宗教(信じるという)のもう一つの意味
この文章は、宗教(信じるという行為)が集団をより大きく強固なものにする為に発生した必要悪であったという仮説である。予め断っておくが、この文章は神や仏が存在するかどうかの議論を行っているのではない。ユヴァル・ノア・ハラリによる認知革命を述べた書籍によれば、ネアンデルタール人と現生人類の集団規模には差があったらしい。これがネアンデルタール人の絶滅の原因と言っている。個々には体力差があるのにネアンデルタール人を滅ぼせた理由が集団の規模の違いという訳だ。(この説が正しいかどうかは、良くわからない。 素人目には、眉唾な気もするのだが・・・・。)ネアンデルタール人の脳は現生人類よりも大きく脚力も腕力も現生人類よりも強かったし、大きかった。火を使っていた。しかし、家族単位での集団規模であり、当時の現生人類の規模より少なく、多く見積もっても何十人という規模でしかなかった。勿論、百人単位ではなかったのだと言うのだ。よって、両人類(ネアンデルタール人と現生人類)が戦った場合、現生人類のほうが集団の規模が多くいざ、戦いとなったとき 3:1, 4:1 となって多勢に無勢となり、ネアンデルタール人は負け、滅んだのだという。(本当かは眉唾?)また、ハラリの言う認知革命において以下のようなことが述べられている。”猛獣が来た。””猛獣は去った。”眼の前の事象を喋って相手に伝え、相手もそれを確認るることで理解できる。両者とも現実を見て確認するから分かりあえる。次に”あいつは、猛獣を倒したらしい。”これは、実際に見ていないことを聞いて、現実にあったことと理解する能力だ。話を理解し、実際にあったことと認識できるかである。これが、ネアンデルタール人と現生人類の違いだというのだ。これが理解できるレベルとなると虎を倒したという男を強い奴と思えるようになる。強いあいつを尊敬できる。皆が、その男を崇める。これが更に進めば、男は集団の支配者となる。同じような集団が幾つも生まれたとしよう。原始時代なのだから武器など棍棒ぐらいしかないので人数に頼るしかない。兵士の数が強い弱いを決めるのだ。集団同士の争いが起きると、人数の多いい集団のほうが勝ち残る。勝ち残るために産めよ増やせよとなったのだろう。さて、ここでもう一つ別の視点から見てみよう。一人の人間が他人の顔を見て仲間として理解し交流できる数の限界は150人程度という説だ。これをダンパー数というらしい。安定した意思疎通のできる限界数とも言い換えることができるだろう。現生人類はある時からダンバー数を超えて集団を維持管理することができるようになったと考えている。その時代は、大雑把に考えて、数万年に遡るだろう。日本で言うなら、石器時代から縄文初期の頃であろう。(どれほど過去かというのは、大雑把であるが・・・)実際に古代でも数百・数千の人数で戦いに及んだケースがあった訳で、約千年前の鎌倉の頃には、万に近い単位での戦いもあったのは歴史的事実だ。では、何が大きな集団を維持する決め手となったのだろう。色んな要素があるのだろうが、その主要な軸として宗教があったのでは?というのが今回の仮説になる。この話は、既に専門家の間では言われていることらしい。宗教の成り立ちとは、精錬潔白な宗教ではなく権力者とともにあったのだと考える。真に純粋な宗教となっていくには、まだ、多くの時が必要だったのだ。例示するなら、キリスト教徒がイエスを信じる初対面の人に理解を示し、同じ宗教を信じることで仲間として認識するということがある。これが、宗教の面白いところである。これにより、共通の認識を持つ集団がダンパー数を超えて膨れ上がっていく。(なお、例外的に日本では、”天皇”という集団を束ねる独特の機構があるとも考えられるのだが、ややこしくなるので、これについては触れないこととする。ハンチントンの唱える文明の衝突には、日本が独特の別の文明と記されているが、日本は、天皇制を含め、世界に類を見ない別文明なのだろう。)話を元に戻すと、(今、論じていることは”宗教と集団規模”の話である)(なお、ハラリの本にもこのことは別の表現で書かれているらしい)村から町の規模になり小さな国家となっていく強いあいつは、一層尊敬を集めるために自身を神格化させようとする。このあたりで宗教的なものとの融合が始まって行ったのかも知れない。まあ、同時発生的に自然崇拝(山を神格化するなど)からくる宗教的なものと支配者(強いあいつ)の神格化の融合を謀る動きがあり、神官・シャーマンや巫女の役割と支配者の役割の分担が始まったのだろう。これにより支配者と神官の両方に利害の一致が生まれ、より協力し合うことで民衆を信じ込ませる(洗脳・力による支配)ことが出来たのである。宗教というツールを使えば、ダンパー数以上のものを達成できることがわかった訳だ。支配者層は、『この”仕組み”は利用できると、気がついたのだ。』現代であっても宗教という言葉は使わないものの国家の長が、過去の偉大?な支配者を実際以上に偉大な存在と崇め、そのことを利用して自身をその支配者と同列に持っていく例がある。これは、太古の支配者神格化の事例と同じことなのだろう。わかりやすく言えば、 ・エジプトのファラオが神であると称した事 ・習近平が毛沢東を神格化し、自身も同列になろうとする事。人間の考えることは、太古も今も変わりがないと言える。国同士の戦いの前に神に祈る行為は、「勝たせてください。」という祈りと同時に、集団の結束を高めるためでもあったのだ。だから、常に戦いには、支配者と神(宗教)はペアで存在した。次に・霊がいると信じる。・おばけが存在すると思う。・神(仏)は存在する。これらは、脳科学的に同列に考えて良いのではないかと思う。そして、脳が一旦、”信じるルーティン”に入ってしまうとなかなか抜け出せない。いわゆる洗脳状態に近いものだろう。あらゆる宗教は人間をこのルーティンに入れることで入門者を増やしている。このルーティンは脳への麻薬みたいなもので、人をある環境に置けば、脳(人体)が自然に麻薬的な効果を持つ薬を作り出すのではないかと考える。結果として、このルーティンに入ることが快となり、その状態で落ち着くというか、安定してしまう。これは、極端な思想を持つカルト宗教において顕著に見られる現象だろう。人間が(うわさ話を)信じるという行為は、果たして人類にとって良いことなのだろうか>?