「文芸時評」読んだ。
☆更新なし。☆詩的思索。 昨日の「沖縄タイムス」文化面に鈴木次郎氏による「沖縄・奄美・日本 文芸時評」が掲載されていた。「文芸」といっても同紙には「詩時評」があるため、この欄では毎回小説に関しての考察が連載されていたが、今回は貘賞に関することだった。今年度受賞者の松永朋哉に関して、氏は「店頭に置かれていないので、私はまだ受賞詩集の『月夜の子守唄』を読んでいない」としつつも「「琉球新報」紙上に載った「鏡」を読んで、優しいが幼いと感じた」とし、「この程度の認識なら、詩人に限らず沖縄で文学を志した者なら、青年期で卒業している」としている。そのうえで「沖縄の詩人たちの沈黙」が「気になる」として以下のように述べられる。 「私見を述べれば、貘賞詩人にはユニークな者もいれば、素人に毛の生えた程度の下手くそな詩人も、最低十人はいる。そして相変わらず進歩せぬまま「詩人」として振る舞っている。どうぞご勝手に-。しかし優れた詩人が、貘賞を受賞しなかったというだけで、下手くそな詩人に対し肩身の狭い思いをしていたら、これは由々しき事態だ。」 そして「これへ抗する発言」として大城貞俊『憂鬱なる系譜』と『あらん』創刊号の新城兵ーによる宮城隆尋論をあげている。 新聞紙上で今回の貘賞に異を唱えた文をはじめて読んだ。それが詩壇の内からでなく、これまで小説に関する評論を書いてきた鈴木氏であることが、県内詩壇の現状をよくあらわしているように思う。批評行為の活性化が必要だと思うのだが、詩に関しての研究者がいないという構造的な問題があるのかもしれない。 『月夜の~』は確かに荒削りで、未熟な点が多いとわたしも思う(わたしも未熟だが)。その点を他の詩人たちが感じていないはずはないと思っていたのだが、新聞紙上での発言はなかった。 しかしなかには普遍性を得ていると感じた作もいくつかある。以前述べたので詳しくは書かないが「夢の記憶」や「ジャメ・ヴュ」など。「店頭にない」とあるが、国際通りの球陽堂と県立図書館には置いているはずなので、氏には読んでから改めて評してもらいたいものだ。 あとわたしが思ったのは、この文脈の中に年齢付きでわたしの名前を出されると、鈴木氏はわたしに関して良いとも悪いとも書いていないが、松永と同様に批判の対象にされているように読めてしまうので困る、ということ。もし鈴木氏が批判の対象に含めているのであれば根拠を明示してほしいところ。恐らくただ新城兵一氏による「抗する発言」として提示しただけだとは思うが。 論旨としては、貘賞の評価基準がわからないということだと思うし、わたしもそれはわからないので同感だが、「大事なのは賞という外の基準に振り回されることでなく、自分の内の基準に忠実であること」というのは創作者にとっても批評者にとっても自明のことであると思う。しかし松永を推した選者天沢退二郎氏の「鋭敏過ぎる感性」と松永の「幼さ」との「質の違い」を指摘した点は興味深い。☆昨日のアクセス数は27。累計1208。