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もちろん、だからといって、これまで人間が獲得した知識が役に立たないわけではありません。飛行機は飛ぶし、超高層ビルも建つ、電気のおかげで夜も昼の明るさです。
こうしてみると、私たちの現実がどのようにして成り立っているかなど、日常生活にはまったく関係がないようですが、実際はそうとは思えません。 外側の世界を意識と切り離した独立の存在と捉える現代の考え方が、どれだけ人間が拠って立つ精神的支柱を頼りないものとしてしまったことでしょう。生命や意識とは、物質が進化してできたひと時の幻であれば、死は永遠の沈黙です。 自分や自分の愛する人たちも、死んでしまえばただの土塊に過ぎない。。そんな恐ろしい考えを真実として受け入れた人たちが、刹那的な喜びを求めたり、自分たちのことだけを考えた行動に走ったりするのは、むしろ当然という気すらしてしまいます。 もちろん、たった一度の人生だから大切に生きるんだという、心ある人がいることも事実ではありますが。それにしても、現代の生活は死を忌み嫌い、まるでなきがごとく振舞い、せっかく死を実感する機会である葬儀の場でさえ、きれいにパッケージ化された無機質なお仕着せのごとく感じられます。 強烈な死の実感ほど、生を際立たせ、輝かせるものはないというのに。 結局、私たち現代人が、あたかも中世の人が神に対するが如く信仰している科学は、本当のところ、それが真実かどうかはよく分かりません。津留さんは、私たちのこの頭では理解できないと言っています。 そして、科学万能主義が世の中や人の心にもたらす矛盾や弊害が、もはや無視できないほど大きなものになりつつある今日、そういう考えを手放し、仮説としてでもいいから、津留さんのような考え方を受け入れ、その結果生き方が楽になるのなら、それこそ合理的な考え方ではないかと思うわけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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