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AI・HALLのワークショップ研究会に参加させて頂きました。
とても興味深いお話を聴くことが出来ました。 新しい発見と言うよりも、「教育」と「演劇」に関する考え方の整理が出来ました。 演劇人たちのための講座でしたが、私はむしろ教師が聴くべき講座だと思いました。 お話を聴きながら私は、「自分は間違っていなかった」という確信と、 だからこそ、現在、教育現場から(結果的に)排除、排他されているのだと思いました。 さて、私はグローバル化の波は感じつつも、内田樹先生の読者であるので「脱グローバル論」派である。 「閉じる」と言っているのではない。私の言い方では「人それぞれ、スタンダード(常識)が違う」ことを知ることは重要である。と、考えている。その点で、講師の先生にコトバは違えども共鳴する。 しかし、 「コミュニケーション教育」というコトバに関しては慎重である。 「コミュニケーション教育」というコトバは、スキルアップや訓練の匂いを感じるので、胡散臭く感じるのだ。 「コミュニケーション力」が不必要と言っているのではない。例えば、安易な小学校の英語教科導入で得られるようなものではない。スキルではない。 「コミュニケーション力」は「自分の事を相手に伝える力」と言ってしまうと抵抗があるのだ。 「自分」ってなんだ? 私は誤解される言い方であるが、「コミュニケーションは難しい」と学校教育の中で学ばなければならないと思うのだ。 まずは、「コミュニケーションは難しい」、そして、だからこそ、で、ある。 どうも、「コミュニケーション→スキル→商品」と連想してしまい、ある劇団なんかを想像してしまう。 よく企業の研修のウォーミングアップや、「教育」と「演劇」を知らない人のワークショップでコミュニケーションゲームがなされるが、 実際の学校教育現場にあって、それらのワークショップにないものがある。 それは「生活を共にする」ということである。学校教育はそこから始まるのである。 この点が抜け落ちているから、「コミュニケーション教育」というコトバに胡散臭さを私は感じてしまうのだ。 講師の先生の話を注意深く聴かねばならない。 「コミュニケーション力」とは「他者と新しい価値観を創ることの出来る力」であるということに、共感した。 他者と新しい価値観、すなわち、世界を創造する力を育むことは大切だと思う。 私は小学校教育で演劇を創る理由を「他者と世界を創ることを体験する。そして、世界を創造した自分を肯定する体験をする」と定義している。 つまり、世界を作ることを体感し「自分は、自分たちはすごい」と思う経験を小学校のうちに経験することは、生きていくための「力」になりうるのだと考えている。 話がそれた。 他者と生活を共にする中で「協働」が生まれるのである。 協働は「生活」の中にある。 給食の準備も、掃除も、「協働」なしでは成立しない、「コミュニケーション」なしでは成立しない。 その「協働」する力は、スキルではない、 もちろん、単純なスキルも大切であるが、直感力、創造力などもかなり必要なのだ。 もう少し、講師の先生の話を聴いてみる。 続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.12.11 16:11:11
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