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カテゴリ:家庭
会社で飲み会。楽しくは飲めたが若いひとがいうところの「コミュ力」のなさを実感。
結局はそのひとをどこまで知りたいか、ということなんだろう。 糸口を探すべくいろんな方面の質問をくりかえしていると不毛な気持ちになってくる。 なんで俺だけこんな努力をせにゃならんのだ? ・・・と思い上がった考えが浮かんだ時点で負けだ。 なんでここまで踏み込んで聞く必要があるのだ? ・・・と遠慮しても負けだ。 たしかに相手がボールを投げ返してて来ないのも事実だが(あんまり私に興味ないのかしらん)それならそういう対応をするのが大人というものだ。 だれと会話してもネタを拾える。そんなひとになりたい。 と書いていて気づく。 blogのネタさがしと思えば質問も苦にならない。わりきって質問力を磨いたほうがいいのではないか。 どうしても連続する質問を恐れてしまう(尋問かよ)けれど、大切なのは会話の形よりも中身だ。 私の義姉はいう。 のみたいときがのませたいとき そういって注ごうとした麦酒をこちらに注いでくれるのだが。 会話でも同じではないか。 聴きたいときが聴かれたいとき 自然に、というと自然でなくなる。なにが聴きたくてどうしたいのか?というおのが欲望に忠実に話せばいいだけだ。 その「だけ」のなんとむずかしきことよ。(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月06日 08時39分20秒
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