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さて、そろそろ本題に戻りましょう。
始めに書いたように、神が「体験」をするために、自我という制限や物理法則といったルールを設け、地球人生ゲームを考案したのだという仮説をおいたとしましょう。 そのために必要となる前提が価値観、そこから生じる固定観念です。 価値観とは、人が事象を裁く因となるものであり、モノサシであり、比較の源泉でもあります。もともと一つであったものを二つに分けるのに役立つものです。。 善と悪、正と邪、プラスとマイナス、偉大と卑劣、上と下。。。 これらのいずれも、ある価値観をもって二つのうちの一方に振り分けられた結果です。 自分の話をすると、私はよく通勤電車で人にぶつかられて腹を立てていました。なんでこんなささいなことでこれほど怒りが湧くのだろうと、自分でも不思議なほどでした。 そして、それは肉体的な痛みというよりも心の痛みでした。自分のなかに「人にぶつかるのはよくないこと、敷衍すると、人に迷惑をかけてはいけない。」という価値観があり、相手の行動を悪であると裁き、そのことによって自分が被害者となり、傷つくのです。 「人に迷惑をかけてはいけない」 今周りの人10人に尋ねたら、その内9人はそんなの当たり前と答えるのではないでしょうか。では、これはどうでしょう。 「働かないと生きていけない、働かざるもの食うべからず」 「今楽しんでばかりいると、必ず後で泣きを見る」 「ラクしてお金なんか儲かるはずがない」 「楽しいことばかりをして生きていけない」 「目的を遂げるには、それに見合った我慢や努力が必要」 「何かしないと自分には価値がない」 これらの固定観念はすべて「真面目に励むのはよいこと」という価値観から派生したものと考えられますが、この価値観を否定し去ってしまうのはかなり困難だと思うのです。いかがでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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