を話し、イスラムを信仰するベンガル人、バングラデシュの多数派、インド西ベンガル州およびアッサム州では最大の少数派を構成、ベンガル人内の最大グループにして、世界のムスリム内では、アラブ・ムスリムに次いで最大グループをなす
Bengali language、インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranian

Bodoland Territorial Region、アッサム州北西部、ブータンとの国境地帯、西から東へ順に、コクラジャハル、チラング、バクサ、ウダルグリ、の4地区が並ぶ。
National Democratic Front of Boroland、1986年結成、インドの拡張主義と占領からの解放、主権国家の設立を綱領とするマルクス主義政党、2020年1月、合意により武装解除、解散。

アッサム、ボドランド、バクサ地区のマタングリ、カグラバリ、コクラジャハル地区
Adivasi、インド亜大陸において、広く「先住民」、民族的少数派を指すときに用いられる言葉。
アッサム州の宗教構成
ヒンズーHinduism-61.47%
イスラムIslam-34.22%
キリスト教Christianity-3.74%
アッサムの言語構成
アッサム語Assamese-46.81%
ベンガル語Bengali-28.15%
ボド語Bodo-4.51%
ヒンディー語Hindi-3.21%
Assamese language、インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranian
Hindi language、インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranian
Bodoland People's Front、2005年創立、アッサム州議会において、BJPと連合
United People's Party Liberal(UPPL)、2015年創立
・・・
以前の記事から、・・・、上の方のは、ベンガル人ヒンズー教徒の出自をもつ筆者が、同じくアッサム州のグワハチにおいて、アッサム人から排斥を受けた経験を語っている、・・・、もう一つ、そういえば、「ゴーヤー・ラヴ」の記事の筆者も、同じくアッサム、ナガオンのもっと東の方の出身だった、宗教的バックグラウンドは、はっきりしないが、ヒンズー教の祝日に帰省する、という記述はあった。

この記事の中で筆者は、「ベンガル」と「アッサム」間の確執が、イギリス帝国の植民地経営政策の便宜にすぎない恣意的な処置に根差していることを、次のように説明している、・・・
1836年から1872年まで、ベンガル語が、アッサム州の公用語として、植民地政府によって指定された、アッサムは、かつてはイギリスの支配するインドの最大の部分を占めた、ベンガル管轄区の一部だったからだ。それは植民地主義者の行政上の便宜のための方策でしかなかった、しかし、ベンガル人は、以降、その故をもって、文化的ヘゲモニー(覇権)を揮って来たとの非難を受けることになるのだ。アッサム人にとっては、彼らの領域に、より少ないベンガル人が存在していることこそ、望ましかったのだ。それは、何一つ、今も、変わっていない。
From 1836 to 1872, Bengali was imposed as Assam's state language by the colonial government, while Assam was part of the Bengal Presidency, once the largest subdivision of British-ruled India. It was a colonial manoeuvre for administrative ease, but Bengalis were thereafter blamed for what was seen as cultural hegemony. The Assamese people felt that the fewer Bengalis within their territory, the better. Nothing much has changed since.

英領インドの1893年の地図


これは、「ゴーヤー・ラヴ」の記事で使った距離計算表だが、後に、「イングリッシュマン/ジャマイカン・イン・ニューヨーク」をもう一度論ずる予定なのだが、つまり、「紅茶」の歴史だ、ツバキ科のチャの木は、北緯25度から35度の間でなければ生育しない、と言われていたそうで、イギリス植民地主義者が、強引に、このアッサム地方を、「紅茶」モノカルチャー化できたことがやや不思議に思われたので、確認したかった、なるほど、例えばグワハチの緯度は、当地、沖縄とほとんど同じではないか?ともに「ゴーヤー」文化があったとして、やはりおかしくなかったのだな。

京都、北緯35.011564度、台北、北緯25.032969度、のあたりに検討をつけて、直線を引いてみた、球面を平面に近似しているのだから、ひずみも現れようが、例えば、エルサレム35.709771、バグダッド33.315241、だから、この「帯」は、図面の中央で広く、端に向かうにつれ狭くならねばならなかったのだな、だが、おおよその見当はつけられるだろう、いずれにしても、イギリスがもう一つ「紅茶」産地として「開発」した「セイロン」、現スリランカは、コロンボColombo、北緯6.927079度、明らかに、この「帯」の外側にあることはわかった。



わずかな晴れ間を惜しんで、咲き誇る、などと言う不正確な「擬人法」は使わないでおくとして(笑)、・・・。
その次に晴れたのが、この日、と言う訳だったのだろう、珍しい晴れ間を惜しんで、急いで咲き誇る、などと「擬人化」してしまいかねないが(笑)、曇っている間、私は出かけていないのだから、例えば、このルリハコベ(サクラソウ科)が、咲いていたかどうか、「知らない」(笑)、のだから、「対照実験」によって検証されていない不正確な言明、ということにはなろう、でも、雨の日は、媒介昆虫の活動も不活発であろうから、花が「咲かない」という「選択」をすることは、大いにありそうな気がする、この花は現に、曇ってくると、たちまちしぼんでしまう、それは、実見からもいえると思うしね。ようやく出かける用意ができたのは、もう潮目もよくない夕方だったから、野菜を買いに出かけた農協スーパーから、わりと近い海岸に立ち寄るにとどめたが。識別の難しいチドリ科の近縁二種について、海にいれば、ダイゼン、淡水なら、ムナグロ、と勝手に決めることにしていたのだが、ならば、この、海岸の堤防の内側の、収穫後のサトウキビ畑、で発見したのは、その基準なら、どっちになるのだろう(笑)?堤防に若い男女が仲良く腰かけて、その日は、「クリスマス・イヴ」の翌日だったから、何か、「プレゼント交換」しているみたい、そして振り返ると、これまた仲の良い(笑)シロガシラ(ヒヨドリ科)夫婦が、睦み合っている、「当事者性」(笑)をまったく欠いた地点で、それらを「微笑ましく」眺めうるほどには、ようやくこの「最晩年」にいたって(笑)、「老成」したようである。


ウスベニニガナ(キク科)

ルリハコベ(サクラソウ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス



サンセット・ビーチ?



キジバト(ハト科)







ムナグロ(チドリ科)

旧暦十一月十一日の月、月の出二時間半後

旧暦十一月十一日の月、月の出三時間半後

旧暦十一月十二日の月、南中二時間半後

旧暦十一月十三日の月、月の出四時間後

旧暦十一月十四日の月、南中二時間後





「黒い皮膚・白い仮面」フランツ・ファノン・・・「序」のみだが、「冥途の土産」の(笑)フランス語講座。彼がヴィッシー派に占拠されたマルチニック島を逃れる少し前、フランスを逃れるレヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトンを乗せた船がその島へ向かっていた、「悲しき熱帯」を読み直すのはもう少し先になるが、・・・。
フランス語の「試し読み」コーナーは、ここまで、英語版では、第一章「黒人と言語」まで読める、その第一章の末尾に、アンドレ・ブルトンが、フランツ・ファノンFrantz Fanon(1925-1961)の「師」ともいうべきマルチニック出身の詩人エメ・セゼールAimé Césaire(1913-2008)をほめたたえた一節が引用されていて、おそらくブルトンに「悪意」はないのだろうが、素人目に見ても、やはり覆い難く「パターナリスティック」に見えるもので、ファノンは、皮肉交じりに「噛みついて」いるわけである、そこで思い出されるのは、
「イベリア半島独裁政権崩壊後の混乱の中で、西ヨーロッパ『民主主義』、『ソ連』双方の無関心の中で、困難な闘いを強いられた『西サハラ』独立運動、ポリサリオ戦線の、略史、ジェレミー・ハーディング『スモール・ウォー・スモール・マーシー』から。フランツ・ファノンの略歴も加える。」
の記事、にも書いたように、1943年に、ヴィッシー派の水兵が傍若無人にふるまうようになったマルチニックを逃れて、イギリス連邦ドミニカを経て、カサブランカに向かい、「自由フランス」に参加する、映画「カサブランカ」撮影とほぼ同時期であることはさておき、その二年前にあたる、1941年、今度は、マルセイユからマルチニックに向かう船上に、ほかならぬアンドレ・ブルトンAndré Breton(1896-1966)がいたことは、クロード・レヴィ=ストロースClaude Lévi-Strauss (1908–2009)「悲しき熱帯Tristes Tropiques」の冒頭に描かれていた、それは、ここにも書いた、
「レヴィ=ストロースとヴィクトル・セルジュを乗せた船」
トロツキーLeon Trotsky(1879-1940)とともに「左翼反対派」を形成した、ヴィクトル・セルジュVictor Serge(1890-1947)は、ソ連を追われてフランスに住んでいたのを、「ユダヤ人」であるために、ドイツによる占領、ヴィッシー政権成立とともに、ふたたび逃れなければならなくなったのである。レヴィ=ストロースも、「ユダヤ人」であり、ロックフェラー財団が、ナチの弾圧を受けているヨーロッパの知識人を支援する目的でニューヨークに設立した大学に赴任することを目的とした、やはり逃避行であった。アンドレ・ブルトンは、彼自身は「ユダヤ人」ではないようで、その「過激思想」が、ヴィッシー政府の逆鱗に触れたようである、レヴィ=ストロースは、その逃避行の船上の人々を、「ユダヤ人」、「外国人」、「アナキスト」にカテゴライズしているが、ブルトンは、その第三のものに該当することになる。フランツ・ファノンが、まさに逃げ出そうとしていたマルチニックの政治状況が、いま改めて読み返してみると、「悲しき熱帯」にも、若干触れられている。また、ブルトンの略歴を読んでいると、彼は、この逃避行ののち、メキシコに向かい、亡命中のトロツキーに会い、意気投合しているようなのである。それから、ヴィクトル・セルジュも、「スペイン内戦」に関与しているが、
「『わたしに一番言語道断と思われるのは』、・・・、シモーヌ・ヴェイユとスペイン」
に書いたように、H.M.エンツェンスベルガー「スペインの短い夏」に、イリア・エレンブルクIlya Ehrenburg(1891-1967)が登場するが、この人が、内戦中のバルセロナで開催された作家大会で、アンドレ・ブルトンを、こき下ろした、という一節もあるし、その辺をもう少し、調べ直し、これまた「時間が足りるならば」(笑)、書いてみたい、という、計画(笑)。
フランツ・ファノン「黒い肌・白い仮面」、「序」のみだが、「冥途の土産」の(笑)フランス語講座。彼がヴィッシー派に占拠されたマルチニック島を逃れる少し前、フランスを逃れるレヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトンを乗せた船がその島へ向かっていた、「悲しき熱帯」を読み直すのはもう少し先になるが、・・・。
引用文中に、こんな言葉を見つけたので、・・・、「感情の異常」に対応するのは、フランス語「les anomalies affectives」、英語「the affective disorders」、今日的には、例えば、「Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM)」の定義では、「mood disorder」、「気分障害」にあたる、私事にわたるが(笑)、例えば私自身に与えられた診断名は、「双極性気分障害」または「気分循環症」、いわゆるところの「躁うつ病」であるが、自分の病名だから忘れるわけがない(笑)、その英語表記は、それぞれ「Dipolic Temper Disorder」、「Cyclothymia」、「Manic and Depression Psychosis」と、今の今まで思い込んでいたのだが、dipoleは確かに「双極子」、しかし、dipolicなどと言う形容詞形は存在せず、また、「Temper Disorder」も、今は用いられない表現なのか、とも思ったが、それどころか、「検索」にも全然引っかからないのは、どういう訳なんだろう?あの頃、つまり「発病」当初、数多読み耽った、その手(笑)の書物のどれかから、仕入れた知識のはずなのだが、「狐につままれた気分(笑)」とは、まさにこのことだ。上の三つの「病名」のうち、「サイクロサイミア」、「メーニック・ディプレッション・サイコーシス」は、正しい、と言っても、「サイコーシス」って言葉は、「ポリティカリー・コレクト」ではない、ということで、今は用いられないようだけれどもね、そういえば(笑)、高校時代、「パンク」登場前、その名も「ピンク・フロイド」などを代表とする「プログレッシブ・ロック」なる、気恥ずかしい(笑)名称の一ジャンルが現れ、大流行した著名な曲のタイトルが、「二十一世紀の精神病者/21st Century Psychosis」だった、私が「発病」したのは、2002年6月、ま・さ・に・、その通りではないか(笑)、ちょうど、その頃書いた、当然にも「病的」な(笑)、「闘病」日記風の文章が残っている、タイトルは、ずばり、
「サイクロサイミア」
で、「双極性気分障害」は、正しくは、「Bipolar Mood Disorder」、とのこと。おや?もう一つ「狐につままれ」を屋上屋根を重ねるような事態、今調べると、「二十一世紀の精神病者」は、「21st Century Schizoid Man」、これも今は使われない言葉だが「分裂病」の「人間」ということだな、二十年来、思・い・込・ん・で・き・た・事柄が二つ、今日、音を立てて崩れた(笑)、もう、先もそう長くはないから、いいか?
しかし、いずれにしても、この書物は、精神分析医たるファノンが、「気分障害」という一つの「病い」を「治癒」すべく書かれた書物なのだ、とわかれば、「同病」の「誼(よしみ)」(笑)、俄然親しみが湧いてきたではないか?

小アンティーユ諸島、マルチニック島


フランツ・ファノンの生まれ故郷マルチニック島を、沖縄本島、ジャマイカと、同縮尺で並べてみた図、と、それぞれの緯度等を表わす表

フォール・ド・フランス市街図、後の章の記述に「サヴァンナ」、「ディディエ」が登場する。



以前、エマニュエル・トッド「シャルリとは誰か?」を読んだ時に調べた、フランスの行政区分図など

小アンティユ諸島、マルチニック、グアダループと、アングイラの南にあるサン・マルタン、サン・バーソロミュが、フランス海外領である、アングイラ島は、イギリス海外領、以前、訳出した英国「ブラック・パンサー」草創期のナイジェリア出身の活動家、に関する記事、に、アングィラ島分離独立運動への、イギリス軍の出兵に抗議するデモの写真があったのを思い出した。



Like the Nuvel Frans police station needs the vantage point of where the road up from Surinam and the road up from Maybur meet and makes an upside down Y with the road up to Kirpip, so Mohun Jab Brakonye, the poacher, surnamed Janaka, needs the same privileged spot.
The Rape of Sita/Lindsey Collen
ヌーベル・フランの警察署が、スリナムから上って来る道路、メイブルから上って来る道路が出会い、「Y」の文字をひっくり返した形で、キルピップに向かう道路につながる、という有利な場所を占めている必要があるのと同じく、モフン・ジャブ・ブラコニエ、密猟者、ジャナカの姓を持つ、もまた、同じような特権的な場所を必要としたのである。
「レイプ・オブ・シータ」リンゼイ・コルン

早速探してみる(笑)、下の略史に見るように、この島は、ヨーロッパの数多の国々が植民地化してきたようだから、地名の言語的な起源も、錯綜しているのであろう、そのまま「検索」してもなかなか見つからなかったが、まず、「Surinam」はあった、南米の旧オランダ植民地スリナムSuriname、と似ているから、オランダ語起源だったりするのだろうか?、ならば、これを「逆Y字」の一つの足として、他の二点を捜せばよいのである、もちろん、可能性は二つありうるが、・・・、「Nuvel Frans 」は、「Nouvelle France」であろう、スリナムの北北東に発見、ならば、今度は、その南東方面に、「Maybur」に似た綴り字の場所を探せばよいことになる、「Mahebourg」でどうだろう?ならば、「逆Y字」の北側の突端にあたる、「Kirpip」、は、ほら、「Curepipe」が見つかった!
小説中で筆者が採用している地名表記は、上にも見たように、どうも、モーリシャン・クレオール、それは基本的には、「話し言葉」なのだから、フランス語起源のものであっても、聞こえたままに綴り字にするから、語尾の子音は黙字、などと言う、「書き言葉」固有の、「文明」的な装飾が除去されているようであることが、呑み込めてきた、もう少し探索を続けてみる。
And so it was that in 1946 he and Extra Large sold half their inheritance caneland from Plenn Mayan and bought the wide thin bit of land just behind the police's back at Nuvel Frans.
The Rape of Sita/Lindsey Collen
それで、1946年、彼とエクストラ・ラージは、遺産相続で得た「プレン・マヤン(プレンヌ・マニエンPlaine Magnien)のサトウキビ畑の半分を売却して、ヌーベル・フランスの警察署裏の細長い土地を買ったのだ。(p.14)
「レイプ・オブ・シータ」リンゼイ・コルン
One day when Sita was four years old, Doorga took her around to Suyak to the bit of rockey beach just on the other side of the river mouth.
The Rape of Sita/Lindsey Collen
シータが四歳のときのある日、ドゥールガは彼女を「スィヤックSouillac」のあたりの岩だらけの海岸に連れて行った、ちょうど河口の反対側にあたる場所だ。
「レイプ・オブ・シータ」リンゼイ・コルン
「ドゥールガDoorga」は「シータ」の母、彼女たちの生まれ故郷は、「スリナムSurinam」だから、入江をはさんだ反対側、の「Souillac」が「Suyak」であろうかと思う。
モーリシャスの首都ポート・ルイスPort Louis、もとより「ルイ(王)の港」の意だろうが、フランス語で読めば、語尾の子音は黙字化、「oui」の綴り字が、「はいyes」の「ウィ」と同じと思えば、その発音が、「ポー・ルィ」と聞こえようとは、素人でもわかる、物語に何度も登場する「Porlwi」が、大きな町を表わしていそうなのに、地図で検索しても見つからない、・・・、何のことはない、これが、「ポート・ルイス」の「モーリシャン・クレオール」表記だったのだ。
I took up my job as Librarian in the Parliamentary Library in Porlwi, and when I looked around the place, it was full of hostile people and I felt lonely.
...
I had to do some unpaid overtime, a night shift, at the Library because there was a Commonwealth Conference the next week. I had to walk through the Company Gardens.
...
It was Dharma. He had caught sight of the posse of order-keepers charging out of their car down Lasose, and had gone and stood at the corner and watched the confrontation.
...
'A cup of tea?' Dharma asked her. 'You did very well.'
'Be nice. But I'm late. A meeting in Plenn Vert.'
The Rape of Sita/Lindsey Collen
ポールィ(ポート・ルイス)の国会図書館で司書の仕事に着いたのだけれど、まわりを見ても、なんだかとげとげしい人々ばかりに思われ、私は孤独だった。
・・・
翌週「イギリス連邦会議」開催が予定されていたので、図書館でも、手当のつかない残業、夜勤をしなければならなかった。私は、カンパニー・ガーデンズ(カンパニエ庭園/Les Jardins De La Compagnie)まで歩いていかねばならなかった。(p.73)
・・・
それはダルマだった。彼は、秩序維持派の集団が、ラソセあたりで車から降りて走っていくのを目撃、だから角の所に立って、その対決を眺めていたのだ。
・・・
「お茶でも一杯、どう?なかなかお見事でした」、と、ダルマは彼女に言う。
「ありがとう。でも、遅刻なの。プレン・ヴェール(プレンヌ・ヴェールPlaine Verte)で会議なの。」
(p.77-78)
「レイプ・オブ・シータ」リンゼイ・コルン
前半は「ジョジョ・トゥリーボフンJojo Treebohun」の語り、まだ途中だから展開がわからないが、どこに行っても「余所者」感に苛まれている「抑鬱」体質(笑)に共感が持てたので。後半、「プチブル」青年たちが、自分のピカピカの車に触ったと言って、老人に暴行をふるおうとしている場面で、「シータSita」がそれに立ち向かう、それを「ダルマDharma」が目撃する、という場面。その調子でいけば、「ラソセLasose」も、「La Source」あたりでは?と見当つけたのだが、モーリシャスの他の町にそういう地名は見つかったものの、この文脈から見る限り、ここはポールィ、ポート・ルイスのようなので、そこでは発見できなかった。「シータSita」という名前は、母親が、「sister」の意味を込めてそう呼んでいた、とあるから、本名ではない、社会党から分派して新組織を結成する、とか、セイシェルでの女性大会に出席する、とかの記述から見れば、著者本人を投影している部分があるのだろうが、そこで、疑問が生ずるのは、一体、これらの登場人物の、「エスニック・バックグラウンド」は、どうなっているのだ、雑な言い方をすれば、「何人」なのだ?「ダルマDharma」という言葉は、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教、シーク教等に由来する言葉、もちろん日本語の「達磨」の語源であろうが、ということは、この人物が、モーリシャスの人口構成の中での多数派、「インド系」であることをうかがわせる。下に再掲するが、前に訳出した南アフリカからの二つの記事、二つめの方、ANCの指導者の一人アーメド・カトラーダは、インド系のムスリムであるし、一つめの方の記事の筆者も、同じく、かつてインド洋を季節風に乗って渡って移住してきた人々の末裔のようである。リンゼイ・コルンのディエゴ・ガルシアに関する上の記事にも、モーリシャスについて、V.S.ナイポールが書いている、との指摘があったが、その書物、「The Overcrowded Barracoon and Other Articles (1972)/V. S. Naipaul」、まだ京都にいる頃、もう三十年ほど前だろうな、おそらく、丸善の「はんぱ物」のワゴンで安売りされていたのだろう、そのペーパーバックを手にして少しは読んだはずなのだ、今よりずっと英語が読めなかったから(笑)、ほとんどわからなかったが、ただ、世界、いや、いわゆる「第三世界」の、いたるところに、「インド人」コミュニティが存在しているらしいことだけは、知ることができた記憶がある。ナイポールV. S. Naipaul(1932-2018)自身は、トリニダッド・アンド・トバゴ生まれ、のインド系であるが、例えば、ストークリー・カーマイケルの故郷でもあるこの国の人口構成は、インド系、アフリカ系が、それぞれ、35パーセントずつ、なのである。ところで、「Barracoon」は奴隷運搬船の船倉に由来する言葉のようで、「収容所」の隠喩として用いられる、とのこと、アディーチェ「アメリカーナ」のイフェメルが、鮮やかにこき下ろしていたから(笑)、むしろ読みたくなってしまう、同じくナイポールの「A Bend in the River」、これは、モブツ・セセ・セコ時代のザイールを舞台にしているらしいが、「独立」後の「第三世界」諸政権の腐敗を断ずる返す刀で、「植民地主義」へのノスタルジーをかきたててしまっているのは、彼、「インド系」たる、ナイポールが、「黒人」よりは「白人」に近い存在でありたい、という「願望」の表出なのだ、と、イフェメルは、見事に認定するのである、・・・。
身代金と引きかえに、夕食のテーブルに座らされたみたいな感じ/イシャイ・ゴベンダ―ユンパ2019/12/13アル・ジャジーラ
アーメド・カトラーダ、反アパルトヘイトの老闘士は、2015年の学生運動のピケット・ラインの「こちら側」にいた/ジャマイン・クリーゲ2017/03/31アル・ジャジーラ
A Bend in the River(1979)/V. S. Naipaul

ポート・ルイス、モーリシャス

ポート・ルイス、モーリシャス
Lasose=La Chaussée
Montayn Sinnyo=Signal Mountain(Montagne Signe)
Rogers & Co

モーリシャス
フランツ・ファノン「黒い肌、白い仮面」第4章、オクターブ・マノニというフランスの、ラカン派の精神分析学者が、植民地主義者の心理を表わすものとして、「プロスペロ・コンプレックス」なる概念を提起しているらしい、ファノンは、その分析を、パターナリステックであるとして批判しているのだが、その縁で、まず、シェークスピア「テンペスト(あらし)」を読み始めた、確かに、プロスペロという魔法使いと、彼に捕らわれたまま酷使されている「召使」のカリバンの関係は、「奴隷所有者」と「奴隷」のそれの隠喩と読めなくもない、シェークスピアがこの作品を書いたのは、1610年ないし1611年、とのこと、モロッコ大使のロンドン訪問にインスパイアされて「オセロ」を書いてからすでに十年、彼は、「黒人」を見・て・い・る・、のである、ファノンの批判にもかかわらず、マノニのこの解釈は、シェークスピア理解に影響を及ぼしたようで、カリバンと、もう一人の「召使」の妖精、エーリエルが、植民地主義者のパターナリズムに対する、黒人の二つの異なる応答である、との読み込みが一般化したとも言われる、昔、「ポスト・モダン=ニュー・アカデミズム」の文脈でたいそう評判になったから、観に行ったけれど、多分半分以上居眠りしていて何も覚えていない、デレク・ジャーマンの「テンペストThe Tempest(1979)」、今なら、少しは違った感想が持てるかも、・・・、

その話は、またのちに続ける予定、ここでは、そのマノニが長年マダガスカルに在住、植民地主義者/原住民の心理分析の基礎は、そこでの見聞に支えられているらしいことを知り、マダガスカルの地図を眺めていたら、モーリシャスが目に入った、ファノンの故郷マルチニックと同じ「フランス海外領」レウニオンも、その西側に並んで、・・・、そこで思い出した、あれは、もう、「セプテンバー・イレブンス」への「報復」としてのアフガニスタン侵略が始まっていたのだから、2001年、「うつ病」発症の直前だが(笑)、私は、まだ、辛うじて(笑)、「ネット・平和運動家」だったのだろう、ハワイの反基地運動のメーリング・リストから送られてきたものの中に、こんな記事を見つけ、訳出して掲載したのだった、その記事を書いた人が、リンゼイ・コルン、私の訳文の中では、名前を読み間違えているけどね(笑)、その記事が、これ、モーリシャスの本島を離れること北東に1000km以上だろうか、チャゴス諸島、その南東の環礁、ディエゴ・ガルシア島の、基地建設、住民強制移住の物語である、・・・、
ディエゴ・ガルシアという島、そして、B52とあなたとわたし
その筆者の作品だとういうことで、アマゾンで洋書を注文する、などと言うことがその頃もう、できたのか記憶にないが、ともかく、一度は読んだはずだが、ほとんど記憶にないこの書物を、読み直すことにした訳だ、最初の引用は、その、ほぼ冒頭部分、だから、これも、まだ、続くはず、いや、「残り時間があれば」、ね(笑)。
Lindsey Collen(1948-)、南アフリカ生まれ、モーリシャス在住、「Lalit de Klas/Class Struggle(階級闘争)」という政党に所属、この政党は、はっきりしないが、第4インターナショナル・トロツキスト系のようである。あちこちの記事を探索した結果発見したこの人の写真を見る限り、「白人」のようである、南アフリカ出身であるから、アフリカーナー系かイギリス系か、そこまではわからないけれども、下に見るように、モーリシャスでは、ごく、少数派に所属することになる。

マダガスカル、レウニオン、モーリシャス、セイシェル、モルディブ、チャゴス諸島、イギリス領インド洋(ディエゴ・ガルシア)
Mauritius

  • モーリシャスの歴史
    1507年、ポルトガル人による「発見」
    1598年、オランダ人上陸、「オラーニュ公マウリッツMaurits van Oranjeにちなんで、モーリシャスと命名
    1638年から、オランダ人植民開始、サトウキビ導入、コクタンEbony(カキノキ科)伐採、1710年、植民地放棄
    1715年から1810年、フランス領モーリシャス
    1810年から1968年、イギリス領モーリシャス
    1965年、イギリス、ランカスター会議において、モーリシャス植民地を独立させる意向を表明、同時に、チャゴス諸島をモーリシャスから分離して、「英領インド洋(BIOT)」を形成
    1968年、英連邦内で独立
    1969年、「モーリシャス急進運動Mauritian Militant Movement(MMM)」結成
    1971年、MMM、労働組合の支援を受けて港湾ストライキ、「労働党Labour Party」-「社会民主党PMSD (Parti Mauricien Social Démocrate)」 連立政権は、戒厳令でこれに応える
    1975年5月、モーリシャス大学University of Mauritiusにおける学生反乱、ポート・ルイスのグランド・リヴァー・ノース・ウエストの橋上で、警官隊と激突
    1976年12月総選挙、労働党―「ムスリム行動委員会(Comité d'Action Musulman/CAM)」連立政権、のち、社会民主党PMSDと連立
    1982年、 「モーリシャス急進運動(MMM)」-「モーリシャス社会党Parti Socialiste Mauricien(PSM)」連立政権、MMM党首アネルード・ジュグノートが首相、首相が非同盟会議でニューデリー出張中に、政権内の内紛、ジュグノートの要請で、インディラ・ガンジーのインド政府、クーデター防止のため派兵
    1983年、PSM解散、ジュグノートの新党「急進社会主義運動Mouvement Socialiste Militant(MSM) 」に合流、MSM―労働党―社会民主党PMSD連立政権
    1992年、共和国宣言

「レイプ・オブ・シータ」の登場人物は、そのほとんどが、「左翼」の活動家のようなので、その時代背景たる、70年代、80年代の、目まぐるしい党派闘争の詳細にも触れておいたのだ、著者自身の所属する「Lalit de Klas」は、1981年に、MMMの新政策を資本主義への歩み寄りだ、と批判して分離したといういきさつを持つ、おそらく「極左」派、なのである。

  • モーリシャスの言語構成
    モーリシャス・クレオール、84%
    英語、フランス語がともに、事実上の公用語
  • モーリシャスの宗教構成
    ヒンズー教48.54%
    カトリック26.26%
    その他のキリスト教6.45%
    イスラム教17.30%
  • モーリシャスの人種構成
    インド系モーリシャス人Indo-Mauritians、インド人労働者の子孫、ヒンズー教徒、およびイスラム教徒、約70%
    モーリシャス・クレオールMauritian Creoles、アフリカ、マダガスカルから導入された奴隷の子孫descendants of Afro-Malagasy slaves、25%
    フランス系モーリシャス人Franco-Mauritians、フランス人植民者の子孫、2%
    中国系モーリシャス人Sino-Mauritians、中国(客家)系、3%


オーストロネシア語族Austronesian languages分布図、マダガスカルの主要言語、マラガサイ語(マダガスカル語)Malagasy languageが含まれる。

Tropic of Capricorn、は「南回帰線」

上の引用文中に、「チャゴス諸島、すなわちディエゴ・ガルシア、ペロス・バノス、サロモン島のすべての住民は追い出されました/All the people were spirited off all the Chagos Islands: Diego Garcia, Peros Banos, and Salomon」、とあるが、これは、環礁からなるこれらの島々のうち、人が住んでいたのが、この3島に限られる、という含みなのであろうかと思う、wikipediaなどを参照しても、どの島が「有人」であるかははっきりしない、ただ、この図面↑で「Dry Land」、つまり常時海面から上に出ている部分、がある島は、上の3島以外に、エグモント諸島Egmont Islandsしか見当たらないようにも思えるので、・・・、

これはディエゴ・ガルシア島の航空写真だが、地図と照らし合わせてみると、これは北の方角から撮影されたものと思われ、広い礁池を囲む細長い陸地、つまりこれが「リーフエッジ」なのだろう、のうち、西側、の方がより広く、おそらくここに、滑走路などの基地施設が置かれているのだと思われる、現在この島には、アメリカ、イギリス両軍の、軍人、軍雇用者、のみが居住し、そのための商業活動は存在するものの、食料、日用品等は、すべて外から持ち込まれ、何らの「生産」も行われていない、とのこと。軍雇用者には、モーリシャス人、インド人、フィリピン人等が多数を占めるようである。「人が住んでおらず、従って、そ・れ・ら・に考慮する費用をかけずに『自由使用』できる基地」、「軍事的理性」というものにとっての究極的な理想形なのであろうということが、わずかなりとも、想像できる気がするのは、私が「沖縄」に住んでいるからだろう、辺野古のゲート前であろうが、瑞慶覧の総司令部前であろうが、「私たち」の前に姿を現し、冷笑的に「肩をすくめて」さえ見せかねない(笑)、軍人たちの姿からは、「どうしてお前たちは、そんな『問題』を起こしたがる?誰も、お前たちにこ・こ・に・住・ん・で・く・れ・と頼んだ覚えはないぜ?」、といった言葉が、聞こえてくるような気がするからだ。ディエゴ・ガルシア島以外の二つの島、図面では、まず、サロモン諸島Salomon Islands、が右上端、5.5S-72Eあたり、ぺロス・バノス環礁Peros Banohos Atoll、がその左側、つまり西側、からも、住民を排除したイギリスないしアメリカの意図が、どこにあったのかは、今のところ突きとめられていないけれども。

違った、モーリシャスからチャゴス諸島まで、計算すると2000km以上になるようだな、もっとも、1000kmにしても、2000kmにしても、私には同じく想像の及ばない距離ではあるが、・・・。
モーリシャスの名称は、「ムーア人」の由来となったモーリタニアとは無関係のようだな、それから、これもまた機会があれば(笑)、書きたいのだが、グレアム・グリーン「ヒューマン・ファクター」、「スパイ小説の金字塔」などと言われているが、それはよくわからない、ただ、「『人間の顔をした共産主義』を、少なくとも一度、私は目撃したのである」確か、そんな表現で、アパルトヘイト下の南アフリカから、危険にさらされた一人の「黒人」女性を「ロレンソ・マルケス」へ脱出させたおそらく「白人」の、南アフリカ共産党員にして、ソ連の「スパイ」、後に獄中死することになる人物への、敬意を、忌憚なく表出している部分に、感動したので、・・・、「Lourenço Marques」は、モザンビークの首都マプトMaputoのポルトガル植民地時代の名称、南アフリカからインド洋を渡ってインドにいたる距離はどれぐらいなのか、と思い、その西の起点にマプトを選んでみたから、思い出したまで。

「私はカースンが好きだった」
「ええ、わたしも信頼していた。彼の友だちよりずっと信頼できたわ。ロレンソマルケスであなたがわたしを待っていたあの週、彼と議論する時間がたっぷりあったの。わたしはよく、彼は本物のコミュニストじゃないって言った」
「なぜ?党員だったのに。トランスヴァールに残っていた最古参の党員の一人だった」
「もちろん、わかってる。でも党員は山のようにいるでしょう?サムのことだって、あなたに何も話していないうちに彼には話したの」
「人を引き寄せる力があった」
「わたしの知っていたコミュニストは、ほとんどみんな押すばかりで、引くことがなかった」
「それでもセイラ、彼は正真正銘のコミュニストだったんだ。ローマカトリック教会がボルジア家の時代を生き延びたように、彼もスターリン時代を生き延びた。彼のせいで私は共産党を見直したほどだ」
・・・
人々がプラハやブダペストについて語り、共産主義には人の顔がないというとき、私は黙っている。私は一度、人・の・顔・を見たことがあるからだ。もしカースンがいなかったら、サムはどこかの刑務所で生まれていただろうし、君もそこで亡くなっていただろうと自分に言い聞かせる。ある種の共産主義が―というか、ひとりのコミュニストが―君とサムを救ったんだ。聖パウロと同じくらいマルクスもレーニンも信じていないけれど、感謝する権利はあるだろう?」
「ヒューマン・ファクター」グレアム・グリーン(ハヤカワepi文庫)
・・・
それから、やはり、ソマリアのモガデシュからセイシェルまでの距離を調べようとして、モガデシュの関連で思い出したのでメモしておく、古本チェーン店で、投げ売り価格で売られていたので、こんな本を読んだ、またのちに書くかもしれないが、まずは備忘のために、・・・。
「人質460日」アマンダ・リンドハウト 、サラ・コーベット(亜紀書房)

モーリシャス島と沖縄本島を同縮尺で並べてみることも、やってみた、キルピップからメイブルまで、那覇から沖縄市、くらいの感じである、という具合に、ちゃんと「距離感」が、つかめるじゃないか(笑)。

Africa was my home, had been the home of my family for centuries. But we came from the east coast, and that made the difference. The coast was not truly African. It was an Arab-Indian-Persian-Portuguese place, and we who lived there were really people of the Indian Ocean. True Africa was at our back. Many miles of scrub or desert separated us from the upcountry people; we looked east to the lands with which we traded - Arabia, India, Persia. These were also the lands of our ancestors. But we could no longer say that we were Arabians or Indians or Persians; when we compared ourselves with these people, we felt like people of Africa.
アフリカは私の故郷だ、何世紀にもわたって、私たち家族の家だった。でも私たちは、東海岸の出身で、それは、実は重要なことなのだ。東海岸は真の意味でアフリカではない。それは、アラブ、インド、ペルシャ、ポルトガル、それらが混淆した土地で、そこに住む私たちはと言えば、実のところインド洋の民、としか言いようのないものなのだ。真のアフリカは私たちの背後にある。何マイルもの藪や砂漠が、私たちと、その内陸の民とを隔てている、東を見れば、そこには、私たちが交易した人々の土地がある、アラビア、インド、ペルシャ。これらの土地は、また、私たちの先祖の土地でもある。しかし、私たちはもはや、自分たちのことを、アラビア人だとか、インド人だとか、あるいはペルシャ人だとかは言えないのだ、私たちが、自分たちをこれらの人々と比較して言うとき、私たちは、自分たちがアフリカの民だ、と感じるのである。
My family was Muslim. But we were a special group. We were distinct from the Arabs and other Muslims of the coast; in our costoms and attitudes we were closer to the Hindus of north-western India, from which we had originally come. When we had come no one could tell me. We were not that kind of people. We simply lived; we did what was expected of us, what we had seen the previous generation do. We never asked why; we never recorded. We felt in our bones that we were a very old people; but we seemed to have no means of gauging the passing of time. Neither my father nor my grandfather could not put dates to their stories. Not because they had forgotten or were confused; the past was simply the past.
私の家族はムスリムだ。しかし、私たちというのは、ある一つの特別なグループだったと言える。海岸地帯のアラブ人やその他のムスリムと、私たちは異なっている、私たちの習慣や振舞い方は、北西インドのヒンズー教徒にどちらかというと、近い、その土地こそ、私たちの祖先がそもそもやってきた土地なのだが。それがいつのことなのかは、誰にも分らないけれども。私たちは、その種の人間とは違う。私たちは、ただ、生きてきた、ただ、望まれることをやってきただけだ、先行する世代がやってきたのを見て、それと同じことをして来ただけだ。私たちは、何故か、とは決して問わない、私たちは、決して記録しない。私たちは、骨の髄から、自分たちがとても歴史のあるものたちだと感じているが、しかし、時間の経過を測る方法は、何もない。私の父も、私の祖父も、彼らが語る物語に、日付を付すことができない。彼らが忘れてしまったからでも、混乱しているからでもない、過去は、単に、過去、過ぎ去ったもの、でしかないのだ。
I remember hearing from my grandfather that he had once shipped a boatful of slaves as a cargo of rubber. He couldn't tell me when he had done this. It was just there in his memory, floating around, without date or other association, as an unusual event in an uneventful life. He didn't tell it as a piece of wickedness or trickery or as a joke; he just told it as something unusual that he had done - not shipping the slaves, but describing them as rubber. And without my own memory of the old man's story I suppose that would have been a piece of history lost forever. I believe, from my later reading, that the idea of rubber would have occurred to my grandfather at the time, before the First World War, when rubber became big business - and later a big scandal - in central Africa. So that facts are known to me which remained hidden or uninteresting to my grandfather.
祖父が語ってくれた物語の一つ、を記憶しているが、それは、彼が一度、船一杯の奴隷を、ゴムの積み荷として運んだことがある、というものだ。それがいつのことなのか、祖父は言うことができなかった。それはただ彼の記憶の中に、日付も、また、他の出来事との関連もなく、浮遊しているかのようだったのだろう、さしたる事件もなかった人生の中の、一つの特異な体験として。彼は、その話を、一つの悪徳の物語であるとか、偽装工作であるとか、はたまたジョークとして語ろうとしたわけじゃない、彼はただ自分の関係した何か異常な出来事について語ったに過ぎない、奴隷を輸送したことが異常なのではない、それをゴムの積み荷、と形容したことが異常なのである。この老人の語りについての私自身の記憶がなければ、それは、永遠に失われてしまう歴史のひとかけらとなってしまったであろうと思うのだ。のちになって書物から得られた知識を補ってみると、多分こういうことだ、祖父の頭の中にゴムという観念が生じたのは、第一次世界大戦前の当時、中央アフリカにおいて、ゴム生産は巨大産業であり、のちには、また、巨大なスキャンダルともなっていたからだ。祖父の頭の中では、隠されており、また興味深いものとも思われていなかったものが、私に伝えられることによって、明らかになったのだ。
Of that whole period of upheaval in Africa - the expulsion of the Arabs, the expansion of Europe, the parcelling out of the continent - that is the only family story I have. That was the sort of people we were. All that I know of our history and the history of the Indian Ocean I have got from books written by Europeans. If I say that our Arabs in their time were great adventures and writers; that our sailors gave the Mediterranean the lateen sail that made the discovery of the Americas possible; that an Indian pilot led Vasco da Gama from East Africa to Calicut; that the very word cheque was first used by our Persian merchants - if I say these things it is because I have got them from Europen books. They formed no part of our knowledge or pride. Without European, I feel, all our past would have been washed away, like the scuff marks of fishermen on the beach outside our town.
...
アフリカにおける激動の全期間、アラブ人の排除、ヨーロッパの拡張、大陸の分割、それらの時代こそが、私の有する家族の物語のただ一つのものである。それが私たちという人間をつくっている。私たちの歴史、インド洋の歴史について、私が知っていることのすべては、ヨーロッパ人によって書かれた書物から得られたものだ。往時のわがアラブ人たちが、偉大な冒険家であり、著述家であったと言うとき、また、わが船乗りたちが地中海の民に伝えた大三角帆こそが、アメリカ大陸発見を可能にしたのだ、と言うとき、あるいは、インド人の水先案内人が、ヴァスコ・ダ・ガマを東アフリカからカリカットへと導いたのだ、と言うとき、さらには、そもそも「小切手」なる言葉を最初に用いたのは、わがペルシャ人商人なのだ、と言うとき、私は、それらの事実を、ヨーロッパの書物から仕入れたからこそ、言えるのである。これらの人々自身は、私たちの知識や誇りのうちの、何ほどの部分をも形成していないのである。ヨーロッパ人がなければ、すべての私たちの過去は、町はずれの海岸の漁師の残した足跡のように、洗い流されてしまうだろう、としか、私には思えないのである。
A Bend in the River/V. S. Naipaul
「河の湾曲部」V.S.ナイポール

「ヨーロッパ人がなければ」の部分を、額・面・通・り・に・読めば、確かに、自分はヨーロッパ人ではないにもかかわらず、ヨーロッパ中心主義の方に身を寄せようとする、この作家の性向は明らかではないか、と、「鬼の首でも取ったように」、言い触らすこともできるだろうが、こんなわずかな資料でそんな断定をするような、はしたないことはしないでおこう、ただ、こんな口ぶりに、イフェメル、すなわち、アディーチェ、をはじめとする「本物の」アフリカ人が、苛立ちを感じるかもしれないだろうことは、想像はできるような気がする。書き残しておこうと思った理由は2点、一つは、アフリカ西海岸に比べて、東海岸には、ヨーロッパの影響は、はるかに遅れてやってきた、アラビア湾を隔ててすぐの所に位置しているソマリアやザンジバルなどが、アラブ人商人の拠点であり、また、インド洋を渡ってきたインド人も多く居住していた、ヨーロッパの影響と言えば、喜望峰を越えて、モザンビークの現マプート、「ロレンソ・マルケス」に拠点を持っていたポルトガル人くらいであった、ということを、確か、カール・ポランニーだったか、どれだったか、他の書物でも最近になって、読んだ記憶があったからだ、まさに、それは、ヨーロッパ人が関与していないからこそ、我々の目にする歴史書の中に多くのページを割くことがなかっただけで、これらの地域間に活発な交流があったとしても、少しも不思議はないことに、「遅まきながら」気付いたから、・・・、もう一つは、ここで「スキャンダル」とされているは、コンゴ川上流域に、広大な生ゴム・プランテーションを拓き、ヨーロッパ諸帝国主義者の標準から見ても、あまりにも残虐な「原住民」支配を行ったベルギー王レオポルド二世の「コンゴ自由国」を指しているのであろう、アリス・ウォーカー「カラー・パープル」で、宣教師となったネッティーが赴任する西アフリカの奥地とおぼしき土地では、ゴム・プランテーションの土地確保のために、住民の強制立ち退きが行われる様が描かれているが、物語上、それが第二次世界大戦末期とも読めるので、少し時代が合わないのでは、と考えたまま、放ってあったのを思い出したから。
・・・
二十年前、「セプテンバー・イレブンス」直後にして、私自身の「うつ病」発症(笑)直前、まだ「ネット平和運動家」気取りで、メーリング・リストで送られてきた記事を翻訳して、自分のサイトに掲げておいたのだ、フランツ・ファノンが批判したラカン派の精神分析家が長らくマダガスカルで研究していた、ということから、地図を眺めていて、「モーリシャス」という名前に、古い記憶が呼び覚まされたのだろう、この記事の著者であるリンゼイ・コルン、記事の中で私はこの名前を誤記しているが、の小説、「レイプ・オブ・シータ」を、そのとき買ったまま放置してあったのを、読み直すことにした機会に、ささやかなりと言えども、そんな記事を公開した「責務」を、遅ればせでも果たさねばと、古い記事を探し出して、訳出してみた、幸か不幸か、「遅ればせ」であっても、その地の「問題」は、「解決」には、いまだ遠い道のりであることを、改めて知る。





黄色と茶色の矢印が「貿易風trade winds」、ブルーが、「偏西風westerlies」
赤道付近で強い日射により上昇気流が生じる、海面地表面附近は空気が希薄になり、上層では濃厚になる、この過剰な空気塊が、南北両極に向かって流れる、前にも見たように「コリオリの力」は、「進行方向右向き」に作用するので、北半球では「時計回り」、南半球では「反時計回り」、いずれも東向きに進路を変え、円環を描く、南北それぞれ緯度30度あたりが、その円の突端になるようで、ここから先、今度は、赤道付近の海面地表面附近の空気が希薄になった部分に向かって、下降流となって吹き込む、やはり「コリオリの力」が作用するから、北半球では、北東から南西に向かう風、南半球では、南東から北西に向かう風、これが、「貿易風trade winds」で、「偏西風Westerlies」の方の説明は、用語が難しくて(笑)、よくわからなかったが、「貿易風」で生じた空気塊の移動を、反対方向の移動によって補い、循環させているのだ、と理解してよいのだと思う。これに対して、「季節風/モンスーンmonsoon」、アラビア語の「季節」を意味する言葉、
موسم
に由来するという、の原理は、「海陸風」と同じで、海洋を構成する水の「比熱」、1[cal/(g・℃)]、すなわち、4.184×103[J/(kg・K)]は大きく、温まりにくく冷えにくいが、大陸を構成する土は「比熱」が小さく、土と言っても様々だが、おおむね1~3[J/(kg・K)]のようである、温まりやすく冷えやすい、従って、夏季には、大陸上で上昇気流が生じ地表面附近の空気は希薄になる、そこへ海洋からの風が吹き込む、反対に冬季には、むしろ、海洋上の方が暖かいので、大陸から海洋へと風が吹く。ならば、今かりに、インドから、南アフリカに向けて帆船で旅立つことを想像してみると、冬にインドを出発すれば、「モンスーン」、北半球の「貿易風」双方を受けて赤道付近まで出るのは容易だが、南半球に入れば、西のソマリア方面に向けて流されてしまいかねない、さらに、アフリカ大陸に近づけば、「モンスーン」が逆風となって進路を妨げる、という具合に、「読む」ことができるのだな。
Monsoon
Trade Winds
Westerlies
久しぶりに、アラビア文字を「読んで」みよう(笑)、
موسم
アラビア語アルファベット
「24 miim」左接形مـ
「27 waaw」右接形ـو
「12 siin」左接形س
「24 miin」右接形م
で、どうだろう?ローマ字音訳が「mawsim」だから、当たっているんじゃない?



「プロスペロ・コンプレックス」談義に戻ろう。ここ↓でも引用したが、カール・ポランニーは「経済と文明」の中で、「間大西洋奴隷貿易」開始の日付は、ほぼ特定できる、として、アンティユ諸島バルバドスにサトウキビが導入された1640年を挙げている、・・・、
それに気づくのに二十年もかかるとは赤面の至りだね、「安里屋ユンタ」研究
それからすれば、そのおよそ三十年前に書かれた「テンペスト」のプロスペロ/カリバン関係を、奴隷所有者/奴隷関係の「隠喩」と読むのは、無理があることになる、いや、「読む」ことは「自由」だ(笑)が、ならば、そこで生ずる新たな疑問は、シェークスピアは、何をモデルとして、この「関係」を造形したのだろうか?サトウキビ・プランテーションが、安価な労働力を大量に要求し、それが、それまでとは桁違いの、組織的、計画的な「奴隷貿易」の開始を画することになるとはいえ、その以前にも、戦争捕虜、債務奴隷の形態は、存在していたのだろう?などと威勢よく書き始めたものの、「歴史」などと言うものを、それなりに学んできたつもりであっても、そんなことさえ、あまりはっきり知らない、という事実を「知らされる」ことになるのだな(笑)、疑問は疑問にとどめておく、そういえば、サトウキビ栽培の「労働集約性」、で思い出すのだが、二十年前、まだ名護に住み始めたばかりの頃、予備校で教えていた生徒さんたちは、「センター試験すんだら、『キビ刈り』のバイト行くさ」などと言っていたものだ、ちょうどこの季節なんだな、勉強ばかりしている、と言う訳でもないが(笑)、少なくともそれほど肉体労働にふさわしいような生活を送っている訳ではない彼らでも、十分役に立つほどの、「不熟練労働力」を、もちろん季節的にだけれども、要求する業種なのだな、どんな作業なのか、聞いておけばよかった、と悔やまれる、いや、「悔やまれる」原因は、もっと別なところにあったかもしれないから(笑)、こんなことが、ある種「切ない」思い出として、浮かび上がってきたのだけれども。
キャリバン (唸って)飯だけは食わせてもらいたいね・・・・・・この島は俺の物だ、お袋のシコラクスのだからな、そいつをお前さんが横取りしたのだ、始めのうちは俺を撫で廻して、結構大事にしてくれた・・・・・・木の実の入った飲物をくれもしたっけ・・・・・・色んなことを教えてくれたな、昼間強く光るのは何とかで、夜の弱い光り物は何とかってな、それで俺はお前さんが好きになって、この島の在りと在らゆる事を教えてやったものだ、清水の湧く処、塩の溜まる処、何処は荒地で、何処は肥えているという事まで。全く様は無いや・・・・・・シコラクスの呪いまで皆言ってしまった、蟇蛙、甲虫、蝙蝠、何でも彼でも、お前さんに取憑いてくれればいい!そうだろうが、お前さんの家来と言えば俺一人だが、元は俺が俺の王様だった、それを、こんな硬い岩の中に押籠めて、他は島中全部独り占めにしてしまいやがったのだからな。
プロスペロー 下司め、出たら目にも程がある、貴様を動かすには鞭に限る、慈悲では動かぬらしい、今日まで貴様を召し使こうて来たものの―ええい、その醜い姿は!―それを不憫に思えばこそ、私の岩屋に棲まわせて置いた処、何と貴様は私の大事な娘を辱めようとしおった。
キャリバン お、ほう、お、ほう!全く惜しい処だったよ!お前さんに邪魔されてしまってな―さもなければ、この島中キャリバン一族をはびこらせてやれたのだ。
プロスペロー 穢わしい、その心には一かけらの善も影を落とさず、悪には何にでも跳び附く、私も始めは哀れに思って、物が言えるようにと色々苦心したり、暇さえあれば、何か彼か教えてあげもした、あの頃のお前と来たら―全く手が附けられなかった!―自分の言いたい事も解らず、そこらの獣と一寸も変わりはしない、ただむやみに喚き散らすだけ、そういうお前に心に思う事を言い表す言葉を教えてあげたのは私・・・・・・でも、捻け者のお前には、折角、物を憶えても、心の優しい人たちと一緒に暮らす事が出来ない処があるらしい、だからこそ、この岩の中に閉じ籠めて置かねばならなかったのだよ、本当は牢屋でも軽過ぎる位なのだもの。
「あらし」シェークスピア、第一幕第二場(新潮文庫「真夏の余の夢・あらし」所収、福田恆存訳)
Cal. I must eat my dinner.
This island’s mine by Sycorax my mother,
Which thou tak’st from me. When thou cam’st first,
Thou strok’st me and made much of me, wouldst give me
Water with berries in’t, and teach me how
To name the bigger light, and how the less,
That burn by day and night; and then I lov’d thee
And show’d thee all the qualities o’ th’ isle,
The fresh springs, brine-pits, barren place and fertile.
Curs’d be I that did so! All the charms
Of Sycorax, toads, beetles, bats, light on you!
For I am all the subjects that you have,
Which first was mine own king; and here you sty me
In this hard rock, whiles you do keep from me
The rest o’ th’ island.
Pros. Thou most lying slave,
Whom stripes may move, not kindness! I have us’d thee
(Filth as thou art) with human care, and lodg’d thee
In mine own cell, till thou didst seek to violate
The honor of my child.
Cal. O ho, O ho, would’t had been done!
Thou didst prevent me; I had peopled else
This isle with Calibans.
Mir. Abhorred slave,
Which any print of goodness wilt not take,
Being capable of all ill! I pitied thee,
Took pains to make thee speak, taught thee each hour
One thing or other. When thou didst not, savage,
Know thine own meaning, but wouldst gabble like
A thing most brutish, I endow’d thy purposes
With words that made them known. But thy vild race
(Though thou didst learn) had that in’t which good natures
Could not abide to be with; therefore wast thou
Deservedly confin’d into this rock,
Who hadst deserv’d more than a prison.
THE TEMPEST, Act I Sc.II/William Shakespeare
下線部、ミランダの台詞となっているが、おや?ミランダはもう寝てしまっていたはず。
我々の善意に付け込んで、重要な事柄を全部聞き出したうえで、我々の土地をことごとく奪い取り、狭い「居住地」に押し込める、いや、君たちがあまりに惨めな状態だったから、慈悲を垂れてやったのに、なぜ反抗的な態度をとる?とりわけ、無知な君たちに「言葉」を与えてやったのに?・・・、なるほど、こうして書き出してみると、「先住民」と「植民地主義者」との、会話、としか見えなくなってくる、ほとんど、「予言」的とも言える気さえするが、アメリカ大陸「発見」からすでに一世紀は経ているから、「新大陸」での、「原住民」の有様についての、持ち帰られた見聞が、シェークスピアの耳に入っていた可能性はあるのかも知れないが、憶測でものを言うのは、このくらいにしておく。プロスペロの発言にもかかわらず、これ以前の場面で、カリバンがミランダに襲いかかった、という事実は、どこにも描かれていないように思われる、それとおそらく関連あると思うが、フランツ・ファノンが、こんな風に書いている、
マダガスカル人の心理を叙述したあとで、マノニ氏は、植民地主義の存在理由を説明しようとする。その途中で彼は、これまでにあったリストに、もう一つ新しいコンプレックス、「プロスペロー・コンプレックス」なるものを追加する。それは、「植民地的保護主義者の肖像」と、「娘が、劣等な人間によって(想像上の)強●姦の試みの対象とされた、人種差別主義者の肖像」とを同時に描き出す、無意識的神経症性向の総体として定義されている。
プロスペローとは、周知のとおり、シェイクスピアーの戯曲『嵐』の主人公である。これに対して、娘のミランダと、キャリバンがいる。キャリバンに対して、プロスペローは、南アメリカの人間がよく知っている態度をとる。彼らは、ニグロが白人の女に飛びかかる機会を待ち受けていると言わないだろうか?いずれにせよ、作品のこの部分において興味深いのは、植民地の使命の根本にあるかに思われる、うまく清算しきれない葛藤を、マノニ氏が把握させる仕方の強烈さである。実際、彼はこう書いて見せる。「プロスペローにおけると同じく植民地者に欠けているのは、彼の失ったものは、<他者>の世界、他者が尊敬される世界である。この世界を、典型的な植民地者は、現にあるがままの人間を受け入れることができぬため、棄て去り、追い出したのである。この逃走は、社会への適応も方向付けることに成功しなかった、小児的起源を持つ支配の欲求に結びついている。・・・
「黒い皮膚・白い仮面、四、植民地原住民のいわゆる依存コンプレックスについて」フランツ・ファノン(みすず書房、フランツ・ファノン著作集第1巻)
引用を途中で切ってしまったのは、そこから先の意味が、ちょっと取れなかったからだ、ここまでの部分を見る限り、マノニ氏の立論は、かなり的を得ているではないか、と私などは思ってしまうのだが、これもまた、後日の、「後日」があれば(笑)、課題としておく。
・・・
プロスペロー 嘘をつけ、この性悪めが。もう忘れたのか、魔女のシコラクスを、齢を重ね、邪心に凝り固まり、たがのように腰の曲がったあの鬼婆を?もう忘れてしまったのか?
エーリアル いいえ、決して。
プロスペロー いや、忘れたらしい。あの女はどこで生まれた?言え、今直ぐ・・・・・・
エーリアル はい、アルジェリアで。
プロスペロー おお、正にその通り、月に一度は昔の事を思い出させてやらぬと、何も彼も忘れてしまうようだな・・・・・・あの鬼婆のシコラクスめ、積悪事と、重ね重ねの、聞けば身の毛も弥立つ恐ろしい邪法の咎で、知っての通りアルジェリアを逐われた、が、唯一度の善行を認められ、死罪だけは免れたという……そうであったな?
「あらし」シェークスピア、第一幕第二場(新潮文庫「真夏の余の夢・あらし」所収、福田恆存訳)
Pros. Thou liest, malignant thing! Hast thou forgot
The foul witch Sycorax, who with age and envy
Was grown into a hoop? Hast thou forgot her?
Ari. No, sir.
Pros. Thou hast. Where was she born? Speak. Tell me.
Ari. Sir, in Argier.
Pros. O, was she so? I must
Once in a month recount what thou hast been,
Which thou forget’st. This damn’d witch Sycorax,
For mischiefs manifold, and sorceries terrible
To enter human hearing, from Argier
Thou know’st was banish’d; for one thing she did
They would not take her life. Is not this true?
THE TEMPEST, Act I Sc.II/William Shakespeare
ゴンザーロー どう見ても新調したばかりとしか思えませぬ、それ、アフリカで姫君のクラリベル様をテュニス王とお妻合めあわせになった時、始めて着用しましたのがそっくりそのままで。
・・・
エイドリアン 名高きダイドー、そう言われたな?お言葉だが、ダイドーはカルタゴの王女で、テュニスとは関係が無い。
ゴンザーロー 今のテュニスというのは、昔は、カルタゴだったので
「あらし」シェークスピア、第二幕第一場(新潮文庫「真夏の余の夢・あらし」所収、福田恆存訳)
Gon. Methinks our garments are now as fresh as when we put them on first in Afric, at the marriage of the King’s fair daughter Claribel to the King of Tunis.
...
Adr. “Widow Dido,” said you? You make me study of that. She was of Carthage, not of Tunis. Gon. This Tunis, sir, was Carthage.
THE TEMPEST, Act II Sc.I/William Shakespeare
下図は、紀元前264年の、カルタゴCarthaginian Empireの版図、現在のチュニスの北方の海岸に、遺跡があるのだそうだ、これは以前、フロイト「夢判断」、ローマの戦士たちよりもハンニバルに心惹かれていた、それは、カルタゴを建設した古代のフェニキア人Phoeniciaが、セム系、アフロ―アジア語族セム語派、つまり、「ユダヤ人」と同族であると感じられていたからなのだ、という記述があり、その時調べたから知っている。
「プラーター公園」の料理店、など・・・もう一人の「ユダヤ人」、ジークムント・フロイト「夢判断」、から

その、チュニスでの婚礼の帰路、ナポリ王が乗っているから、おそらくナポリに帰るんだろう、船が暴風雨に襲われ、無人島、と言っても、プロスペロをはじめ、何人かが住んでいるわけだが、に辿り着く、という「設定」なのである。チュニジアからイタリア、チュニジア側の半島の突端から、シチリア島なら、目測100kmばかり、ジブラルタル海峡を除けば、地中海が一番狭くなっている場所なのだな、第二次世界大戦末期に、連合軍が反撃開始の場所に選んだのも、また、今日、日々、中東、アフリカからヨーロッパを目指すたくさんの人々が、ゴムボートで渡ろうと試みるのも、そういう理由であったのか、と、地図を眺めて、いまさらのように、知ることになる。

シェークスピアの時代に先立つ時代の北アフリカ、マグレブ地域、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、は、この図のようだったようである。


16世紀に入ると、スペイン、オスマン・トルコとの抗争が激しくなり、モロッコを除いては、オスマン帝国に併合されるという経過をたどるようである。下図が、1566年の、オスマン帝国の版図。

「ムーア人」としての「オセロ」造形にインスピレーションを与えたと言われる、「モロッコ大使」のロンドン来訪は、アラブ系サアド朝のものであったことになるが、さて、「あらし」でシコラクスの故郷として選んだ「アルジェリア」に、シェークスピアはどんなイメージを抱いていたのであろうか?



2021年1月1日


20210103 001


「ない」ものを、「ない」と認識するためには、「ある」状態を思い浮かべられなければならない、そんなことを期待するのは、贅沢、というものだ(笑)、・・・。
プリンターも壊れてしまったので、「手書き」となると、何か気の利いたことを書かねばと思い(笑)、でも、もう二十年も、年賀状のやり取りだ・け・の関係なんだぜ、何にも思い浮かばない、そりゃそうだ、言及すべき「共通」のものが何もない、いや、なくても何にも差し支えないだけどな、そうやって、延ばし延ばしにしていたら、あれれ、もうこんな日付になってしまって、年賀状が来なくなったら、ああ、あの人死んだのね、と思われるかな(笑)?、いやいや、そもそも、「来ていない」ことに気付かれるとは限らないじゃないか?そこに「ない」ものを、「ない」と認識するためには、「ある」状態を思い浮かべられなければならない、そんなことを期待するのは、贅沢、というものだ(笑)、そうやって、そっと(笑)、「退場」していこう、ほとんど決断したんだが、待てよ(笑)、もし、来年も生きていたとしたら(笑)、わずか数枚のはがきが来ているかどうかをのぞきに、階段を下りて郵便受けを見に行く、というかすかな「楽しみ」さえなくなってしまうんだぜ、と想像すると、にわかにおじけづき(笑)、慌てて、押し入れから、昔、「バブル・エコノミー」の残り香が漂っているような時代、わかりもしないのに美術館とかに出向き、絵葉書を買うのが「趣味」であるかのような振りをしていたこともあった(笑)、そんなのがまだ残っているだろうから、引っ張り出して来て、えっと、切手はある?うん、ちょっと前、スマホが壊れて放置している間、お礼状を書かねばならなくなって、そのとき買った、63円だ、ということも郵便局の人に聞くまで知らなかった(笑)、引き出しをひっかきまわしても、まともなボールペン一本すら見つからなかったから(笑)、これもその時に買ったから大丈夫、さて、ちゃんと字・が・書・け・る・か・?も実は不安なので、まずパソコンで、文案を練り、別の紙に下書きをして、それから「清書」にとりかかろう、なかなか「大仕事」じゃないか?でも、そうやって「仕事」があるのもまた、「生きている意味」という意味で(笑)、ありがたいことではないですか?
プリンターが壊れてしまったのでと、
延ばし延ばしにしていたら、
こんな日付になってしまった。
押し入れから古絵葉書引っ張り出して、
遅ればせの(笑)、「謹賀新年」

年が明けて、初めて晴れた日じゃなかったかな?畑の畔に、発見、「春の七草・仏の座」=キク科タビラコ、ではない(笑)シソ科ホトケノザ、など。


旧暦十一月十八日の月、「居待」、月の入半時間前「有明」



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

アオアシシギ(シギ科)

ヒバリシギ(シギ科)

ヒドリガモ(カモ科)

ヒバリシギ(シギ科)







ホトケノザ(シソ科)



リュウキュウツバメ(ツバメ科)

旧暦十一月十九日の月、「臥待」、月の出一時間後

旧暦十一月二十日の月、「更待」、月の出三時間後


旧暦十一月二十一日の月、月の出二時間半後

旧暦十一月二十八日の月、月の出一時間半後

旧暦十一月二十八日の月、月の出二時間後
二十一日月から二十八日月まで、写真を撮ろうともしなかったのは、一日も晴れていなかったからだな、暦も分からなくなってきていたし、何より、年末以来の「寒さ」が応えて、確かに、「観測史上」何番目、とかいう冷え込みらしいことを後から聞いて、安心したが(笑)、もっぱら、「老衰」のせいで、観測器の方の信頼性が落ちているに違いない、と思えば、いっそう心も冷え冷えとして来て(笑)、毎年恒例の、月齢、干支、六曜、二十四節気、等々付きの「カレンダー」作製も、延ばし延ばしにしていたのを、やっと、今日になって、その、明け方、こんなか細い「クロワッサン、クレセント」を見つけることができたから、少し「生きる希望」が湧いたのであろう(笑)、作成したのだ、・・・、改良点としては(笑)、「黄道十二宮」を加えてみたことかな、正確じゃないが、毎月20日以降次の19日まで、と形式的に区切って、それを「VLOOKUP」関数で参照する、とかいうロジックに少し拘泥して、久しぶりの「プログラマ」らしい達成感に、ちゃんと、一日を、そんなどうでもいいことに費やすことができたのである(笑)、だから、「そんな、いつまで生きてるかわからないのに」という、いつもの囁き声も、しばし、忘れることができたらしい(笑)。

「黄道十二宮」と、「二十四節気」との対応。
山羊座/Capricorn・冬至―小寒
水瓶座/Aquarius・大寒―雨水
魚座/Pisces・雨水―啓蟄
牡羊座/Aries・春分―清明
牡牛座/Taurus・穀雨―立夏
双子座/Gemini・小満―芒種
蟹座/Cancer・夏至―小暑
獅子座/Leo・大暑―立秋
乙女座/Virgo・処暑―白露
天秤座/Libra・秋分―寒露
蠍座/Scorpio・霜降―立秋
射手座/Sagittarius・小雪―大雪
2021年カレンダー


2021年1月13日





コンゴ共和国、ザイール、コンゴ民主共和国、独立から現在までの略史、コンゴ民主共和国独立60周年の関連記事、マラウィの作家のエッセイから、チヌア・アチェベを思い出す



ここは「亜熱帯」だというのに、まるで「白夜」の国の人たちみたいに(笑)、わずかでも太陽が顔を出すと、さっそく「日光浴」を始めるのだ。


「心配したじゃないか?」という台詞が、しばしばそう聞こえる場合があるように、だから、これは、すぐれて「自己愛的」な、「パターナリステック」な振舞いなのである(笑)、・・・、と言ってみても「心配」が止む訳でもないけどね。


ノゲシ(キク科)

コサギ(サギ科)

ミサゴ(タカ科)

ムナグロ(チドリ科)





ミサゴ(タカ科)・幼鳥
年末から続いていた冷え込みが、この日あたりから「やや緩むでしょう」、という天気予報そのままに、太陽が顔を出し、布団の上で固まっていた猫たちも、窓際に移動し始めたし、ならば、こちらも、一つ、気持ちを奮い立て(笑)、外出でもしてみるか?今日は、旧暦十二月三日、昼過ぎに到着したから、潮目も絶好ではないか?、と、浅ましく(笑)気分も高揚していたところ、河口に広がる干潟から、上流へ向けて、いつものようにカメラぶら下げて歩いていると、路傍に、何か、鳩より少し大きいくらいの鳥が、とまっているのである、空を飛ぶべき鳥が、樹上でもなく、地上にいて、しかも、駆け出すでもなく、とまっている、それはすでにして何か「ただならぬこと」なのであって、弱った神経は、「ただならぬこと」などそう望んではいないから、まず、頭をよぎったのは、「しまった」、という後悔だったな、・・・、前にも同じ干潟で、もう五年くらい前になるのかな、クロツラヘラサギ(トキ科)の写真を撮っていて、その被写体が、ふいと向きを変えると、背中が真っ赤だった、・・・、大変なものを見てしまった、と動転し、ちょうどここよりもう少し北の方にある干潟の脇に、環境省の運営する「湿地・水鳥研究センター」があるのだけれど、そこに、携帯電話のインターネットのサイトで番号を調べて電話をかけた、・・・、そのときは、その真っ赤な背中、てっきり怪我をしていると思い込んだのは、この希少種の「渡り」の航跡の国際的調査のために発信機を積んでいるのだった、ということが判明して、ああ、よかったですね、すみません、早とちりで、と、「笑い話」ですんだのだった、・・・、そんなに近づかなくても、はっきりわかった、あの頭が白地に、黒い過眼線、ミサゴ(タカ科)、大きさからして巣立ったばかりの雛、近寄ったら動いてくれるだろう、と半ば「期待」したのだが、翼を広げそうなそぶりは見せたものの、もう、ほんの、この写真でもわかる通り、手を伸ばせば届きそう、というのは誇張だが、そのくらいに近づいても、動いてくれないのだ、巣から落ちてしまったのだろうか?こんなに近くで「猛禽類」を見つめるなんて、めったにない機会なのだが、そんなに「嬉しい」訳ではない、すっかり動転していたからね、それでも、子供らしい仕草が、なんて「愛らしい」とは感じたわけで、さればこそ、なお、「助けて」あげたいとは思うものの、しかしどうやって?これ以上近づけば、向こうも動転して、その強靭なくちばしや足指で、攻撃してくるに違いないじゃないか?そういう訳で、仕方がない、舗道の敷石に腰かけたまま、何年振りかで、同じところに、電話で救援を求めたのだった、・・・、「しかし、鳥が鳥ですからね」、捕獲するにしても、それなりの装備なり、プロフェッショナルの助力が必要、おりしもかの疫病で、「非常事態宣言」がまた出るか、と言った状況下で、そんな風に人を集めることができるだろうか?向こうの担当者も、ともかく、方々に連絡は取ってみますが、と確答は避けられたようで、「私はどうしましょう?」、いや、帰っていただいて結構ですよ、場所をもう一度詳しく教えてくだされば、・・・、ということに落ち着いたのだが、毎日、ベランダにやって来る野良猫たちが、今日は姿を見せてくれるだろうか?明日はどうだろうか?と、日々「心配」して暮らしている愚かな「うつ病」患者は(笑)、ここに動けない雛を「放置」して、立ち去るに忍びなく、本当は、一時間ばかり写真を何枚かとったら、後は、農協スーパーで野菜の買い出しをして、早々に帰る「予定」だったのだが、やむを得まい、一体「何を」待つのかもわからないけれども、ともかく「腰を据えて」待つことにし、そうして出来上がったのが、この「ヴィデオ」と言う訳。
・・・
昨日、「○○干潟でミサゴの幼鳥が道路脇で困っているようだ」と、お電話でお騒がせした、△△、と申します。わざわざ御足労いただき、ありがとうございました。
写真をお送りします。少し眼を離した間に、何か、鳴き声のようなものと、物音がしたような気がして覗いてみると、姿が消えていた、飛べるようになったのだろう、と、よい方向に考えることにいたしましょう(笑)。「猛禽」とは言え、「子供」らしい表情は、とても「愛らしかった」(笑)ので。
・・・
後日譚、と言う訳でもないが、つまり、上のような次第で、結局、その雛が、「飛ぶ」ところをしかと見たわけではないものの、どうやら「飛べた」らしいと、想定せざるを得ないのね、だいぶ長い間、近くの茂みを捜し歩いてみたけれども、見つからな・い・ことが、その証拠にはちっともならないものの、まだ「飛ぶ」ことに慣れていないから、「躊躇」していたけれど、でも、やってみたらうまく行った、ということなのだと辻褄を合わせることも出来るでしょう?
私は、この「困っている」のかもしれない雛鳥を、たまたま「見てしまった」から、「心配」になった、「心配」というのは、もともとそういうものなのだ、ということをあらためて思う(笑)、だって、「飛んだ」かどうかわからないけれど、当の「心配」の対象の姿が、こうして「見えなく」なってしまったら、もう、「心配」してみても、どうしようもない、のだからね(笑)、これまでも、怪我をした猫たち、捨てられた犬たちを、そうやって「見てしまった」から、と言っては、いわゆる「世間」で言う、「保護」をして来たわけだけれども(笑)、とんでもない、実に、「心配」というのは、ほとんど全く「こちら」の事情、「心配」すべき対象を目にすることで、こちらの心が「痛む」こと、もちろんそれは、「死」を想起させるからだね、を回避したいがゆえに、まるで「心配」すべき事態が、つまりありていに言えば、大事な私を「心配」さ・せ・る・、大事な私に「死」というような禍々しいものを想起させる、そのような事態を引き起こした、「対象」に、責任を「転嫁」しているのである、「心配したじゃないか?」という台詞が、しばしばそう聞こえる場合があるように、だから、これは、すぐれて「自己愛的」な、「パターナリステック」な振舞いなのである(笑)、まあ、そんな風に、透徹した理解(笑)に達したところで、のべつ幕なし、「心配」しても仕方がない事柄を、「心配」することを症状としている「病者」は、これからも「救われる」ことは、ないのだけれどもね(笑)。
私がこうして写真に収めてきた膨大な数の「生き物」たち中には、もう、すでに死んでしまっているかもしれないものが、たくさんたくさん、あるのだ、「生き物」が死ぬのは、当たり前のことだ、と言っても、その冷酷な現実を見つめなさい、とかお説教をしている訳じゃない、「言語」によって、岸田秀ならば「幻想」と呼ぶだろうもの(笑)、・・・、最近、やっとかの70年代のベストセラー「ものぐさ精神分析」を読んだばかりなのね(笑)、・・・、を組み立てたことで、人間は「時間」を持つようになった、そこから「死」、らしきもの、を想起できるようになったけれども、依然として「死」の意味が分からない、という何とも中途半端な状態のままに置かれてしまったが故に、「私たち」は、無闇と「死」を恐れ、その「恐れ」を中心に、「文化」を組み立ててしまったのである、大げさに言うならば、・・・、だからと言って、それがわ・か・っ・た・、からと言って、あのミサゴちゃん(笑)、無事だろうか?と、おろおろ悩むことをしないですむわけでも、全然ないんだけどね(笑)。


アオアシシギ(シギ科)

コチドリ(チドリ科)

キアシシギ(シギ科)

イソシギ(シギ科)

チュウシャクシギ(シギ科)







クロツラヘラサギ(トキ科)

旧暦十一月二十八日の月、月の出二時間後



在原業平一行が、「これなむ都鳥」と望郷に涙を流したのは、ユリカモメで、「京には見えぬ」と言われたその鳥が、あ・の・と・き・、鴨川上空を舞っていたはずなのに、少しも覚えていないことへの、「悔恨」など(笑)、いくつかの「オチ」の無い話。


旧暦十二月六日の月、南中一時間半後

旧暦十二月七日の月、南中二時間後

リュウキュウコスミレ(スミレ科)

ルリハコベ(サクラソウ科)

アキノノゲシ(キク科)



トックリキワタ(アオイ科)・白花品種

ハクセキレイ(セキレイ科)

ハシブトガラス(カラス科)

ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・メス

ハナイバナ(ムラサキ科)

キウリグサ(ムラサキ科)

リュウキュウシロスミレ(スミレ科)

ユリカモメ(カモメ科)

ダイゼン、シロチドリ(チドリ科)

ヒバリシギ(シギ科)

オナガガモ(カモ科)・オス



ユリカモメ(カモメ科)

ユリカモメ(カモメ科)、コチドリ(チドリ科)





ユリカモメ(カモメ科)

ハシビロガモ(カモ科)・メス

ハシビロガモ(カモ科)・オス

カワウ(ウ科)

ミサゴ(タカ科)

サシバ(タカ科)

トキワハゼ(ゴマノハグサ科)

ヒメクマツヅラ(クマツヅラ科)

シマキツネノボタン(キンポウゲ科)

カイツブリ(カイツブリ科)



イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス
さるおりしも、白き鳥の、はしあし赤き(1)が。しぎおほきさなる。水のうへに遊びつつ、いをふ。きゃうには見えぬ鳥なれば(2)、みな人見知らず。渡守わたしもりに問ひければ、「これなむ都鳥みやこどり」と言ふを聞きて、
名にしはばいざこと問はむ(3)都鳥みやこどり
わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟人こぞりて泣きにけり。
「伊勢物語・第九段『東下り』」
参考画像(笑)・ミヤコドリ(ミヤコドリ科)↓

これが、ミヤコドリ科ミヤコドリ、くちばしと足は確かに赤いが、「水の上に遊びつつ、魚を食ふ」が、異なるのだろう、ずっと昔に、干潟の砂地のところにいるのを、ずっと遠くから目撃しただけ、写真に写り込んでいることすら気づかなかったくらいだから、子細に観察したわけじゃないが、図鑑の記述によると、くちばしで貝をこじ開けて食したりするらしい、・・・、そんな訳で、今日的には、この「都鳥」は、カモメ科ユリカモメに比定されているとのこと、で、何年か前、別の場所だが、こいつを見かけて、初めてのものだったが、図鑑で調べると、ほら、後頭部、目の後ろの方に黒い斑点、それが特徴だから、難なくわかるじゃないか?とばかりに、ユリカモメ、と断定していた、・・・、この記事↓でもそう書いている、・・・、
「これなむ都鳥(みやこどり)」、「大膳職(おおかしわでのつかさ)」、柳田国男「翡翠の嘆き」、岡本かの子「金魚繚乱」など
・・・、いま改めて「伊勢物語」を読み返し(笑)、それにしても、足は、黄色っぽくはあるが、まあよいとしても、くちばし、真っ黒じゃないか?あ、図鑑の数ページ後にあった、そっくりの後頭部の黒斑、でもくちばしが黒いのは、ズグロカモメ(カモメ科)、であった、頭が黒いという名の由来だが、ユリカモメともども、「夏羽」では、頭が真っ黒なんだ、「冬羽」、当地には「冬鳥」として飛来するだけだから、それしか見ることはないだろうが、後頭部の黒斑は、その「名残り」と言える、だから、「オチ」の無い話になってしまったが(笑)、せっかく「東下り」まで引用したのだから、ユリカモメだったつもりで(笑)、話を続けると、これは、日高敏隆氏のどれかの著作だったと思うが、それこそ「都」、京の鴨川の上空を、旋回しているのが、ユリカモメ、比叡を越えた琵琶湖畔にねぐらがあるらしい、ならば、伊勢物語に「京には見えぬ鳥なれば」はどういう訳だ?観測資料を調べると、鴨川に現れるようになったのは、そんなに昔の事ではなかった、とかいう話だったかな?いずれにしても、京都に二十年住んでいたにもかかわらず、そういえば、鴨川にそんな鳥がいたかも知れない、けれど、無論、何も覚えていない、その鳥がどんな表情しているか?なんてことに何の興味もなかった、興味がなくても、差し支えなかった、「鳥」を見なくても差し支えない、のは結構なことで(笑)、もちろん、私は、「うつ」発病、という「不幸」に見舞われたからこそ(笑)、例えば「鳥」に、つまりは「人間」以外のものに、眼差しを注がなければならなくなった、そうでもしなければ「生きていける」気がしなかった(笑)、からなのであって、だから、もう一度、それは結構な(笑)ことなんだが、それでもときどき、少しも「懐かしい」という気持ちは起こらないし、もちろんに度と訪れることはないのだが、ああ、あのとき、鴨川のどっかの橋の上から、もうすこし注意深く、その鳥たちを眺めていればよかったのに、と、「悔恨」に「胸が痛む」ことも、ある、というお話。
「いざこと問はむ」が、隅田川の「言問橋」の由来、とも言われるが、「伊勢物語」の、在原業平一行が、この一節に書かれている状況で、川を渡った場所は、現在の「言問橋」とは、やや離れた「白髭橋」附近、とのこと、土地勘がないので、よくわからないけれども、確か、同じく、干潟で発見したズグロカモメをユリカモメだと思って、同じネタで何か書こうと思ったのだろう、その時ちょうど読んでいた本二冊に、偶然にも、どちらにも「言問橋」が登場した記憶がある、有島武郎「或る女」と、石川淳「至福千年」、ではなかったろうか、いや、違ったかもしれない(笑)、読み直して確かめるまでの気力はないので、好い加減のままにしておくが。


旧暦十二月八日の月、南中一時間半前

旧暦十二月八日の月、南中



ナツメヤシ(ヤシ科)、果実



イソシギ(シギ科)

ツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)・オス



アオサギ(サギ科)



ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

イソヒヨドリ(ツグミ科)・メス






Last updated  2021.01.21 07:38:52



Copyright (c) 1997-2021 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.