選挙後
選挙後、一日が過ぎました。何も変わらない日ですが、しかし、やはり皆、だまされてるんじゃないか、と思っています。郵政民営化を争点にした、といっても、小泉首相を支持した方々はどんな民営化を望んでいたのでしょう。こちらもご参考に。ただ、なんでもいいから、何かを変えて欲しい、そんな気持ちだったのでしょうか。郵政が作った保養施設などは無駄なものが多いでしょうが、無駄な施設を作らないということは、公社として充分できる改革なはずです。選挙前に、次のようなメールを目にしていました。以下引用です。国民を説得するには「短い言葉を何度も繰り返すのがいい」といったのはアドルフ・ヒトラーだったが、今回の選挙は、まったくその通りだったといわざるをえない。郵政民営化の根拠である「民間が出来ることは民間に」というのを、うまず、弛まず繰り返して4年間政権を維持しただけでなく、今度の選挙を戦いぬこうとしているのだ。そもそも、参議院で否決された郵政民営化法案というのは、小泉首相がもともと国民に訴えた郵政の民営化とは、似ても似つかぬものだった。小泉純一郎氏は九四年に刊行した「郵政省解体論」(光文社)では、郵政民営化の根拠を次のように述べていたのである。・第一に、「宅配便は、日本国中、どこにでも立派に配達されている」。・第二に、郵便貯金が民間金融機関と競合しており、「国家という信用と全国二万局の郵便局ネットワークを背景にして、民業を圧迫している」。・第三に、郵貯は財政投融資の原資となっているので「いろいろな不都合も顕在化している」。しかし、先鋭な民営化論者だった生田正治氏が公社の総裁に就任して全国を行脚してみると、郵便局ネットワークだけが頼りだという地域が、意外と多いことに気がつかざるをえなかった。そもそも、最大の宅配便であるヤマト運輸ですらも、ようやくのことで小笠原諸島に拠点を作ったのは九七年になってからであり、いまも宅配便各社は山間島娯では郵便に便乗し、メール便にいたっては戻ってきたものは郵便で再発送するところすらある。また、すでに九二年の段階で旧犬蔵省と旧郵政省が「定額合意」を交わして、郵貯の金融における優位は解消しており、いまも郵政民営化賛成派が「郵貯は金利の高さで利用者を引き付けている」というのは、ただの妄想にすぎない。解散前の国会に提出した法案の修正のさいには、郵便局ネットワークを「国民の資産」と小泉首相も認め、その維持のための基金を盛り込んだのだから、郵便局ネットワークが民業を圧迫しているという議論は、もはや取り下げたも同然だろう。郵貯の存在が財政赤字を作り出しているという議論も、因果関係を取り違えた妄説だ。そもそも、「郵貯=財投=特殊港人の赤字」という構図は、現実を反映していなかっただけでなく、二〇〇一年四月から郵貯と簡保の資金が郵政の「自主運用」になったとき、この構図は最終的に成り立たなくなっている。郵政公社は「経過措置」として財投債と国債を買っているが、これは直接ではなく金融市場から購入しているのだから、市場をゆがめているというのもあたらない。すでに谷垣財務相が「民営化後も相当購入してもらう」と明言している。購入をやめたり金額を減少させたりすれば、むしろ財政と債券市場に混乱を引き起こすだろう。それでも郵政側が別の金融商品を購入したいといえば、財務省は別の名目で国債を発行するだけのことだ。つまり、小泉純一郎氏が当初唱えた郵政民営化の前提は、まったくの間違いだったか、あるいはすでに「改革」されてしまっていたのであり、財界筋が評したように、郵政民営化法案は「ほとんどレッテルだけ」だった。「改革の本丸」は後付け小泉政権と郵政民営化論者は、首相が「改革の本丸」に取りかかるといい出したとき、さまざま新たな理屈をこしらえなくてはならなかった。最もスキャンダラスなのが、全国に一万九千局ある特定郵便局の局長会は、百万票を超える票を動かして闇の権力を握り、自分たちの利益のために国政を捻じ曲げているというものである。たしかに局長会が百万票を動かしたこともあったが、それは二十五年も昔のことで、二〇〇一年の参議院選では選挙違反事件すら引き起こしたのに「郵政票」は四十七万票に過ぎず、二〇〇四年などは二十八万票にまで下落している。あいかわらず「特定郵便局長会,闇の権力」と論じる人たちは、すでに小泉純一郎氏自身が、九六年の『官僚主国解体論』(光文社)のなかで、特定郵便局長会は「いわれているほど候補者の当落を左右する大きな票を持っている組織ではない」と明言していたことを忘れているのだ。2001年の選挙違反事件も、闇の権力の悪辣さが露呈したというよりは、衰退に焦った関係者が起こしてしまったと考えたほうが理解しやすい。しかも、逮捕者が出たということを覚えている人は多いが、特定郵便局長で有罪になった人は一人もいなかったこどを思い出す人はほとんどいない。明るいイメージが必要だと考えた小泉政権とその周辺は、郵貯と簡保によって官業に流れていた三百五十兆円は、民営化すれば民業に流れて日本経済は活性化すると言い出した。しかし、これも先の「郵貯=財投=特殊法人の赤字」と同じことで、民営化の有無にかかわらず、財務省が郵政に対して「もう財投債も国債も大量に買ってもらわなくてけっこうです」という事態にならなければ、事実上、不可能なことなのだ。郵政民営化の急先鋒である大阪大学教授・本間正明氏も「郵政民営化の移行期間の前半までは資金の流れは変わらないだろう」と述べているし、構造改革論者である慶魔義塾大挙教授、池尾和人氏ですら「郵政改革で『資金の流れを官から民に変える』というのは、ほとんど虚構にすぎないと断じている。今年になってからは、自民党の武部勤幹事長が、特定郵便局をコンビニエンスストアに変えるというバラ色のイメージを流布しようと紙芝居までつぐって全国を行脚したが、地方の住民と郵便局職員は唖然としただけだった。特定郵便局は現在の業務をこなすだけで精一杯で、とても多くの品数をそろえたサービスは不可能だ。特定郵便局の多くはスペースがなくて、多品目を並べるような改造は無理だろう。そもそも、今やコンビニエンスストア自体が過当競争に喘いているではないか。どうもバラ色路線は説得力がないと思ったのか、今年の二月ころから竹中郵政民営化担当相を中心に、このままでは郵政事業は衰退の一途だという「ジリ貧」論と、郵政民営化によって公務員の数を減らすという「小さな政府」論を唱えるようになった。しかし、これらも、ただの奇説に過ぎない。竹中大臣は、インターネットのeメールが発達すると郵便の取り扱い数が滅ると主張したが、日本などより・メールが発達しているアメリカでは、かえって郵便総数が増えていることを忘れている。日本の郵便取り扱い総数が減っているのは、先進諸国では当然行っている郵便・メール便・宅配便の棲み分けを促す政策に失敗してしまったためである。すなわち、従来の郵便事業が他の分野から、無秩序に蚕食されているからなのだ。郵便の国営を維持しているアメリカではメール便への民間参入は禁じられているし、郵政民営化に「成功」したことになっているドイツでも部分的な郵便独占を許して、それがドイツポストの税引前利益の65%を占めてきた。また、郵貯は減少し「ジリ貧」になるということだが、これは公社となってから生田総裁の方針で、新規に貯金を望む利用老に国債の購入などを勧めて、意図的に縮小しているのだから当たり前なのだ。郵貯からお金が逃げているのではなく、意図的に郵貯が減る方向に誘導しているのである。目指せ、「小さな政府」?日本の公務員は地方公務員に加え特殊滋人の職員を入れて計算しても、一千人当たり三五・一人で、たとえばアメリカは八O・六人。先進諸国中、ダントツの「小さな政府」である。こういうと、日本は少子化が進むことを忘れているなどという人が出てくるが、少子化で減る人口は五十年間で約二割。政府が五月に言いだした「公務員を五年で一〇パーセント以上削減」というのは、どう見ても一桁間違っている。公務員を減らすという話にかんしては、笑うしかない。郵政民営化で公務員を減らすというのも奇妙な語で、これには自民党幹部からクレームがついた「国家公務員の定数には郵政職員は入っていないから、公務員の定数は減らないのではないか」.郵政公社職員は、身分こそ「国家公務員」だが、郵政は公社になる以前から独立採算制なので、給与が税金から出ていないのだ。これでは民営化しても、実質的に何も変わらないことになる。これは、だれもが指摘していたことだが...。忘れっぽい国民への「贈り物」「大衆のさまざまな能力は低いが、忘却の能力だけは高い」といったのもビトラーだったが、小泉政権によって提示された郵政民営化の根拠というのは、国民の忘却能力に依存するようなものばかりが多かった。いや、提示する側も、意図的にこの能力を大いに発揮したというべきかもしれない。小泉首相は前言と矛盾していることなどお構いなしに、次々と猫じゃらしのような争点を提示し、マスコミは素直にそれらを国民に流布してきた。小泉首相が、郵政民営化で成功したことになっていたニュージーランドを訪れたときのことである。小泉首相は、郵便自由化によって生まれた民間の郵便会社ナショナル・メールの郵便ポストの前で、日本から同行していたテレビ局のカメラに向かってポーズをとりながら語ったものだった。「ほう、民間のほうがポストも大きいのだね」しかし、このときナショナル・メールはすでに国民の信頼を得られず破綻してしまっており、郵便ポストはただの遺物だった。ニュージーランドの郵政民営化は、郵貯を外国資本に売り渡すような過激なもので、その結果、同国の銀行は九九パーセントが外国資本に席巻され、激しくサービスが下落した。同行していたニュージーランドの要人が、傍らでさかんに現実を説明しているのに、小泉首相はものともせずにポーズをとり、意味のないコメントを日本国民にむかって語ったのである。この人物の優れた能力は、こうした臆面もない言動にある。たしかに政治は敵と味方を峻別するところに本質があり、選挙も政治闘争であるかぎり、恋と同様あらゆることが許されているのかもしれない。しかし、そこで語られた主張は、国民の忘却能力に向かって発せられていたとしかいいようがない。眼前の選挙結果とその後の混乱は、忘れっぽい国民に対する政治からの皮肉な「贈り物」に他ならない。