児童館廃止から2年が過ぎました
大阪市の児童館廃止から2年、ふりかえる意味で、少し長いですが、あるところに書いたものを抜粋しブログに転載します。児童館とともに大阪市は、一昨年(2006年)6月、大阪市立児童館10館を廃止し、セツルメント研究協議会の時代から共に歩んできた公立の地域福祉施設が大地協の名簿からも消えてしまいました。児童健全育成推進財団が平成19年1月に発行した「児童館 理論と実践」という本を開くと最初に「児童館と子どもたち」という写真のページがあります。そこには昭和24年に建てられた大阪市立西淀川児童館の活動写真が掲載されています。公立児童館としては全国で最初に建てられた児童館です。(「児童館 理論と実践」には大地協が所属する日地協の仲間でもある興望館館長の野原健治氏や雲柱社の服部栄氏も執筆されています)今年7月、けん玉フェスティバルで出会ったおもちゃ芸人Nさんにこの本を見せると「イヤーなつかしいですね。私は創設時の西淀川児童館の利用者ですよ。この写真の先生は私の友人のお母さんじゃないか?」Nさんは、当時のことをいろいろ話してくれました。この写真は、廃止寸前に児童健全育成推進財団が掲載を約束してくれたものでした。同じ年に開設した生野児童館にも当時の写真や昭和24年6月から27年12月までの生野児童館に関する新聞記事のスクラップ240編あまりが保存されていて活発な活動の様子がうかがい知ることができます。この中には生野児童館開設の様子や、生野児童館で生まれた老人クラブ鶴亀会の発会式、移動児童館(バス)こばと号などの記事もみられます。(1991.12大阪市社会福祉研究14号に当時の生野児童館館長内田郁子による「地域における児童の健全育成を考える」の中に新聞スクラップの一部が紹介されています)。57年の児童館活動の総括もされないまま児童館を廃止し、これらの資料も廃棄されてしまうのはとても残念なことです。 児童館廃止については、子どもたちをはじめ利用者やボランティア、地域の人たちから撤回、存続の声が出されました。児童館は地域の人たちと作りあげてゆ<施設児童館廃止の新聞報道があった1月13日、西成児童館ではわが町にしなり子育てネッドホームページ編集委員会と子育て情報紙に載せる子育て座談会が聞かれていました。 このためお母さんたち20数名が集まっておられ、児童館廃止の報道に「えっ!」「どうして!?」 「なんで…」「7月に市長トークで私たちが発表したとき、関市長は子育て支援を約束したんよ、あれはなんやったん」と驚きと失望の声があがりました。 次の日には、児童館の若いボランティアもかけつけてきて、「児童館ほんまに廃止になるんか?」 「これからどうなるねん?」と聞いてきました。子どもたちも「じどうかんつぶれるの?」「あそぶとこなくなるやん!」「もうきまったんか?」「じどうかんこわさんといてほしい」、中学生も「みんなの声を聞かないかん」と児童館がなくなることについてというアンケートを作って持ってきました。 以降、お母さんたちも連絡をとりあって、1月19日には児童館・トモノス(勤労青少年ホーム)を救う会”を立ち上げ、署名用紙を作り活動を始めました。若いボランティアたちも廃止撤回の署名やこの問題の特設インターネット掲示板を開設し、高校生がインターネットを活用して廃止反対・賛成のアンケートを作り、次々と動き始めました。 1月24日に“西成区アクションプラン子ども部会”が聞かれたのですが、その中でおかあさんや若者のこうした行動に対して「これこそがアクションプランです」という声も出ました。 今日もお母さんたちが集まり、とりあえず400名分の署名を地元議員に届けに…こんな活動を目の当たりにして、“住民主体”“住民の参画と協働”といった言葉を浮かべています。 市社協は、発表があった日、所属長を集め、「今後については検討中です」と回答するよう指示しましたが、現場はこれでは対応しきれません。大阪市は、児童館・勤労青少年ホームを廃止したあと、スーパー児童館を作ると表明するのかもしれませんが、住民に何も知らせず廃止のみを発表して、ともに考えようともしない姿勢を続けるなら、いくらいいものを作ってもソッポを向かれてしまうでしょう。 児童館は地域に根ざした身近な施設、コミュニテイ施設です。住民とともに考え作りあげてゆくものです。57年の歴史をもち、住民とともに作りあげてきた大阪市の児童館を、地域の声も聞かずに一方的にマニュフェストで全館廃止を発表することはあまりにも乱暴すぎます。 30数年間児童館で仕事をしてきた者として、児童館が地域の人に大切にされ積み重ねてきた歴史、今利用してくれている子どもやお母さんたち、そこで遊び育ち巣立っていった多くの子どもたちに対して“おもひでぽろぽろ”の気持ちを奮い立たせ、この廃止問雁を直視して力を尽くしたいと思っています。出水敦美(大阪市立西成児童館)当時、こんなようなことをあるところに書いたら、運営主体の市社協から呼ばれ「館長の任務を放棄している、厳重注意する」といったこともありました。私は動くことができなかったのですが、お母さんたちや若いボランティア、子どもたち、地域の人たちが署名やマニフェストのパブリックコメントなど大阪市に声を届けたり、市会議員への要請や話し合いなど様々な活動があちこちではじまっていました。また、他区に引っ越したお母さんがたった一人でインターネットのブログを開設し、存続の声をあげ、どうしたらその声が行政に届くのか、模索しながら児童館の役割を考えていく様子がブログ更新のなかで深まっていくのを見てとても大事なことを教えられた思いでした。児童館の日頃の活動を見ていた近くの人たちも「わたしたちも子どもたちのために何かをしなければ」と子どもと遊ぼう会というボランティアグループを作り始めたりしました。児童館存続の署名は、西成の人たちがまとめたもので知る限り13000名ほどあったと聞きました。大地協の人たちからも多くの署名が届けられました。これまでの反対運動のように組織だったものではなかったのですが大きな力を実感しました。この力が、2006年3月市議会で40年ぶりの継続審議となり、3月末廃止が見送られました。残念ながら、5月議会で6月1日廃止が決定しましたが、これまで児童館が行なってきた活動は建物を転用する子育て支援センターで一定実施するとの方向が出されました。私は、昭和47年、大阪市社協受託の阿倍野児童館に配属、以後大阪市の児童館に33年余在職し、2006年3月で退職しましたが、これまでの児童館活動を支えていただいた人たちや児童館廃止撤回・存続の声に何か応えることができないかとの思いから、これまでのつながりを生かした建物を持たない児童館の活動が可能ではないかとふと思い、条例廃止の6月1日立ち上げ、活動をブログで発信してきました。西成児童館は、2006年6月1日、条例上廃止となりましたが6月末までこれまでどおり事業を継続するとともに転用される松通子育て支援センターへの引き継ぎ、わが町にしなり子育てネットの事務局としての活動を西成青少年会館、西成区子ども子育てプラザへ引き継いでもらうなどすすめてきました。2006年7月1日より、建物は松通子育て支援センターとなり保育所の所管となりました。大阪市は、これまでと同様小中学生の利用については引き続き実施するとのことでしたが館内利用のみでこれ以外の児童館の諸活動については実施しないとの方針を崩さず、児童館が担っていた地域福祉施設(コミュニティセンター)の役割を放棄するものでした。建物を持たない西成児童館の活動は現場の実践活動から始めることになりました。事業の中で、毎年実施してきた夏のキャンプは、児童館を拠点に活動してきたボランティアグループ「ラポール」や地域のボランティア、利用児や保護者との連携でわが町にしなり子育てネットの活動として2006年・2007年夏に実施、子どもまつり等の集い活動は児童館横の公園を拠点に「松通公園あそびの広場」として多くの人たちの協力でこれまでに5回実施、この4月には児童館まつりの看板もかかげて取り組むことができました。また「かえっこバザール」など新たな手法もとり入れ子育てネットの元気まつり等に引き継ぐ役割も果してきました。子育てネットの事務局を引き受けてくれた西成青少年会館も大阪市が2007年3月条例上廃止となり、厳しい事態にも直面しましたが、これにめげず子育てネットワークの活動も西成区子ども・子育てプラザが事務局を引き受け、これらの困難を乗り越え活動の拡がりを見せています。建物を持たない西成児童館の活動も子育てネットと連携して事務局の活動に関わっています。西成児童館の活動は、人と人とのつながりの場です。建物を持たない西成児童館の活動はこれを引き継ぎ、この1年半、多くの人たちとのつながりの中で続けることができました。児童館が廃止となり、建物が子育て支援センターに転用され、児童館事業の継続やこれまで支えていただいたボランティアの活動拠点も失うなかで、ちょっとくやしい思いもこめて「建物を持たない…」と名づけてできる活動を探ってきました。「建物を持たない児童館、いいですね。大阪の池田に“家なき幼稚園”の活動がかってありましたね。志賀志那人も郊外保育を…」と保育の学者が励ましてくれました。私は、大阪市地域福祉施設協議会との関わりのなかでは昭和40年当初の児童館研究会の先輩の先生たちに児童館研修などで教えていただきました。2000年7月、大地協のなかに「児童館研究会」をつくり岡本栄一「児童館と子どもの健全育成」(昭和44年11月刊 大阪セツルメント研究協議会)をテキストに、市立児童館や民間の児童館の人たちと“児童館ってなんだろう 地域福祉施設の役割とは”と意見を出し合ったことを思い起こします。第1回目は菅良介先生のお話でした。この中で「今の人たちに残念に思うことは、おとなしすぎる、怒りを覚えない。…のうのうとしている経営者もいる、非常に残念だ。子どもの施設にいながら子どもの代弁をしない、さびしいなという思いがある」といわれたことが私の頭のどこかに残っています。この研究会は市立児童館の職員の出席が思わしくなく1年余で途絶えてしまいましたが、その後セツルメント研究会として引き継がれました。今も続けられているとのこと、学んだことを地域福祉施設の役割、これからの活動実践に生かしていくことになるのでしょう。「建物を持たない児童館」の原点はここから出ているとの思いがあります。この11月3日・4日、那覇市で全国児童館・児童クラブ沖縄大会が開かれ、400名の児童館・学童保育職員・ボランティア等が集まりました。テーマは「まじゅん育てぃら未来の宝(みんなで育てよう未来の宝)」。私が参加した分科会のテーマは「命どぅ宝(いのちこそ たから)」。西原東児童館前にある樹齢470年の「さわふじの木」の下で、戦争のこと 平和のこと 命の大切さのことを話し合いました。建物を持たない児童館の活動が人と人とのつながり、多くの人たちの参画の場、それらをつなげる役割を果していければと思っています。(大阪市地域福祉施設協議会50周年記念誌「つながろう ひと、まち、そして夢」寄稿原稿)西成児童館の会 出 水 敦 美(わが町にしなり子育てネットhttp://haginet.2.pro.tok2.com/)