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プレラ西宮にて、稽古。
今回の芝居も「見られる」シーンが多くある。AとBの会話を、少し離れたところからCがじっと見つめている。 今までの私の本もそんなシーンが数多くある。 わかりやすいシーンも。ハンディカムで撮影されてたり、隠し撮りされてたり。 私は「見られる身体」がたぶん好きなのだ。 そもそも観客が俳優の「身体」を観るエンゲキの構造そのものがそうなのだが。 「見られる」と身体は不自由になる。 その不自由な身体が、関わったり、表現をしようとしたときのキシミがリアルなのかもしれん。 そのキシミが、私は面白く感じるのか。 いやキシミこそが「表現」かもしれん。 だから、演出家は「見る」「観る」「診る」「視る」のが仕事。 悪意を持って見たり。 ある観点から観たり。 学校回りの劇団シーズンの子供ミュージカルの若手俳優からは、そんなキシミは一切聞こえない。 だから私にとって彼らの芝居は「表現」ではないということになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.24 11:48:13
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