2008/08/23(土)23:01
赤穂義士伝、その7 桜舞い散る、うららかな陽気の中
長矩と阿久里との婚儀が執り行われたのは、長矩17歳阿久里10歳の時といわれている。
以来、殿中刃傷まで、二人は18年間の夫婦生活をいとなんだ。
夫婦仲は悪くはなかったが、潔癖症の男性にありがちなように、結局は子宝には恵まれなかった。
(長矩に若干、その頃の武士に、男色の気があったという説もある。)
長矩はずいぶん融通が効きにくい人物だったようで、吉良に賄賂を贈るべしと家臣に勧められた際には、「武士たる者、追従をもって賄賂を贈り、人の陰を持って公用を勤めることはできない」と石頭ぶりを示したそうである。
水清ければ魚棲まず、
あまりに水が澄んで透き通っていたのでは、魚も育たないし、隠れる場所もなくなる。
人があまりに清廉すぎるのも、自分の道理ばかりで、他には親しまれず、やがては孤立してしまうことが多いものである。
阿久里は長矩の勅使饗応役を「これは、またまた名誉なことだ。」ぐらいに、
長矩は「二度目のことだから、吉良の指導もほとんどは不要。」ぐらいの気持ちがあったのではないだろうか。。
長矩と吉良の関係は、桜舞い散る、うららかな陽気とは真逆に、急速に大きな溝を生じはじめていたのである。