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カテゴリ:批評
杉並区立富士見丘小学校で行われた総合学習のレポート。大いなる理想とは裏腹に現場の先生への丸投げが実態であるこの授業。演劇をとりいれる様子を1年間密着取材。
と簡単にいえばそうなのだが、講師陣がすごい。渡辺えり子・小椋桂・鴻上尚史・谷川俊太郎・青井陽治・吉田日出子・・・ってなんだこの豪華さは。世の演劇人がくやしがる人選。だれがプロデュースしたのか知らんが小学生贅沢!たぶん価値がわかるのは10年先だろうが。 現場はもちろんのこと講師も戸惑っているようだった。 自由なコドモの発想とは幻想である。 カラダをつかったり質問を投げたりして発想をやわらかくしようと悪戦苦闘する講師陣。なかなか「開かない」子供たち。自由を教えないと自由にならないという皮肉。自分でさえ表現できない子供たち。必要性の問題なのか、警戒心なのか。渡辺えり子のいらだつ表情をカメラは見逃さない。 鴻上尚史がそのへんをうまく解説していた。「コドモはなぜか公式コメントをしてしまうんです。さっきまでワークショップの中でいいネタを喋っていたのに」←この人は解説はシャープだ、脚本はおいといて(悪口)。 これってなんだろう。 源氏名みたいな人名の氾濫に象徴される(←オレもやがてはコドモにつけてしまうんだろうか)個性コンプレックスを持つ70年代以降生まれの親たち。その願いとはうらはらに均質性を要求される日本社会。そのねじれとでもいうんだろうか。 いろいろな答えがあっていいはずなのに無難なこたえ、傾向の出る答えをついしゃべってしまうコドモ。もしかしたら「好き」「嫌い」でさえ言いたがらないかもしれない表情。おたがい距離をとりすぎて「自己」を問われる場がまだないんだろう。校長が九州の教室の殺人事件を例にだして対人距離を語っていたように、おしゃべりはしてもコミュニケーションは成立していないのってどうかなあ? その中でもときどき「負」の感情であってもいらいらした顔、つまりは感情をさらけだす子もいてどきどきしながら観る。 しかし総合学習の発表の場が近づいてくる。他の学年がふつうのお芝居なのに対して6年生は「演劇」であっても「芝居」ではない。青井の提案で舞台上で渡されたテーマについて自分の考えていることを発表するのである。不安がる子供だち。 舞台の後、コドモの表情が一変する。大勢のひとを前に自分をさらす機会をもったことでなにか一皮むけたようなキラキラした目をするようになるのだ。自己をみつめるはじめての機会だったのだろう。いちおうは結果は出たのだ。 親も教師も未知の子供の姿。本人にとってもそうかもしれない。教師が「私ならこれは聞かないでおこうと思っていたことも授業でコドモにつっこんでいるのが新鮮だった」と話しているのが印象的であった。やっぱり難しいんだろうなあ「踏み込んだ教育」って。親じゃないしね。プライバシーと愛情と。まじめであるほど傷つくんだろう。 欲をいえば参加者の時間をおいた感想が聞きたい。やっぱり無難なこたえなんだろうか。(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年05月05日 23時27分25秒
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