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カテゴリ:哲学
知人から芝居のDMが届いた。
それはまあいい。衝撃だったのが、チラシと同封されて手書きのマンガが入っていたことだ。挨拶文のかわりにである。画像はさすがに載せない。 ヘタ上手ということばがあるが、ヘタ上手を狙ってヘタという、よくあるパターンである。外したギャグのつもりが外れているとしかみえないような。 激痛。 学生芝居では勢い勝負の「ガロっぽい」デザインはよくみかける。頭が悪そうだけれど、まあ若さの過ちということで許そうみたいなヤツだ。まさか30代になってこういうデザインで来るとは。 なにがあった? もともとそいつがマンガを描くという話もきいたことがない。残念ではあるが退化だ←といってしまおう。マンガという手段がダメというわけではない。質の問題である。キャリアを積んでいるなら、キャリアにふさわしい練られたモノがないとダメだ。 もう人生3分の1過ぎてるんだから。 表現の場に長くいれば、ときには停滞することもあるだろう。ただ、その挨拶文代わりのマンガから感じられたのはそういう一時的ななにかではなく。志を失ったなにかだ。 どうするんだろうこいつは。たとえばいまから3年後、こいつが演劇ぶっくの表紙を飾る(それもどうかと思うけど)のはありえない。表現の神様に生贄としてささげた普通の生活にみあったものをヤツは得ているのか。 オカネじゃない。魂の話だ。 こういうがっかりって表現の世界にかぎらない。 自分がいまやっていることを胸をはってひとにいえるか?それを問い続けていたい。さもなければいつか私も他人様にそういううっかりな痛い「挨拶」をしてしまうだろう。 逆にいえば今停滞していたとしても上を、前を見続けているかぎり磨かれていくものがある。 このDM痛いよ、とか、もうやめたら?って素直に世間様として伝えてやればいいのか?それができない私はたぶんもう友達とはいえないのだろう。 余計なお世話なのは百も承知だが。 ・・・ねえ、元気?(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月09日 05時42分12秒
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