カテゴリ:日本
父に電話した。
私は父とは昔から仲良しだが、週末に電話して父が出ても、母がいると必ず話もろくにしない間に母に受話器を渡してしまう。 今回は、16日からまた母が一人で弟のところに行っていて、来週前半までは父は家に一人きりなので、ネズミにひかれないようにちゃんと家のことをしているのかが気になったし、弟のことで何か聞いていないかも聞きたかった。 金曜日は母からは何も電話がなかったそうで、最新の弟のニュースははいっていなかったが「電話ないっちゅうことは別に変わったことはないんやろと思ってるんやけどな」と言っていた。 「お父さん、ちゃんとごはんは食べてるんか?」と聞くと「食べたで。今日の昼はうどん2把茹でてな、冷蔵庫にそうめんだしがはいってたし、食べた。晩は、そこの中華料理屋で酢豚とって食べた。昨日の晩は『カレー曜日』(レトルトカレー)があったし、肉屋行ってカツを1枚揚げてもろてカツカレー食べた。味噌汁は作ってる。」 こんな具合だ。 まったく料理らしい料理はしていないということだ。 まあ、一つには大正生まれでもあって、自分が台所に立つというようなことはない。 そういうことは女の仕事だ、など封建的なこと言ったことはないし、そんなふうに思っているわけではなくて、今さらそんなことを始めようという気にならないのが本当のところかも知れない。 私は思わず笑いながら言った。 「私がお父さんみたいな人と結婚してたら、とても1ヵ月半も出張なんか行けへんなぁ。 この間、アジアに1ヶ月半行った時だって、私、ダンナの食事の心配なんかなんにもせんでもよかったもん。」 父は半オクターブくらい声を高くして反論した。 「そんなことあらへんで。そんなん1ヶ月半くらい、ちゃんとやれまっせ。 それにな、ワシにはほっといたかて晩のおかずくらい持ってきてくれるオバハンがたくさんいてまんねん。」と虚勢をはっていた。(笑) はいはい、そーでっか。 それから父とひとしきりオリンピック談義に花を咲かせる。 よく似た親子で、スポーツ観戦をするのが好きなもので、オリンピックが始まると必ず父と夜更かしをして中継を見るのだ。 興味がない母はそういう私たちを見て「ようそれだけ一生懸命見てるな・・・アホな親子」とつぶやいていて、自分だけさっさと寝る。 そんな感じだったから、父との間で「あの種目のあの選手な・・・」という話が出ると、以心伝心というか「それ、誰?」ということがほとんどなかったので、私は自分が知ってたら相手もそれを知っていると思うようになってしまったのだが、ダンナは残念ながら、スポーツ観戦にはうとい。(笑) 今回、平泳ぎ100mで北島選手が優勝した時も、私が「ミュンヘンの田口選手以来の快挙やな!」と鼻を膨らませてダンナに言ったら「それ、誰?」と言われた。 「ミュンヘンの時に田口選手って優勝しゃはったやん?知らん?1972年ってまだ日本にいたんやろ?」 「・・・知らない」 こういう流れになるばっかりだ。(笑) (おかげで、ダンナが知らないと、私は確認もせずに勝手な解説を加えて説明してしまっても鋭く指摘を受けることもなく、ほっとしている。) 思いのほか、長電話になった後「ほな、またなんかあったらメールちょうだいな」と父に言って電話を切った。 ちょっと気になったので、その後、弟の家に電話したら、義妹が出てきた。 まあ、もともと明るい子だが、声がさらに明るい気がする。 義妹によると、弟は今日の理学療法士とのリハビリではリハビリ室を1周歩くことができたそうだ。(昨日までは直線距離だけ。) これまではミキサー食だったのが、昨日から米粒のはいっているお粥になり、今日初めて水を飲むことも出来たと言う。 水を飲むのは、普段、健常者では感じないが、こういう手術の後では嚥下が難しく、呼吸器官にはいってしまうことが多いため、比較的後回しにされるのだ。 骨を入れて縫合した頭の部分も昨日までは痛い、痛いと言っていたらしいが、それも今日初めて言わなくなったとのこと。 右半身の麻痺が回復するかどうか、どのくらい回復するかはやってみないとわからないと言われていたのに、だんだん力がはいるようになって来ていたのは聞いていたが、歩く練習でも右足首が動かず(足首の返りがなく)今後の課題だねと言っていたら、今朝起きたら動くようになっていたらしい。 「だから、これからはよくなる一方だと思いますよ、お義姉さん!」ということで義妹の声は明るかったし、私も本当にうれしかった。 ただ、やはり本人としては母相手に「こんなつもりではなかった」等と愚痴を言っているらしい。 この病気になった時に、素人ではあるが、図書館で文献を読んだり、インターネットで調べたりして、自分なりにいろいろ調べて自信を持って手術に臨む気でいたし、字面だけで見ていると、そこまで深刻な手術ではないはずと見えたのかも知れない。 弟の焦りは、一つは病室にいることだろう。 きっとICUにいたことの意識もちゃんとあって、この1ヶ月まるまる生死の境をさまよう経験に費やしたことが、いろいろ自分で考えられるようになった今、弟としては苦しくて無念でムダな回り道に思えるのかも知れない。 しかし、それでも弟は5月の時に義妹の実家のある街から救急車で運ばれた時にはクモ膜下出血だったのだ。 その時の当直の先生が「検査をお勧めします」なんて、2週間も経ってから、他県にある弟の自宅までわざわざ電話を下さったことはやっぱり弟について回った幸運だと思うしかないと信じているし、今回の病気に今のところ根治治療が見つかっていないとしても、これまで(病気を持っていても)何の不都合も自覚症状もなかったのだからと言って放っておけば、知らないうちに本人は爆弾を抱え込んでいたはずなのだ。 そんなことを少し考えた後で、義妹から聞いた様子を伝えようと、もう一度、父に電話してみた。 父は笑いながら「今、あっちに電話して聞いたとこや」と言っていた。 弟に、大きめの字で絵葉書を書いた。 週明けに投函してこようと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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