お坊さんと猫
週末、法事で300キロほど離れた県へ。無論、猫達は留守番である。滞り無く法要を終えた後、最後にはお坊さんの話を聞くのが慣わしになっているのであるが、この度の話は「なるほど~!」と腑に落ちたものがあったので紹介したいと思う。「某大学の教授は原子や分子の研究者であるが、彼曰く。『ニンゲンも犬も猫も、本、空気でさえも原子の集まりで出来ている。例え原型が朽ちて元の形を無くし別の物に変化したとしても、完全な「無」「ゼロ」になるのではなく、新たな原子としてまた新たな形となり、新たなモノとなり、また別の何かに変化して行く。』のであると言う事を聞いて、そう言う現代科学と仏教の輪廻とは、つまり同じではないかと私は思うのですね。」とお坊さんが言った。目から鱗であった。心臓が止まり、暖かい温もりが次第に冷え、冷たくなり、やがて硬直し、血の気が失せ、二度と言葉を交わすことが出来なくなった時。深い悲しみは付物である。時には同じくして後悔や未練、或は悔しさがあるかもしれない。大切な家族や知人、友人を失った時の喪失感は時ですら解決出来ない事もある。今回、その話を聞いて「輪廻」の云わんとする意味が漸く分かったような気がした。ある時は空気の一部として。またある時は土の一部として。そしてまたある時は生態系の裾野の一部として、生命が生命を繋ぐ糧となり、何れは何かの一部となる。「千の風になって」と言う詩が世界的に流行ったが、まさに真理を突いているような詩ではないか。その夜のこと。遅くに1本の電話が鳴った。親友Kからだった。生後約1週間の仔猫が突然、頭上から落ちてきて脳挫傷等で危険な状態であり、今から深夜営業の獣医の所へ行くと云う。ウォーキング中だったKは息がやや上がった声で説明した。どうやら鳥が餌としてさらって林の中の巣へ持ち込んだが暗くなり、仔猫も生きていて動いているうちに巣から落下したのではないかとのことであった。診断の結果、生存率は低いことが判り、仔猫は安楽死の選択肢しか残されなかった。Kは自分の不甲斐無さや目も開かずに逝かねばならなかった仔猫の運命を想い、泣き腫らせた目で仔猫の旅支度をしてやった様である。凹んでいるKに「神様は、Kを選んでその子を託したのだ。」と言う事と一緒に、私はその日のお坊さんの話をした。今の時期、仔猫がはぐれたり、またさらわれるなどして命を落とすことが多い。他の掲示板等でもそうした相談事は多く後を絶たない。また、動物の生態をよく知らずに、暴言や理詰めの一辺倒で動物の排他を謳う輩にも出くわすが、自然の前では何一つニンゲンは威張れるような存在では無いと私は思う。この度のお坊さんの話に私自身も救われた気がした。お坊さんは最後に言った。「人間も、動物も、ありとあらゆる物は全て仲間であるのです。」と。「ヒトは何所から来て何所へ行くのか。」使い古された言葉である。「何所へも行かないし常に自分と共に在る。」のではないだろうか。水を両手ですくうと水は隙間から滴り落ちる。その下にまた誰かが両手で受ける。そしてさらにまた誰かが両手で受ければ、水もやがて滴り落ちる事は無くなるだろう。水を命と置き換えたらどうか。多くの人達が幾重にも両手で受け止め支える。そうすれば年間3万人を超す自殺者も、28万匹を超す殺処分も無くなる日が来るのではないだろうか。日の光りを見ずに逝った仔猫へ寄す。