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カテゴリ:批評
蜜柑氏から借りる。
ヘタな演出家(あるいは映画監督)や役者は「間」を間違ってつかう。 「間」とは一定時間黙ることではない。確固たる意図をもって喋らない(喋れない)瞬間のことである。声に出さなくても代わりになにかが語る。それを「間」という。語らないのは「間」ではない。ただの空白である。 沈黙する饒舌があれば饒舌な沈黙がある。 たとえば雪の絵を描くとき白い部分を手つかずでだすだろうか?なぜか映像作品や舞台作品には時間経過・展開なき空白が許されている。そしてそれは睡魔を誘う←私のアンテナとセレクトが悪いのかもしれないが。 この作品には「間」がある。しかし隙間はない。蜜柑氏は写真好きの視点から語っていたが、人との距離にこだわる視点はたしかに写真家のそれである。 本作はさびれた銭湯を舞台に夫に失踪された女の心のゆらぎを描いている。絆の不確かさをくりかえし語ることで逆に絆への想いが強くなる不思議。銭湯=羊水の暗示。という言い方は直球すぎるか? 奇妙な周囲のオトコたち。謎の男が住み込みで働きはじめるスリリングな展開。性的な展開をとことん抑制(むしろ抑圧)する構成が濃厚。すこしずつ明らかになる女の過去も、静かに胸のざわめきを起こす。消せない過去。死の匂いが漂うからこそ、ふつうのやりとりがいとおしい。 登場人物たちのさめた、おびえたまなざし。漂うような、ゆらぐ空気感。わざわざ「クール」に振舞わなくても低血圧・低体温で暮らす多くの現代人のための物語。 読後しばらくするとじんわりとあじわいがゆりかえす。砂時計のような時間。反芻したくなる。(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年01月25日 08時08分04秒
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