2024/03/05(火)08:11
「ジャン・コクトーの中には男と女がいる」
<きのうから続く>
マレーがモンパンシエ通りのアパルトマンに着くと、コクトーは以前マレーが使っていた部屋のベッドに身動きできない状態で横たわっていた。動かせるのは眼だけだった。
マレーは枕元にひざまずいた。コクトーはマレーを見つめた。マレーがたじろぐほどの深い情愛に満ちた瞳で、まるで彼を祝福しているかのようだった。マレーはコクトーの手に自分の手を重ねた。コクトーは何か話そうとしたが、マレーが押しとどめた。
――ジャン、ぼくは君を愛している
マレーは心に呟いた。
――君を癒すこともできず、君にぼくの命、ぼくの健康、ぼくの年齢をあげられない自分が嫌になるほど、君を愛している……
マレーは自分の瞳がうるんでくるのを感じた。マレーの考えていることが、コクトーにはわかっているようだった。
2人は手と手を重ねたまま、見つめあい、いつまでもそのままでいた。
コクトーのかかりつけの医師は、最初の発作のときと同じくモルヒネを処方した。だが、通常期待できる効果があがらない。
マレーがそばに呼ばれた。医師は理解できないふりをしていたが、マレーはなぜ自分が呼ばれたかわかっていた。コクトーは麻薬に耐性がある――マレーは医師には、コクトーが阿片を吸っていることを話さなければならないと思った。
モルヒネの量が増やされた。病院嫌いのコクトーが入院を拒否したため、アパルトマンはかかりつけの医師が常駐させた別の医師、看護婦、マレー、ドゥードゥー、キャロル、家政婦のマドレーヌでいっぱいになった。どう考えてもこの家は狭すぎた。
少し容態が落ち着いたところを見はからって、マレーはコクトーにマルヌの自分の家で療養しないかと申し出た。今度は拒否される理由はないはずだった。ところが、コクトーはこれまでと同様に、自分はマルヌに住むことはできないと言い張った。マレーは狼狽し、断わられたことに半ば腹を立てながら、説得にかかった。
「ジャン、マルヌの家は平屋だし、庭もある。日当たりもいいし、ずっと静かだ。ここはカーテンを開ければ外から覗かれるし、人が通れば足音もうるさい。何より狭すぎるよ。ね、お願いだ。マルヌに来てくれ」
「ぼくは君の家に住む資格はないよ。ここで十分だ」
「資格も何も…… どうして君はいつもそうやって、ぼくの家に住むのを嫌がるんだ?」
「嫌がっているわけじゃあないよ、ぼくのジャノ。ぼくは君を愛している。いつでも一緒にいたい」
「だったら……」
「――でも、マルヌにはぼくは行かない。ぼくみたいな卑しい人間には、君の家に住む権利はないんだ」
まったく理屈にならないことを言いつのったあと、コクトーは眼をつむり、すぐに半ば眠ったようになった。コクトーの枕元でマレーは困り果てていた。
と――
そこへ、思いもかけない訪問客が現れた。絶交したはずのフランシーヌだった。
「フランシーヌ!」
マレーは立ち上がり、彼女を抱きしめた。
「来てくれたんだね。ありがとう」
コクトーは眼を開けない。気づいていないようだった。
マレーは部屋を出て、コクトーとフランシーヌを2人だけにした。
このときの様子をコクトーは、後にフランシーヌの娘のキャロルにこう書き送っている。「君のお母さんがぼくを抱擁しにパレロワイヤルにやって来たとき、昏睡状態のぼくは夢を見ているような気がして、ぼくのかわりにぼくたちの諍いが死んだような気がしたんだ。ぼくはもう回復できないだろうけど、そのことを心に留めておいてほしい。ぼくへの愛を失わないで。ジャン」
フランシーヌがコクトーの部屋から出てきた。小さなサロンで待っていたマレーの向かいに座る。
「ジャンは?」
「また眠ったみたい」
「そう……」
「――なぜだか、教えましょうか」
「え?」
「ジャンがあなたの家に住めないと言う理由――私知ってるわ」
「聞いてたの」
「聞えたのよ」
「……なぜなの?」
「――また阿片を吸い始めたこと、あなたに知られたくないのよ」
思いもかけない理由に、マレーは絶句した。
そんなことはとっくに知っていた。サント・ソスピール荘、ミリィ・ラ・フォレ、そしてモンパンシエ通りのアパルトマンのコクトーの部屋に残る独特の香り。あえてコクトーに言わなかっただけで、むしろマレーは2人の間の暗黙の了解だと思っていたのだ。
「ジャンはあなたの前では吸わなかったでしょう?」
「それは……それは、そうだけど。彼はぼくにバレてないと思っているの?」
「そうよ。だからサント・ソスピール荘でも、あなたがいるときは吸わなかったのよ、無理をして」
「理由がそんなことなら、問題はなにもないよ」
これまでコクトーに何度も同居をもちかけては断わられ、マレーはどこかでひどく傷ついていた。最初にアパルトマンを出たのが自分である以上、深く追究できなかったのだ。
「ねえ、フランシーヌ……」
マレーはフランシーヌとコクトーの問題にも知らんふりはできないと思った。遠慮がちに、コクトーはフランシーヌとの和解を心から望んでいると言った。
フランシーヌの表情をこわばらせた。
「誤解しないでね」
肩をすくめて言う。
「私は、私がいないときなら、いつでもサント・ソスピール荘を使っていいとジャンに言ったのよ。なのに、彼は出て行ってしまった。――出て行ったのはジャンなのよ。私が追い出したわけじゃない」
「それは、もちろんそうだけど……」
「あそこは私の別荘よ。私が誰を呼ぼうと、私の自由じゃないかしら」
「それも、そうだけど……」
「自分で言うのも何だけど、私はとても寛大だったつもり。ジャンに対しても、ジャンのお友達に対しても、ね」
「もちろん君には感謝してるよ。ぼくも含めてジャンの友人はみんな、ね」
「でも、ダメね。13年の年月が、私たちをなあなあにさせてしまったわ。私たちはもともと縁もゆかりもない他人なのよ。私はジャンを尊敬していたし、最大限尊重してきたわ。――でも、だんだんに気づいたの。ジャンには私を尊重する気がないのよ。私はいつも彼の母親、よき遊び相手、そして崇拝者でいなければならなかった。ジャンがそれを要求したのよ」
フランシーヌの不敬な物言いにマレーはカチンと来た。隣室でコクトーが寝ていなければ、相手が女性とはいえ、大きな声を出したかもしれない。
「ジャンがそんな態度を要求するなんて、ぼくには信じられないよ。ジャンは愛することを愛する人だ。それ以外、何も求めない人だ」
できるだけ小さな声で、穏やかに言った。
「あなたにはね」
フランシーヌは投げやりな表情を浮かべた。
「ジャン・コクトーの中には男と女がいるのよ。それはあなたが、一番よくわかってると思うけど?」
「……」
「ジャンの中の『女』は、あなたのような男性には、ひたすらひれ伏すのよ」
「――確かに、ジャンの中には男と女がいるかもしれない。でも、それは彼が詩人であることの証明なんだよ。いや、詩に限らない。創作活動というのは、常に一種の単為生殖なんだ」
「私は芸術の話をしてるんじゃないの」
フランシーヌはぴしゃりと言った。
「これはとても生理的な話。――いつのころからか、ドゥードゥーが養子になったあとも、ジャンにとってあなたはまったく別の、特別な存在だってわかったわ。ジャンはあなたを太陽だって言うわね。彼は太陽のように、あなたからすべてを期待してる。――私たちと一緒にヴェネチアに行っても、サン・モリッツで過ごしても、サント・ソスピールで大勢の招待客に囲まれても、彼の心はいつの間にか、ジャン・コクトー通りを駆けていって、あなたにキスするのよ……まるで乙女のようにね。彼は生理的にあなたを必要としてる――なのにあなたがつれないから、寂しがり屋の彼は、別のもので埋め合わせようとしたんだわ……」
まるでマレーに原因があるとでも言いたげな口調だった。マレーはジョルジュを思い出した。マレーへの気持ちが冷め始めたとき――少なくとも、マレーの猜疑心はそう思っていた――ジョルジュはコクトーを持ち出して、責任をコクトーにかぶせた。
「……最初は微笑ましいと思ったことも、時間がたつとむなしくなってくる。いつまでたっても自分を心の中心においてくれない人と一緒にいるのは、苦痛なの。――もう十分だと思うわ。私はジャンに対してできる限りの献身をしたつもり。非難される理由はこれっぽちもないでしょ。これからは私の手で、自分の人生にもう一花咲かせたいのよ」
こうした状況でマレーが口を挟むのは、火に油を注ぐようなものだろう。マレーは黙って聞くしかなかった。
「13年は長すぎたわ――」
フランシーヌは、視線をはずし、遠くを見た。
「何だったのかしらね、私たちの13年は…… でもはっきりしてよかったと思うべきね。破綻する関係は、結局破綻する運命なのよ――そういえば、あなたは、このごろジョルジュと全然一緒にいないわね」
「……」
「ジョルジュはあなたの家に、何年いたの?」
「……10年だよ」
「そう。私とジャンとの年月とあなたとジョルジュとの年月って、不思議と重なるわね。――そう言えば、最近はもっとずっと若い男の子といるそうね。ハンサムなんでしょう?」
明らかにあてこすりだったし、むしろ挑発に近かった。マレーは怒りを感じた。今や2人は一触即発といってよかった。
そこへ、奇跡のように呼び鈴が鳴った。
マレーはほっとして立ち上がり、玄関を開けた。
天使が舞い降りたように、マドレーヌ・ロバンソンがそこに立っていた。
「マドレーヌ、君か」
「あなたがこっちだって聞いて来たわ。ジャンの具合はどう?」
マドレーヌはサラ・ベルナール座で『恐るべき親たち』の上演を企画していた。もちろんマレーが父親ジョルジュ役、マドレーヌがその妻イヴォンヌ役だった。その打ち合わせもしなければならなかった。
「じゃあ、私はこれで……」
フランシーヌが立ち上がった。マレーは何とか、また来てもらえると嬉しい、と言うことができた。
フランシーヌは頷き、マドレーヌに会釈して、出て行った。ほっそりとした優美な後姿をマレーとマドレーヌが見送った。階段をおりるとき、咳をしているのが聞えた。胸の奥から吐き出されるような、たちの悪い咳だった。
マレーがそっとコクトーの部屋のドアを開けると、コクトーはまだ眠っていた。
<明日へ続く>