『日航機墜落 123便、捜索の真相』河村一男(イースト・プレス)
先日もテレビドラマが放送されてました、日航123便墜落事故関係の本です。著者は、元群馬県警察本部長で、元日航機事故対策本部長、つまり123便墜落事故の捜索などの陣頭指揮を執ってらしたかたです。そのため、この本の中には、ニュースなどでは出てこなかったいろいろがたくさんあります。著者が見聞きしたこと、当時のメモなどを基に書かれているため、ニュースでしか知らなかったこと以外の事実がたくさんあります。帯にも、『2000名が見た地獄!警察の最高指揮官が、20年目にしてすべてを明かしたノンフィクション!』とあります。また、『墜落現場は御巣鷹山ではない!』ともあります。実はこの墜落現場の確定こそが実に困難を極め、後々人々からいろいろ言われることになっていくのです。表紙裏に添付されている地図によると、正確な墜落現場は三国山と御巣鷹山のほぼ中間地点、地元の人がスゲの沢と呼ぶ辺りです。実際、墜落現場を映像で見た人たちは植林された木々を見て一目で現場を言い当てたそうです。でも、警察などに入る110番からの情報では、長野、群馬、埼玉と分かれ、情報が錯綜します。とりあえず長野側と群馬側に分かれて入山するも、ヘリが現場上空で位置を知らせてくれるものの、無線などの疎通ができず、なかなか現場にたどり着けなかったそうです。それに、アメリカ軍の輸送機がたまたま近くを飛行中で位置を知らせてくれていたこと、自衛隊がF-4EJ(ファントム)を緊急発進させてやはり現場確認をしていること、しかし省庁間の相互連絡の不備で出動要請などにはいたらなかったこと。その上RCC(救難調整本部)の対応のまずさがあったこと。レーダーから機影が消え、連絡が途絶えた時点で速やかに自衛隊に災害出動要請をすべきだったと、著者は振り返っています。省庁間の縦割り行政の弊害で横の連絡が取れていないため、こういった事態に対応しきれないのが実情とのこと。それと、この本の中で少しだけ触れられていますが、123便の墜落には自衛隊の標的機が追突したとの情報があり、一部軽薄なマスコミがなんら検証することなく引用、その上警察がその事実を隠すために意図的にあらぬ方向を捜索したと主張していたそうです。山また山のもっと山奥に落ちた事故機の捜索に、危険を覚悟で山岳部をよじ登り徹夜で現場を目指した人たちを愚弄する意見だと思います。今でもこういう誤った批判を繰り返す人たちがいるそうで読んでいて非常に残念でした。長野県警のレンジャーがヘリコプターから降下、自衛隊もすぐあとから降下、そのあとも続々ヘリコプターから警察や自衛隊が降下して捜索に当たります。このあたりは時間ごとの表にされていて、どの舞台が何処でどういうことを行っていたのかが人目でわかるようになっています。自衛隊の舞台は、減りから降下した部隊、地上から入山した部隊と多くの人員が投入され、応急のヘリポート作りなども行っています。寝食も忘れ、ただひたすら乗客の捜索に当たる人たちには頭が下がる重いです。この本を読んでなおそう思いました。一日1個のおにぎりでがんばった日もあったようです。それなのに、いまだにあの事故は自衛隊が関係している、などという意見がちらちら出ているのはどういうことでしょうか。事故機の垂直尾翼は相模湾に落下していたそうですが、回収されたのは垂直尾翼の一部だけでした。これらの事実もなおいっそう自衛隊が怪しいと思われている一因のようです。著者はこの事故を振り返って、初期情報の混乱は当然と言えば当然だが、その後の訂正が不十分なのはひどいと言ってます。この本を書いたきっかけも、「責任者の代表として、正しい事実を書き残せ」とすすめられたからだそうです。あの事故のあと発行された本や雑誌の多くにあまりにもひどい内容のもんが多かったのだとか。対策本部は8月12日の事故発生から12月21日の解散まで、135日にわたりました。この本にはその135日の内の最初の2日間を中心にまとめられたそうです。生存者救出のための現場到着が遅すぎると言う批判も、検証されています。この事故は航空機史上最悪の事故でした。123便、と言うだけであの事故を思い出す人も多いと思います。今あの当時の捜索体制のあれこれを批判するのは簡単です。でも、それだけではいけないと思います。まさかのときに備えて、これを教訓として、より柔軟な体制が取れるように準備しておくことがこの事故の教訓ではないのでしょうか。