あんみつの音らく

2013/07/22(月)02:16

母親と久々の着物談義

昨夜は2時間も母親と話し込んでしまった。 恐るべし、インターネット。 世界が近く感じられるようになりましたねぇ・・・。 最近は昔ほど、あれをせい、これをせい、そこは何センチ、ギュッと締めて!とか言わなくなった母親です(2年会話を続けると、こんなに変わるものかと何かしら興味深いものを感じます)。 昨日は、持っているタンスのどれを処分して、どれを残しておくか、の話から、 銘仙やらお召の話になって、そこから木綿やウールの話、それからかつて母親が通った着物スクールの話となりました。 私がアンティーク好きの女の子は、みんな銘仙に夢中みたいねぇ、と言うと、 母親曰く、昔むかしは、祖母なんかが着物を母親に渡すときは、 「この着物は銘仙やから大したことはない。」 というように、他の柔らかい着物とくらべて、割りと雑多なものの言い方をしていたそうです。 ところが今では貴重なものになりましたねー。 アンティークの着物では銘仙は競争率が高くて、 ネット・オークションでも何度も取り逃がした経験があります。 ふっとぼんやりしていると、もう既に誰かに買われていたり。 その一方で、意外とお召は競争率が低いような気がするんですよね。 でも、母親の記憶では、お召は銘仙に比べて、割りと「いい扱い」を祖母から受けていたらしいのです。 「お召は、割りといいきものって言ってた気がするのよねぇー。」 へぇー。お召のこと、ジャージみたいとか言ってすみません(苦笑)。 でも、今じゃ銘仙もお召も紬も柔らかい着物も全部ひっからげて3桁台で売っているので、 何が何やらよくわからないので、おばあちゃんが、1つ1つの着物をどう見てたのかなんて 話をきくのはなかなか楽しいもんです。 私は、個人的には木綿の次に、お召が好きです(単に、それぞれTシャツとジャージと肌触りが似ているというだけで)。 そんな話から、今度は母親が通った、という着物スクールの話になりました。 「最初に1)浴衣、で2)ウール、それから3)柔らかい着物になって、お太鼓。4)名古屋ができたら袋帯、それから5)訪問着で二重太鼓、で最後は6)振袖で飾り帯だったのよ。」 ひょえぇーー。 ていうか、浴衣なんて習いに行く必要あるのー? で、昨日まで知らなかったのですが、私の母親は訪問着の途中でやめたそうです。 本人曰く 「そんなん、振袖なんか自分で着ぃひんやん?飾り帯なんて自分でもせぇへんし。アホくさいからいくのんやめた。」 まぁ、本当のところをいうと、ちょっと難しくなってきたからやりたくなくなったんでしょうな。 「お母さん、生まれてから今までで何回訪問着なんて着た?」 「ほとんどないわな。」 「習いに行った意味あるん?」 「プロになって、人に着つけるようになるんやったら意味あるやろな。でも、お母さんなんて毎日着物なんかきぃひんから、まったく意味ないわな。あんみっちゃんに着せてあげられるくらいや。」 「(いや、おかあさんのはキツく締められるからいややなぁ)・・・あ、ありがとう」 と、本人も今になって着物スクールにかよったのはほとんど意味がなかったなぁ、と昔を思い出している様子。 「でも、おばあちゃんたちは、スクールで習ったような着方してなかったんでしょう?」 「せやなぁ、してへんかったなぁ。でもなぁ、おばあちゃんたちも最初は着物やってんけどな、途中からアッパッパーにかわってしもたんよ。だから、ちょっとしか覚えてへんねん。」 「じゃぁ、◯◯んとこのおばさんは?芸者さんで呉服屋さんだったんでしょ?」 「あぁー、◯◯のおばさんはな、今、あんたがアメリカに持っていったあの着物なぁ。あれはな、 もう紐がついてあるやろ?それで、おばさんがいうには、あれ着て上からつっぱり着てたら、お正月に人が急に訪ねてきても大丈夫や、いうて誰かに縫わせたか、縫ってくれたかのどっちかやねん。」 「あれ、もうおはしょりも作って縫いつけてあるから5秒で着られるよ。」 「あ、あのおはしょりはなぁ、多分、あんたのおばあちゃんが縫いつけてくれたんやったと思うねん。◯◯のおばさんは、紐をつけといてくれて、おはしょりはおばさんやなくて、おばあちゃんやったと思うなぁ。あれはな、つっぱり上から着るからな、お正月は寝正月でも、帯もせんでぱって外出られるからええねんで。」 いやぁ、こんな話が聞けるとは思わなんだ。 なんだ、みんな帯なしで上から何かきて誤魔化すって、結構手抜きしてたんだな。 私と同じじゃないか。 おはしょりもめんどくさいから最初から縫っておくって、私も夏休みの間に全部縫いつけてしまっとこかな。 「ところで、お母さん。じゃあ、着物スクールとかいっていろんな道具買わされたんちゃうのん?」 「せやなぁ、伊達締めとかかなぁ。」 「あのさぁ、お母さん。最近知ったんやけど、コーリンって何?」 「ああ、あれはな。パチンってやるやつや。最近(注!母親の感覚の最近はここ数十年)のや。」 「あんなん、みんな使ってるもんなん?」 「あれはなぁ、着物が痛むって言ってなぁ、ほんまは良い着物の時にはみんな使いたがらへんねん。途中から出てきて、便利やゆうことやねんけどな。お母さんは慣れへんから使ったことない。」 「じゃあ、みんな紐なん?」 「紐があったら、なんでもできるし、そんでええねん。」 ここから、母親から思いがけない一言。 「あんみっちゃん、最近はな、着物ってはやってんねんでぇー。若い子とか、楽しんできてるねんでー。」 (いや、それは、私がお母さんに言い続けてきたことでは・・・) 「だからな、みんなおしゃれで、色々楽しくて、面白いことしてるねんで。あんたもやりやー。」 「お母さん、もうやってるよ。。。でも、知ってた?最近、中学校の教科書に着装とかいって、なんか学校教育にもぐりこもうとしてるみたいよー。」 「そら、あかん。浴衣の着方なんか学校でおしえてもろてどないすんの?」 「そうやんなぁ?あれ、バスローブやろ?」 「せやせや、あんなん巻いといたらええだけやのに。学校で浴衣を作るんならともかくも、着るだけて、そんなもんどうやって成績つけるんやろ。」 と、母親は割りと反対気味。 基本的に「浴衣」は書いて字のごとく、バスローブやと。 それを学校で教えるとは何事!?と、少々驚きの様子。 まぁ、逆手に取ればこれを覚えたらあとは色々と応用がきく・・・かも。 でも、1年間に1日か2日バスローブの着方を教えて、 それで終了だったらあんまり意味が無いかも。 だからって冬にはバスローブは着られないし・・・。 「一度習慣やら慣習じゃなくなったものを、もう一度国全体の慣習にするっていうのは難しいものなのよ。で、手っ取り早い方法は学校教育ってわけやな。」 ブータンでは確か、外では、自分たちの伝統的な衣服の着装が義務付けられているような。。。 古いものを呼び起こそうってのの裏側が、色んなものの利権やらに突き動かされての形の場合、 やはり、どこかに歪が出てくるのは当たり前。 でも、今は集団じゃなくて、個人がしっかりとした時代。 色々な大きな権力に振り回されずに、自分がこうと思ってしっかりとしていたら大丈夫な時代。 画一的な教育が施されたとしても、そこから飛び出す人は必ずいるものねぇ。 私としては、この着物なら着物を中心に色々な会話が増えていくことのほうが、着物をどう着るかっていう方法そのものよりも大事なような気がしています。 アメリカもそうですが、最近はインターネットの存在が当たり前で育った世代が成人してきています。日々のコミュニケーション、インタラクションが通常に出来ない子供たちも増えてきています。自分が「ここは安全だ」と思ったら、その安全ゾーンから超えないようにする人たちが増えてきている。 なので、もし誰かが「こうですよ!」と教えたら、それを疑うことも、そこからあえて外れてみることもできずに、停滞してしまう。 そんなときに本当に対話・会話ができる子たちだったら、いろんな人たちと言葉をかわして、 自分で考えて生きていくことができると思うんですよね。 学びってのは、自分が築きあげてしまった「安全ゾーン」を超えた瞬間から始まるんじゃないかなぁ。これは、個人だけでなく、今の画一的な教育、なんたらスクールみたいな大きな団体にも言えることかなぁ・・・。

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