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ねこログ

2020.06.30
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メジロ(メジロ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)

オオハマボウ(アオイ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)・幼鳥

ツマムラサキマダラ(マダラチョウ科)

タイワンツチイナゴ(バッタ科)



旧暦五月九日の月、月の出、14:26、南中、19:59、月の入、1:32、月の出ている時間、11:06、撮影は、南中一時間後、薄雲に覆われていて、「朧月夜」というところ。

旧暦五月十日の月、月の出、15:30、南中、20:55、月の入、2:20、月の出ている時間、10:50、撮影は、やはり、南中一時間後、今日は、晴れている。







ヒヨドリ(ヒヨドリ科)



メジロ(メジロ科)


「五旬節/ペンテコステ」、「聖霊降誕祭」の由来、「使徒言行録」の原文、日本語版、英語版、を挙げるお約束(笑)であった。
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。
今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。
また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。
そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
・・・
だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
・・・
使徒行伝(口語訳)日本聖書協会
And when the day of Pentecost was fully come, they were all with one accord in one place.
And suddenly there came a sound from heaven as of a rushing mighty wind, and it filled all the house where they were sitting.
And there appeared unto them cloven tongues like as of fire, and it sat upon each of them.
And they were all filled with the Holy Ghost, and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.
And there were dwelling at Jerusalem Jews, devout men, out of every nation under heaven.
Now when this was noised abroad, the multitude came together, and were confounded, because that every man heard them speak in his own language.
And they were all amazed and marvelled, saying one to another, Behold, are not all these which speak Galilaeans?
And how hear we every man in our own tongue, wherein we were born?
Parthians, and Medes, and Elamites, and the dwellers in Mesopotamia, and in Judaea, and Cappadocia, in Pontus, and Asia,
Phrygia, and Pamphylia, in Egypt, and in the parts of Libya about Cyrene, and strangers of Rome, Jews and proselytes,
Cretes and Arabians, we do hear them speak in our tongues the wonderful works of God.
And they were all amazed, and were in doubt, saying one to another, What meaneth this?
Others mocking said, These men are full of new wine.
But Peter, standing up with the eleven, lifted up his voice, and said unto them, Ye men of Judaea, and all ye that dwell at Jerusalem, be this known unto you, and hearken to my words:
For these are not drunken, as ye suppose, seeing it is but the third hour of the day.
But this is that which was spoken by the prophet Joel;
And it shall come to pass in the last days, saith God, I will pour out of my Spirit upon all flesh: and your sons and your daughters shall prophesy, and your young men shall see visions, and your old men shall dream dreams:
And on my servants and on my handmaidens I will pour out in those days of my Spirit; and they shall prophesy:
And I will shew wonders in heaven above, and signs in the earth beneath; blood, and fire, and vapour of smoke:
The sun shall be turned into darkness, and the moon into blood, before that great and notable day of the Lord come:
...
Therefore let all the house of Israel know assuredly, that God hath made that same Jesus, whom ye have crucified, both Lord and Christ.
Now when they heard this, they were pricked in their heart, and said unto Peter and to the rest of the apostles, Men and brethren, what shall we do?
Then Peter said unto them, Repent, and be baptized every one of you in the name of Jesus Christ for the remission of sins, and ye shall receive the gift of the Holy Ghost.
For the promise is unto you, and to your children, and to all that are afar off, even as many as the Lord our God shall call.
And with many other words did he testify and exhort, saying, Save yourselves from this untoward generation.
Then they that gladly received his word were baptized: and the same day there were added unto them about three thousand souls.
...
Bible (King James)/Acts of the Apostles
今気づいたのだが、「ユダヤ暦上、第一月の最初の満月、『過越』、と、キリスト教の『イースター』を決める、春分後最初の満月、とが、偶・然・、一致している」と、驚いていたのだが(笑)、あるいは、話が逆で、ここにあるように、「新約聖書」自体が、ユダヤ暦の「五旬節」を、「ペンテコステ」、言葉が異なるから誤解するが、どうみても同じ意味なのである、を、いわば援・用・している、この、キリスト教がまだユダヤ教から「未分化」な段階では、キリスト教徒もまた、ユダヤ暦を採用していた、と見るべきではないのか?太陰太陽暦のユダヤ暦が、太陽暦上の「春分」を、その第一月の中に含むように、毎年の年初を決定した、それは、東洋の、つまり、私たちの「旧暦」が、「二十四節気」を参照しつつ、「閏月」挿入を決めているのと同様の、太陽暦との「妥協」、の、手続きであろう、だから、「イースター・サンデー」が、「春分後最初の満月後最初の日曜」などと言う、にわかにはわかりにくい言い回しをしているが、端的にそれは、「ユダヤ暦第一月の満月後最初の日曜」、でよかったのだが、「ユダヤ暦」という言葉を「隠蔽」したから、そんな表現になった、とも解釈できるではないか?キリスト教会が、「太陽暦」、まず、ユリウス暦、続いて、教会の東西分裂後、西側のみが、グレゴリオ暦を採用したのは、いつだったか?
ユリウス暦、共和制ローマの執政官、ユリウス・カエサル、英語読みなら、ジュリアス・シーザー、によって、紀元前45年1月1日、から実施、共和制ローマ、帝政ローマの暦法であったものが、キリスト教各派によって採用された、とのこと。キリストの「復活」に関する記事が、「新約聖書」ではユダヤ暦に基づいて書かれていたため、これとの調整のため、325年、第一回ニケーア公会議で、ユリウス暦3月21日、すなわち「春分」、後の最初の満月後の日曜日、を「復活祭」すなわち「イースター」とする、と決定された、なるほど、ちゃんと、書いてある(笑)。
ユリウス暦は、一年を365日とし、四年に一度の「閏年」、暦年が4の倍数である年を「閏年」をする、を以って誤差の調整を図る、つまり、
365+1/4=365.25
を「太陽年」とするのである。実際の「太陽年」は、365.242189・・・、であるから、長年の間には誤差が蓄積し、現実の「春分」、つまり、昼と夜の長さが等しい日、が16世紀中頃には、ユリウス暦上、十日も早い3月11日ごろに現れることになってしまった、そこで、より精度の高い、グレゴリオ暦の採用、となるのである。
グレゴリオ暦、ローマ教皇グレゴリウス13世が、1582年に採用。
グレゴリオ暦では、一年365日、に対し、
(i)四年に一度の「閏年」、4の倍数なら「閏年」、
365+1/4=365.25
(ii)百年に一度「閏年」を、やめる、4の倍数であっても100の倍数なら「閏年」としない、
365+1/4-1/100=365.24
(iii)さらに、四百年に一度、「閏年」を、や・め・る・ことを、やめる、4の倍数であり100の倍数であっても、400の倍数であるなら、「閏年」とする、
365+1/4-1/100+1/400=365.2425
と、おそらくほぼ限界まで、精度を高めた。
さっそく確認しておくと(笑)、紀元前45年に制定されたものが、16世紀中頃には、すでに十日の誤差を生み出していた、との記述、「平均太陽年」として、365.242189、を採用するとして、グレゴリオ暦採用の年が、ユリウス暦上の、1582年、紀元前45年からの年数は、単に、この引き算でよいのかな?
1582-(-45)=1582+45=1627
(365.25-365.242189)×1627=12.7085
若干のずれが気になるが、まず、よしとしよう(笑)。なるほど、これで謎が解けた(笑)、以前、トロツキー「ロシア革命史」(岩波文庫)、ああ、第一巻の途中で投げ出したままになっている、の序文の中で、それぞれ「二月革命」、「十月革命」と、当時呼ばれたものが、後の歴史家によって、「三月革命」、「十一月革命」と読み替えられたのは、旧体制の帝政ロシアは、東方教会、ギリシャ正教会の影響下にあったから「ユリウス暦」であり、革命政府は、「グレゴリオ暦」を採用したから、13日の誤差が生じたのだ、と説明してあった。そのとき、
13÷(365.25-365.242189)=1664.3195
1917-1664.3195=252.68
という計算をしてみて、ならば、「ユリウス暦」と「グレゴリオ暦」の分岐の日付は、252年、頃、ということになるではないか?と頭を抱えていたのだった(笑)。「グレゴリオ暦」採用の段階ですでに、上で見たように、12日の誤差が生じていた、それを「リセット」すべく、「ユリウス暦」1582年の、真・の・「春分」が、3月21日、となるよう、その十日ばかりの誤差をこの段階で解消した上で、「グレゴリオ暦」が、決められたに違いない、と理解すれば、なるほど、
(365.25-365.242189)×(1917-1582)=1.89
またしても、ちょっと多すぎる気がするが(笑)、それからロシア革命までの、242に年間に、ずれは、更に1日ないし2日、加わるに過ぎない、ことにはなろう。
関連する歴史をたどっておくと、
395年、ローマ帝国の東西分裂
476年、西ローマ帝国滅亡
1054年、ローマ教皇、と、コンスタンチノープル総主教、が相互破門、「西方」カトリック教会、と、「東方」正教会、との、分裂「大シスマ」

四旬節/Lent/Quadragesima、「復活祭」前の、日曜日を除く40日前、に当たる「聖灰水曜日」、から、復活祭前日の、「聖土曜日Holy Saturday/Black Saturday」 まで。「Lent」はゲルマン系語で「春」の意。quatro-が「4」であるから、ラテン語のQuadragesimaの原意は、「40日目」だったと言われる。
任意の、つまりどこから数え始めても、7週間、つまり49日間に日曜日は、7回現れるが、ならば、日曜日を飛ばして、数えて、40日めに当るのは、日曜日を含めて何日目になるのか?、は、少なくとも私には(笑)、難問で、こんなこと↓、をやってみないとわからない、

(i)数え始めが、土、金、木、なら、46日目
(i)数え始めが、水、火、月、日、なら、47日目
という訳なので(笑)、なるほど、「復活祭」、つまり「イースター・サンデー」なる日曜日の前日、すなわち、「聖土曜日」から、日曜日を除きつつ、遡って数え始めて、「40日目」は、確かに水曜日、であることがわかった、なるほど、これが「聖灰水曜日Ash Wednesday」なのだな、前年の典礼に用いられたナツメヤシ、またはシュロ、の葉を燃やした灰を、額に塗る。カエタノ・ベローソは、1968年だったか、自分がサン・パウロの監獄で釈放の通知を聞いたのが、「聖灰水曜日だったことをはっきり覚えている」と書いていた、それは、また、そのうち、引用しよう。
すると、ユダヤ教の「五旬祭・シャブオット」が「過越」第二日から49日後、49+1=50、で「五旬」なのだろう、それが、キリスト教の、「五旬節Pentecostes」または、「聖霊降臨祭」に、対応することになる訳だから、
太陰太陽暦たる「ユダヤ暦」の、第一月には、「春分」すなわちグレゴリオ暦3月21日、が含まれていなければならない。
とすれば、「ユダヤ暦」第一月の初日は、春分直前の新月、となる。
その「ユダヤ暦」第一月の満月が、「過越」であり、
かつ、これが、「キリスト教」では、「イースター」または「復活祭」を決める目安、となる訳で、すなわち、
この「ユダヤ暦」第一月の満月後、最初の日曜日が、「イースター・サンデー」、となる。
その「イースター・サンデー」に先行する、46日間、日曜日を除外すれば40日間が、「四旬節Lent」であり、その初日を画するのが、「聖灰水曜日Ash Wednesday」。
次は「カーニバル/謝肉祭Carnival」、英語で、肉食動物/草食動物を、それぞれ、Carnivore/Herbivore、というし、carni-は、「肉」の意なのであろう、古ゲルマンの、春祭、文字通り、過去一年の間に屠殺してきた、動物たちの「魂鎮め」の儀礼だったものが、キリスト教化とともに、別の意味を担う様になったものであろう。「聖灰水曜日」と「聖金曜日Good Friday」には、断食が求められるが、その、断食前夜に、行われる飽食の祭典なのだと言われる。「聖灰水曜日」の前日、これが、フランス語で、「豊かな火曜日」を意味する、「マルディ・グラMardi gras」、だが、その火曜日を最終日とする一週間、とのこと。
ピーテル・ブリューゲルに「カーニバルとレント」という名画があるらしく、これは、「あるナチ党員への手紙」で、その、オーストリア・ナチ党員、オットー・バハターが、クラカウの美術史美術館から、持ち出して、自宅に飾っていた、という逸話で記憶している。

「謝肉祭と四旬節の喧嘩」(1559)
同じ、「あるナチ党員への手紙」の記事には、1938年、ナチによるオーストリア併合が三月に行われた年、の翌年、オットーの妻シャルロッテが、ウィーンの「オペラ・ボールOpera Ball」なる舞踏会に出席、との記事も見えるが、この「オペラ・ボール」、聖灰水曜日直前の、木曜日に挙行されるのが恒例、とのこと。ならば、いわば「練習問題」、として、この年を取り上げてみよう。
1939年、春分は、3月21日火曜日、旧暦二月一日、であるから、これを「ユダヤ暦」第一月初日とすれば、「過越」の満月が、旧暦二月十五日に当たる4月4日火曜日、ならば、その直後の日曜日、4月9日が、「イースター・サンデー」、遡って、4月7日金曜日が「聖金曜日Good Friday」、
4月6日土曜日「聖土曜日Holy Satuday」から、日曜を除外して遡って40日目、2月22日水曜日が、「聖灰水曜日」

「ニケーア公会議」の、ニケーア、または、ニカイアNicaea、は、現トルコのイズニクİznik、この地図↓、で、イスタンブールIstanbulからマルマラ海Sea of Marmaraを挟んだ南の対岸に、Bursaという街が見えるだろう?そこから、東北東に、70kmばかりかな、水色になっているのが、Iznik湖、その東岸に当たる。Hagia Sophia、ギリシャ語で、「聖なる知恵Holy Wisdom」の意、そういう名前の教会の遺構が今も残っているらしい。同名の教会としては、イスタンブールのものが著名で、日本語では「アヤソフィア」というらしい、かつて、東ローマ帝国の首都であった時代は、正教会の総本山、1204年~1261年、ラテン帝国下で、カトリック大聖堂、1453年~1931年、オスマン帝国治下では、イスラム教モスク、トルコ共和国成立とともに、世俗化され、1935年以降は、博物館、とのこと。


数多の地名、あるいは、民族、言語名が列挙されている部分、もう一度書き出すと、
そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人1ではないか。
それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
わたしたちの中には、パルテヤ人2メジヤ人3エラム人4もおれば、メソポタミヤ5ユダヤ6カパドキヤ7ポント8アジヤ9
フルギヤ10パンフリヤ11エジプト12クレネ13に近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人14で旅にきている者、
ユダヤ人15改宗者16クレテ人17アラビヤ人18もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
And they were all amazed and marvelled, saying one to another, Behold, are not all these which speak Galilaeans1?
And how hear we every man in our own tongue, wherein we were born?
Parthians2, and Medes3, and Elamites4, and the dwellers in Mesopotamia5, and in Judaea6, and Cappadocia7, in Pontus8, and Asia9,
Phrygia10, and Pamphylia11, in Egypt12, and in the parts of Libya about Cyrene13, and strangers of Rome14, Jews15 and proselytes16,
Cretes17 and Arabians18, we do hear them speak in our tongues the wonderful works of God.
And they were all amazed, and were in doubt, saying one to another, What meaneth this?
ここには、数えてみると18種類の、「人々」についての言及がある。

  • (1)ガリラヤ人/these which speak Galilaeans
  • (2)パルテヤ人Parthians
  • (3)メジヤ人Medes
  • (4)エラム人Elamites
  • (5)メソポタミヤに住む者/the dwellers in Mesopotamia
  • (6)ユダヤに住む者/the dwellers in Judaea
  • (7)カパドキヤに住む者/the dwellers in Cappadocia
  • (8)ポントに住む者/the dwellers in Pontus
  • (9)アジヤに住む者/the dwellers in Asia
  • (10)フルギヤに住む者/the dwellers in Phrygia
  • (11)パンフリヤに住む者/the dwellers in Pamphylia
  • (12)エジプトに住む者/the dwellers in Egypt
  • (13)クレネに近いリビヤ地方に住む者/the dwellers in the parts of Libya about Cyrene
  • (14)ローマ人で旅にきている者/strangers of Rome
  • (15)ユダヤ人Jews
  • (16)改宗者proselytes
  • (17)クレテ人Cretes
  • (18)アラビヤ人Arabians

「調査」(笑)、にとりかかる前に、若干の疑問点を列挙しておくと、

  • (1)「ガリラヤ」が日本語訳では、民族名「○○人」、英語訳では、言語名「○○語」、と扱われている
  • (2)、(3)、(4)、(17)、(18)、は、日本語、英語ともに、民族名扱い、(14)、も、これに準ずるかな
  • (5)~(13)、は、やはり日本語、英語とも、はっきりと、地名であることが示され、「○○に住む者」とされている
  • (6)と(15)、これは、「ユダヤ」という日本語の定義による混乱ではあるが、「ユダヤに住む者」、と、「ユダヤ人」、が、別に扱われている
  • (16)、他とは明らかに異なる「カテゴリー」に思えるが、列挙されている(15)の「ユダヤ人」も、「ユダヤ教徒」と解せば、同列と見ることもできよう

Galilean、は、Galilee地方、の住民を指す、新約聖書に言及のある、Galilean方言は、ユダヤ・アラム語系Jewish Aramaicの言葉、とされている。
Galileeは、下の地図で、地中海沿岸のHaifaから、まっすぐ東、に見える湖、これが、Sea of Galilee、で、その西側に広がる地域をそう呼ぶらしい。Sea of Galilee、の東側、国境線が二重になっているのは、イスラエル占領下のシリア領、ゴラン高原Golan Height、を表わしているからだと思われる。


Parthian、紀元前247から紀元前224に、イラン地方に存在した、パルチア帝国Parthian Empire、地名としてのパルチアは、現・イラン北東部およびトルクメニスタンTurkmenistanの一部、に当たる、とのこと。

Medes、西部および北部イランに住んでいたイラン系の民族、紀元前6世紀に、広大なメディア帝国を築いた。
Elamites、イランの西部、からイラク南部にかけて存在した古代文明。
Mesopotamia、は、もちろん、チグリス・ユーフラティス流域。

Judaea、パレスチナの南部を指す、とのこと、古代のユダ王国Kingdom of Judah、は死海Dead Sea、の西側の内陸部に広がっていたようである。
Cappadocia、トルコ中央部、Central Anatoliaに当たる。

Pontus、トルコ東部、グルジア国境に近い黒海沿岸地帯。
Asia、これは、Asia-Minor、小アジア、のことであろう、ほとんど、Anatolia、と同義であるらしく、つまり、トルコのうちの、非・ヨーロッパ部分、ということのようである。
Phrygia、その、Anatolia、の中西部に存在していた古代王国。
Pamphylia、同じく、小アジア、アナトリアの古代王国。

LibyaのCyrene地方、現在のShahatという町に当たるらしい、ベンガジBenghazi、の東北東、150kmぐらいか。
Crete、は、ギリシアの、地中海の島、クレタ島、と思われるが、下の地図で、ちょうど、その、リビアのShahatの、北北東、300kmくらいか、東西に細長い島だ。

大雑把に調べただけなので怪しいが、暫定的な「結論」を並べておくと、

  • 今日の、ヘブライ語、アラビア語、は、子供の頃の記憶では、それぞれ、セム語族、ハム語族、と呼ばれていたように思うが、いずれも、アフロ―アジア語族Afro-Asiatic、に含まれる。(1)、(5)、(6)、(12)、(13)、(15)、はこれに該当するのではないか?
  • 現在の、イランなどで用いられる、いわゆるペルシャ語、はインド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanのインド―イラン語派Indo-Iranianに含まれるようであるが、ならば、(2)、(3)、(4)、はこれであろうか?
  • 現在の、トルコ、小アジアで話されるのは、トルコ語で、かつては日本語や朝鮮語も含む、とされていた、アルタイ語族とグループ化されていたが、今は、チュルク語族Turkic languages、と呼ばれるようである。ただ、ヘレニズム以前の、小アジアには、インド―ヨーロッパ語族Indo-European、に属する、アナトリア語派Anatolian languages、が存在していたそうで、ならば、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、は、これかもしれない。
  • (14)は、インド―ヨーロッパ語族Indo-European、の、ロマンス諸語Romance languages、であろうか?
  • (17)は、ギリシャ語の一派だとすれば、インド―ヨーロッパ語族Indo-European、の、ヘレニック語派Hellenic languages、ということになろう。

List of languages
List of languages by number of native speakers
「語族」、を、下位分類に含まれる言語数順に配列すると、次のようになるらしい。

  • Niger–Congo languages

  • Austronesian languages

  • Trans–New Guinea languages

  • Sino-Tibetan languages

  • Indo-European languages

  • Australian Aboriginal languages

  • Afroasiatic languages


  • Nilo-Saharan languages

  • Oto-Manguean languages

  • Austroasiatic languages

  • Kra–Dai languages/Tai–Kadai languages

  • Dravidian languages


  • Tupian languages






Amilcar Cabral(1924-1973)
Patrice Lumumba(1925-1961)
Andrée Blouin(1921-1986)
Kwame Nkrumah(1909-1972)
Ahmed Sékou Touré(1922-1984)
DRC、独立から現在までの略史

  • 1960年6月30日、コンゴ共和国Republic of the Congoとして、独立、初代首相、パトリス・ルムンバPatrice Lumumba(1925-1961)、独立後ただちに「コンゴ動乱Congo Crisis」、親ベルギー派に率いられたカタンガ州Katangaが分離宣言、国連および西側諸国が、ルムンバの救援要請を拒んだので彼は、ソ連に接近、これを警戒した合衆国およびベルギーは、同年9月5日のルムンバの逮捕、および、それに引き続く1960年1月17日のカタンガ軍による処刑をも静観
  • 1965年11月25日、陸軍総帥ジョゼフ・デジレ・モブツJoseph-Désiré Mobutu、クーデターにより政権掌握、後に、モブツ・セセ・セコMobutu Sese Seko、と改名
  • 1971年、モブツ、国名をザイール Zaireと変更、冷戦下の反共政策として、合衆国は、モブツ政権を支持
  • 1994年、隣国ルワンダにおける、フツ族によるツチ族Tutsiの虐殺、の影響で、東部のツチ系住民の間に不満が高まる
  • 1996年、ルワンダの政権を掌握した、ツチ系のルワンダ愛国戦線FPRが、今後に侵入、第一次コンゴ戦争First Congo War開始
  • 1997年5月17日、南キブ州South Kivuのツチ派の司令官、ローレン・デジレ・カビラLaurent-Désiré Kabila、大統領となり、コンゴ民主共和国Democratic Republic of the Congoと改名、モブツはモロッコへ亡命
  • 1998年~2003年、第二次コンゴ戦争Second Congo War、9か国の周辺諸国(親政府派としてアンゴラ、チャド、ナミビア、ジンバブウェ、スーダン、反政府派・親ルワンダ・親ウガンダ派として、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ)、と、20に及ぶ武装組織(反政府派としてアンゴラのユニタUNITAなどを含む)、の関与する戦争となった、2001年1月16日、ローレン・カビラ暗殺、その息子ジョゼフ・カビラJoseph Kabilaがただちに地位を承継
  • 2015年、ジョゼフ・カビラの任期延長を認める法案通過を機に、反ジョゼフ・カビラ抗議行動勃発
  • 2018年12月、総選挙の結果、フェリックス・チセケディFélix Tshisekediが、大統領に選出される、ザイール時代に首相経験もある著名な野党政治家、エチエンヌ・チセケディÉtienne Tshisekedi(1932-2017)の息子である







  • テーブルから時おりこぼれ落ちてくる残り物を争うより、テーブルへの着席そのものを要求しようじゃないか?「反・黒人主義」は、個人の感覚の問題ではなくて、地球規模の、制度的な、条件付け、なのだ/ミケーレ・チカオンダ2020年7月2日アル・ジャジーラ
    「#黒人として旅をする」、「#TravellingWhileBlack」というハッシュタグは、おそらく、ナイジェリアの作家、チヌア・アチェベChinua Achebe(1930-2013)が、1989年に発表した、短いエッセイ「Travelling White」、「白人として旅をすること」、に由来しているのでは、と想像する。ナイジェリアが独立した1960年の秋、すでに、作家として国際的な名声を得ていた彼は、ロックフェラー財団の招請により、アフリカ各地を旅することになる。イギリスの植民地支配下にあった北ローデシア、現・ザンビアを訪れた時のエピソードが語られる。有名なヴィクトリア・フォール(滝)見物のバス旅行、彼は、そのバスが、彼の言葉によれば「ジム・クロー」バス、つまり、有色人種と白人とが、区画によって分けられていることに気づかず、白人専用の座席についてしまった、凍ったような沈黙、検札乗務員、彼が白人か黒人かは、語られていないが、「どうしてお前はここに座っている?、お前はどこから来た?」と詰るのに対して、仮にも、新興独立国から来た文化使節、賓客なのである、「私の国、ナイジェリアでは、バスの中で人は、どこでも座りたいところに座る」と答えて、移動することを拒んだ。目的地に着いて、バスを降りると、驚いたことに、「黒人専用」側の乗客が、彼のまわりに押し寄せて、歌をうたい、彼の勇気を称賛するのである、彼は、そのときの複雑な気持ちを、こう語っている、
    I could be a hero because I was in transit, and these unfortunate people, more brave by far than I, had formed a guard of honor for me!
    私は単なる旅人、通過者に過ぎないから、たまたまヒーローにもなれただけだ。おそらくは、私なんかよりずっと勇敢であるに違いないのに、現に不運なこれらの人びとが、私を取り囲んで祝福してくれるとは!
    Africa's Tarnished Name/Chinua Achebe(Penguin Modern)より
    この短い紀行文は、アフリカ人の作家や読書人の間では、よく知られたものと思われ、同じくナイジェリアの、ずっと若い作家、チママンダ・ンゴーズィ・アディーチェChimamanda Ngozi Adichie(1977-)も、小説「アメリカーナAmericanah」の中で、彼女自身を彷彿とさせる主人公が、アメリカの大学在学中に、作ったブログのタイトルが、「Travelling Non-American Black」、「非アメリカ人の黒人として旅すること」であった。
  • 下の記事↓の「Traveling While Black」も、C.N.アディーチェ「アメリカーナ」に登場する「Traveling Non-American Black」も、その「本歌」は、この短いエッセイにあると思うので・・・白人として、旅をすること/チヌア・アチェベ(1989)


南部アフリカ

マラウィ、ブランタイアから、南アフリカ、ヨハネスブルグまで、それと、ザンビアのリヴィングストンと、ヴィクトリア・フォール
地図の縮尺部分が隠れてしまったので、直線距離の計算表を掲げておく、
Blantyre/Malawi-Johannesburg/South Africa間、約1400kmである。


  • 現・タンザニアTanzaniaは、19世紀、ドイツ領東アフリカを経て、第一次大戦後イギリス植民地、アフリカ大陸本土のタンガニィカと、ダル・エス・サーラム北方のインド洋上の、ザンジバル諸島とが、別々の植民地行政当局によって支配されていたが、1964年、独立時に、統合された。
    1954、ユリウス・ニエレレ Julius Nyerere、タンガニィカ・アフリカ人民族同盟Tanganyika African National Union (TANU)創設
    1960、ニエレレ、イギリス領タンガニィカの大臣となる
    1961、タンガニィカ、英連邦の一員として、独立
    1962、タンガニィカ民主共和国となる
    1963、ザンジバル革命、アラブ系の王朝を廃絶、独立
    1964、タンガニィカと連合、タンガニィカ・ザンジバル連合共和国United Republic of Tanganyika and Zanzibarと命名、同年、後に、タンガニィカの「Tan」、ザンジバルの「Zan」をとって、タンザニア連合共和国United Republic of Tanzaniaと改名
  • 北ローデシア、南ローデシアは、大まかに、現在の、ザンビアZambiaとジンバブウェZimbabweに当たる。前者は1964年、後者は1980年、それぞれ独立。南部アフリカを広く支配した、イギリスの資本家、鉱山経営者、セシル・ローズCecil Rhodes(1853-1902)にちなむ命名。
  • 南西アフリカSouth-West Africa、現・ナミビアNamibia。
    1884、ドイツ領南西アフリカ
    1920、第一次大戦後、国際連盟により、南アフリカによる信託統治
    1966、民族解放闘争の高揚に伴い、国連による直接統治となるが、依然として南アフリカが大きな影響力を持つ
    1973、国連、南西アフリカ人民機構South West Africa People's Organisation (SWAPO)を、ナミビア人民の正当な代表として認める
    1985、南アフリカ、ナミビアに暫定政権樹立
    1990、南アフリカから、正式に独立
  • ガーナ
    1947、黄金海岸連合会議United Gold Coast Convention(UGCC)結成
    1957、黄金海岸Gold Coast、イギリスから独立、ガーナと改名、クワメ・エンクルマKwame Nkrumah(1909-1972)、会議人民党Convention People's Party(CPP)を率いて、首相
    Julius Nyerere(1922-1999)
  • Salisbury Airport、Robert Gabriel Mugabe International Airport/Harare International Airportの植民地時代の呼称
    Sir Francis Ibiam
    bwana、スワヒリ語Swahili起源、「重要人物」の意
    David Livingstone(1813-1873)、イギリスの、会衆派教会宣教師、アフリカ探検家
    Victoria Falls、ザンビア(旧・北ローデシア)、リビングストン南郊、ジンバブウェ(旧・南ローデシア)との国境を画するザンベジ川Zambezi Riverにある、巨大な滝。ヴィクトリア湖Victoria Lakeは、ずっと北方、ウガンダ、タンザニア、ケニア国境の湖、いずれも、これらの地域の植民地宗主国イギリスの、ヴィクトリア時代Victorian era(1837-1901)に由来する命名なのだろう。例えば、コンゴ川、コンゴ民主共和国キサンガニの少し上流、Stanley Fallsは、やはりイギリスの探検家Henry Morton Stanley(1841-1904)にちなむ命名だが、現在は、Boyoma Fallsと改名されている。同じくコンゴ川のずっと下流域、キンシャサ、ブラザビル近傍のいくつもの滝を総称して、Livingstone Fallsと呼ぶようだが、この地をリヴィングストンが探検した事実はなく、スタンレーによる命名とのこと。


ヴィクトリア・フォールとヴィクトリア湖、ボヨマ・フォール(旧・スタンレー・フォール)とリヴィングストン・フォール

  • 「誰かが『白人の同志諸君、最前列へ!』とか叫ぶだろ、するとちゃんと最前列に飛び出してくるやつがいるんだな、信じられない情景だったぜ」・・・ニューヨーク、「ブラック・ライブズ・マター」デモ参加者たち、制度的差別の経験と路上での連帯の記憶を共有する/フレデリック・タッカー2020年7月8日アル・ジャジーラ
    Terry Stop
    犯罪行為への関与が「合理的に疑いうる」場合、一時的拘束が認められる、ことを言う。命名の由来は、1968年の最高裁判例に見られる原告の名前によるようである。
    Rodney King(1965-2012)
    1991年、飲酒運転の疑いで、ロサンジェルス市警の追跡を受け、逮捕の際に、路上で暴行を受けた事件の映像が、地元テレビ局で放映され、大問題となり、1992年のロサンジェルス暴動のきっかけともなった。
    Abner Louima(1966-)
    ハイチ生まれ、1997年、ニューヨーク市警の暴行を受け、三回に及ぶ手術を要する傷害を受けた。
    Amadou Diallo(1975-1999)
    ニューヨーク市警の家宅捜索時に、大量の発砲を受けて死亡。警察の主張では、人違いによる誤認逮捕。
    Michael Brown射殺事件
    Eric Garner殺害事件
    ニューヨーク市警の警官による窒息死
    El Puente、は、ブルックリン、ウィリアムズバーグにある、「平和と正義のための、エル・プエンテ学校/El Puente Academy for Peace and Justice」かと思われる。スペイン語で、「el puente」、は「橋」。
    El Puente Academy for Peace and Justice

    「不正義の標的/Target of Injustice」(アル・ジャジーラ記事から転載)
    キルトの下部に書き込まれている言葉は、
    「If All Lives Matter 'Cause We Are All Created Equal, Why Are Some Lives More Equal Than Others?/私たちすべてはみな平等に創造されたのだから、すべての生命が問題なの、とおっしゃるならば、では、どうして、ある種の生命が、他の生命より、よ・り・平・等・で・あ・る・、と言えるのでしょう?」
    左上、後ろ手に手錠を掛けられている、とおぼしき男性を連行する二人組の背中には、「POLICE/ICE」とある、「ICE」は「U.S. Immigration and Customs Enforcement/合衆国移民及び関税取締局」
    右上のドーム状の建物、「合衆国議会議事堂United States Capitol」上空を飛ぶ軍用ヘリコプターのは、当地でもおなじみの、CH53、スーパー・スタリオンSuper Stallionではないかと思われる
    bodega
    ニューヨークの、おもにヒスパニック系の、個人経営のコンビニエンス・ストアーを指す。スペイン語の原義は「ワイン醸造所」。

    (アル・ジャジーラ記事添付の写真転載)「市役所自治区画/City Hall Autonomous Zone」とのキャプションが付されている。
    「Abolish The Police/警察の廃絶」、「Police Free School Now/学校から警察を叩きだせ、今すぐ」、などのスローガンが見える。「ACAB」の文字は、「All Cops Are Bastards/警官はみんなクズだ」の略称、「bastard」の原義は、「非嫡出子」。
    Shooting of Breonna Taylor
    Breonna's law/ブレノア法
    26歳の救急救命士、ブレノア・ティラーが、2020年3月、ケンタッキー州ルィーズヴィルで、「無警告捜査令状/no-knock search warrant」によって乱入した警官により射殺された事件を機に、この「無警告捜査令状/no-knock search warrant」を批判する世論が高まった。これを禁止する法令。


ニューヨーク

ニューヨーク広域

合衆国
ニューヨーク市には、マンハッタン、クイーンズ、ブロンクス、スタテンアイランドの5つの区があり、マンハッタン以外はアウターボロ(Outer borough)と呼ばれる。
主な観光スポットはマンハッタンに集中しているため、旅行者にとってのニューヨークはマンハッタンを指すことが多い。本書ではマンハッタンを中心にしたニューヨークを紹介する。
・・・
5番街から西側がミッドタウン・ウエスト。エンパイア・ステート・ビルやロックフェラー・センター、タイムズスクエア、ブロードウエイの劇場街もここにあり、ニューヨークを代表する見どころが多く集まっているので観光客がまず訪れるエリアだ。世界に名だたるブランドショップが軒を連ねる5番街では買い物をしなくとも、ウインドーショッピングが楽しめる。
・・・
マンハッタンの中心、ブロードウエイから7番街と42丁目から47丁目が交差するあたりがタイムズスクエア。1980年代には「犯罪の巣窟」、「怖くて危ない街」などと呼ばれた暗い時代が続いた。しかし1984年に立ち上がった州と市を挙げての再開発プロジェクトにより変貌を始め、風俗のネオンは、エンターテインメントビジネスの輝きに代わった。
・・・
マンハッタンの地理を読む
マンハッタンの道路は、碁盤の目のようになっていて、初めて訪れても比較的わかりやすい。法則を理解すれば、地図がなくても住所でだいたいの場所がつかめる。
ストリートStreet(通り=略してSt.)
マンハッタンの東西(横)を走る通り
アベニューAvenue(街=略してAve.)
マンハッタンを南北(縦)に走る通り
・・・
(セントラル・パーク)
ニューヨークが舞台の映画やドラマには必ず登場し、多くのニューヨーカーに愛され続けている公園。59丁目から110丁目におよび、面積は3.4km2。南北約4km、東西約800mとスケールは広く、動物園や劇場、オブジェ、池などが点在している。
・・・
(シープ・メドウ)
1934年まで実際に牧草地に使われており、羊を放牧していたところから名付けられた。
・・・
5番街から西側がチェルシー。1870年代には高架鉄道が敷かれ、劇場やミュージックホールがあったという。現在は、ギャラリーやレストラン&カフェが点在し、上品なたたずまい。
・・・
1980年に廃線となった高架鉄道、ハイライン。かつては精肉などを運ぶ貨物列車用に使われていたが、廃線後は、放置されたままになっていた。倒壊などを訴える声もあるなか公園化が決定。
約9mの高さからは、ハドソン・リバーや附近のビル群が一望でき、インダストリアルと自然が融合したスペースになっている。
・・・
ハドソン・リバーを挟んでその対岸にあるのがニュージャージー州。自然に囲まれていることからGarden State(緑の州)の愛称をもつ。
日本からの直行便も発着するニューアーク・リバティ国際空港は、NYへアクセスできる3大空港の一つとして機能。
・・・
(イースト・ビレッジ)
20世紀にポーランド、ロシア、ウクライナなど東ヨーロッパからの移民が多く住むようになり、今もさまざまなコミュニティをつくり出している。近年は日本の居酒屋やラーメン店も多く、リトル・ジャパンと呼ばれることも。
・・・
(ロウアー・イースト・サイド)
曾てはユダヤ人、プエルトリコ人の移民が多く住んでいたエリア。現在は住宅地の雰囲気を残しながら、ノリータと同様、若手新進デザイナーたちのアンテナショップが増えるおしゃれな街に変身しつつある。
・・・
ユニオンスクエアの東側にあるグラマシーは、1800年代中頃、ヨーロッパの閑静な住宅地を真似て、一流建築家の設計でつくられたエリア。
・・・
ワシントンスクエア・パークの西側、石畳の街並みが美しく、緑豊かなエリア。1950年代にはビートニク、1960年代にはフォークシーンが盛り上がり、詩人や劇作家などが多く住んでいた。
・・・
世界のモダンアートを見せているニューヨーク近代美術館(モマ)。ビジネス街であるミッドタウンにどうどうと存在する便利さもあり、ニューヨーカーを始め、世界中の人々に愛されている存在だ。
「舞台」西加奈子(講談社文庫)
もちろん、これは、その小説の中に引用されている、「地球の歩き方。ニューヨーク」からの「メタ・引用」、「孫引き」(笑)ということになる。「ニューヨークに着いた初日に、パスポートから財布から一式盗目れてね、いや、たいへんだったよ」、と、帰国して「友達」に「武勇伝」を、語ることだけを楽しみに、・・・、と言いながら、実は、そんな「友達」なんか、一人もいないことが、後に明かされる、太宰治「人間失格」の葉蔵にほとんど自己同一化までに傾倒し、だから当然(笑)、心を「病んで」いるのである、例の如く、どうして、そんなことまで分かるんだ!、と膝を打ちたくなるほど、彼の「躁鬱」的な、急激な心理の浮き沈みの描写には、文字通り(笑)「手に汗を握る」のだけれども、小説の筋を「バラす」ようなはしたないことはやめて、これは、上の、アル・ジャジーラ記事、「ブラック・ライブズ・マター」のデモについて歩いたおそらくイギリス人のもの、を手掛かりに作成した地図もあるから、改めてもう一度読み直し、そうして、この主人公の、歩いた経路を、たどってみようとしたわけ。





馬の尻尾が、背中の虻を追い払うのに、「有効」である、従・っ・て・、馬の尻尾は、背中の虻を、追い払う為・に・、「発生」した、に違いない、という型の推論によれば、(笑)、・・・。


本日の、「ディナー・メニュー」の、スープは?
ノルウェイ産、サーモンの、「あら」煮込み、でございます。「北海North Sea」なんだろうか?そこを泳いでいたサケが、捕獲され、冷凍されたまま空輸され、「地球の裏側」、と言うほどではないが、こんなはるばる、亜熱帯の島まで運ばれてきた、いま計算してみたのだが、オスロ/那覇、二地点のなす角度が、約80度、直角より少し足りないくらい、直角なら、地球の半径6400kmに、円周率を掛けて、2で割れば、よろしいから、ちょうど一万キロくらい、なるほど、それより少し短い8844km、と出た、と言われてもわからんけどね(笑)、そんな距離をはるばるやって来て、三枚におろされて、身の部分は、お刺身や、塩鮭用になって、余った、頭と皮と骨の部分が、あれは「石狩鍋」と呼ぶのだったっけ、野菜なんかといっしょに煮込むのに、という用途なんだろう、安い値段で、パッケージされたのが、スーパーの鮮魚コーナーに並ぶ、それでも手が出ない(笑)、貧乏老人の、売れ残って、「賞味期限切れ間近につき値引き」とシールを貼られたのが、やっと、買い物かごに移され、単身者用、一口コンロで、ことこと煮込まれ、「猫舌」向けに十分冷まされ、そして、まあ、このように、お皿にスープを注いで、鍋の蓋をして、用意してあったスマホを構えたら、もう大半は飲みつくされている、というほどの「人気メニュー」として、消費されることになる、海または川、と、陸、だから当然とはいえ、こんな北の生き物と南の生き物、会ったことは一度もない筈なのに(笑)、どうしてこれが「旨い」と、知っていたのだろう?そんなことを言えば、キャットフードの原料になっているマグロだって、カツオだって、遠洋の魚だから、そこら辺の海岸に打ちあがってたりは決していない、ヤマネコだった頃(笑)は、川魚を、手づかみ、いや、前足で、器用に捕まえるくらいのことはあったかもしれないけどね、・・・、山崎ナオコーラのどれかの小説に、「手をつなぐって、はじめて考えた人、凄いね」、「うん、猿だった頃かな?」という恋人同士の会話が印象的だったので、真似てみただけだが(笑)、本人はベジタリアン、であっても、こうして「肉食動物Carnivore」、を「家族」としている以上、屠られた動物たちへの、「魂鎮め」儀礼、すなわち「謝肉祭Carnival」の必要性は、つねに感じている、ちなみに、ベジタリアンは、「草食動物Harbivore」、ではないよ、ウシやヤギさんは、植物の細胞壁を構成するセルロースを分解する酵素を有したバクテリアを、腸内に共生させているから、ちゃんと、植物から、栄養分を吸収できる、人間はそんなことできないから、食物繊維は、すべて素通りして、うんことして排出されるだけ、それを「ダイエットに良い」などと自慢してるだけだから(笑)、もちろん、植物も、セルロースの形以外の糖分を、葉や茎や根に相当たくさん保有しているから、こうして、ほとんど野菜サラダ、しか食べない(笑)、私でも、細々と、生きていけるのであるが、そんな訳で、なるほど、これほどまでに、喜んで「飽食」してくれるなら、サケとしても、「被食動物」冥利に尽きる、だろう、などと、勝手なことを考えて、それでも胸を撫で下ろすような気持ち。
「冥利」とは?「広●辞苑」、によれば、善業(ぜんごう)の報いとして得た利益、神仏が知らず知らずのうちに与える恩恵、とのこと。

沖縄の猫なのに、北海の魚の鮭が「旨い」とわかるのは?なんて話で思い出しましたが、沖縄の「人」、もまた、鮭がお好きなようで、二十年前の観光客だった頃に何度が、廉価な「回転寿司」を食べた以外、「寿司屋」さんの暖簾をくぐったことなど皆無ですが(笑)、スーパーのデリカコーナーなどを見る限りでも、当地の握りずしの「詰め合わせ」には、必ず「サーモン」が含まれていて、これはあるいは、その呼び名が英語なことも含めて、これは、当地の「寿司文化」が、占領時代のアメリカ経由だからなのでは?などと想像しています。「バブル・エコノミー」の時代だったかなぁ、東京なんかの都市には、「寿司バー」とか言うのが林立して、「カリフォルニア・ロール」とか言うの、レタスとサーモンの手巻き、とかじゃなかったかしら?そんな話をすると、土地の人、つまり、むかし生徒さんだった高校生たちとかですが、「え?内・地・では、食べないの?」などと問い返されたものだった、こうしてもう、「人間」と言葉を交わすことがなくなって、何年にもなるから(笑)、そんなささやかな記憶も、やや、心暖まるものなのでした(笑)。


「田草取るなら十六夜月夜」、草取りにかこつけあいびきと思ってた。あいびきもしたんだろうが(笑)、昼間は機織りに忙殺、夜しか時間がなかった、それに気づくのに二〇年もかかるとは赤面の至りだね(笑)。
「十六夜」と書いて、「いざよい」とルビを振る、「躄」という漢字があって、音読みが「ヘキ」、「ヒャク」、訓読みが「いざる」、膝をついたまま、歩くことを表す、「当用漢字」でないこともさることながら、身体障碍に対する差別表現として長らく定着してしまっていたから、その表記が、避けられるようになったのだと想像するが、そんな言葉を初めて耳にしたのは、もちろん、「安里屋ユンタ」。
はぁ、田草取るなら、十六夜月夜、さぁ、ゆいゆい
竹富島に実在した安里屋クヤマ(1722-1799)、首里王府から、派遣されている役人が、彼女に言い寄るのを、見事に袖にした、その「反骨精神」を、称揚し、首里王朝の暴政に対する抵抗の歌として、語り継がれた、現在流布している形は、「新・安里屋ユンタ」で、1934年、宮良長包作曲、星克作詞で、レコード化されたもの。
宮良長包(1883-1939)、石垣島出身、教育者、にして、作曲家。
星克(1905-1977)、石垣島出身、戦前は教育者、戦後、政界に進出、復帰前の琉球立法院で、「保守派の重鎮」として活躍、とのこと。
古謡としての「安里屋ユンタ」、は、23番まで続くらしい、「wiki-source」で、原文を見つけた↓
(1)サァ 安里屋(あさどや)ぬ クヤマによ サァ ユイユイ
 あん美(ちゅ)らさうん 生(ま)りばしよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(2)サァ 目差主(みざししゅ)ぬ 請(く)うだらよ サァ ユイユイ
 与(あた)る親(や)ぬ 望(ぬず)むたよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(3)サァ 目差主(みざししゅ)や 吾(ば)なんばよ サァ ユイユイ
 与(あた)る親(や)や 此(く)りゃおいすよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(4)サァ 否(んば)でから みしゃさみよ サァ ユイユイ
 嫌(べる)でから 良(ゆ)くさみよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(5)サァ 否(んば)で者(す)の 見(み)る目(み)いよ サァ ユイユイ
 嫌(べる)で者(す)ぬ 聞(し)く耳(みん)よ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(6)サァ 仲筋(なかすじ)に 走(ば)りおりよ サァ ユイユイ
 組角(ふんかど)に 飛(と)びやおり マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(7)サァ 村繰(むらく)りし 見(み)りばどぅ サァ ユイユイ
 道廻(みちく)りし 聞(し)きばどぅ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(8)サァ 女童(みやらび)ぬ いかゆてぃ サァ ユイユイ
 美(あふぁ)り子(ふぁ)ぬ 通(とぅ)りゃゆてい マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(9)サァ 誰(たる)が子(ふぁ)で 名(な)問(とぅ)たらよ サァ ユイユイ
 何(じ)りが子(ふぁ)で 名(な)聞(し)くたらよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(10)サァ 兼間子(かねまふぁ)ぬ イスケマよ サァ ユイユイ
 蒲戸子(かまどふぁ)ぬ 女童(みやらび)よ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(11)サァ 兼間家(かねまや)に 走(ば)りおりよ サァ ユイユイ
 蒲戸家(かまどや)に 飛(と)ばしおりよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(12)サァ 兼間子(かねまふぁ)や 吾(ば)ぬん呉(ひ)りよ サァ ユイユイ
 蒲戸子(かまどふぁ)や くりゃおいしよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(13)サァ 欲(ふ)しやでから さりおりよ サァ ユイユイ
 望(ぬず)むから まきおりよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(14)サァ あまぬさにしゃん 抱(か)いだぎばりきゃんゆ サァ ユイユイ
 どぅくぬ愛(んぞ)さんや地(じい)よ ちょんかむさなよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(15)サァ ンブフル 道(みち)からよ サァ ユイユイ
 石(いし)ふだぎ 道(みち)からよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(16)サァ 玻座間村(はざまむら) さりおりよ サァ ユイユイ
 親村(うやむら)に 抱(か)ぎおりよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(17)サァ ういか家(や)ぬ 浦座(うらざ)によ サァ ユイユイ
 目差家(みざしや)ぬ 座敷(ざしき)によ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(18)サァ 台(だい)取(と)らし 見(み)りばとよ サァ ユイユイ
 酌(さふ)取(と)らし 見(み)りばとよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(19)サァ 台(だい)取(と)りぬ 美(かい)しやぬよ サァ ユイユイ
 酌(さふ)取(と)りぬ 美(ちゅ)らさぬよ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(20)サァ 八折屏風(やうりべぶ)ぬ なかなんが サァ ユイユイ
 絵描屏風(えかきべぶ)ぬ 内(うち)なんが マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(21)サァ 腕(うで)やらし 寝(に)びどぅしょうる サァ ユイユイ
 股(また)やらし ゆくいどぅしょうる マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(22)サァ 男(ひふ)な子(ふぁ)ん くぬみどぅしょうる サァ ユイユイ
 女(みどぅ)な子(ふぁ)ん 作(つく)りどぅしょうる マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(23)サァ 男(ひふ)な子(ふぁ)や 島持(しまも)ち生(ま)りばし サァ ユイユイ
女(みどぅ)な子(ふぁ)や 家持(やも)ち生(ま)りばし マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
「安里屋ユンタ」(wiki-source)
「目差主(みざししゅ)」というのが、琉球王朝の下級役人のことであるようだから、それを「袖にした」に当たる部分は、「否(んば)」という言葉の見られる、(4)番、(5)番、辺りと見当はつくが、さすがに、言葉はほとんどわからないね(笑)。
「新・安里屋ユンタ」の歌詞は、手元の、三線練習初心者用(笑)のCDの歌詞カードによれば、次のよう、
(1)サァ 君は野中のいばらの花か サァ ユイユイ
 暮れて帰れば やれほに引き止める マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(2)サァ 嬉し恥かし浮名をたてて サァ ユイユイ
 主は白百合 やれほにままならぬ マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(3)サァ 田草取るなら十六夜月夜 サァ ユイユイ
 二人で気がねも やれほに水入らず マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
(4)サァ 染めてあげましょ紺地の小袖 サァ ユイユイ
 掛けておくれよ 情けの襷 マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ
琉球方言のわからない、日本人にも「ヒット」するような平易な歌詞で、とのレコード会社の依頼に答えた、と言われるが、確かに、まったく「政治性」を欠いた(笑)、「恋の歌」になっているけれどね、でも、依然として、嫌いではない(笑)よ。「浮名をたて」たこと、は確かで、相手が「白百合」、「ままならぬ」、のは、「階級差」を暗示しているかも知れない、が、ここでは、むしろ、相思相愛であるが、世を忍ばねばならない「悲恋」と描かれているわけだね。原作の痕跡もとどめていないけれど、それでも、いくつか「読み解く」手掛かりを探すことはできよう。そもそも、月を愛でるようになったのは、「シュノーケリング」などという、優雅に見えようが、しかし、全然お金のかからない「趣味」を、ある種「うつ病」リハビリ(笑)のつもりで始めた十年ばかり前、「潮目」を「読む」には、月齢を知らねばならないからね、月の出時刻は、他にも微妙な要因が絡むので、もう少し複雑なようだが、単純に考えて、「朔望月」29.5日間で、一巡するのだから、
24×60÷29.5≒48
日々、約50分ずつ、遅くなる。満月の前夜が、「待宵」、満月の次の日から、「いざよい」、「立待」、「居待」、「臥待」、「更待」、と、その風雅な呼び名の変化に、月の出を待ちわびる古人の気持ちが、見事に定着されていると言えよう。だから、冒頭にも書いたように、「いざよい」は、膝をついて歩いているように、もどかしく、なかなか出てくれない、のニュアンスだったのであろう。「田草取る」は、梅雨時の田植えから、秋の収穫まで、随時行わねばならなかったろうが、いずれにせよ、この、写真に収めた「いざよい」も含めて、夏の出来事ではあったろう。では、どうして、月明かりで、草取りをしなければならなかったか?例えば私は、このあからさまな「恋の歌」のトーンから、ああ、それは、「草取り」にかこつけて、夜間に「あひびき」をしていたのだな、と、長らく邪推していた、いや、実際(笑)、「あひびき」もあっただろう、そんな「誤解」は、むしろ、作詞者の望むところだったかも知れない、でも、意識されたか否かは別として、そこに、漏れ出た、いわば「集合的記憶」、に、もう少し心配りすべきであったかもしれない。月明かりで、「草取り」をしなければな・ら・な・い・、のだとしたら、昼間はそれがで・き・な・い・、事情があったに違いない、おそらく、女は、税として琉球王朝に貢納を義務付けられた、「上布」、イラクサ科カラムシ(苧麻、ちょま)を原料として織り、マメ科タイワンコマツナギの藍、オトギリソウ科フクギの黄色等で染める、を織らねばならなかった、月明かりで織機を動かすのは困難だったろう、油の費用を考えれば灯りをともすこともままならなったろう、ならば、昼間はもっぱら機織の仕事に費やし、農作業は、夜間に回さざるを得なかった、ならば、月の出が、待ち遠しかったのも、それほど「ロマンチック」な理由だけでもなかったことになる。「新・安里屋ユンタ」(4)番の、「染める」、「掛ける」は、鮮やかな「掛詞」になっているけれど、そこに、「小袖」や「藍」が登場するのも、また一つの「暗示」と読みこんでも、差し支えないとは、思う。
沖縄に住みついて二十年にして、そんなことに初めて気づいたことに、赤面を禁じ得ないものの、赤面ついでに、もう少し、調子に乗って、「図式的」な議論を敷衍するならば、安里屋のクヤマの時代は、薩摩藩の侵攻(1609)、「付庸国」化から、一世紀余、琉球王朝は、薩摩からの苛斂誅求を、先島地方へ、「転嫁」して生き延びようとしたのである、昼間は機織に、夜間は農作業に、忙殺される人々によってこそ、「薩摩」という「国家」は、「資本主義的原初的蓄積」をなし、いち早く産業革命を経験し、もって「明治維新」の牽引勢力となることができたのである。改めて茫洋たる思いにとらわれるのは、「鎖国」によって、人々がそれを「知って」いたか否かにかかわらず、これは、「世界経済」、というシステムの成立と、完全に同時代的に、連動していた。
・・・ジェームス・ワットによる蒸気機関にも比すべき、特別な画期的事件が、アンティル諸島に起こった。すなわち一六四〇年、サトウキビがバルバドス島に導入されたのである。・・・アフロ=アメリカ型通商の新しい型が、ただ新大陸発見の時代という航跡のあとをたどってきたのだと広く信じられていたことが、間違っていたことになる。事実、サトウキビのプランテーションの起るまでの一世紀半の間に、目につくものは何もなかった。・・・イギリスにおいて、「ロンドン・アフリカ貿易会社」という会社が設立されたのは、ほぼ同時期の一六六〇年のことであった。「その基本的目的は、金の探索であった」・・・そのわずか一二年後に、王立アフリカ会社が起こされた。歴史家は、その会社について、「新会社は、イギリスの植民地で要求が増大しつつある黒人を、おもに取り扱うのであった」と解説している。近代奴隷貿易は、一六七二年にスタートしたと見なされうるのである。
「経済と文明」カール・ポランニー(サイマル出版会)
ナポレオン・ボナパルトの前妻にして、ルイ・ナポレオン(ナポレオン三世)の生母である、ジョゼフィーヌは、小アンティーユ諸島マルチニック島の広大なサトウキビ・プランテーションの所有者の家の生まれである、これは、レヴィ=ストロースが、「悲しき熱帯」の冒頭、ナチの迫害を逃れての、マルセイユからプエルト・リコへの船旅の途中の記事でも触れているし、シモン・ボリバルを扱ったガルシア・マルケスの小説、「迷宮の将軍」にも登場するから、知ったのだけれどもね、それから、エミリー・ブロンテ「嵐が丘」、主人公が家庭教師として働くことになるイギリス貴族の豪邸は、この人物が、ジャマイカのサトウキビ・プランテーションから得た財によって築かれたことが明かされる。つまり、手短に言うならば、ヨーロッパの「資本主義」は、カリブ海のサトウキビプランテーションと、そこに労働力を組織的に提供すべく開始された「間大西洋奴隷貿易」という、「原初的蓄積」によってこそ、可能であったのだ。
なんでこんな柄にもない、高飛車な(笑)、議論を吹っかけ始めたか、自分自身の「動機」も診断しておかなくてはね、「ブラック・ライブズ・マター」などという呼び声に、思・わ・ず・、心を動かされてしまったかも知れない、自分自身に対して、もう一人のシニカルな自分の声が囁くのが聞こえる、そんな他人様の苦境をネタに、またぞろ、「正義」を売り歩くおつもりかね?「他人様」でな・い・ことを「立証」するには、そこにつ・な・が・り・がある、と強弁するしかなかろう?それは、同じく「他人様の苦境をネタに」すべく、こんな南の島に、おやおや(笑)そろそろ「骨をうずめる」ことになってしまった自分への、幾分かの「言い訳」、「存在証明」にもなっているしね。
ある政治的主張を行う「根拠」に、「いや、それが、正しいからだ」、とするのが、「トートロジー」としか聞こえなくなったのは、あるいは私自身の「病気」のせいなのだろうから、誰も「非難」しない、「世界」に、あらかじめ「正しい」ものと「正しくない」ものが、存在する、と断定したのなら、しかし、え、それ、ほとんど「優生学」と区別がつかないではないか?、という疑問は、留保しつつ。
「十三夜」から、「十六夜(いざよい)」、まで。
旧暦五月十三日の月、「十三夜」、月の出、17:39、南中、23:03、月の入、4:27、月の出ている時間、10:48、撮影は、まず、月の出三時間後、続いて、南中一時間前。
旧暦五月十四日の月、「待宵」、月の出、18:42、南中、0:02、月の入、5:22、月の出ている時間、10:40、撮影は、まず、月の出二時間半後、続いて、南中一時間前。
旧暦五月十五日の月、「望」あるいは「満月」、「十五夜」、月の出、19:41、南中、1:01、月の入、6:21、月の出ている時間、10:40、撮影は、まず、南中一時間前、続いて、翌朝、月の入一時間前。
旧暦五月十六日の月、「十六夜(いざよい)」、月の出、20:34、南中、1:57、月の入、7:21、月の出ている時間、10:47、撮影は、月の出一時間後。


「田草取るなら十六夜月夜」、続編、その名の通り、「更待」は、月の出が待ちきれずに眠ってしまった、だから、翌朝の「有明」になったけれども。
旧暦五月十七日の月「立待」、月の出、21:20、南中、2:49、月の入、8:19、月の出ている時間、10:59、撮影は、月の出半時間後
旧暦五月十八日の月「居待」、月の出、22:01、南中、3:38、月の入、9:16、月の出ている時間、11:15、撮影は、南中一時間後
旧暦五月十九日の月「臥待」、月の出、22:38、南中、4:24、月の入、10:10、月の出ている時間、11:32、撮影は、南中半時間前
旧暦五月二十日の月「更待」、月の出、23:11、南中、5:06、月の入、11:02、月の出ている時間、11:51、撮影は、南中二時間後「有明」
旧暦五月二十一日の月、月の出、23:42、南中、5:47、月の入、11:53、月の出ている時間、12:11、撮影は、月の出一時間後・・・書くのがめんどくさくなったので(笑)、表を掲げておく、続いて、旧暦五月二十一日の月、翌朝、月の入一時間半前、の、「有明」
旧暦五月二十二日の月、月の出二時間後、と、翌朝、ほぼ南中時の、「有明」
旧暦五月二十三日の月、月の出三時間後、と、翌朝、ほぼ南中時の、「有明」
旧暦五月二十四日の月、翌朝、ほぼ南中時、「有明」


旧暦五月十三日の月、「十三夜」、南中一時間前。

旧暦五月十四日の月、「待宵」、月の出二時間半後。

旧暦五月十五日の月、「望」あるいは「満月」、「十五夜」、南中一時間前。

旧暦五月十五日の月、「望」あるいは「満月」、「十五夜」、月の入一時間前。

旧暦五月十六日の月、「十六夜(いざよい)」、月の出一時間後。

旧暦五月十七日の月「立待」、月の出半時間後。

旧暦五月十八日の月「居待」、南中一時間後。

旧暦五月十九日の月「臥待」、南中半時間前。

旧暦五月二十日の月「更待」、南中二時間後「有明」。

旧暦五月二十一日の月、月の出一時間後。

旧暦五月二十一日の月、翌朝、月の入一時間半前、の、「有明」

旧暦五月二十二日の月、と言っても、厳密には、この日は「月の出」が、ないのだが(笑)、月の出二時間後

旧暦五月二十二日の月、翌朝、ほぼ南中時の、「有明」

旧暦五月二十三日の月、月の出三時間後

旧暦五月二十三日の月、南中時、「有明」

旧暦五月二十四日の月、南中時、「有明」


その後の、「アニュージュアルな、組み合わせ」。







ガザの美容室/Dégradé(2015)/アラブ&ターザン・ナセルArab and Tarzan Nasser, Made in Palestine Project
ガザの美容室、ドアの外の街路は、ハマスとおぼしき人々が、機関銃を手にパトロールしているが、ここは女ばかりの場所だから、髪を覆っていなくてもよいのだ、順番を待つ客たちの会話に、こんな部分があった。
どうして?
無理、通行許可を申請してもイスラエルが拒否する
何でよ
4回申請したけど、全部却下
家族が抵抗運動を?
いいえ
イスラム聖戦?ファタハ?ヤセル旅団?PFLP?DFLP?アル・アクサ?FIDA?ハマスはどう?
どうして?
甥がケガをした時に―
父親が活動家だから7回も拒否された
それで?
裏から手を回した
最悪はエレズ検問所、10メートルおきに3つの政府
通ったことない
聞いて、私が説明する、イスラエルとの境界、ここにファタハが検問所を作った、それに怒ったハマスがここに検問所を、だからまずハマスの検問所で3時間尋問されてようやく通過したら次はファタハから2時間の尋問、ハマスとの関係を聞かれ、やっとイスラエルに着いたら刑務所に一直線
パレスチナ・イスラム聖戦Islamic Jihad Movement in Palestine、1981年創立
Fatah/Palestinian National Liberation Movement、1959年創立
PFLP/Popular Front for the Liberation of Palestine、1967年創立、ジョルジュ・ハバシュGeorge Habash
DFLP/Democratic Front for the Liberation of Palestine、1968年、PFLPから分裂、ナィイフ・ハワトメNayef Hawatmeh
PFLP-GC/Popular Front for the Liberation of Palestine – General Command、1968年、PFLPから分裂、アーメド・ジブリルAhmed Jibril
Tanzim、1995年創立、ファタハ Fatah内部の急進派、メンバーの多くは、 al-Shaid Yasser Arafat Brigades(正式にはal Aqsa Martyrs' Brigadesと呼ばれたグループ)に合流
FIDA/Palestinian Democratic Union、1990年代、オスロ合意、第一回インティファーダの評価をめぐってDFLPから分離
「エレズ検問所Erez Crossing」は、ガザ地区Gaza Strip北東角、Beit Hanounと、イスラエルとの間の検問所と思われる



カズオ・イシグロ原作、「私を離さないでNever Let Me Go」、の映画、安く手に入りそうなので欲しいと思い、まだ決めてないけど(笑)、その監督と言う人が、Mark Romanek、と言うアメリカ合衆国の人だそうで、もっぱら、ミュージック・ヴィデオで名を挙げた人らしい、代表作の一つに、マドンナの「Rain」があると聞いて、さっそく見てみた。1992年の作品だというから、もうその頃は、テレビのMTVにかじりついて(笑)観る、と言うことはなかったから、記憶には全然ないが、聞き覚えのある曲ではあった。「カラオケ」用なのだろう、誰かが作ったのだろう、歌詞が書かれているものもあったから、書き写しておいた。マドンナ氏、と、私「同い年」だったのね(笑)、1958年生まれ、初めて聞いたのは、それこそ、MTVの全盛期、今調べると、「Border Line」は1983年だったようである、一つ目の会社を辞めて、結局行きもしないのに「大学院入試」の準備、とか言って、ずっと家にいたから、テレビばかり見ていたのだな、そんな風に、デヴューしたばかりの「アイドル」などというものは、もっと自分より年の若い、「小娘」なんだ、と決めてかかる年齢に達していたのだろう(笑)、同年代だなんて、ちっとも思っていなかった。wikipediaの記事では、デヴュー前にあこがれていたミュージシャンが、ブロンディのデボラ・ハリーと、プリテンダーズの、クリッシー・ハインド、だったんだって、それぞれ、1945年生まれ、1951年生まれ、この人たちも、そんなお年(笑)だとは思っていなかった、かも知れない、いや、今となっては、よくわからない(笑)。ついでに、これは、もう、その監督とは関係ないけれど、「I'll Remember」も、お気に入りの曲だった、わざわざレンタルCDで借りて、もう、今はなくなったのかな、MDプレーヤーというやつを、職場のクリスマス・パーティの景品とかでタダでもらえたから、それに録音して、泥酔しつつ繰り返し聞いていたら、いつの間にか、公園かどこかで眠り込んで、目が覚めたら、いわゆる「身ぐるみ剥がれ」てた(笑)、手に入れたばかりのMDプレーヤーも、財布も携帯電話も(笑)、今となっては(笑)、懐かしい思い出。
Rain/Madonna(1992)
Rain/Madonna(1992)
I feel it, it's coming
Rain, feel it on my finger tips
Hear it on my window pane
Your love's coming down like
Rain, wash away my sorrow
Take away my pain
Your love's coming down like rain
When your lips are burning mine
And you take the time to tell me how you feel
When you listen to my words
And I know you've heard, I know it's real
Rain is what this thunder brings
For the first time I can hear my heart sing
Call me a fool but I know I'm not
I'm gonna stand out here on the mountain top
Till I feel your
Rain, feel it on my finger tips
Hear it on my window pane
Your love's coming down like
Rain, wash away my sorrow
Take away my pain
Your love's coming down like rain
When you looked into my eyes
And you said goodbye could you see my tears
When I turned the other way
Dis you hear me say
I's wait for all the dark clouds bursting in a perfect sky
You promised me when you said goodbye
That you'd return when the storm was done
And now I'll wait for the fight, I'll wait for the sun
Till I feel your
Rain, feel it on my finger tips
Hear it on my window pane
Your love's coming down like
Rain, wash away my sorrow
Take away my pain
Your love's coming down like
Here comes the sun, here comes the sun
And I say, never go away
Waiting is the hardest thing
(It's strange I feel like I've known you before)
I tell myself that if I believe in you
(And I want to understand you)
In the dream of you
(More and more)
With all my heart and all my soul
(When I'm with you)
That by sheer force of will
(I feel like a magical child)
I will raise you from the ground
(Everything strange)
And without a sound you'll appear
(Everything wild)
And surrender to me, to love
Rain is what the thunder brings
For the first time I can hear my heart sing
Call me a fool but I know I'm not
I'm gonna stand out here on the mountain top
Till I feel your
Rain, I feel it, it's coming
Your love's coming down like
Rain, I feel it, it's coming
Your love's coming down like
Rain, feel it on my finger tips
Hear it on my window pane
Your love's coming down like
Rain, wash away my sorrow
Take away my pain
Your love's coming down like
Rain, I feel it, it's coming
Your love's coming down like rain
Rain, I feel it, it's coming
Your love's coming down like rain
I'll stand out on the mountain top and wait for you to call my name
Rain!
I'll Remember/Madonna(1994)
Say Goodbye...
To not knowing when..
The truth in my whole life began
Say Goodbye...
To not knowing how..
To cry you taught me that...
And I'll remember...
The strength that you gave me...
Now that I'm standing on my own...
And I'll remember...
The way that you saved me...
And I'll remember...
Inside... I was a child
That could not mend a broken wing...
Outside... I looked for way
To teach my heart to sing
And I'll remember...
The love that you gave me...
Now that I'm standing on my own...
The way that you changed me...
I'll remember
I learned to let go
Of the illusion...
That we
Can possess...
I learned to let go
I travel in stillness...
And I'll remember...
Happiness...
I'll remember
And I'll remember...
The love that you gave me...
Now that I'm standing on my own...
I'll remember...
The way that you changed me...
I'll remember...
No I've never been afraid to cry...
Now I finally have a reason why...
I'll remember...
No I've never been afraid to cry...
Now I finally have a reason why...





「ミラル」という映画を、アマゾン・プライム・ヴィデオ、なるもので、無料で観ることができた。
Miral(2010)/Julian_Schnabel、アマゾン・プライム・ヴィデオ
Miral(2010)/Julian_Schnabel、wiki英語版
ジュリアン・シュナーベルという、ユダヤ系のアメリカ人監督が、当時、「恋人」関係にあるとされていた、パレスチナ人ディアスポラ、いや、その表現が厳密かどうか、わからない、後に、もう少し詳しく論及する予定、イスラエルとイタリアの二つのパスポートを所持し、ジャーナリストとして世界的に活躍している、ルラ・ジェブレアルという女性が、書いた、自伝的作品をベースにしているとのこと。
Julian Schnabel(1951-)
Rula Jebreal(1973-)
その自伝は、彼女が幼少期を過ごした、「Dar Al Tifl School/Arab Children's House/アラブの子供たちの家」という名の、孤児院及び女学校の創設者、ヒンディ・ホセイニに捧げられた作品なのである。
Hind al-Husseini(1916-1994)
1948年のイスラエル建国に伴う「Nakba」の中で、エルサレム近郊のデイル・ヤシン村がシオニスト・テロリストの襲撃を受けた。そこで両親を失った子供たちが、ようやくの思いで、東エルサレムにたどり着いたところが、東エルサレム在のパレスチナ人の富豪の令嬢である、ヒンディの目にとまり、彼女は、これらの子供たちをすべて受け入れ、資料によって、いくつか記述の違いがあるのだが、彼女の親戚の所有していたマンション、あるいはホテル、を改装して、孤児院を創立することになった、とのこと。
Deir Yassin massacre(1948)
早速、その、「ミラル」原作を、ペーパーバックで注文したので、また、時間があれば、つまり、生きていれば(笑)、詳述することになるが、現時点でメモして置きたい事をいくつか列挙してみる。まず、驚いたのは、その、孤児院兼女子校の記述に、はっきりと、記憶を呼び起こされるものがあったのは、スーザン・アブルハゥワ「ジェニンの朝」で、主人公アマルが、1967年の「六日間戦争」、「Naksa」で父を失い、後に、失望のあまり精神に失調を来していた母も亡くなり、ジェニン難民キャンプの国連職員、アイルランド人の「ジャックおじさん」に連れられて、東エルサレムのさる孤児院に引き取られる、という一節があったからだ。これも後に、もう一度読み直していくつか引用をまじえて、詳述する予定(笑)だが、とりわけ、その宿舎で出された食事のスープに、毎度のようにゴキブリの死骸が浮かんでいる、それが自分の皿に当たってしまった生徒のところには、まわりのものが、「お悔み」(笑)を言いに来る、などというエピソード、とても真に迫ったところがあったから、てっきりこれもまた、アブルハゥワの「自伝」的作品なのだ、と思い込んでいたが、これも、また、もう少し詳しく調べてみるが、下にも掲げたアル・ジャジーラ紙の記事の中で、アブルハゥワ氏は、何世代も続いたエルサレム人、と書いていた記憶もあるから、年齢としては、アマルは、確かに著者の分身とも見えるが、ジェニンの難民キャンプにいた経験があるわけではないかも知れず、従って、その、ヒンディの孤児院の部分も、資料に基づく創作なのかもしれない。
Susan Abulhawa(1970-)
あるいは、むしろ、このルラ・ジェブレアルの自伝「ミラル」、を参考にして、インスパイアされて、アブルハゥワが、孤児院のエピソードを加えたのか、とも想像できるが、二つの作品の出版年はいずれも2010年なので、この想定も頓挫するな。
ところで、この映画の監督、ジュリアン・シュナーベル、調べてみると、また、いくつか、記憶と交錯する部分があった。
ジャン・ミッシェル・バスキアという、ハイチ及びプエルトリコ系の夭逝したアメリカ人アーティスト、を描いた作品は、1996年公開、日本公開はその翌年あたりだろうな、京都で、観た記憶があった、当時はまだ、「バブル・エコノミー」の余韻が残っていたのだろう、高価な「デザイナーズ・ブランド」の服に身をかざった男女が街を闊歩していて(笑)、この映画も、そんな日本の服飾資本が、大々的に投資、宣伝したものとして話題を呼んでいたはずで、元生徒の女子大生を、誘う口実として、その「おしゃれ」さを利用した、と言う、浅ましい、ま、今となってはそれも微笑ましい、記憶ではある。
Basquiat(1996)/Julian Schnabel、アマゾン・プライム・ヴィデオ、これは有料(笑)
Basquiat(1996)/Julian Schnabel、wiki英語版
Jean-Michel Basquiat(1960-1988)
もうひとつ、同じ監督の作品で、「夜になる前に」、これは、公開が2000年であるから、その頃私はもう沖縄にいて、沖縄に来てからは、つまり(笑)「うつ病」を発症してからは、ヴェンダースの「ブエナ・ヴィスタ」以外ほとんど一本も映画館で映画を観る、ということはしていないから、観ている筈はないのだが、その原作に当たるペーパーバックを、半分くらいまでは、読んだ筈なのだ。この、やはり自伝的作品の作者、レイナルド・アレナス、は、キューバ生まれのゲイの詩人、当局の厳しい弾圧を受け、獄中から、ひそかに原稿を持ち出して、アメリカで出版された、という経緯だったと記憶する、作家自身は、エイズに罹患、ニューヨークで、亡くなる。数えてみると、キューバ革命、1959年には、この作家は16歳ということになる、おぼろげではあるが、シエラ・マエストラ山中のゲリラ部隊に関する記述があった記憶があったので、グレアム・グリーン「ハバナの男」を読んだ機会に、読み直すつもりで、机の上に積み上げてあったところだったのだ。
Before Night Falls(2000)/Julian Schnabel、アマゾンDVD
Before Night Falls(2000)/Julian Schnabel、wiki英語版
Before Night Falls(1992)/Reinaldo Arenas
Reinaldo Arenas(1943-1990)
同時に、これもずいぶん以前に注文したまま、やや重たく感じられたという理由もあって、読まずにいた四方田犬彦「見ることの塩/パレスチナ・セルビア紀行」(作品社)を一気に読了、もちろん、予想通り、「重たい」内容なのであるから、それについて書くには、まだ、しばらく時間が必要と思われるが、差し当たりのメモとして、そこに出て来た人物名などを、列挙しておく。
この、ジュリアーノ・メルと言う人は、パレスチナ人の父と、ユダヤ人の母を持つ、そのような人種間婚姻が、イスラエル社会の中で許されたのは、両親が二人とも共産党員だったからだ、という、俳優、及び、映画監督で、この「ミラル」にも出演しているようである、誰だったかがもう曖昧になっているのでもう一度見直してみるが。四方田氏は2004年の、この人との会見についても詳しく記述しているのだが、「ミラル」のwiki記事によれば、映画出演の直後、何者かの襲撃を受けて、亡くなった、とのこと。西岸地区で、青年たちの演劇活動にコミットしていたことが、イスラム派から敵意を受けた、と憶測られているが、ハマスは、関与を否定している、と伝えられている。
Juliano Mer-Khamis(1958-2011)
音楽に造詣のないものにも、名前だけは聞いたことがあった著名な指揮者、ダニエル・バレンボイム、アルゼンチン生まれのユダヤ人であるが、エドワード・サイードと意気投合して、パレスチナ人の若者向けの音楽学校を、西岸に開設している、という話が、やはり四方田前掲書に、あった。
Daniel Barenboim(1942-)
パレスチナ人の映画人が多数列挙されている中に、かろうじて聞き覚えがあったのが、「ガリレーの結婚」、これは、日本公開直後だったのだろう、観た筈なのだが、残念なことに、ほとんど記憶に残っていない。
Michel Khleifi(1950-)
Wedding in Galilee(1987)/Michel Khleifi
同じく四方田前掲書の中、パレスチナの旅を終えてパリに戻ると、ゴダールの新作がかかっていた、とあって、それが、
Notre musique(2004)/Jean-Luc Godard、アマゾンDVD
Notre musique(2004)/Jean-Luc Godard、wiki英語版
更に、ネット上を逍遥していると、「ミラル」公開時のアル・ジャジーラ記事をいくつか発見、また、訳出してみたいが、やはり、「ユダヤ人」の映画監督が、「パレスチナ人」の自伝に基いて映画を撮った、というこの事態の衝撃が、とりわけ当初は大きかったようで、その冒頭は、やはり、以前引用した、アブルハゥワの記事(↓)
『二つの側』の間の『複雑な紛争』という観念によって、隠蔽されてしまう、実在する圧倒的な『不均衡』について・・・「アペイロゴン(不規則多角形)」、出版産業における、また一つの植民地主義的過誤/スーザン・アブルハゥワ、2020/03/12アル・ジャジーラ
同様、オットー・プレミンジャー監督、の「栄光への脱出」から説き起こされているのである。
Exodus(1958)/Leon Uris
Leon Uris(1924-2003)
Exodus(1960)/Otto Preminger
Otto Preminger(1905-1986)
とりあえず、冒頭に出て来た言葉について注釈を付しておく、
Plan Dalet、1948、Haganahによって立てられたアラブ人地域への侵攻計画
Haganah、1920-1948、英国信託統治下に存在したユダヤ人民兵組織
ルラ・ジェブリアル「ミラル」(2010)と、スーザン・アブルハゥワ「ジェニンの朝」(2010)、東エルサレムの「アラブの子供たちの家」、の創立者、ヒンディ・ホセイニ、の記述を抜き出してみる、ジュリアン・シュナーベル監督の映画「ミラル」(2011)の論評記事の和訳は、また後ほど

エルサレムとその近郊

エルサレム、オールド・シティ

ノーマン・フィンケルシュタインNorman Finkelstein(1953-)
「ホロコースト産業The Holocaust Industry」ノーマン・フィンケルシュタインNorman Finkelstein
イスラエル「新歴史学派New Historians」
Avi Shlaim(1945-)
Ilan Pappé(1954-)
Tom Segev(1945-)
ここで筆者が「Israeli revisionist historiansイスラエルの歴史修正主義者」と名付けているのは、この「新歴史学派New Historians」を指していると思われる。以下、四方田犬彦「見ることの塩/パレスチナ・セルビア紀行」(作品社)から、「新歴史学派」を説明している部分を抜粋する。
一九三三年にオスロ合議がなされ、イスラエルのユダヤ人たちが楽観的な未来を思い抱くことができるようになった頃から、「シオニズム以降」という言葉が口にされるようになった。そこには二通りの意味が込められていた。ひとつは、もうシオニズムはここまで目に見える成果を生み出したのだから、そろそろ満期完了の宣言がなされてもいいではないかという議論である。もうひとつは、シオニズムによって先導されてきたイスラエルの自己認識を再検討し直し、建国の英雄神話のベイルを剥がして、歴史的事実を直視すべきではないか、という若手の歴史学者からの要請である。パぺ、モリス、それに日本でも『エルヴィス・イン・エルサレム』の邦訳のあるトム・セゲヴといった歴史家、ジャーナリストがこの立場に立って登場し、人々は彼らを「新歴史学派」と呼んだ。
・・・
新歴史学派たちの蜜月は、思ったより長くはつづかなかった。二〇〇〇年にバラク・アラファト会談が決裂し、第二次インティファーダが生じたとき、モリスは早々と転向声明を出し、イスラエルが独立時にアラブ人を追放したことは歴史的事実であると認めながら、ベン・グリオン首相の過ちは、最後の一人まで完璧にアラブ人を追放しなかったことであると主張するようになった。セゲヴは、テロリズムの到来によって新歴史学派は死んだと宣言し、現下に起こりつつあるのは思考の恐ろしいまでの野蛮化であると語った。彼によれば、イスラエル人はもはやシオニズムに代表される集合的イデオロギーを信じえなくなって、個人主義の枠のなかに引きこもってしまった。それはテロが個人をひたすらに傷つけはするものの、イスラエル国家の解体に無力であることと対応している。ポストシオニズムをどう唱えてみても、現実のテロの横行に解決策は見いだせないというのが、セゲヴの説くところだった。
そのような挫折と転向の中で、ただ一人パぺだけは、いまだにポストシオニズムという概念の有効性を主張し、それは現下の困難な条件にあって一時的に停止しているに過ぎないのだと説いていた。・・・(モリスとの論争の中で)彼が説く歴史の客観性とは、イスラエル/パレスチナ闘争を語るさいに何人もが到達できないものであって、それが可能だと無邪気に信じているモリスは歴史家ではなく、年代記作者に過ぎない。この闘いの物語には客観性などありえない。ただ願わくば自分は公正でありたいと願うばかりであるというのが、パぺの言い分であった。彼は文字通り、孤軍奮闘していた。・・・
四方田犬彦「見ることの塩/パレスチナ・セルビア紀行」(作品社)
四方田犬彦は、2004年の訪問時のエルサレムでの、イラン・パぺIlan Pappéとの会見の様子を記している。
引用に登場する「モリス」は、Benny Morris(1948-)、第二次インティファーダ以降、再びシオニストに回帰、一貫して左派の活動家であるパぺとは激しく対立したようである。
Shlomo Sand(1946-)、オーストリア、リンツ生まれのホロコースト生存者、ミュンヘンの難民キャンプから1948年、パレスチナのジャファJaffaに移住、六日間戦争従軍経験から、強い反シオニスト的見解を抱き、左派の運動に接近
The Invention of the Jewish People/Shlomo Sand、wiki
The Invention of the Jewish People/Shlomo Sand、amazon
Rashid Khalidi(1948-)、パレスチナ系アメリカ人の歴史家
Palestinian Identity: The Construction of Modern National Consciousness/Rashid Khalidi
al-Nahda النهضة‎は、アラビア語で「覚醒、ルネサンス」を意味する、19世紀末から20世紀初頭、オスマン帝国のアラブ人居住地帯、エジプト、レバノン、シリアに広がった
United Nations Partition Plan for Palestine/Resolution 181 (II)(29 November 1947)

決議181に付された図面
Kenneth W. Stein(1946-)、ユダヤ系アメリカ人の学者
Chronicle of a Disappearance(1996)/Elia Suleiman
Anna Baltzer(1979-)
Occupation 101: Voice of the Silenced Majority(2006)/Sufyan Omeish and Abdallah Omeish
Paradise Now(2005)/Hany Abu-Assad
Paradise Now(2005)/Hany Abu-Assad、アマゾン・プライム・ヴィデオ
The Time That Remains(2009)/Elia Suleiman



エチオピアの近現代史(wiki英語版記事)

アフロ―アジア語族分布図↓「アムハラ」は、そのセム語派、「オロモ」はクシ語派に属する


エチオピアの地域区分
エチオピアの言語に基づく人口構成を、上位4グループ、5パーセント以上のものを挙げると、
オロモOromo:33.8%
アムハラAmharic:29.3%
ソマリSomali:6.3%
ティグリンヤTigrinya:5.9%
宗教に基づく人口構成は、
エチオピア正教会キリスト教Ethiopian Orthodox:43.5%
イスラムIslam:33.9%
プロテスタント・キリスト教:18.6%
伝統的宗教:2.6%
カトリック・キリスト教:0.7%
ユダヤ教:0.7%
エチオピア各地域ごとの宗教構成↓

エチオピア各地域ごとの民族構成↓

それぞれ、一番上の表は、各地域ごとの百分率として記載されていた数値、各地域の総人口にそれを乗じて、得られた実数が真ん中の表、更に、国の全人口に占める百分率に直したのが、一番下の表
例えば、次のようなことが読みとれる、オロミア地域では、全国のオロモ人のほとんどが居住、これに次ぐ民族集団は、アムハラ人で、全国のアムハラ人の一割ばかりが居住する、宗教で見ると、全国的に約30%を占めるムスリムのうちの約三分の一がオロミアに居住、全国で約半数を占めるエチオピア正教会キリスト教徒の、約七分の一がオロミアに居住している、など。また、全人口の約7%を占めるティグレ人のほとんどは、ティグレ地域に居住、同地域でも圧倒的多数派を占める、このいわば「少数民族」が、長らく政権をほぼ独占してきたことが、政治的不安定の一つの原因をなしてきたのであろう。

以下に引用した書物、「新書アフリカ史」宮本正興、松田素二(講談社現代新書)1997年初版 、の、この部分の執筆者は、大学時代の、「赤ヘル」(笑)の先輩なのでした。文学部の大学院で社会人類学を学び、たびたびアフリカへの調査に出掛けられているらしいことは風のうわさで聞いていましたし、この書物が出版されたときも手には取ってみたものの、読むには至らなかった、先日、古本屋で捨て値で売られているのを発見。記憶の中にあるその人は、「民族解放社会主義革命」の強力な信奉者であり、従って、世界中の共産党は、ことごとく「スターリン主義」に毒されている、(自分たち以外)、とでも言いたげなナイーブな見解を、痛烈に嫌っていて、従って、たとえば、当時「勢力争い」の相手であった中●核派、などからは、蛇蝎の如く嫌われていた。彼らが遠巻きにしている集会などでは、ことさらに、「プロレタリア国際主義の深紅の真赤な紅旗を高々と掲げ」などと、ぶち上げ、あれ「赤」が多くない?(笑)、私たちも、惜しみない拍手を送ったものだった。上の記述にも「同志的関係」などという言葉も飛び出して、個人的には、失礼な物言いだが「懐かしい」印象を禁じ得なかった。エチオピアが再びエリトリアと戦争状態になるのは、この書物の出版後の1998年だから、この章が、ちょっと楽観的すぎる文体で終わっているのも、致し方ないことでしょう。
Small Wars, Small Mercies: Journeys in Africa's Disputed Nations/Jeremy Harding(Penguin)という書物があって、これは1993年に出版されているようだが、おそらく神戸か京都の丸善の店頭で見つけたのだろう、沖縄に来る少し前に、ちゃんと、全部、読んだ。今調べて知ったところでは、1952年生まれのイギリスのジャーナリストらしいが、アンゴラ、ナミビア、西サハラ、南アフリカ、モザンビーク、エリトリア、いずれもまだ内戦が続いていたそれぞれの「戦乱の地」に自ら訪れて、書かれた紀行なのである。今のようにインターネットはないから、かろうじて、当時偉そうに(笑)読んでいたJapan Timesは、「右派系」と言われはするものの、外電に関しては、朝日や毎日よりもずっと豊富であったから、それぞれの戦場の当事者たる、党派のアルファベットのイニシャルは、全部知っていたし、それらを、ソ連系、親中国派、親米派、などと、色分けることもちゃんとできたけれど、「世界」は、そんな「色分ける」ことで「理解」出来るものではないことを、教えてくれた貴重な書物であった。エリトリアに関する部分の、冒頭の部分だけを、引用してみよう。↓
Jeremy Harding(1952-)
エチオピア、エリトリア小史
エリトリアの、宗教構成

  • キリスト教Christianity:62.9%
  • イスラム教Islam:36.6%
  • その他others:0.4%

エリトリアの、言語構成

  • Tigrinya:55%、アフロ―アジア語族セム語派Afro-Asiatic,Semitic
  • Tigre:30%、アフロ―アジア語族セム語派Afro-Asiatic,Semitic
  • その他、主に、アフロ―アジア語族クシ語派Afro-Asiatic,Cushitic

TigrinyaとTigreは、相互に近い関係にある者の別の言語のようで、前者が、エチオピアのTigray地域のTigrayanと近く、後者は、もっぱらエリトリアを中心とするようである。





重力の拘束をしばし忘れ、「等張液」に囲まれていると、二足歩行獣もまた、もともとは(笑)、「海」からやってきたのだ、という事実(笑)を、思い出す。
こんなお手紙↓、が、届いたんですのよ(笑)。あんた、貧乏なんだろ?この、お上が下さるっていう十万円、喉から手が出るほど欲しいんだろ?「うつ病」患者に、物事、てきぱき片付けろ、ってのが無理な注文なのはわかっているが、まごまごしてると、期限切れになってしまうよ、という、那覇市役所からの、実にありがたい、警告なのです。ブルジョワ国家は、その国民が、「労働能力」を有している限りにおいて、必要な資源として「保護」する動機があるでしょうが、それにしたって、相対的過剰人口、という「代替品」が手に入る限り、それほど親身である理由はない、ましてや、もはや生産に何の寄与もしない老廃部分に対して、何事かの施しをする、というのなら、それは、相対的安定期にのみ起り得る、一つのリップ・サーヴィス、なのであって、従って、「福祉国家」、などというものは、虚妄である、と、頑迷に(笑)思い込んでいる「タイプ」の、人間ですが、そこはやはり一人の単なる「小市民」なのであって、この唐突な、だって、私は、「コロナウィルス蔓延」によって、多分、何らの経済的損失も受けてはいないのですから、この降って湧いたような申し出は、ああ、この金額で、どれだけ、キャットフードが買えるでしょう(笑)?私と、「家族」が、今少し生き延びるために、なんとありがたい、・・・、申し込みの書式を見てみると、振り込み用銀行口座の名義人、口座番号がわかるよう、通帳のコピーを添付せよ、とある、整理の悪いどこかの引き出しから、通帳を探し出して来て、それを持って「コンビニ」とかに行かねばならない、そういうことが果てしなく「めんどくさく」感じられるのが、この「病気」であります。スーパー・マーケットのコピー機のコーナーなんかでも、通帳を手にした老人たちが、操作方法がわからず、立ち往生している様を、しばしば見かけましたから、こちとら、仮にも、一度は「システム・エンジニア」と呼ばれた人間、そのくらいの機械、ちゃんと使えなくてどうする?とも思うものの、それも、一つの不安要素ではあり(笑)、こうして延ばし延ばしにしていたのでした。でも、この有り難いお手紙は、ちょうど、ほんの一日ばかりの「行き違い」、先日、意を決して(笑)、朝から、今日は、これだけ、つまり、給付金の申請、だ・け・は、かならずやり遂げるぞ、と、珍しく「決断」、懸念されていた、コピー機も(笑)、つつがなく処理でき、さて記入しようとするも、もう、仕事をしなくなって五年(笑)、「ボールペン」というものを使ったことがない、え、十万円貰うためとはいえ、ここで百円とか出捐して買う訳?と、それだけで気がくじけそうになりましたが(笑)、なんとか、インクがかすれ気味のものが一本、引き出しの奥から見つかり、これもまた、事なきを得ました。そんな訳で、コピーを添付して、記入漏れなきかのチェックを終え、返信用封筒、封をするのに、あ、糊がない(笑)、と焦りましたが、ちゃんと、舐めれば(笑)できるようにされてました、万端終えて、ポストに投函、すると、これも「病人」にありがちだが、急転、気が大きくなって、そうだ、こんなに天気がいいんだし、海へ行こう、となった次第。









オオハマボウ(アオイ科)、いつの頃からか、この花が大好きでしてね、空の青、照りのある濃い緑の葉、そして、花は赤味のある黄色、これでもか(笑)、というくらい「南国」的、トリコロールではないですか?、でも、グレープフルーツみたいに、黄色いのと、少し赤みが強いのと、二品種あるみたい、同一品種がまとまって咲くからだろう、決して、「並んで」咲いていたりはしないから、長らく、気付かなかった。



リュウキュウツバメ(ツバメ科)

コアジサシ(カモメ科)



コアジサシ(カモメ科)、アオアシシギ(シギ科)、どちらも、羽繕いに余念なく、だから、二人ともが、ちゃんと顔を見せてくれるチャンスは、なかなかないのだ。記憶では、南に向かう「冬鳥」の第一陣が、すでに七月下旬には、当地に到着するはずであった。だから、このアオアシシギ(シギ科)、あるいはそうかも知れないが、いやしかし、北の繁殖地へ向かうのが遅れてしまった、最後の一群、とも思える。あるいは、この日も回りには、ダイサギ、アオサギなどサギ科の「冬鳥」も見えたけれど、彼らの中にも、ひと夏をこちらで過ごしてしまう者がいるらしいことは、かねてから、気付いていた。ある程度の大きさの標本を採れば、平均値マイナス2標準偏差を下回る「劣位」個体が、発生することを、止めることが出来ない、他ならぬ「劣位」個体が、そう言っている(笑)。「渡り」には、非常なエネルギーを要するであろうから、十分な準備ができなかった場合、それを「諦め」る、ことを選択する個体が発生する、ということも、当然、有り得るのではなかろうかね、「友達がいないから、修学旅行に行きたくなかった」(笑)、かつての子供は、こうして、見当違いな「共感」を抱いたりもするのである。左側にいる、コアジサシ(カモメ科)は、当地で繁殖する「夏鳥」で、つまり、ここが、彼らにとっては「北」ということになる、そんな、差し当たり「無関係」な(笑)、二人が、ちゃんと「無関係」そうに、特に、お互い邪魔立てし合うでもなく、また、特に関心を示すでもなく、ただ、たまたま、並んでいる情景が、しかし、「関係障害」を病む者には(笑)、心暖まるものに見えるのであった。

ミスジリュウキュウスズメダイ(スズメダイ科)、スギノキミドリイシ(ミドリイシ科)
そして、「海開き」(笑)、本当は、三日ばかり以前、ちょうど、満月の大潮干潮を狙いすまして、行ってみたのだが、天気も良かったが、あまり透明度がよろしくなく、めぼしい「出会い」もなかった、だから、今日は二度目、「老衰」が、どんどん進行しているのが手に取るように分かり(笑)、もう、今年は、ということは、残り一生(笑)、海で泳ぐ、などという酔狂なことはできないんじゃないか、と、落胆もしていた、でも、一方で、「海」の「治癒力」に恃む気持ちもあって、たとえば、このひどい腰痛だって、水中では重力が軽減されようから、気にならないだろう、なんといっても、「私たち」もまた、かつては(笑)、「海」の生き物だった、当・時・の海水の塩分濃度を、細胞液の「浸透圧」として、ちゃんと記憶しているじゃないか、だから、その「優しい」水に触れて、「癒された」とか思えるんじゃないかって、ね。で、予想通り、予定通り(笑)、機嫌を直した、訳で、それでも、心なしか、身体が冷える速度が、速いようにも思え(笑)、あまり無理しないように早々に引き上げることにする、くらいの、「老人」らしい知恵もあった。これでまた、疲れが出て、三日くらい「寝込む」ことになるだろうが、それも、猫たちにご飯を出してやることさえできれば、別に「不都合」は、ないから。

カンモンハタ(ハタ科)





コクテンフグ(フグ科)

クロスズメダイ(スズメダイ科)・幼魚、かなり「成魚」に近い大きさに成長している、白い部分が、その名の通りの「黒」に成り変わるのも間近、という訳なのか、確かに、やや黒ずんでいるようにも。



カゴカキダイ(カゴカキダイ科)、シュノーケリング歴20余年(笑)、にして、初めて見た種。もちろんその場ではわからなくて、でも図鑑で見た記憶はあった。上の方、写っているのは、他に、ミツボシキュウセン(ベラ科)、アカオビベラ(ベラ科)、ホウライヒメジ(ヒメジ科)、下の方は、やはり、ホウライヒメジ(ヒメジ科)。



ホオグロヤモリ(ヤモリ科)、これはうちのベランダ、「ごみ屋敷」だけに(笑)、彼らの捕食すべき、ハエなどの小動物が、豊富だからなのだな(自慢・笑)。






午睡の途中に。
スマホのカメラの枠の中に、脚を入れたら、耳がはみ出す、尻尾も写るようにしたら、あら、前足が見えない、おや、あんた、いつの間にか、大きくなったのね。親戚のおじさんなんかに、会うたびに、お前がこんなちっちゃかった頃から知っているんだぞ、とか言われるの、鬱陶しかったですね(笑)、いや、実は知りません(笑)、親戚付き合いとかしたことないから、小説とか映画とかにありそうだから、そうかなって思って(笑)、でも気がついたら、あんた拾ったとき、片手の手のひらに乗ったのよ、って、顔見るたびに言っているのに、気付いたから。


20200721 002




ミナミダテハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)、相変わらず、甲斐甲斐しい(笑)「共生」ぶりである。

マトフエフキ(フエフキダイ科)

ミナミダテハゼ(ハゼ科)、モンツキテッポウエビ(テッポウエビ科)、これは、上のとは別の一組。

オトメハゼ(ハゼ科)、、仲のよい(笑)夫婦、か?

カンモンハタ(ハタ科)、方言名「いしみーばい」。砂地に波紋が揺れる穏やかな快晴。







アミアイゴ(アイゴ科)・稚魚、「スイミー」という絵本がございましたが、小さな魚が群れを作り、群れ全体が一つの巨大な魚の形を成す、そうして捕食者に対抗して生存確率を高め得た、という物語、アミアイゴ(アイゴ科)・稚魚、方言名「すく」。まず右向き、方向転換時に群を乱し、今度は、画面左上方へ。

ヒメジュウジナガカメムシ(ナガカメムシ科)、ウスベニニガナ(キク科)

シロガシラ(ヒヨドリ科)

アオムネスジタマムシ(タマムシ科)

クビワオオコウモリ(オオコウモリ科)「出勤」は当然夕刻だから、光が足りないのだが、それでも「つぶらな」瞳は、わかる、沖縄本島固有種、現下の疫病のウィルスの宿主として「悪名」を高めたのは、もう少し南に住む、この同類と思われるが、そういう「非難」の仕方は、セルフィッシュであろうから、もちろん、採用しない。

クマゼミ(セミ科)



ツマムラサキマダラ(マダラチョウ科)

タイワンツチイナゴ(バッタ科)



シロガシラ(ヒヨドリ科)・幼鳥

ホウオウボク(マメ科)

メジロ(メジロ科)

ヒヨドリ(ヒヨドリ科)






Last updated  2020.08.04 23:27:54



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