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テーマ:がん治療 役立つ情報(68)
カテゴリ:闘病記
医者からは「あと三か月くらい」と聞きました。
2回目のがんの時のようにがんが退縮するという事はなく プラセボ効果プラスαはなくなったと思いました。 家でお酒は飲ませませんでしたが、塩分をかなり控えていた部分は緩くし、美味しく食べることへとシフトしました。 温泉に旅行もしました。旅行の時くらいいいだろうとその時は夕飯にビールも父に出し。少し飲みました。ラジウム温泉でしたので「がんにいい温泉」と教えました。 ![]() 母畑温泉 八幡屋 ![]() 村杉温泉 風雅の宿 長生館 母はその日の夜、父の咳を気にして私に「肺の転移の方も・・・」と言いました。 「素人判断せず、医者に診てもらったら」と返しました。帰った後、医者に診てもらったら風邪で、薬で治りました。 できるだけ気持ちよく普通に過ごす毎日を大切にしました。 8月に「三か月」とつげられましたが、11月に入っても普通に過ごす日々が続きました。ただ顔色は黄疸が出て黄色くなってきました。 病院の治療で黄疸は引きましたが灰色っぽい顔にだんだんなってきました。 何種類も健康食品を食べたり、中国抗がん漢方も止め、小康状態にした時のアラビノキシランに戻し、量を倍にしました。あとはコロイドミネラルと人参ジュースや野菜ジュースを時々取るようにしました。 すると少しずつ顔色に変化が起き始めましたが、病巣の進行が止まるという事まではありませんでした。 病院の先生からは「具合が悪くなったらすぐに救急車をよんできてください」と言われました。 12月に入り、多めにたべるとお腹が痛いという日が何回かありましたが痛みはじきに治るので病院へは行きませんでした。 12月の終わりに近づいたころ、またお腹が痛いと訴え、今度はなかなか治らなかったので病院へ行きました。 診察の結果、「胃が荒れているので、薬を出しておきます。」と言われて、「痛みが引いたなら帰ってもいいです。」と言われたので、じきに帰れると思っていました。 本人も痛みが引き、元気を取り戻しました。 しかしその後容態が急変しました。肝がん破裂でした。個室に移されてからは日に日に弱っていきました。病院で迎えた正月。「重い病気の人にだって正月はくるんだ。」といって病室に鏡餅をもっていったのを覚えています。弟は父の好きな落語のDVDを持ってきて父に見せていました。家族みんなで支えました。中旬を過ぎ、点滴は腕から中心静脈に移しました。そして1月下旬とうとうそのまま最後をむかえてしまいました。 3回目のがんは、今までのものと違うということと、心がマイナスに作用して家での療法がうまくいかない部分もあったのではないかと思いました。 亡くなる数日前、父は私に「こういうがんの治療もあるんだといろんな人に示したかった。」と医師にいわれるままでない納得の上での選択した治療だったことをいいました。 10年の間に3回もがんになったけど、最後の入院を除けば塞栓術のたびの入院が3回だけですが、私は結果としてこれでよかったのかわからないです。 特に3回目のがんでの健康食品の選択は良かったのだろうかということ。違うものを選んでいればもしかするとという思い。がんになるたび、食べたい肉を我慢したり、大好きなお酒を禁酒したり、甘いものを我慢し塩分が少なく味が薄いものを我慢して食べたり・・・好きなものをたくさん何年も我慢させたこと。その効果がどれだけあったのかはわかりません。 反面,もしお酒をもっと控え肝硬変にさえなっていなければ・・・と考えることもあります。 最後まで読んでくださった方ありがとうございます。少しでも参考になる点がありましたでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.05.15 18:22:48
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