淡々堂

2007/07/12(木)22:08

能『道成寺』の楽しみ方

能(294)

 能「道成寺(どうじょうじ)」についての講演がありました。講師の先生は12年前に披(ひら)きをし、今年演じる「道成寺」は2度目だそうです。今回は「赤頭」いう小書(こがき。特殊演出のこと)がつきます。   以下、勉強した内容を書き記します。 〈基礎知識〉 ・ 道成寺とは和歌山県にあるお寺。能楽師が「道成寺」を演じる時には必ずここへお参りする習慣がある。すると後日、道成寺から「安心してお勤めなさい」というような励ましのお手紙をくれる。 ・ 「道成寺」は能の中で特殊なことが多い曲であり、若い能楽師にとっては一人前になるか否かの最後の関門。 〈装束〉 ・ 摺箔(すりはく)は三角形をつないで作った鱗模様。鱗箔(うろこはく)と呼んでいる。「道成寺」には必ず鱗模様を着る。女性の嫉妬が高じると蛇になるが、その蛇身を表すのが鱗模様である。「葵上」にも用いる。 ・ 腰に巻く腰帯も「道成寺」では必ず鱗模様。 ・ 頭に巻く蔓帯(かずらおび)も鱗模様。金地に黒の鱗模様は「道成寺」だけに用いられる。 ・ 蔓(かずら)は本蔓(ほんかずら)という、人間の髪の毛でできたものを必ず使う。通常の能には、ばすかずらという馬のしっぽを黒く染めた物で作った蔓を使うが、「道成寺」には本蔓でないといけない。後場で蔓をわざと乱さないといけないからである。これを鬼蔓という。横の鬢の所をわざと広げ、頭の上の方を角のように後ろから1筋と、右2筋・左2筋(1筋ずつのこともある)をピッと引っ張って出す。ばすかずらではおどろおどろしさが出ないし、上手く髪を引っ張ることができないので本蔓を用いる。「葵上」「安達原」のような後シテで般若の面を掛ける曲は本蔓を用いることになっている。 ・ 前シテが持つ扇は必ず鬼扇(おにおうぎ)。一輪の牡丹が描かれている。 ・ 後シテは打ち杖を持つ。これは魔法の杖であり、これを持っていると人をやっつけるような力が発揮できる。この杖を落とした時には力を失う。「道成寺」では必ず赤の打ち杖を持つように決まっている。ちなみに、龍神物は萌葱色、鬼は紺色。 ・ 後シテは般若(はんにゃ)の面を掛ける。般若には白般若(しろはんにゃ)、赤般若(あかはんにゃ)、黒般若(くろはんにゃ)の3種類がある。  白般若は顔が白く品がいい。「葵上」の六条御息所役に用いる。  「道成寺」は庶民の娘が変化したものなので、白般若より少し品が下る赤般若を用いる。  黒般若は赤般若よりもっと品が下る。「安達原」(他の流儀の言い方では「黒塚」)の鬼の役に用いる。  般若の目元は男の愛を失った哀しみの表現、口元は裏切られた怒りの表現がなされている。哀しみと怒りを組み合わせて複雑な女性の心理を表現しているのである。牙が出ていたり、口角が裂けていたり、角が出ていたりするのは蛇身への移行の過程である。 ・ 「道成寺」の衣装換えは全て鐘の中でシテが1人でする。鐘にすっぽり入ってしまっているので、後見は手伝えない。 〈演出〉 ・ 鐘は怪異な存在として持ち出される。竹を組んで布を掛け、縁の部分に藁を掛けてその中に重りを仕込むので相当重い。80kgほどあるそうだ。 ・ 鐘を吊る高さには決まりがある。最初と、シテが登場する時の高さ、その他にもシテが物着をした時には鐘は少し上がり、鐘入りの前には少し下りてくる。鐘の扱いを見るのも「道成寺」の楽しみの1つである。 〈内容〉 ・ 乱拍子(らんびょうし)は凄まじい気迫で小鼓だけが打つ。大鼓は床几(しょうぎ)をたたんで下へ下りてしまい、打たないということを態度で示す。乱拍子は一回打つと、数日は仕事ができないくらい体力も気力も必要である。  スピードはとてもゆっくりである。一足出し、「ホッ」というのでつま先を上げ、間をとり、「チ」でつま先を下ろすということを繰り返す。前に進み、横に進み、斜めに行って正面に戻る。つまり、三角形の鱗の形を作っているのである。これも蛇身の表現である。前に進んでから戻ってくるまでに、最低でも15分かかり、場合によっては20分かかることもある。 ・ 急ノ舞はとても早い舞。乱拍子で堰き止められ溜まりに溜まったエネルギーが堰を切られたように流れ出した感覚である。 ・ 中入りで狂言の2人が出てきて鐘が落ちたことを報告しに行く場面は、報告の仕方が非常に面白い。能は概して、後場で緊張感が高まったり、壮絶な内容の曲であるほど間狂言が面白い。「安達ヶ原」「山姥」「橋弁慶」「夜討曽我」など。間狂言の間に十分に人の心を解いておくと、後場の緊張感が高まるという、能全体のバランスが考えられているのだろう。 ・ ワキ達が数珠を揉んで祈ると、撞いてもない鐘がジャーンと鳴り始める。もしここで音がしなかったら後場になっても鐘は上げないことになっている。シテに何らかのトラブルがあったと見なし、鐘の後ろをそっと上げ、中のシテを引き出す。能はシテが舞えなくなっても曲は止まらない。シテが死んだ場合にはどうするかということまで決められている。 ・ ワキの祈りは凄まじい。囃子には太鼓が入る。囃子は常にワキの側に立って打つ。囃子が激しくなるほど、ワキの力が強くなることを意味する。 〈まとめ〉 ・ 「道成寺」は1つ1つが大変な“習い事”で、秘伝・様式でがんじがらめにされている。シテにどんどんプレッシャーを掛けていき、その上で演じることができるのかということをシテに問いかける曲である。「道成寺」は20代で披く人が多いが、披きの「道成寺」は様式を取得し、プレッシャーに絶えることで手一杯で、作品性がなかなか見えてこない場合が多い。  「道成寺」は鐘が全てを象徴している。物着の後・乱拍子・「思へばこの鐘うらめしや」で、シテはじっと鐘を見込む。白拍子は鐘が恨めしいのである。自分と自分の愛する人とを隔てたのが鐘だから、鐘が恨めしいのである。もし鐘が下りなければ山伏ともう一度会っていたかもしれない。だから白拍子は鐘ごと山伏をとり殺し、自らは蛇身となって永遠に迷妄の世界を迷う。白拍子は男を恨んでいるのではない。そこがこの曲の主題であろう。  白拍子はどこまでも男を一途に愛している。しかし愛はひとたび裏返ると深い恨みになる。能の恋慕の曲はすべて愛が深い。私は「道成寺」はあくまでも恋慕の曲だと思う。だから、白拍子の恨みとは哀しみである。そして哀しさとは美しさである。蛇体が成敗されてハッピーエンドというのではなく、愛してはならない山伏を愛してしまった女性の魂の哀しさが美しく描かれるのが「道成寺」であろう。だから、私は様式を踏まえた上で、美しい「道成寺」を描きたい。 感想  「嬉しやさらば舞はんとて~失せにける」(乱拍子ヌキ)の部分を講師の先生が舞われましたが、白拍子が鐘へ入る前の緊張感が客席の私にも伝わってきて、息を詰めてしまいました。舞いが終わるとどっと力が抜けました。私だけではなく、私より前の方に座っていた人も、同じような動作をしていました。   

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