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カテゴリ:教育問題
国は4月には、「全国学力テスト」を実施すると意気込んでいるようだが、推進している人たちは、そこで測れることがどれだけ限定されたことかということを想像する学力というものを欠落させている。学力テストで測れることはごくごくわずかであることを知るべきである。全国学力テストは、象の尻尾の長さで象を論じるようなものである。
例えば、私は、ここ数回、記憶の彼方になりつつある会津の早春の思い出を書いてみた。書きながら自然の恵みを豊かに与えられた自分の少年時代が髣髴とよみがえってきた。そういう少年時代をもつことができたことを感謝するとともに、今日の環境破壊ということへの怒りが、自ずから生まれてくる自分がいることにも気がつく。環境破壊の悲しさと悔しさを理解する豊かな環境ということの意味を自然からたっぷりと教えられてきたからである。ものごとはそういう関連の中で深く理解できることである。 そして、現在、豊かな自然に恵まれた少年時代をもてたということ自体が、年をとった一人の人間の生を内面から限りなく支える力、生きる豊かな力になっていることを感じる。 テストで、「『早春』という漢字を書きなさい」という問題が出れば、漢字自体は書き方を練習し、覚えて書くことはできる。ただ、書き方の練習からは、早春というふたつの漢字の中にこめられている豊かな内実というものは生まれてこない。 しかし、「『早春』ということばから、どんなことを思い出しますか。具体的に書いてください」という問題が出たらどうだろうか。ふたつの漢字を前にして、子どもたちはどんなことを思い出し、想像し、胸をときめかせて書くことができるのだろうか。都会の子どもと山村の子どもとどちらが豊かな内容を書くことができるだろうか。 単純な漢字テストの成績としては、都会の方が高い結果が出るだろう。しかし、生活の中で、空気の冷たさも、風のやわらかさも、草花の芽吹きも、小川の流れの勢いも、眼に移るものすべてが、耳に聞こえるすべてのものが、ただよう芳しい香りすべてが、手を切るような水の冷たさが、冬から春への季節の美しい変わり目を、いきいきと教えてくれている山村の子どもたちの方が断然書きたい内容をもっているのではないだろうか。 そのことを引き出す設問になっていないだけである。形式的・抽象的・操作的な力だけを測るようなテスト結果をどれだけ統計的に処理して全国比較し、市内の小学校ごとに比べても、グラフなどに視覚化したとしても、それは学力というもののごくごく限られた一面をあらわしているに過ぎない。だから、象の尻尾の長さで象を論じるようなものである。 東京でも品川区をはじめ独自の学力テストを行い、その結果を公開して、小学校にまで序列をつけるというおろかなことをしてきた。尻尾だけならば、象より大きな動物たちもいっぱいいるのである。 そんな右ならえの時代に、愛知県犬山市の教育委員会が、4月24日に実施されるという全国学力テストに、全国でただひとつ不参加を決めたという。私は、いろいろ圧力もあるだろうに、すごいことだなあと感心している。 ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。 よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。 人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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