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カテゴリ:批評
床屋に行ってから芝居に行こう。そう思ったのは偶然だったのだが。
髪を切ってさっぱりした感覚と今日みる作品がリンクしていたような。不思議だ。 無教養の美容師が、知の世界に倦んでいた酒びたりの教授の社会人講座に参加することからはじまる物語。知への興味を抱く粗野な女性と、無教養の純粋さを愛する教授と、一見ミスマッチな出会いの化学反応が描かれていく。 時間の経過の描写がすばらしい。場と場をつなぐ役者のいない空間にただよう空気。関係性の変化。女の成長と男にめばえる「嫉妬」。言うことが2人で逆になっていく皮肉。演劇的な余韻・「間」として有効につかわれている。 こまやかな演技も見逃せない。現状から抜け出そうともがく女のきらきらした目と、だんだんもどかしさを覚える男。変わらないことを望む男と、変わることを望む女。直球な感想しかいえなかった女が批評を吸収して変わっていく関係。そして変わらなかったもの。 先生らしくない先生を求め、出会いながら先生を必要としなくなったからこそ、生徒が講座に申し込んだときの身分の美容師の技術で髪を切るラスト。リニューアルされた2人の姿に泣ける。 街の音がうっすら聞こえるこの劇場の雰囲気が作品にあっている。閉鎖された空間に外からもれてくる「世界」。計算したかどうかはわからないが、作品のもつ閉塞感と時間が運んでくる「解放」にリンクしているようだ。 また、経験豊富な男優とまだまだ瑞々しい演技をする女優(うっかりすれば荒荒しいが)との組み合わせも企画としては成功といえるだろう。 いましかできない芝居というものがあるならこれがまさにそうだ。同じキャストで再演しても同じものにはならないだろう。消費されるメディアとしての芝居。巣立つものと見送るものとの関係。これもまた“Only connected”か。 野心から知を知り、畏れ、尊び、わがものとし、自分をみつけていく女性。子供の成長を見守る親のような気持ちになる。 ただ粗野だった登場から、知的で魅力的な存在へと変わっていく姿。いい仕事をみた。 褒めすぎなのであえて難点をいうなら(あくまであえてなんで、いちゃもんに近いが)。 教養への距離、教養を前提とした世界へのアプローチが固すぎるところか。知っていて当然、という教養を扱う世界を力むことなくわがものとしてやわらかくあっさりと扱え、というのは日本に住んでいて求めるのは酷かしらん?(♂)前回の公演 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年02月18日 12時26分34秒
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